もしも走れメロスのメロスが太宰治の『走れメロス』を読んだら

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第1話

 書店で平積みになっていた本をなんとはなしに立ち読みして、メロスはしめたとひらめきこれだと膝を打った。

 メロスは妹と二人暮しの男である。その妹が近々結婚する。めでたい話である。メロスは祝宴で使うご馳走だとか衣装だとかをあつらえるために、遠路はるばるこのシラクスの市までやってきていた。

 なにせメロスが住んでいる村は賞味期限の切れた菓子パンでも平気で並べる雑貨店が一軒だけあるようなド田舎である。たいした娯楽などない。羊のケツに唐辛子を突っ込んで馬鹿笑いをしたり、立ったまま眠っている牛の片側の二本脚を大人四人でえいやと持ち上げて牛を転がしたり、そういうことが遊びとして通用するほどである。

 したがって人々は暇つぶしにたいそうおしゃべりをする。村には人の出入りなど滅多にないため見知ったやつとばかり顔を合わせる。話の内容が重複してくる。すると話は極端に創造に走ったものか極端に仔細に入った話になる。メロスはある村人から「毎朝見る野良犬がいつもは東からやってくるのだが今日は西からやってきた」という話を当人と第三者からの伝聞で都合二回も聞かされたことがある。それほど村人たちは平和で暇をもてあましていたのである。

 よくいえば連帯感がある。たまに感じる過干渉である。

 そういう村人たちにとって、妹に先を越されて一人でぷらぷらと生きている兄というのはどう映るのか。ここ一週間はそのことばかりメロスは思い悩んでいたのである。実際、メロスに出会う人々はあいさつがわりにお前も早く結婚しろよといってくるし、子供たちには小馬鹿にされる。メロスも小さいころは不惑を過ぎても独身だった近所のおっさんをよく茶化していたものだが、それが我が身に降りかかってこようとは思いもしなかった。

 しかしまさか妹に結婚を取りやめろといえるはずもない。そういうことを妹に訴えたという話が漏れればますます村人の噂話はおもしろおかしくこじれてくる。妹がメロスに悪意をもっているわけではないし、妹の夫になるやつというのも文句のつけようがない。あくまでメロスの個人的な問題なのだ。

 せっせと仕事に精を出して、おれは仕事と結婚したのだとアピールする生き方だってあるにはある。隣村に住む職人の中にそういうじいさんが一人いたような気がするし、このじいさんは周囲に一目置かれた存在であるらしい。

 だがメロスは羊飼いという仕事にそれほど情熱を持っておらず、なぜかというとなんかかっこよくないからである。一度、メロスが想像する職人をまねて終始無言で精神を集中してしかめ面をして羊を追ってみたのだが、妹に「お腹痛いの?」と尋ねられて二度とするまいと誓った。

 周囲に多少軽んじられてはいるが基本的には無害で善良な一介の村人。他人に皮肉をいわれたりガキどもに馬鹿にされても笑顔を絶やさない与太者。こういうポジションに甘んじて余生を全うすればいいのか。それはそれで一生であろうが、メロスはまだ若かった。野心とまではいかなくとも、周囲に一目置かれるひとかどの一家言もつ人物になりたかったのである。

 そんな憂鬱な気持ちを抱えて村に残ってもたのしいことなどないので、半ばは祝宴の用具をそろえるという口実でメロスはぷらぷらとシラクスの市までやってきた。そして書店でビジネス書だとか自己啓発本のたぐいだとかをたいした興味も期待もなくめくっていたのだが、そんなときに一冊の本と遭遇したのである。

「これならば、おれは英雄となって村人たちのおれを見る目も変わって酒の席では毎回この話を肴に自慢して村の歴史にも名を成す人物となれるに違いあるまい」

 無精ひげの生えた精彩を欠くメロスの面に、急速に生気がみなぎってきたのだった。


 手始めにメロスはそこらへんを歩いていた老人に声をかけた。老人は最初驚いてから、それから恐怖の表情を浮かべた。なぜならばメロスがあまりにも快活に過ぎたからである。老人はメロスを悪質な商人か盗賊のたぐいかと憶測した。

「王は人を殺すそうだな」

「ええまあそれはその」

「王は悪いやつか」

「いやそのまあ、そんなこともないと思いますけど。よくやってくださってると思いますよ、私は」

「そんなことはないだろ。臣下や親族の連中を殺しまくったそうじゃないか」

「まあそれはそうですけど、それだって陛下にお考えのことがあってでしょうから」

 老人は言葉を濁すように歯切れの悪い返事ばかりした。というのも、今度は老人はメロスを秘密警察か何かのたぐいと考えたからである。ここでうっかり王の批判でもすれば、一族郎党、さらし首にでもされかねんと警戒していた。またその逆にメロスが国家転覆をねらう極左思想を持った過激派の一味であるとすれば、うかつに現体制を擁護すればどんな目にあわされるかわかったものでもないという考えも浮かんだ。それほどこのときのメロスからは尋常ならざる気配が感じられたのである。

 したがって老人はなるべく自分の意見をいわずにメロスの発言を肯定も否定もしない態度を取り続けた。

「ご老人、あなたは現在の生活に満足であるのか」

「そらまあ何もかもといえばね、一概にはいえないところはありますよ。私の血圧だとか息子の嫁の私に対する態度だとか」

「それは政治が悪いのか」

「さあ、私にはなんとも。世の中に絶対ということはありませんから」

「王が変われば良くなるのか」

「海の向こうの異国にはこういう言葉があるといいます。勝てば官軍、座れば牡丹、歩く姿はドラム缶」

「ええい、もうよい!」

 老人の要領を得ないのらりくらりとした返答に痺れを切らすと、血気あふれるメロスは城の方へと走り去っていった。遠ざかるメロスの背中を見て老人はようやく安堵の息を漏らした。物騒な世の中になったものだ。


 王城は高い城壁と壕に囲まれた王の猜疑心を体現したような堅牢な造りとなっていた。たとえメロスが伝説的な忍者だったとしても、その侵入は容易ならざるものであろう。ましてや実際のメロスは単なる羊飼いである。王の暗殺をたくらむメロスは果たしていかなる方法にて城内へともぐりこむのだろうか。

「ここが王の住む城だな」

「なんだお前は」

 メロスはなんの工夫も細工も策もなく堂々と城門から入ろうとした。警備の兵士らには城に近づく不審者は状況次第ではその場で殺して構わないと伝えられていた。しかしメロスがあまりにも堂々としていたために兵士らはメロスが正規の訪問者なのではないかと勘違いした。

「門番風情とは問答無用。おれは王に用があるのだ。おとなしく通すがよい」

「本日、陛下はだれとも面会の予定はないと聞いているが」

「ほかでもない、このメロスが会いに来たのだぞ。だいたいお前ら兵士なんて名前もないような端役ではないか。本来であればセリフを発することすらないのだ。おれとの会話が日の目を見たことを感謝するがいい」

「何をわけのわからぬことを。我々はお前をこの場で殺してしまってもいいのだぞ」

「ふっ、やれるものならやってみるがいい」

 兵士らは威圧的な口調でメロスに槍を向けたが、メロスは刃先に視線を向けることもなく子供の遊戯でもあしらうかのように鼻で薄く笑った。メロスのただならぬ自信たっぷりの態度に兵士らは困惑気味に顔を見合わせた。

 マニュアルでは再三の警告に従わない不審者はその場で処分してもよいことになっている。しかし万が一よその国の貴賓であれば一大事である。西の国の王子はいたずら好きな痴様(おこさま)だと聞いているがもしやそれ関係なのか。はたまた山奥から降りてきた隠者か仙人か。万が一こいつがテロリストなどであれば、みすみす城内に入れれば職務怠慢ということで懲戒は免れない。大幅減俸ともなればかつかつに組んだ家のローンの計画が破綻してしまう。こんなことなら嫁の無茶など聞かなければよかった。

「試しに突いてみるがよい。しかし突けないだろう。そういうことになっているからだ。お前らにできることは、おれを捕まえて王の前に連れて行くことだけだからな」

 戸惑う兵士らにメロスは自分を捕縛するように伝えた。ますますわけがわからないが、兵士らは見えない力にでも操られるようにメロスのいうとおりに従った。逆らったら何かとてつもないことが起こりそうな予感がしたからである。

 上半身を両腕ごとぐるぐる巻きにされて腰縄で王の前に連れてこられてもなおメロスは毅然としていた。ややこしそうな話に巻き込まれたくないのか、メロスを連れてきた兵士らは縄を持った一人を残してあたふたと引っ込んだ。

「なるほどなるほど、お前が邪知暴虐の限りを尽くすディオニス王とやらか。確かに悪そうな顔をしている」

「なんだこの無礼者は。こういう手合いは現場の判断で追い返すなり始末するなりしろといっているはずだが」

 王はひとまずメロスは無視して、いらいらとした口調で兵士を締め上げた。

「はっ、それはもちろん承知しております。ですがこのものがあまりにも堂々としていたもので、万が一にでも何かの間違いがあってはならぬと思い念のため陛下にご確認いただこうかと」

「ふん、そうか。お前、名をなんというのか」

「いいか、聞いて驚け。おれこそがメロス、メロスの中のメロスだ」

「はて、メロス。どこかで耳にしたことがあるような響きだがわからぬ」

 メロスは大向こうにまで届かんというよく通る声で自らの名を告げたが、そんな態度とまるで噛み合わぬように王は怪訝な表情を浮かべていた。

「ははは。おれの名がわからぬとは王はちと教養が足らぬようですな。ははは。まあよいまあよい。さて王よ、おれはあんたを暗殺しようと思ったがこうしておめおめと捕まってしまった。危険なテロリストだ。おれはこのままでは処刑されちまうだろう。だがしかし、おれは妹の結婚式を見てから死にたい。ここまでの話、よろしいか」

「いや待て、お前はいきなりなんの話をしているのだ」

「いいからいいから。それで、おれはこの国に住んでる友人のセリヌンティウスを人質にして、いったん自分の村に帰る。そうして、妹の結婚式に出席したら再びここに戻ってきてみせる。そうだ、おれはむざむざ殺されることがわかっていながら、人の世に正義と美徳とを体現するべく長い道のりを走ってここに戻ってくるのだ。おれこそが真の殉教者なのだ」

 王は無言で不審げな眼差しをメロスに向けている。感情に任せて周囲の衛兵らに声をかけて直ちに処刑してみようかとも一瞬考えたのだが、メロスの言動には殺されることに対しての恐れがまるで感じられない。ちゃちな小ざかしいはったりをかましているわけでもないようだ。

 死への恐怖を感じさせなく振る舞うやつを王はいままでに何度か見てきていたので、メロスの態度そのものは王にとってはさほど珍しくもない。しかし、そういうやつは強い忠誠心だとか信仰心だとか義侠心だとかをもっているのが常で、その裏には自分の命を代償にしたねらいが見え隠れしているものだ。加えて多少の躁気と狂気も含まれているのが常である。このあたりのかんどころは、人を見極めるのが仕事である王は十二分に心得ているつもりであった。

 だがこいつはどうだ。王は口ひげをいじりながら改めてメロスをつぶさに観察した。何か崇高な信念があるようには到底感じられない。やたらと込み入ってまわりくどい諫言を送ろうとしている識者のたぐいにしてはいささか知性が足らぬ様子であるからこれも違う。そもそも自分の命の代償として訴えるものが妹の結婚式だというのだから安いやつだ。更にいえばそんなものにおそらく許可もなく友人の命を賭けるというのだからわけがわからない。価値観に個人差があることは認めるにしても、人々の心はここまですさみ、でたらめになったものかと王は思わず嘆息した。

「余にはお前が何をしたくて何を伝えたいのか皆目見当がつかぬが、それはそれとして、お前の友人であるセリヌンティウスとやらの許可はもらっておるのか?」

「いや。だがおれが話をつければやつは断るまい」

 あいかわらずのメロスの態度に王のいらだちは強くなるばかりであったが、少しでも話の見通しを良くするべく、兵に命じてひとっ走りメロスが口にしているセリヌンティウスとやらをこの場に連れてくるように命じた。

「お目にかかり光栄でございます、セリヌンティウスでございます。私のような一介の職人を」

「あいさつはそのぐらいでよい。セリヌンティウスよ、そなたはそこにいるメロスという男を知っているか?」

 かしこまって視線を床に落としていたセリヌンティウスは、王に促されて面を上げて縄でぐるぐる巻きにされた少しばかり不潔な外見をした男を見ると、そこにあった知った顔に驚きの余り目をむきのけぞった。

「は、はい。そこにいるメロスは私の友人といいますか知人といいますか腐れ縁とでも申し上げましょうかまあその」

「よう、セリヌンティウス。これが終わったら飲みに行こうぜ」

 町人が捕縛されて王の前に連れてこられるということは、理由はわからぬにしてもよほどだいそれたことをしたに違いあるまい。セリヌンティウスは恐縮しきりで頭を下げたが、当のメロスといえば平時のように声をかけてきた。

「実はなセリヌンティウスよ。このメロスというものがかくかくしかじか――」

 王が事の顛末を語るとセリヌンティウスは不可解極まりないといった表情をした。もっともな反応である。やはりこのメロスとかいうやつが変なのだと王はちょっと安心した。

「率直に聞くがこの男はここがこれなのか」

 王は自分の頭の横で指をくるくると回しながらセリヌンティウスに尋ねた。そこがそれであるならば、因果を含めてセリヌンティウスにメロスを押しつけてしまえばいいわけである。

 王はメロスが思っているよりもはるかに多忙の身であった。終日、会議だとか報告会だとか面会だとかで奔走しており食事の時間さえ公務に含まれていた。いまこの時間だって本音をいえばこんなたかが知れたようなたいしたことのなさそうな男と不毛なやりとりなどせずに、書類の一枚にでも目を通したいところであった。

 だいたい処刑だなんて簡単にいってくれが、事前と事後に煩雑な手続きがあり、そのせいで定期的に組まれている公務の時間が圧迫されて、余暇などとっくに皆無であるために結果として睡眠時間が削られる。慢性的な寝不足で顔色がすぐれず殺気立って見える。そのせいでたまに領地を視察しても民はやたらと王を怖がってしまう。したがってできれば処刑なんて突発的な公務などこれ以上増やしたくない。しかしどういうわけかやらねばならぬのである。

 王は自分の一切の行動が壮大な第三者に筋書き立ててやらされているようにしばしば感じることがあった。おれは本当にほかのだれでもなくおれなのか。一度だけ医者に深刻にとらえられないように軽い雑談めかしてそういうことをほのめかしてみたのだが、「運命論を信じるか、もしくは自由意思があるかないかということですか。たいそう哲学的な話ですな」とだけ返され、その話はそれで終わった。その医者はいつのまにか処刑されていて、風紀を紊乱したとか何かそういう理由で王も書類に署名したことになっていた。その書類も確かに存在するのだがやはり身におぼえがない。恐ろしくなり王は以後このことを極力考えないことにした。

 先日もどこからか、そう、この国を治めているにもかかわらずこの手の事案がどこから上がってきているのか全く把握できていないのだが、どこからか妹婿が謀叛をたくらんでいるとの情報が伝えられた。しかたなく王は妹婿とその一族を捕えて背後関係を調べるように指示を出した。いや、正確にいうならば王は自分で指示を出したのかどうか記憶は定かでないのだが、資料をあたると確かに王が指示を出したことになっているし、更には処刑も命令したようなのである。資料があるからにはこの妹婿とやらは実際に存在していたのだろうがまるで実感がない。妹婿も妹も、顔も名前も思い出せない。そういうことがたびたび起こる。最近はふとしたときにおれはもう狂っているのだろうと嘆き、むやみと涙が出ることがあった。

「メロスとは子供のころから付き合いがありますが普通のやつだと思っていました」

「ではこの男は普通に成長して普通に生きてきて、にもかかわらずこんな突飛なことを思い立ったと申すのか。普通の人がみな日常的に気軽にこんなことをやっていては世の中は成り立たぬではないか」

「思い込みが強かったということはあったかもしれません。以前、二人で喫茶店に入ったときに、ほかの客が食べていたサンドイッチを見て『おいセリヌンティウス。この店は湯葉を出すみたいだぜ。珍しいじゃないか』といってきました。のみならず店員に自信満々に湯葉を注文したことがあります。メロスはそれまでに湯葉の現物を見たことなどないにもかかわらずですよ」

「それぐらいなら程度の差こそあれどままあることであろう」

「僭越ながら私の意見を申し上げますと、いわゆる万が一が起こったということではないでしょうか」

 セリヌンティウスは腕利きの石工職人でインテリであった。そしてインテリの常で何事も普遍的にとらえるむきがあったのである。

「と、いうと」

「つまりですね、だれだって百年に一度ぐらいは『よし、ちょっと暗殺でもしてみようかな』と思うことがあってもおかしくはありません。しかし思ったとしても実行環境が伴わなければ実行には至りません。一方でだれにでも百年に一度ぐらいは暗殺の絶好のチャンスというやつが到来しているのかもしれませんが、普通の人は暗殺なんて毛ほども考えていませんからそのチャンスに気づかないで過ごしています」

「なるほど話が見えてきたぞ。つまりその百年に一度の思いつきと百年に一度のチャンスが幸か不幸かぴったりめぐり合ってしまうと……」

「まことご明察でございます」

 かくのごとしといった風情でセリヌンティウスはメロスへちらと視線を向けた。

「しかしそんな偶然に重なった偶然を無批判に受け入れて許されるのだろうか。例えばだが『桃太郎』でだな、桃太郎が鬼と戦うも桃太郎がぼろ負けしそうになったとする。そこでなんの脈絡もなく唐突に鬼に雷が落ちてきて鬼は絶命、天晴れこれにて一件落着。そういう話が成立し得るだろうか。もちろん『わらしべ長者』のような話もあるが、あれはもともと偶発性の連鎖が主題であり、そこを強調してそんなことあるはずないだろとおもしろがらせるところが一つのねらいなのだからな」

「雷が落ちるなら落ちるなりの動機や必然性、あるいは伏線がなければ納得していただけないと」

 いかにもと王はうなずく。すると二人きりで議論に没頭していることがおもしろくないのか、メロスが口をはさんできた。

「これだからインテリは困る。ご都合主義だろうがなんだろうが現にこうして起きているのだぞ。宝くじだってどこかのだれかは当てているわさ。なんでもかんでもいちいち意味を求めようとすることこそがナンセンスだろうよ」

「それは一理ある。が、おれたちの行為にはいちいち意味がなければならんようであり何かの洞察を与えるものでなければならんようなのだ。例えばなメロス、お前がいまここで鼻をほじってみたとしよう。たったそれだけで一悶着だ。『メロスは腕を縛られていたはずだが』とか『メロスはこの議論が退屈なのだ。ということはメロスの気質はこうではないか』といったふうにな」

「馬鹿馬鹿しい。てめえがてめえの鼻をほじることに何をやいやいいわれにゃならんのだ。王よ、あんたはお偉いさんだから一挙一動まで評価されるかもしれんが、おれは一介の羊飼い、偉くなくとも自由に気楽に生きるのが身上よ」

「そりゃだれだってやりたいようにやりたいさ。その気になればおれたちはいますぐ空を飛ぶことだって戦争をおっぱじめることだって、なんなら天地創造ですらできるだろうよ。しかし実際、自由なんてものはおおよそ退屈なものさ。いやこれは単なる言葉遊びじゃあないぜ。テレビの砂嵐なんて眺めたところでなんになる? おれたちが脈絡なく動き回ったってだれも褒めてはくれやしまい。秩序は美しく、そこにたまに起こる偶然ともいうべきご都合が興味深く心地よいんじゃないか」

「いやしかしだね、セリ公。ここが難しいところなのだが、既に起こったことっていうのはどれだけ確率が低かろうが実際そうなのだからしかたがない。例えばだが正しいサイコロを一回振って一が出たとしよう。それで次に一が出る確率はいくらだ」

「六分の一だ」

「そうだ。うっかり三十六分の一と答えてしまいそうになるがサイコロが正しく作られていれば、たとえ百万回連続で一が出たとしても次に一が出る確率は依然として六分の一のままだ。それに対してサイコロを一度も振っていない状態で一を百万回連続で出そうと思ったらその確率はほとんどゼロに近い」

「つまりご都合主義だろうとなんだろうと既に起こったことであればそれがどれだけ稀で起こり得ないことだろうとしかたがないというわけか」

「おれはそう思うんだが」

 二人きりで議論を続けるのもまずかろうと、メロスは少しだけ王の立場を鑑みて、あごをしゃくって王に意見を求めるしぐさをした。

「我々の行為は何者かに既定されているのかもしれん。余はなんとなくだが結局はお前を許すような予感がするのだ。これは余のこれまでの行為から考えると到底信じられぬことなのだがそう思えてならんのだ」

 ここで王はため息をつく。それすら王としての義務のように見えなくもない。

「しかしですね、ここでまた私はもう一つ問題を抱いてしまいまして、ええ、いまの話は棚上げしますが」

 セリヌンティウスはいかにも思慮深い顔つきをして見せる。

「これを見る人、いや正確には読む人とでもいいましょうか。そういう人たちにとっては私たちのすべての行為は既定事項なわけです。ですから身もふたもないことをいってしまえば、その時点での私たちは過去も未来も全部知っているし何が起きていようがそういうものです。ところがいままさにこの行為が作られている瞬間、ここではまだ未来はわかっていないし、過去だって改ざんされるかもしれません」

「そりゃ、推敲ぐらいはするだろうが、おおよそのあらすじは頭にあるんじゃないのか」

「どうだか。なんだかこいつは行き当たりばったりなような気がする。ことによれば王は、おれもメロスも処刑するかもしれんし、厭世が最高潮に達した王が自殺しちまうってのもあるかもしれん」

「先のことなどだれにもわからんもんさ」

「であれば、そこには自由意思というものがあるというのか。メロスとやら、お前が死のうが生きようがそんなことはこの際どうだっていい。余の興味はそれなのだ。ここだけの話だが――」

 王はメロスとセリヌンティウスの二人に手招きして声を落として続けた。

「これはお前らが余と密接な関係のない後腐れのない人間だから話すのだが、余は自分の思考や行為が自分のものでないような気がして恐ろしくなることがあるのだ」

「神はサイコロを振るや否やってわけですか」

「うむ。なんというか、我々の行動には筋書きがあって、我々はそのとおり動かされているような気がするのだ」

 王は再び沈痛な表情でため息を漏らす。その失望の穴に引きずり込まれるようにセリヌンティウスも「なるほど」とつぶやいて懊悩して見せる。

「ははん、そいつはまさしくバロウズのじじいが挑んで失敗した世界観だぜ」

 考え込むインテリ二人を茶化すようにメロスは鼻で笑った。

「はて、バロウズ。名前ぐらいは聞いたことがあるようなないような……」

「いやいや知ったかぶりはしなさんな。こいつの名前なんざ王様のようなまともな人間は知らなくともよろしい。おい、そのへんのやつらにも聞くが、バロウズもしくは『裸のランチ』を知ってるやつはいるか?」

 メロスたちを遠巻きに眺めていた兵士たちはほとんど反応しない。

「ほら、な。まあバロウズがやりたかったことを乱暴に説明すれば、バロウズも王と同じような考えにこだわってた時期があるわけよ。言語が人間を縛りつけてるとかうんぬん、てな。それで、人間を自由にするため、言語からの解放を目指して、文章をずたずたに切り刻んじまってそれを無作為に偶発的につなぎあわせてやれば、そこに神様さえ知らない何がしかの霊感が宿るとか考えてね。いかにもヤク中の考えそうなことじゃあないか」

「ふむ、それでどうなったというのだ」

「ご託はたいそうなこったが、結果は散々さ。ちょっと考えてみりゃわかる。文章をでたらめに繋ぎ合わせたところで支離滅裂で退屈なものしかできんさ。おっと、こいつは少し前にセっちゃんがいってたことじゃないか」

「そういやそうだな」

「ま、ようがす。論より証拠。ちとやってみせやしょうか。ちなみに日本語だとあまりうまくいかない。機械翻訳で英語にして、単語を適当にシャッフルして、それをまた機械翻訳にかけて日本語にするといい具合だ」


-----8<----- キリトリセン -----8<-----

旋律はそうでした。それによって、あった、それが弊害の王を連れ去らなければならないと決定したより常に口笛で吹きます。メーロ、しない、悪い旋律は村のなされた保護者です。was、また、それは政治羊でそれをし生きています。しかしながら、それは受け取りました、似ていた、暴政、他のものをより激しく理解する、激怒し敏感である。

-----8<----- キリトリセン -----8<-----


 王はメロスがこしらえたケッタイな文章を読んで首をかしげる。

「ううむ、何か意味深な文章のようにも感じられるが……」

「王様、それは人が好すぎるというものです。こんな酔っ払いが吐いたような文章、まともに受け止める方がいい面の皮というものです」

「そういうこった。ディオちゃん、あんたは筋書きどおりに生きるのが嫌だとか決められたレールの上を走るのが嫌だとか抜かしているが、はっ、その地位と立場で今更何を青っちょろいことを。それに重ねていうが、こいつはあんたのためでもあるんだ。この筋書きっていうのは満更悪いものでもなさそうだぜ? ともかく――」

 メロスは辺りを軽く睥睨する。そろそろ縄の締めつけも痛く感じてきた。周囲の兵士はもはや王の構成要素に過ぎず、何か具体的に物語に参加することもあるまい。メロスはセリヌンティウスに目配せして縄を解かせた。果たして兵士は何もしない。自由になった腕を回して伸びをしてから、芝居がかった素振りでメロスは自分自身の胸を叩いて見せた。

「このメロスさんに任せなさい。悪いようにはなりゃせんぜ」


 その夜、メロスとセリヌンティウスは王城の冷たい地下牢の中で二人の旧交を温めていた。

「メロス、お前は昔から少し変人だと思っていたのだけれども、どうやら少しどころかとてつもない変人だったらしいな」

「世の中少しぐらい変人な方がたのしいのだ。世人はみな凡庸な人生を送りたくないと口にはするが、いざ変人たる生き方のチャンスを目の当たりにすると世間体と偏見に目がくらみ、畢竟するところありふれて平凡なたかが知れた道を選んでしまう。おれはおれなりに、現状を変えようと思ってな」

「しかしだな、妹に先を越されてばつが悪いというのも結局は世間体を気にしてだろ」

「そうともいえるし、そうでないともいえる。世間体を気にしておれも結婚に血道を上げるならば当たり前だが、妹の結婚に対抗して王の暗殺を目指す。こいつは最高に刺激的だろう?」

「それはそうだが……」

 粗末なむしろに寝そべって話していたセリヌンティウスは、その先の言葉をごまかすように大きなあくびをした。

「ま、それはそれとして、お前の計画は本当に信用していいんだろうな。当たり前だがおれはまだ死にたくない」

「それならまかせろ。見張りの兵士は近くにはいないな、よし。ここだけの話だがこれを読んでみろ」

 メロスは懐から一冊の本を取り出した。

「なになに、『走れメロス』か。聞いたことないな。どれ、どういう話なんだ」

 メロスから本を受け取ると、セリヌンティウスはぺらぺらとページをめくって中身を流し読みした。

「お前と同じ名前のやつが主人公か。王の暗殺を試みて……。な、お前まさか」

「わかっただろう。そこに書いてあるとおり、おれは英雄になるのだ。歴史に名を残すのだ」

 セリヌンティウスは言葉を失ってメロスの顔をまじまじと眺めた。付合いも随分になるが、やはりこいつは空前絶後の大変人に違いあるまいと改めて思い知らされた。

「いろいろあってもおれもお前も処刑されないし、それどころかあの邪悪な王も改心していいこと尽くしだ。しかも最後の箇所を読んでみろ。おれはどこかの村娘とまんざらでもない関係になるらしいのだ。となれば若干の順番の前後はあったにせよ、間もなくおれも所帯を持ってなんらの憂いも残らない。まさにハッピーエンドってやつだ」

「そうなってくれれば結構なことだが……。そういや所帯うんぬんで思い出したが、お前の妹の結婚式ってアイちゃんの結婚式のことだろ。あれは確か九月じゃなかったか」

「うむ。しかしおれの偉業と比べれば小さなことだ。村に帰り次第、予定を切り上げて結婚式をやってもらうつもりだ」

「向こうも都合ってもんがあるんじゃないか。軽く見ても一年以上は前から計画していたであろうイベントを、お前一人の都合だけでおいそれと変更するわけにもいかんだろう」

「そこはなんとか交渉してみるが……」

 セリヌンティウスの言葉に、革命家のように躁的で浮世離れしていたメロスの思考は急速に地に足着いた所帯じみたものになった。いわれてみれば、ここ一年ぐらいにわたって妹は結婚情報誌を買い込んでは読み比べて、婚約者の男とあちこち忙しく出かけまわっていたし、やたらといろいろな人間に連絡を取っているようであった。その段取りを手前の勝手なわがままで台無しにしてもいいものなのか。結婚式の恨みは一生続くと聞くが、その責め苦におれは耐えられるだろうか。メロスは自信なく自問自答をした。

「もっといってしまえば、そもそもおれもアイちゃんの結婚式には招待されてるし、のみならずスピーチだって頼まれてるしもう原稿も作ってある」

 面倒な仕事をやらされてインテリも楽じゃないよと自嘲気味に薄く笑ったが、もちろんこんなのは単なる自慢である。しかしこういう所作を互いに自意識や自尊心が発達する以前の幼少期から散々繰り返してきていたため、セリヌンティウスは別段意識的に行ったものではないし、メロスも自慢話をされたなど全く感じない。そういう関係のやつらなのだ。

「だから、お前が明日の朝にも村に帰ってアイちゃんの結婚式を前倒しさせるつもりなら、おれも一緒に村に着いていかにゃあならん」

「それは困る。お前はおれを信じて命を賭けてくれなければ話が成り立たんだろう」

 しばらく二人でさほど真剣みの感じられない様子で話し合っていると、巡回中の牢番がメロスたちの牢の中をわずかにたしなめるような目つきでのぞいてきた。

「みんなもう寝てるから静かに? やあ、これは失礼」

「しかたない。ほかにすることもないし寝るか。明日の朝考えよう。なるようになるさ」

 メロスが横になってかけ布団代わりのむしろをかぶろうとしたとき、セリヌンティウスが何事か妙案をひらめいたといわんばかりのしたり顔を見せた。

「いいことを思いついた。お前がおれを人質に差し出すことを王は許可したわけだよな。そんなら、おれだってだれかを人質にしたっていいわけだ。断られる理由もあるまい」

「しかしだれを人質にするんだ。おれを差し出したって話は進まんぞ」

 いまいち釈然としない口調のメロスに、セリヌンティウスは「そう、そこよ」と指を振って返す。

「兵士君、ちょっとこっちに来たまえ」

 何を思ったのか、セリヌンティウスは鉄格子の隙間から伸ばした腕でおいでおいでをして先ほどやってきた牢番を呼び戻した。不意の出来事に牢番は驚きと期待の表情を浮かべた。

「君、名前はあるかね。いやいや、もちろん本名じゃない。何、もらってない。名前があった方がやりやすいからな。勝手にいいんですかだって? 見くびってもらっちゃあ困る。私は日月星辰をも動かせるセリヌンティウスだよ。そんでもって後ろの彼は2足す2を5にも6にもできるメロスだ。我々がその気になれば名前の一つや二つなんて造作もない」

 事情を飲み込めてきたのか、メロスは親友と名もなき牢番とのやりとりをニヤニヤしながら見ている。

「そうだな……。うん、ベラマッチャ。そう、君の名前はベラマッチャだ。どうだい、いい名前だろう」

 若い牢番は相槌に声も上げずに緊張の面持ちでセリヌンティウスの流れるような軽い早口に耳を傾けている。いま、彼は心の底から歓喜しているのだ。

「それでベラマッチャ君。早速だが君には私たちの身代わりになって死んでもらいたい。いや、死ぬかどうかはわからんが、死ぬかもしれない、とだけはいっておこう。いいかね?」

 ベラマッチャは子供のように大きくうんうんとうなずいた。それからセリヌンティウスは懐から手帳を取り出して事情と経緯をかくかくしかじかしたためた。

「王様にはこれを渡してくれたまえ。なんなら君が声に出して朗読してしまっても構わない」

 ほの暗く静かな地下牢にベラマッチャの洟をすする音が響いた。彼は泣いていた。こみ上げた感情がせきを切り、涙となってあふれ出していた。次第に、地下牢の四方からすすり泣く声が聞こえてきた。人の情を踏みにじり闇に身を落とした罪人ですら、ベラマッチャが奏でる哀歌に涙せずにいられなかったのだ。

「そうかそうか、そんなにうれしいか。では後のことは君によろしく頼むということで。おいメロス。ちょっと中途半端な時間だがせっかくだからおれんちで飲もうぜ」

「そりゃあいい。ここは寒いし汚いし硬いしで居心地が悪くていかん。ほんでは、ベラマッちゃん。大役、しっかり務めるんだぜ」

 二人はベラマッチャに牢屋の錠を開けさせると、メロスと二人で勝手に地下牢から抜け出してセリヌンティウスの自宅に帰ってしまった。


 メロスたちがいなくなり、暗い地下牢には牢番といつから入れられてるのか判然としない囚人らが残された。牢番の涙はやんでいたが、周囲からはいまなお泣き声が聞こえていた。

「旦那! おれぁ悲しくてしかたありやせん。何も旦那が死ぬことなんかありゃしませんよ!」

「いうな。私とてこういうことがあるのは覚悟の上だ」

「いいや、いわせてください。旦那はいつだっておれらのようなどうしようもないやつらをあわれんでくださった。世の中のいいことを何一つ知ろうとしなかったおれらに、旦那は情けをかけてくれた!」

 一味を率いて方々で盗みを働いていた盗賊団の首領だった男が、囚人らの気持ちを代表するかのように、よく通る声で訴えた。

「何もかも、私は私の仕事をしていただけの話だ」

「嗚呼、世の中はいつだっていいやつから先に死んでいく。おれがまだ洟を垂れてた駆け出しのころ、あこぎな豪商の家に盗みに入った先でおれはへまをしてその家の用心棒に見つかってしまった。ほかの連中はとっくにずらかった後で、おれはこのまま叩き殺されると思った。だが、おれの教育係をしていた兄貴分がおれがいないことに気づくとわざわざ助けに戻ってきてくれた。そうして兄貴分はおれを逃がすのが精一杯で殺されてしまった。長生きするのはいつでも卑怯者ばかりで、それゆえ人間(じんかん)は際限なく悪くなるばかりだ。おれたちはまた一つ高邁な魂を失ってしまう」

 元首領が叫び終えるといっとき静かにしていたほかの小物たちが、おれが身代わりになるだの助けるだのとめいめい勝手に発言して騒ぎ立てた。

「これ、夜も遅い。みな静かにいたせい」

 牢番の一言で囚人らはたちまち神妙な態度になった。

「私はお主らが思うようなたいそうな人間などではない。牢を隔ててこちら側に立っているのはたまさか運が良かっただけに過ぎぬ。私ごときの命で人の世が少しでも良くなるのであれば、全く、よろこんで死んでみせよう。いいや、同情や憐憫など無用だ。私はうれしいのだ。皮肉でも強がりでもあてつけでもなく、いまこの境遇を心の底からよろこんでいるのだよ」

 囚人らはもはや泣いてはいなかった。牢番を差し置いて悲しむことがおこがましいことであるように思え、感情を殺して静かに身を震わせて耐え忍んでいた。

「それにまだ死ぬと決まったわけでもあるまい。運が良ければ……、運が良ければまた会おう。みな、達者でな」

 牢番はさっと見渡して囚人一人ずつの顔をあらためた。牢番と目が合った囚人の一人は鉄格子にしがみつき、何かを叫ぼうとしたが声にならなかった。牢番はいつものように明かりを消して地下牢を立ち去った。明かりが消えた牢獄に月明かりが差し込み、囚人らの顔をわずかに照らし出していた。


 ベラマッチャは本名を牧田慎次という二十五歳の休学中の大学生であった。役者になることを夢見て、昼は所属する劇団の稽古に励み、夜は飲食店で働くという生活を送っていた。

 牧田は小学生のころ、すい臓を患って学校を一ヶ月ほど休んだことがあった。微熱が続く衰弱した体をもてあますように横たえて、もっぱらテレビばかりを眺める日を繰り返していた。

 あるときにNHKで演芸の番組をやっていて、そこで牧田は偶然イッセー尾形の一人芝居を見た。平日の昼間など子供向けの番組をやるはずもなく、はなはだ退屈していたところにイッセー尾形の芸は牧田を強く惹きつけた。体調が恢復して学校に戻ってから、牧田は友人の数名にイッセー尾形の真似事をして見せたがすこぶる反応は悪かった。自分の芸が未熟なためであると考えた牧田は精進を心に決め、かりあげくんとフリテンくんで学んだサラリーマンの形態をまねることに熱中しては家のものの不興をかった。

 長ずるにつれて牧田の関心は一人芝居(というよりも、四コマ漫画のネタを一人で演じるという遊びだったが)から役者や俳優へと若干の変化が起こっていった。高校三年生のときの進路相談で正直にその夢を話したのだが、果たして教師と両親のおぼえはかんばしくなかった。それでも熱心に説得を続けたところ、ひとまず大学を出てから考えてはどうかと妥協案を述べられた。役者としてデビューしてプロフィールを書くときに、大卒の肩書きがあるのも悪くはないという思惑もはたらき、牧田は東京の大学へと進学した。

 とはいえ、芝居や演劇への熱が冷めたわけではなく、牧田は入学したその日に大学内の演劇部の扉を叩いて一も二もなく加入した。新たな生活と、本格的な演劇への期待に胸をふくらませたのである。

 ところが、この演劇部というのが学生運動過激派グループのアジトのようなところで、部活動を隠れ蓑に日夜非合法すれすれの活動を繰り返していた。牧田は部屋に並んだヘルメットやゲバ棒に囲まれながら、それらが単なる小道具の一種か何かと思いながらのんきに入部届けを書いた。一週間もしないうちに上級生らは本性をあらわにして、牧田に対して夜討ち朝駆け、激しいオルグを繰り返したのだった。

 学科長や学生課に相談するも騒ぎを起こしたくないのかいずれもまともな対応を得られず、見知らぬ土地で親身に頼れるものもいない牧田は五月を待たずに神経衰弱気味となり、大学は休みがちとなり、かといってほかに行くあてもなく、六畳間を閉め切って招かぬ来訪者らにおびえる毎日であった。

 いつものように牧田の下宿先に上級生ら数名が押しかけてきて、無遠慮に扉を殴打してきた。

「牧田君、いるんだろう。ドアを開けたまえ。我々は君が学校を休みがちと聞いて心配で来たのだよ。さあ、早く開けたまえ」

 牧田は頭まで布団をかぶりながら身を縮めて震えていた。居留守を使っていることは十中八九ばれているだろうから、上級生らは牧田が扉を開けるまでいつまででもしつこく叩き続けるだろう。窓ガラスを割ろうかというようなやりとりまで聞かせてきたことすらあるし、あいつらなら本当に割りかねないと想像していた。いっそ気絶でもしないかと枕の角を喉の奥まで突っ込んでみたが人間という生き物は無駄に頑丈なようで幻滅する。安普請の木造アパート全体を震えさせるような強迫的な轟音を聞かされ続けていると、自殺願望すら抱きたくなってくる。

「牧田君、いるのはわかっているんだ。寝てるのかね。だったら起きて学校に行こう。決して悪いようにはしないから。さあ、そんなに我々を困らせずにここを開けるんだ」

 どのみち、結局は開けてしまうのだ。動悸が早くなり、吐き気と頭痛をもよおしてきた。部屋に入れれば入れたでよってたかって罵声を浴びせられるのだが、建物への影響がない分まだましかもしれない。それに、悪いようにはしないといっているようだから――。

 うつろな意識で布団から這い出し、鍵を開けようとふらふら扉に近づいたところで、聞いたことのない声色の怒声が別の方向から飛んできた。

「うるせえぞ、てめら! 毎日毎日バカみたいに騒ぎやがって! そこのやつなら朝早くから出かけてまだ帰って来てないところだ。今度来やがったら警察呼ぶぞ!」

 不意の大声に対して条件反射のように一瞬牧田は身をこわばらせたが、扉越しでも十分によく聞こえるやりとりに耳を向けるとどうやら上級生らを追い払おうとしているようであった。

「いきなり他人を大声で叱りつけるとは下品なやつだな。あんたには関係のないことだろう。我々はここに住んでる牧田君の友人でな」

「彼、最近学校を休みがちだから心配しに来たところなんだ」

「部外者がとやかく口出ししないでもらいたい」

 上級生らが白々しい抗弁を並べ立てたが、隣人の男の調子はいっこう変わらない。

「はっ、お友だちが聞いて呆れる。朝っぱらからドアをガンガンぶん殴って無理矢理部屋に押し入って、恐喝、恫喝してくれる友人なんていてたまるか。てめえらの馬鹿みてえな罵声はボロアパートの壁を突き破っておれの耳までよっく聞こえてたぜ。この左巻きのアホバカアカ学生どもめ、さっさと失せやがれ!」

 隣人の男がぴしゃりと言い放つと、上級生らが二三の捨てゼリフのようなことをほざいて大人しく帰っていく様子が伝わってきた。先ほどまですさまじい騒音にさらされていたアパートは反動で耳鳴りがしそうなほど静かになり、恐怖から解放された牧田は腰が抜けたようにへなへなと床にへばりこんだ。

 小一時間ほど、平静を取り戻そうと寝そべったまま頭の中身を整理しようと努めてみたが、やはり依然として上級生らの脅威がこの世から消え去ってはいないことを確認して気が滅入った。だが、それはそれとして隣人の男が当座の窮地を救ってくれたことは確かであり、牧田は清涼飲料水を一本手に取り隣の扉をノックした。すぐに扉が開き、部屋の中からとうが立って無精ひげを伸ばした学生風の男が出てきた。

「あの、すみません。隣の部屋のものですが、先ほどはどうも」

「なんだあんたか。いやなに、あんたを助けようというよりは実際うるさくてかなわんかったからな。ここ数日は朝っぱらから起こされて腹が立ってしかたがなかった」

 この一件を機に、牧田は隣の部屋に住む伊藤という男と接点を持つことになった。

 話をしてみると、伊藤は大学生ではあったが留年を繰り返していまでは六年生だという。にもかかわらず、あまり大学へ顔を見せずにろくに単位も集めずに、日がな一日アパートでごろごろしたり付近をぶらぶらして過ごす日々なのだという。

「知ってるか、大学っていうところは八年までいられるんだぜ。それどころか、学生便覧や履修案内に書かれた文言の裏をついてちょいと工作してやれば、おれの見立てならばうちの場合なら十年はいられる計算になる。おれは単位だとかそのあたりの話なら教授連中より詳しいかもしらん」

 伊藤は法学部の学生で、将来は弁護士になるつもりだともいった。

「おれは弁護士にならにゃ親父に殺されかねん。逆にいえば、弁護士にさえなれればどれだけ留年しようがおとがめなしってわけだ」

 そういうことを、伊藤は自室にもやがかかるほどに煙草を吸いながら話したりしたのであった。


 伊藤の件以来、上級生らは牧田のアパートまで押しかけてくることはなくなった。大学で見つかれば話しかけてきてうっとうしいのは相変わらずだったが、牧田がなるたけ友人、知人と一緒に行動するようにしたこともあり、以前ほど強引なオルグはされずにすんでいた。牧田一人にかかりっきりになるほど暇でもないのか、次第に上級生らの接触は減っていき、いつしか構内で出くわしても互いに知らんふりをするようになっていった。

 これでようやくまともな大学生活をスタートできる、牧田は友人たちから借りた欠席していた講義のノートを写すことにめんどくささを感じながらも、これが学生というものなのだとしみじみ思ったのであった。

 大学に復帰してからも伊藤との交流はなんとなく続いていた。伊藤は牧田と同じ大学の学生だということなのだが未だに学内で見かけたことはない。意識して観察しているわけでもないのだが、早朝に活動しているらしきこともあれば、遅くまで部屋の電気がついていることもあった。どちらからともなくふらっと相手の部屋を訪れると、そのまま二時間ほど縦でも横でもいいようなことを議論するのがおもしろかった、ケーキに入っているフルーツはありかなしか、煙草にうまいまずいはあるのか、もっとも頭の悪い犬の種類は何か、などなど。


 梅雨の季節である。前日から降り続く雨のせいでアパート内の空気は肌に粘りつくようないやらしい気配であった。休日だったため、牧田は朝から自室にこもってだらけながら、時々窓ガラス越しに外の雨景色を眺めて、半ば憂鬱で、半ば平穏な気持ちで過ごしていた。

 昼ごろ、なおざりなノックとともに伊藤が部屋を訪れてきた。

「部屋の整理をしていてな。ちょっとの間でいいからこれらを預かってくれんか」

 そういうと、数個のダンボール箱を見せてきた。伊藤の部屋の乱雑ぶりを思い出し、まあそういうこともあるかしらんと考え、牧田は気軽に請け負った。

 次の日、牧田はやや早過ぎる時間に小用で目が覚めて共用便所に向かった。その途中でなんとはなしに外の様子を見てみると、アパートの入り口にパトカーが止まっているのが目に入った。さして気に留めることもなく部屋に戻って寝直そうとしたところ、伊藤の部屋に何者かが入ろうとしている気配があった。

 こんな朝っぱらからなんだと思い、耳をそばだてることはしなかったが、薄い壁越しに伝わってくるやりとりに気を向けてみた。複数の男らと伊藤のやりとりや、部屋をあさくるような物音が聞こえた。部屋を片付けるといっていたが、まさかこんな時間に手伝いがやってきたのだろうかといぶかしんだ。

 しばらく話し声と物音が聞こえていたが、いつの間にか牧田は眠っていたようであり、けたたましい目覚まし時計の音で起こされた。隣の部屋からはもはや物音は聞こえておらず、停まっていたパトカーもいつの間にか去っていた。深く考えずに伊藤の様子を確かめるでもなく、牧田は億劫な月曜日の大学へ向かった。

 夕方に大学から帰ってきて、ふと今朝のことを思い出して伊藤の部屋を訪ねてみた。伊藤は在室で、部屋にはあいかわらず視界をさえぎるほどの紫煙が蔓延していた。心なしか焦げ臭さすら感じられる。読書でもしているかと思っていたが伊藤はせっせと部屋の片づけをしているようで、長居するのも味が悪いと感じて部屋の中には入らずに立ち話で今朝の一件を聞いてみた。

「つまらん話さ。商店街でひったくり事件があって、警察のやつら、被害者が見たという人相がおれに似ているといってゆずらんのだ。無論、おれはそんなことはせんよ。警察に『その時間ならなじみの古書店にいた』といっても納得してくれんでな。連中、まだ早い時間にもかまわず書店に電話して店主にたいそう迷惑がられてたな。しかしまあ、お陰で身の潔白は示せた。今度行ったときはちと高い買い物でもしてやらにゃあな」

 牧田の来訪に伊藤は作業の手を止めて対応し、火の消えていたくわえ煙草を灰皿にぎゅうと押し込み、一連の動作のように新しい一本を取り出すと丁度一服といった風情で火をつけた。

「そういや荷物を預かっててもらってたな。どうにか収納する目処が立った。ありがとう。この借りはいつか返す」

 牧田は預かっていた荷物を伊藤に返した。じゃあ今度飯でもおごってもらうか、とか、そんなふうな軽口を添えて。


 後で伝え聞いた話によれば、伊藤がいなくなったのはその日の夜のようであった。

 ここ数日、部屋に伊藤の気配がない日が続いているような気がしていたが、たまたま生活リズムがずれているのだろうと牧田は考えていた。そう考えたまさに次の日に、牧田にとっては早朝といえる時間に部屋の扉が叩かれて不機嫌に起こされた。例の上級生らのオルグ熱が再発したかとも考えたが、大学の友人たちや伊藤と過ごすうちに牧田もいっぱしの大学生らしい地に足ついた見識やずぶとさを身につけて、いまなら強気に跳ね除けられるような自信がみなぎっていた。

 おもしれえ、やってやろうじゃないか、と強い口調で「はい」といって扉を開けると、夏だというのにスーツを着た二人組みの男が立っていた。

「牧田さんですね。お休み中でしたら申し訳ありません」

「私たちはこういうものです」

 男らは顔写真入の身分証を提示してきた。本物を見たことがないので真贋を確かめようがないのだが、雰囲気からしておそらく彼らは警察関係の人間のようである。

「お隣さんのことでもしご存知でしたらうかがいたいことがありまして」

 男の口調には丁寧だが有無をいわせないものがある。

「引ったくりのことですか? ぼくには彼がそんなことをする人間には思えませんが」

「引ったくり……。ははあ、伊藤はそんなことをいっていましたか」

 牧田は男が伊藤を呼び捨てにしたことに内心むっとしたが態度には出さないように努めた。

「といいますと、牧田さんは伊藤とは顔見知りで?」

 最初からおもしろくない感情を抱いていた牧田はあまり誠実に答える気になれなかった。

「そういうわけでもありませんがね。一度、困っていたら助けてもらったことがあったぐらいです」

「ほう、差し支えなければどんな内容かお教えいただけませんか」

「まあその、たいしたことないですよ。ぼくは今年の春に引っ越してきたばかりでして、ゴミの日にゴミ袋を買うのを忘れて困っているとお隣さんがゴミ袋を一枚くれたんです。そのお返しもしましたよ」

「ほかには何かありませんか。伊藤から何か聞かされたこととか預かったものがあるとかは」

 預かったものといわれて牧田の心はどきりと上ずった。そのことを十分に自覚したためごまかせばかえってあやしまれると思い、預かりものについては率直に答えた。

「ああ、一回だけ荷物を預かったことがありますよ。部屋の片づけをしている間だけでいいからって。といっても、すぐに返しましたがね」

 男らは互いに「やはり」といったふうに顔を見合わせ、開いていたメモ帳に素早くペンを走らせた。

「それは○月×日ではありませんでしたか」

 日付を聞かれて、そういやあれは休日だったはずだからと計算するとそのとおりのようである。

「ううん、どうだったかな。ちょっとよく思い出せません」

 牧田は思い出すふりをしてはぐらかしてみたが、男らは日付にはさほど興味はなかったようである。

「そうですか。わかりました。ご協力感謝いたします。もしかするとまた聞かせていただくことがあるかもしれません。それと、もし伊藤がこの部屋に帰ってくることがあればこちらまでご連絡ください」

 一応は満足した様子で、二人組みの男らは去っていった。時計を見ると意外に時間が過ぎていて、二度寝するにも起きているにも中途半端な時間だった。眠らないつもりで寝床に横になりながら、牧田は伊藤に何が起きているのだろうかと答えが得られそうにもない想像をした。


 伊藤はテロリストだった。留年を繰り返すうだつの上がらない大学生とは全くの偽りの姿であり、正体は国家転覆、国体破壊をたくらむ過激派グループの幹部であり優秀な工作員であった。伊藤(本名は伊藤ではないのだが便宜的にそう表すことにする)にいわせれば、牧田にからんでいた上級生どもがやっている活動など、

「子供のかわいい遊び」

のようなものであった。

 あの日、伊藤はシンパからガサ入れの情報を得て、大急ぎで手許にあった通信と資料を焼却して、どうしても処分できないものについては牧田に預けたのであった。情報どおり、公安が伊藤の部屋にやってきてしつこく訊問をしてきた。伊藤は知らぬ存ぜぬを貫いてその場はなんとか逃れられた。だが、公安の辣腕と執拗ぶりをその身に知る伊藤は、躊躇することなく即日アパートから逐電した。


 伊藤の正体を知るよしもない牧田はレポートとアルバイトに追われる日々を送り、主不在となっていた隣の部屋にも次の住人が入ってきて、いつしか伊藤の存在も記憶から薄れ去っていった。

 それから牧田はアルバイト先で知った劇団に入るといっとき潜めていた芝居熱が再燃し、学生の本分はおろそかになり、単位をぼろぼろ落とし、大学からおたくの息子さんはかくのごとしといった連絡が実家に入り、父と怒鳴り合い、母に泣かれ、そうした末に大学を留年、休学して、現在に至った。

 休学中は仕送りを止めるという約束だったため、牧田はしかたなくより高額の時給を求めて居酒屋やバーで働くようになった。肌が合わずにやめたり、給料をもらえることなく店がつぶれたり、酔客を投げ飛ばして首になったり、そうした末にいまのバーにめぐり合えた。

 店主は真部という、まだ四十半ばという歳の割には既に老成したというか、人生の下り坂に入ったかのような言動をする男だった。牧田がこの手の店の仕事で求められる技術や段取りを既に身につけていたこともあったかもしれないが、真部は全然うるさいことはいわずに常に恬淡と振る舞っていた。

 店は飛び抜けて評判になるような料理や酒を出すわけでもないのだが、立地がいいのか牧田の懐が十二分に潤うぐらいの客がやってきていた。

 働きやすい環境であるのに加えて、真部が芝居や演劇に理解があるところも牧田の動機を高めていた。真部は若いころに俳優を夢見て、そのための養成所に入っていたこともあるという。二三本ほどの映画作品にも出たこともあるらしいのだが作品名までは知らない。いまのところはまだ牧田も深く追求したことはない。

「三十を超えたあたりから自分のおおよその才能のたかが知れてきたように感じてきた。ああ、自分は若いころに思っていたほどには役者の才能はないのだな、と。自分よりもうまいベテランで上はつかえているし、才気あふれる若手が下から突き上げてくる。これ以上続けて芝居が嫌いになることが怖くなった。それで役者で食うことはあきらめて、たまの趣味でたのしむだけにしたんだよ」

 牧田が劇団員であることを話した日、看板後の作業をしながら真部は「私も若いころは役者を目指したものさ」と切り出して、ぽつりぽつりと語った内容である。どうりで店のトイレの壁面などにセミプロやアマチュアの劇団による舞台の案内やポスターが貼られているわけである。

「少しでもかかわっていたくてね。女々しいと思われそうだけれども」

 真部は離婚歴があるそうで、生活力のなさに愛想を尽かされたらしい。別れるときは子供がいなかったことが身軽に思えたのだが、いまにして思えば手許に残らなくても子供がいても良かったかなとわずかに後悔することもあるのだという。

「たまにうまい酒を飲むことだけがたのしみだね。今更新たなやりがいを見つけてもねえ。若いころからそっちやっとけば良かったというさかしい思いが邪魔してしまうんだよ」

 定休日の前の日などに、店に残って酒を飲むことを真部は習慣にしていた。タダ酒にあずかれると牧田もしばしば付き合うのだが、真部がしゃべりたがらないのでお互いほとんど黙っている。気まずい沈黙を崩そうと牧田が話題を作ろうとしたこともあるのだが、真部は気乗りしない様子なのであきらめた。真部はウイスキーをかぱかぱ飲みながら、グラスの中でたゆたう氷だとか、テーブルの上の観葉植物だとか、窓の外だとか、時には指先だとか、そういうものをただじっと眺めるばかりであった。手持ち無沙汰の牧田は無聊を慰めるためにつまみの乾きものをやたらと食べるため、決まって次の日はひどい胸焼けと胃もたれにうなるのであった。


「もしもし、真部さんですか」

 牧田はベラマッチャの名を授かった夜が明けると、迷った末に真部に電話を掛けた。

「牧田君か。どうかしましたか」

「急な話ですみませんが、バイトを辞める用ができまして……」

 語尾が小さくなり、そのまま言葉を探して黙ってしまった。

「それは残念だね。牧田君はよくやってくれていましたから。学業に復帰ですか」

「いえ、劇団でちょっとした役を任されました」

「そいつはめでたい。どんな役ですか」

 もったいぶるつもりでも隠すつもりでもなかったが、牧田はどうしてもまっすぐに伝えることができなかった。

「あまり詳しくいうと差し障りがあるのでいえませんが――、『階段落ち』をやります」

 真部が絶句する気配が受話器からでも伝わってきた。再び無言の時が訪れる。あの店主にそんなことをいって、自分は何を求めていたのか。ただ困惑させてしまっただけではないのか。牧田の視界は涙で歪んでいた。この上、泣いていることまで悟られるわけにはいかないと、したたる洟をすすることもなくぽたぽたと垂れ流しにして会話を続けた。

「そうですか……。しかしよくよく考えてのことなのでしょう」

「びゃい」

 喉が締め付けられて牧田はまともな声で返事をできなかった。励ますか慰めるか勇気付ければいいのか、そのいずれもが白々しく空虚に感じられそうで、真部は感情的な表現は避けた。

「いい演技をしてください。いつか私が見聞きする機会もあるかもしれません」

「がい」

 それ以上会話をつなぐことが辛く、どちらともなく電話を切った。最初の予定では、牧田は次に実家に電話を掛けるつもりだったのだが断念した。人生の記憶の中から様々な人の顔が浮かんだが、そのだれもが笑っているようであった。


 一方そのころ、村に帰ったメロスとセリヌンティウスは、メロスの妹のアイ、メロスの妹の夫になるヒロシ、それからウェディングプランナーの吉村という女を交えて、結婚式前倒しのための交渉をしていた。

「ですからお兄様、半年先の結婚式を明日いきなりというのは難しいかと……」

「いや、難しいのはわかっている。簡単なことであれば手前で勝手にやれば済む話なのだからな。しかし難しいことだからこそ、こうして頭を下げてどうにかできませんかとお願いしているのだ」

 メロスは最初から同じような文言を繰り返している。セリヌンティウスはメロスの隣でただニヤニヤしているだけで、残った三人は頭を抱えている。

「例えば式場ですけどね、これは明日はもう朝から全部予約で埋まっているんです」

「そこをどうにかならんのか」

 吉村はいまにもほえ出して噛みつきたい衝動にかられたが、アイとヒロシが大口の契約相手ということもあってぐっとストレスを飲み込んだ。

「少々お待ちください」

 メロスとばかり話しているといつか殴りかかってしまうと思い、吉村はアイとヒロシを連れて一旦外に出た。

「アイ様、率直に申しましてあなたのお兄様の要求は無茶です」

「全く同感です。ご迷惑おかけいたします。一体兄が何を考えているのか……。昔から独りよがりなところはありましたけど」

「アイ様かヒロシ様からなんとか説得をお願いできませんか」

「わかりました。私としても明日結婚式するなんて絶対に譲れませんから」

 力強い意思を感じさせる口調と目つきで即答した。アイは基本的には柔和な女子(おなご)であったが、このときばかりは後に良人となるヒロシをして、

「背筋が凍る思いがした」

といわしめる凄みがあった。

 アイたち三人の激情とは裏腹に、メロスとセリヌンティウスは出された茶をすすりながら悠長な様子である。

「なんだい、あのウェディングプランナーとかいうやつは。おれが生きている時代にあんな仕事はなかったろうぜ」

「名前が違うだけで似たようなもんはあったろうさ」

「だいたいおれは結婚披露宴とかいう慣習が好かんのだ。這った立ったで褒められるガキならいざ知らず、いい大人が己の才覚とは関係のないところで手放しで絶賛、称揚されてだらしない顔をさらすなんざ沽券にかかわらあね。いやね、スピーチとかはいいのよわかるわけよ。これから楽あり苦ありの二人を祝福したり激励したりするのはおおいに意義を理解できる。おれが気に入らんのはだね」

 メロスは退屈しのぎに独自の見解をぶちまけていた。セリヌンティウスは特に肯定も否定もせず「一理ある」なんて具合でうなずいている。そうこうしているとアイとヒロシが部屋に戻ってきた。

「お兄ちゃん、結婚式を明日やれだなんてどういうことかわかってるの!? 案内状を出した人たちだってそんな急には集まれないし、お料理の準備だって無理でしょ!?」

 妹は普段あまり声を荒らげない分だけ強く出られると青天の霹靂のようで参ってしまう。そもそもメロスはどうしても妹に甘く弱い部分があり、そのためにさっきまで吉村にばかり要求を話していたのである。したがって、こうもはっきりとアイに拒まれては踏ん張りようがない。

「確かにそうだ。いや、実はおれも本心ではそう思っていたんだよ。お粗末な話になるんだが、まあ聞いておくれ。昨日、シラクスの市に行ったときに王様と話す機会があって、そこで王様が『メロスよ、お前の妹の結婚式を近日中にやってくれんか』なんていってきたわけだ。なんでそんなこといってきたのかって? さあ、知らんよ。王様なんて四六時中ろくでもないこと考えてる生き物だからな。殊に、あのディオニスとかいう王は太陽がまぶしいぐらいで民や臣下をしばり首にするような狂人だぜ。おれたちのような良識ある庶民にはさっぱりわけがわからん。しかしまあ、仮にも一国の君主をないがしろにするのも大人げないと思い、王様の面子ってものも考えて、一応、あくまで一応な、いってみただけの話だったんだよ。は、は、は。わかりきったことじゃないか。おれだってアイが葡萄の季節にウェディングドレスを着たがってることはよおくご存知さ」

「なんだ、そうだったんだ。お兄ちゃんも大変だったんだね」

「誠実な人間っていうのはいつだって損をかぶるもんさ。おっと、こんな愚痴はアイにもヒロシ君にも関係のない話なのにな、いかんいかん。悪いのは無茶な要求をしたおれだというのに」

「そんな、悪いのはお兄ちゃんじゃなくて王様だよ! 結婚式明日やれとかわけわかんないし。横暴だよ暴君だよ邪智暴虐だよウスラトンカチだよ」

 メロスはさほど悪びれるでも焦っていいつくろうわけでもなく、すらすらとディオニス王に責任をなすりつけつつも、さも自分とて被害者だったのだよといわんばかりの立場を表明した。この場にいない王のご機嫌を取ったところで意味がなかろうと、セリヌンティウスも全くそのとおりだという顔をしている。

「じゃあ結婚式は予定どおりに九月だからね」

「おうよ」

「セリヌンティウスさんもスピーチお願いします」

「任せとけ」

「よかったよかった。じゃあ私たちは吉村さんと打合せがあるから」

 去り際、吉村はあてこすりのように慇懃無礼な体でお詫びのようなセリフを発していった。ひとまずは妹に嫌われずにすんで胸をなでおろしたメロスであったが、すぐに別の問題に気づいた。


「ううむ。予定ではおれは妹の結婚式に出ることになっていたんだがな」

 メロスは自分が妹の結婚式に参加して、酒をしこたま飲んでべろんべろんになっているページを開いて見せた。予定が狂って物語の進行を心配する気持ちよりは、酒にありつけないことに落胆しているようにも聞こえる。

「ま、それぐらいなら許容範囲ってもんさ。例えばだが、おれとお前がこの後に飯を食うとするよな。それについて『昼食を取った』とだけ書いてあったとすると、物語の主題に影響さえしなければそこで何を食おうが自由なのだ。パン食おうがトンカツ食おうがクマの右手を食おうが、そんなことは読み手が勝手に補完するなり捨て置くなりしてくれるわけだ」

「しかし、おれの場合は結婚式に出るという大義名分のもとでベラマッチャを人質に差し出したわけだから、これをうやむやにするのは主題に影響するようでまずいようにも思える」

「いつになく心配性じゃないか。お前が妹の結婚式に出るために人質を差し出すのは『メロスは妹思いの人間なのだ』ということを表現するために過ぎん。だったら、さっきのやりとりでお前がアイちゃんに甘いのは十分に伝わっているだろう。なんだったら、ここではっきり明言しちまえば紛れもあるまい」

「そんな即座的な方法が許されるのか? もっとこうなんというか、白いものを表現するのに直接白いといわないほうがなんか高尚なような……」

 浮かぬ顔をしたメロスに、ちちちとセリヌンティウスが指を振る。

「そこがセンター現代文で悪文を読ませる弊害ってやつよ。そもそもほとんどの生徒は大学に入ったらレポートやら卒論やらを書いて、卒業したら会社務めで提案書やら議事録やらを書くんだぜ。そういう文章に求められるのは無味乾燥な非情緒性さ。著者の機微やら心象を衒学的に書いたところで『あ、こいつはバカなんだな』と思われて社会の末席で娑婆ふさぎを務める人生が待っているだけだ。伝えたいことがあるならだれが読んでも全く紛れのないように平易に明々白々に書く、そういう技術が世の中の大多数の人間に求められているのだ。『ここの風景の描写が登場人物の関係を表しているのだ』だって? バカも休み休みいいやがれ。赤の他人に知らせたい大事なことなら『太郎は花子のことが好きですが、花子はそうではありません』とはっきりいってきっちり書けばいいのだ。おれたちは著者のお母さんでもなければエスパーでもないのだ。おれが思うにだね、センター現代文っていうのはありゃもうアートであって趣味の領域で……、おっといかんいかん。そんなことよりも話を進めにゃなるまい」

「おれが妹思いのやさしい兄貴ということはちゃんと伝わっているだろうか。みなさん、おれは妹のことが大好きで、それは友人の命を賭けてまで今生の別れに姿を見て言葉を交わしたいほどなんです」

「それで大丈夫だろうよ。ふむ、さて」

 セリヌンティウスは『走れメロス』のページを手繰って流し読みする。

「ざっと読んだ感じだと、お前は酒を痛飲して二日酔いの状態で十里の道のりを走ることになっているようだ」

「いまから想像しただけでもげんなりするな」

「おそらくだがここに『走れメロス』の主題が込められているような気がしてならん。二日酔いっていうのはなった人間でなけりゃわからんが、まあとにかく辛い。頭痛、吐き気、倦怠感。できることといえば、自分の際限のない愚かしさを呪うことぐらい。ところが、お前はそんな状態にもかかわらず、王のもとへと走っていくというのだから、これはすばらしいことだと思う。世の呑兵衛どもはこの目が眩まんばかりのまばゆい偉業を前にただただ面を下げてひれ伏すしかできないだろう」

「そこまでいわれるとさすがに照れるな」

「つまり、この『走れメロス』という物語は『二日酔いなにものぞ』というアルコールへの克己を訴えたいのではないだろうか。ということは、メロス、いまは妹の結婚式がどうというよりもむしろお前が大量飲酒して二日酔いになることの方が物語の展開としては重要なのだ」

「酒か! そいつは願ったりかなったりだ。最近、妹に飲み過ぎて羽目を外さないようにと常々釘を刺されているんだが、しかし主題とあってはしかたあるまい。今日はおぼれるぐらい飲んでやるよ」

「その意気だ。それで、どうせ飲むなら自腹よりもタダ酒の方がうまさは格別だ。おれにいい考えがある。歩きながら道々説明しよう」

 いままでの会話がいったいどこで行われていたのかは不明だが、場所を変えてセリヌンティウスとメロスは村役場へと向かった。


「おう、メロスじゃないか。婚姻届でも取りに来たか」

「なあに、そう遠くないうちに縁がありそうな気がしてるんだ」

 役場といってもたいした建物ではなく、村長の家の納屋を改造した粗末な造りである。数人の職員がさほど忙しくなさそうに働いていて、一番若い男が受付も兼任しているようである。せまい村のこと、無論メロスとはガキのころからの顔見知りである。

「そりゃあよかった。や、だれかと思えばセリヌンティウスじゃないか。久しぶりだな。小学校以来か?」

「そんなもんかな。なかなかこっちに帰ってくる暇がなくて」

「お前は勉強ができたもんな。いまじゃ王都のギルドで職人だなんておれらの出世頭だよ」

「うんまあ。それはさておき、村長に用があるんだけど大丈夫?」

「ちょい待ち」

 受付の男は一旦奥に下がると、その場でもっとも年長とおぼしき職員に何かを確かめたようであった。

「いけるいける、大丈夫みたい。村長の居場所分かる? 出て右に行ってすぐのところ」

 この時代のこれぐらいの規模の村に役場があるのか、また、仮にあったとしてそこで具体的に日常的にどのような仕事をしているのか。セリヌンテウィスはやや近視であり、受付の位置からはいまひとつ職員らの仕事の有様がよく見えなかっために詳細な描写は不可能であったのだが、とまれ、メロスとセリヌンティウスは村長の谷口を訪ねた。

「どしたい、メロス君。わしのところを訪ねるなんて珍しいじゃないか。アイ君の結婚式の打合せか何かかね」

 村長室は谷口の家の一部を改造した六畳の簡素な造作で、応接机に椅子が四脚、それに本棚があるだけの部屋だった。

「近くまで寄ったものですからご機嫌伺いにでもと思いまして」

 谷口は世間一般における全首長にわたる平均のような年齢と風貌の男だった。もちろんのことメロスの性格やら好きな食べ物、嫌いな食べ物まで知り尽くしている。

「ははあ、さてはお見合いの相談だな。まあ考えておこう。そちらの君は……、そうか、セリヌンティウス君じゃないか。いや、懐かしい。最後見たときはこんな小さかったのにな。わはははは」

 谷口は指先で米粒をつまむような仕草をして、それから独りでうれしそうに笑った。これは彼のお気に入りの冗談の一つであるが、まだ人生での修練が十分ではない若人であるメロスとセリヌンティウスは、ただただ苦笑いを浮かべることしかできない。

「村長さん。今日お伺いしたのはメロスの嫁探しではなく、地域振興と雇用創出のためのご提案をお持ちするためです」

 谷口がひとしきり笑い終わったところで、セリヌンティウスが如才ない態度で話を切り出す。

「なんと、この村にそんなもんがあったか。油田でも見つかったのかね。あるいはベンチャー企業を立ち上げるとか」

 谷口は驚きと関心が入り混じってまなざしでメロスとセリヌンティウスを見つめている。おもむろにセリヌンティウスはいつの間にか作成していた資料と名刺を机の上に出した。名刺にはセリヌンティウスが所属している職人ギルドのアイコンである定規とコンパスをモチーフにしたシンボルマークが載っている。見る人が見ればそれだけで畏敬と羨望の目を向けるのだが、あいにくと谷口にはあまりぴんと来ない様子である。

「いえ、そういうものではありません。観光名所を創設しようと思います」

「ふうむ。わしの口からいうのもなんだが、この村によそからわざわざ見に来るようなものなんてあったかいのう」

「確かにいまはまだないかもしれません。創るのですよ、これから」

 セリヌンティウスが資料を手渡すと、谷口は「こりゃまたちっこい字じゃ」と小さくぼやいてから、顔を近づけ遠ざけしながら内容をあらためた。

「ふむふむ……。するとなんじゃ、メロス君はどえらい有名人になるってわけか」

「ええ。私の試算によればビリー・ザ・キッドかジェシー・ザ・スミスぐらいには有名になるはずです。それに経済効果もこれ、このとおり」

「おれに任せてください」

 セリヌンティウスは資料をめくって様々なグラフを谷口に提示した。よくはわからぬが何か大きな金が動きそうではあることは確からしい。

「この村からシラクスまでの道をメロス・ロードと名づけて、沿道には石碑や土産物店を設置します。村にはメロスの銅像を立てますし、メロスの実家もメロス生誕の地としていい観光ルートになるでしょう。石碑に記す文言ももう考えているんですよ。ちょっと見てください」


-----8<----- キリトリセン -----8<-----

王の道(ロード・オブ・ザ・キング)


根は金である輝かない

すべてのそれらは火散歩が誰で深いかである

古さそれは、失われるそのしぼみを更新し、しない

それにはライトが達しない

灰から、また、aは起こされることとする

A the すべての春からの霜

し影ブレード 壊された 、することとする

王冠なしのThe beは、強くである王するようにしよう

-----8<----- キリトリセン -----8<-----


「わしにはさっぱりわからんが、たぶんいい詩なんだろうな、これは」

 谷口は首をかしげながら年長者としてややひかえめな意見を述べる。

「もちろんです。王のもとへと走る、走り屋メロスの面目躍如といった意味を込めています」

 セリヌンティウス自身、この詩が何を意味しているのかさっぱりわからんかったのだが、こんなもんまともに読むやつなどいないと思いながらしれっとしたものである。

「そういうわけで、観光地として必要な建物だとか団体だとかを新たに作る必要があります。善は急げです。詰められるところから詰めていきましょう。さっそくですが関係各所と食事でもしながら、ええ、ちょうど夕食どきですから」

 セリヌンティウスが意味ありげに目配せすると、委細承知といった観で谷口がうなずく。

「これほど大きな案件だ。わしも多面的な意見を聞かんといかんだろう。いろいろな業者に声をかけてみよう。君たちは公民館で役場の職員たちと待っときなさい。小一時間もすればわしらも合流する」

 そういうと、村長は一応は余所行きらしい一張羅に着替えてあたふたとどこかへ出かけていった。メロスとセリヌンティウスはいわれたとおりに職員らと村の公民館へと向かった。

「いやあ、役場に勤めて五年になるけど接待なんて初めてですよ」

 もっとも若輩の職員はこみ上げる笑いをとどめられないといった風情で満面の笑みを浮かべている。

「おいおい、うちらは公務員なんだから接待なんてご法度だよ。セリヌンティウスさんから提案していただいた案件について、関係者と勉強会を開くんだから」

 孫がいてもおかしくなさそうな風貌の職員は形ばかりの注意をしたが、その職員もうれしくて顔のしわじわにまでうれしさがにじみでているかのようである。

 メロスらは折り畳み式の長机と座布団を並べて村長の谷口がやってくるのを待った。机には申し訳程度にA4一枚の資料が並べられているが、だれも読もうとはしないし、ハナからまともなことなど何も書いていない。「降れば土砂降り漕ぎ出せばいつも向かい風」とか無意味な文章が空白を埋めているだけである。


 暇つぶしに始めた眠っている牛の効率的な転がし方についての議論が思いのほか盛り上がったところで谷口が公民館に到着した。

「やあ、お待たせしてしまったかな」

 谷口を先頭にぞろぞろと十人前後の人間が入ってきた。谷口のすぐ隣を歩いているのは商工会議所の会長の丸井という男で、彼は谷口の幼馴染である。丸井自身はとっくに隠居生活に入っていて名ばかりの会長職を務めている。村の商工業には全くといっていいほど利害関係を持たず、したがって、今回この場に現れたのは散歩中にたまたま谷口に遭遇して声をかけられて着いてきただけのようである。

「うれしいねえ、若い人が村を盛り上げてくれるっていうのは」

 丸井は自分の家の茶の間でくつろぐように重い腰を下ろすと、各自に配られた熱々のおしぼりにいっとき顔をうずめて、温泉にでもつかったかのようなうなり声を上げた。

「えー、本日は皆様お忙しい中を急な申し出にもかかわらずお集まりいただきごにょごにょぶらぶら」

 机の上に仕出し料理の数々が並べられると、谷口が毒にも薬にもならないあいさつをした。話している本人ですら真面目に内容を聞いていないのだが、この儀式をしなければ縁もゆかりもないいい大人がなんの理由もなく集まって食事をするという不可解極まりない出来事になってしまう。

「――というわけであります。では村の未来と発展に、乾杯!」

 隣同士でコンコンとグラスを当て合う音が鳴る。ほとんどの参加者は一口か半分程度しか飲んでいないところ、我らがメロスは早くもグラスを空にして、間髪を入れずに手酌で二杯目を注ぎ頼もしい限りである。

 うまい料理にのんきに舌鼓を打つメロスとセリヌンティウス、それから谷口と丸井を筆頭とする役場のメンバーとは対照的に、ほかの参加者らの間にはお愛想笑いを浮かべた顔の裏で暗中模索に疑心暗鬼、我田引水と権謀術数が渦巻いている。すなわち、だれに名前を売ってだれのご機嫌を取ってだれから情報を引き出せばいいのか、これがわからないのである。


 戸塚工務店営業一課の宮田はわきの下に悪い汗が流れることを感じていた。顔色も良くない。入社して二年目。単独でやる仕事といえばあいさつ回りとパンフレットの配布ぐらいで、まだまだ上司や先輩と一緒に行動することが多かった。

 ほんの一時間ほど前である。宮田が社内向けの資料を一人残業してぼちぼち作成していると、何の前触れもなく村長が現れた。

「お、人がいた。宮田君じゃないか。こんな時間まで精が出るね。手が空きそうなら一緒にご飯でもどうだろう」

 いままでに村長からそんなことをいわれたことがなかったことに若干の疑問がないわけではなかったが、さほど急ぐ仕事でもなかったため、一食分浮いたぐらいの気持ちで村長に着いて行った。

 道々歩きながら、村長は「今度こういう施設を作ろうと思ってるんだが業者を選ぶのに迷っててな」なんてことを明日の天気のように話し始めた瞬間、宮田は自分の頭がうろにでもなったかのようであった。

 会社にとっては宮田が残っていたことは幸運だったのだろうが、宮田個人にとっては大きな不幸であった。

「失礼、ちょっとトイレに」

 宮田はその場を離れると狼狽を極めた口調で部長に電話で指示を求めた。

「そら君ぃ、君がやらなあかんがな。いまからほかのもん呼んでも間に合わんし。宮田君も何度かは接待に同席したことぐらいはあるやろ」

 部長の声は励ましているような叱責しているような調子である。

「はあ。あるにはありますが……」

「なんや元気ないな。あかんがな、営業はいつでも笑顔で元気良くしとかな」

 宮田は、たまに会社で見かけるたびに堂々としている営業部長の姿を想像しながら通話をしていたが、電話越しに伝わってくる部長の声からは歯がゆがるようなやきもきしているようなわずかな焦燥を感じられた。そのことがまた宮田に心理的負荷を迫るのであった。

「村長さん待たしとんやろ。君も覚悟決めえや」

「あの、何かコツといいますかノウハウをお教えいただければ」

「接待の次の日は這ってでも会社を休むな」

「は?」

「わしが若いころに耳が酸っぱくなるまで聞かされた言葉や。意味はそのまんまやで。宮田君、君も明日は会社休んじゃあかんよ。じゃあがんばりや」

 電話は切れた。急にひどい胸焼けを感じて、これが胃酸過多というやつかと思って気が滅入った。宮田は水をがぶがぶ飲んで顔をざばざば洗って、なんとか闘志を燃やして空元気を出そうとしたのであった。


 宮田は料理に手をつけず浮かない顔で考えていた。やはり村長に話を聞いてみるべきなのだろうか。しかし、今回の計画を発案したのはセリヌンティウスのようであるし、実質的に内容を詰めるのは彼の仕事のはずである。であれば、そこでセリヌンティウスのおぼえを良くしておけば、入札の仕様書などで多少は我が社に配慮をしてくれるかもしれない。あるいはまた、計画のかなめであるメロスをないがしろにするわけにもいかない。メロスが事務処理にかかわることはないだろうが、彼はセリヌンティウスとも仲が良いようであるから、にらまれてしまえばひとたまりもない。はたまた役場の職員だろうか。女房と事務とは喧嘩をするなとはうちの部長の処世術であるらしい。セリヌンティウスが実質的な作業をするとはいえ、最終的な村長の形式的な承諾はともかく具体的に書類を決裁するのは役場の職員であるから、彼らの信頼を得ておかなければ仕事にならない。

 唇を濡らす程度にコップに口をつけることばかり繰り返しながら、宮田は周囲の人間を必死に観察する。いまのところ村長陣営に接触している業者陣営のものはいない。とはいえ、宮田の隣の業者も仕出し料理をぱくぱく食べているが、実際のところ腹の中では何を考えているかわかったものではない。

 よし、まずは村長にあいさつをして名刺を渡しておこう。堂々巡りの逡巡の末、宮田はようやく心を決めた。この場で名目とはいえ実際に一番偉いのは村長であることは間違いないのであるから、最初に村長にあいさつをしてもだれも頭ごなしに話を通しやがってと怒るはずはあるまい。

 そう考えて立ち上がろうとしたとき、いつの間にか村長の周囲には二人のどこかの業者の営業がまとわりついた。全力の笑顔で上体をのけぞらんばかりに動かしながら村長と談笑をしていた。しかたなく商工会議所会長にでもついて村長の体が空くのを待つかと思ったその瞬間、煙のように会長のもとにほかの営業が擦り寄っていった。まるで気配を感じさせぬ名人芸を見たようである。

 となれば、セリヌンティウスかメロスか職員か。幸い、彼らにはまだ接触している営業はないようである。しかし、まずは村長に話を通しておかねば、村長がそういうことを気にする人間なのかどうかすら把握していないのだが、彼をことさらに軽んじているように受け取られやしないだろうか。

 村長ははべらした営業のものと熱心に俳句の話をしているようである。宮田は俳句の良し悪しなどまるでわからぬし、短歌や川柳との違いすらあやしい。したがって、彼らの会話の内容に割り込むきっかけすらつかみかねる。

 宮田の隣の男は相変わらず旺盛な食欲を見せていて完食間近である。いまは好きで残していたのか忘れていたのかそれほど好きでもないのか判然としないぬるくなった茶碗蒸しに取りかかろうとしていた。

「それにしても急な話でしたね」

 時間つぶしと情報収集をかねて、宮田は隣の男に話しかけてみた。同業であればライバルということなのだろうが、なんであれ他社とは友好的な関係を築くようにとの教えを受けていたので、名刺ぐらいは交換しておこうと考えたのである。話しかけられることを全く想像していなかったらしい男は動きをぴたりと止めて、驚愕の瞠目で宮田を見返した。

「兄さん、おいにゃなんのこっかわけがわからんがよ」

 男は宮田の想定からはいくらか外れた反応を示した。

「こんな村に観光施設なんか造って大丈夫かってことですか。それは私も同感です」

「うんにゃ。ちご」

「でしたら、メロスとやらがそんなたいそうな男には見えないと。ごもっともです」

「うんにゃ。そいもちご」

 何かやりづらいなと思いながらも宮田は男にビールを注ぎながら続きをうながした。

「兄さん、おいはこんな成りしてるけども大工だがよ。まだ見習いじゃけど。今日も親方と一緒に家のこしらえしてきてよ。じゃっど、仕事がはねて風呂でも浴びようかと銭湯に向かっとったら村長さんがおいに話しかけてきて、気づけばこんな妙ちくりんな格好で、この服は動きづれえし何よりこん首に巻きついた紐が息苦しくて好かん、見たこともねえご馳走いただくことになっちまってもうわけがわからん」

「個人でされてらっしゃるんですか。ですがまあ今回の案件は規模が大きそうですし、お力を貸していただくということもあるかと思いますよ」

 依然として男は先ほど食べた料理も腑に落ちぬといった顔つきをしている。

「ううん、おいは頭が悪(わ)いから自分がいま感じとることをうまく言葉に表せんけど、キツネにつままれたような頭にフーセンが咲いたような、とにかく自分が自分でないみたいな気分だがよ」

「飲み過ぎましたか」

「じゃいかもしれん。じゃっど、おいはこんぐらいじゃいつもは酔わんと。それに意識もしっかりしとる。わからん。ちょっと外で風に当たってくっがよ」

 男は所在なげな足取りで外に出て行った。最後まで会話に手ごたえを感じられず、宮田はしばし呆然として、しかたなく瓶に残るぬるくなったビールを手酌であおった。手先を眺めてみたがいたって普通で酔いは感じない。いつだっておれはおれだ、と思う。

 村長たちの俳句談義はまだまだ尽きないようでなかなか接触の機会が見当たらない。かといって、このままぼんやり過ごしてご飯を食べただけで帰ってきましたと報告すれば、会社でどやされるのは目に見えている。しかたなく、役場の職員に一通り顔を見せて名刺を配った。

「ほう、戸塚工務店さん。おたくは和田さんが長いこと担当やってませんでしたっけ」

「和田は少し前から部長になりまして、なかなか現場の方には」

「それは結構なことです。宮田さんがこれからはうちの担当を?」

「今日は都合がついたのがたまたま私だけでして。近いうちに改めてごあいさつに参らせていただきます」

「へえ、宮田さんはまだ二十代ですか。うちの息子とタメだ」

 しかしまあつまらん会話だと内心毒づきながらも職員たちから名刺を頂戴した。

「今回の件は村長の肝いりということでしょうか」

 お酌をしながらそれとなく探りを入れてみる。

「そういうわけでもないんですがねえ」

 役場の職員は少しいじわるをするようにそらとぼけてみせる。もう一杯どうですかと宮田が酌を進めると、ままま、宮田さんもどうですかと職員がめいめい勝手にグラスにビールを注いできた。この場で最年少の自分が酒宴でおもちゃにされるのは慣れたことだと宮田は腹をくくって、注がれる都度にグラスを空にした。強い肝臓に生んでくれた両親に感謝である。

「ええい、しゃらくさい。おい、宮田! そんなに気になるのならセリヌンティウスに直接聞け。今度の案件を掌握しているのはこの男だ」

 突如としてメロスが大声で宮田を呼びつけた。宮田はいやあどうもとお追従笑いを浮かべながらビール片手にメロスとセリヌンティウスにはさまれるようにして腰を下ろした。

「いやあどうも、私こういうものでして……」

 宮田は名刺を取り出してメロスとセリヌンティウスに差し出す。メロスは「宮田なにがし君か!」とフルネームで呼んで肩を組んできた。セリヌンティウスは「これはこれは」と受け取ると、「まあ私もそうたいした人間ではないんですが今回たまたまこういうことになりましてね」などとつぶやきながら、遠慮しているようなもったいぶっているような手つきで自分の名刺をお返しした。

「ま、一応、こういうものです、私は」

「へえ、セリヌンティウスさんはあの職人ギルドの方で!」

 セリヌンティウスの名刺を受け取った宮田は、名刺に彼が所属するギルドのアイコンがしたためられていることを目ざとく見つけると、半ばは世辞で、半ばは本心から驚きと羨望の声を上げた。セリヌンティウスはばつが悪そうに「一応ね、一応」と何かを打ち消すような素振りで手を振ったが、もちろん内心では喜色満面の得意顔で「ザマアミロ!」とほえている。何に対するザマアミロなのかは定かではないが、生徒、学生時代の何かに対するザマアミロではないかと推測される。

「メロスさん、セリヌンティウスさん、それで今回はどういったお話で」

 ビールを傾けながら宮田が尋ねる。同席しているほかの業者らは、現在の会話にいかにも没頭しているように振る舞いながらも、達人的な技術で注意と聴覚をメロスたちへと向けている。

「身もふたもないことをいうとですね、実際には一生何も造りませんしあなたがたが受注にこぎつけるってことも、まあないでしょう」

 セリヌンティウスの発言に場が凍りついたが、メロスとセリヌンティスはそんな雰囲気などどこ吹く風で平然としている。

「えっ、えっ、というのはまだ計画段階にあるとか既に業者の選定が終わっていて私たちは当て馬とかそういう」

 うろたえた口調ながらも宮田はセリヌンティウスの暴言をいいつくろうように言葉を継いできた。意味がわかってるのかわかっていないのか、もう一人の当事者であるメロスはわけ知り顔でうなずいている。村長たちはというとこれはもう全くメロスたちのやりとりなど気にせず、集まった数人で俳句披露会をたのしんでいる。


 痔になって初めてわかる体かな


「いやさすが。すばらしい句で」

「うむ、これは痔が冬の季語なんだよね。私が冬に痔の手術をしたことがあるから」

「ごもっとも」

 自分たちの一挙一動に耳目が集まっているのは重々承知しながら、セリヌンティウスはすぐにはしゃべらずにわざとらしく刺身を一切れ口に入れ、悠長に咀嚼してからおもむろに話し始めた。

「まま、宮田さん、落ち着きなさい。あなたのおっしゃるようなことではないし、ましてや補助金だとかを掠め取ろうという反社会的な話でもない。つまりですね、観光名所を造る計画や進行としてはれっきとしたものがあるが、それが完成に至るところを我々が目にすることはないわけです。」

 あいかわらずメロスは「左様である」といった顔でうなずいているが、これは単に酔っ払った頭を振ったらなんかたのしいからやっているだけであるから気にしなくてもよい。

「ええ、それは工事が完了しないとかそういう……」

「違う違う。そういうことは書かれない、書かれないから事象として発生しない、そういうわけです。なんとなれば、この飲み会というのはメロスが二日酔いになるのが目的であって、それ以外のことは本筋ではないから顛末などだれも気にしない」

「ううん……、私にはいまひとつセリヌンティウスさんのおっしゃる意味が把握いたしかねるところなのですが」

 宮田は弱々しげな笑顔を作りながら、心の中ではインテリの考えることはわけがわからんと愚痴をこぼしながらも、セリヌンティウスにおもねった。

「宮田さん、あなたはこの接待をうまくやらねば会社に戻って上司にしかられることが気がかりでしょう。いやいや、ごまかさなくたっていい。そりゃあもちろん、会社の利益とかそういうことだって考えてるかもしれんけど、当面の懸案はそれだ。しかし心配ご無用。あなたが上司にしかられるなんてことは絶対に起こり得ない。なぜなら私らはそんな描写なんぞさらさら興味がないから」

「でも、セリヌンティウスさんたちの興味云々はともかく、私としてはある程度の情報は持ち帰らなければ無駄飯を食ってきたのかと上司にどやされてしまいますよ」

 黙って頭を振っていたメロスがやおら立ち上がると厠に向かった。彼は酒を飲むとやたらと小用を足すのだ。それには構わず、セリヌンティウスは身振り手振りを交えて説明を始めた。

「ふむ、こう考えてみてください。坂道にボールを置いたとしましょう。どうなると思いますか」

 説明されているのか煙にまかれているのか試されているのか判然としないまま、宮田はこのインテリ野郎の迂遠な話には何か罠でもあるのかと慎重に裏読みしようとしたが結局は素直に答えた。

「はあ、転がるんじゃないんですか、やっぱり」

「そうですね、普通は転がっていきますよね。太陽は東から昇って水は低い方へと流れる。森羅万象、当たり前のことです。ところが、当たり前のことが当たり前に起きる、常識と当然の垂れ流し、そんなものを読んでもだれもたのしいわけがない。坂道をボールが逆走したらどうですか。お、なんか変なことが起きてるな、なんでだろう、不思議だな、といった具合ですよ。ですから宮田さん、あなたがここでいかにも上司に叱責されそうな行為を実行したとしても、それで安直に叱責されるかという疑問があるわけです。しかられそうなことをしたのに、なぜだか万事うまく運んで上司に褒められる、その中における話の流れを作る仕掛けやからくり、そういうものが娯楽なのです。思い切って村長をぶん殴ってみたらどうですか。案外、契約につながるかもしれませんよ」

 セリヌンティウスはよどまず少しばかり早口でしゃべっているが、口調や目つきにからかいの色は感じられないない。彼は正気でそんなことを話しているようである。宮田は肯定も否定もせず、率直にいってこいつは何をいってるんだと思いながら反応に困って当惑しきりである。

「ま、そんなことよりも、そもそもの話としては、さっきもいいましたけど観光施設についての描写は基本的にはこの飲み会で終わりで、そこから先の世界はありません。人はいろいろ勝手に想像するかもしれません、『この宮田というやつはこんなことをやらかして社会的に死ぬんじゃないか』とかね」

「まさか。私は村長をぶん殴ったりはしませんよ」

 宮田は大げさに手を振って否定の意を示す。

「どうなることやら。ま、もう一つ大事なことを付け加えておくと、宮田さんはいまこの時間を未来永劫、永遠に繰り返すのですからなるたけたのしんだ方がいいですよ」

 しゃべりたいことは一通り出し切ったのか、セリヌンティウスは再び食事に手をつけ始めた。単に食事を摂っているだけのこと、選良を鼻にかけているとか他人を見下しているだとかいった態度を出しているわけでもないのだが、どうにも話しかけづらい雰囲気である。強いていうなら、このにぎやかな宴会のさなかにありながら、気配を絶って隠れているようでもある。一朝一夕にはこの所作は身につくまい。

「よおう、えむっち。飲んでるかね!」

 途方にくれようとしたところで、厠から戻ってきたメロスが異常な陽気で肩を組んできた。用足しの短い間に思うところあったのか、宮田のことを「えむっち」と呼ぶようにしたようである。セリヌンティウスとはまた異なる路線でメロスも距離感がつかみづらい。

「はあ、おかげさまで」

「結構、結構。おれはいまでこそ羊飼いなんだがね別に羊飼いが嫌いとか軽んじてるってわけじゃあないがおれは子供のころはプログラマーになりたくてゲームとか作りたかった羊飼いというのはちょっと違うそんなことはどうでもいい近いうちにどでかいことをやって犯罪とかそういうことじゃあないが期待しておいてくれたまえどんなことかっていうとあまり気安く詳細をしゃべっちまうのも無粋ってもんだがほかならぬえむっちには教えてやろう」

 メロスは栓の抜けたバケツのようにしゃべり始めた。ところどころで独りでに笑い出したり、声が大きくなったり小さくなったり、溝のおかしくなったレコードのように同じ話の頭を繰り返したりしたが、どうにか宮田は話を理解しようと努力した。

「おれは自分とこの商品には手をつけないから聞いた話だが羊の具合っていうのはいいらしいな」

 宮田は目が点になった。隣で話を聞いていたセリヌンティウスはウーロン茶を噴き出した。

「お前、サイテーだな」

 言葉とは裏腹に、セリヌンティウスは心底うれしそうである。宮田は何かうまい返しをしようと努力したのだが何も思いつかず、ただただ情けない作り笑顔をさらすのが精一杯である。

「こう、二畳ぐらいの個室を作ってそこに羊と一時間ぐらい同室するわけだ。羊と戯れて身も心もリフレッシュしてもらおうというわけだ」

「羊はふかふかしてるもんな」

「そういうことだ。そりゃあ、いい大人一人と一匹が密室で一時間まんじりともせず過ごすわけだから何かは起こるかもしらんがそこは大人同士が自らの意思と責任でやることだからはたがとやかくいうもんでもないわけだ」

「入れたり出したりな」

 セリヌンティウスが名調子で合いの手を入れる。

「そうそう。小屋からメェーメェーなんて鳴き声が聞こえるかもしらんがそれは当方が関与することではない。それでおれはこれにシープランドという名前をつけようかと思う」

「ウール100パーセントなわけだ」

「もちろんだ」

 馬鹿馬鹿しい話で哄笑を上げる二人の間に入るには酔いが足らぬと考え、宮田はビールを腹に流し込んで頭にアルコールを染み込ませた。

「お、えむっち、いい飲みっぷりじゃないか。おれも飲むからどんどんいこうどんどん」

「ありがとうございます。メロスさん、店開いたらぼくも呼んでくださいよ」

「おうよ、毛づやのいいやつをそろえておくよ」

 宮田のそこから先の記憶は暗く断片的である。真っ暗な回想の中から飛び飛びに光景や周囲のセリフが浮かび上がるが実際の体験なのか、実際の体験にしても今日の出来事なのか、単なる想像の産物なのか区別がつかない。

 ともかく、午前二時に自分の部屋の布団の上で目が覚めた。ひどく気分が悪いが喉や口の感じからは吐いてはいないようである。

 メロスと日本酒の飲み合いをしたあたりから先の記憶がない。漠然とたのしかったような気はするのだが、暴言を吐いたり、村長を殴ったりしていないかが心配である。あの後、メロスとセリヌンティウスに連れられて二次会にどこかの居酒屋に入った光景が静止画としてはあるのだが、連続した行為としては思い出せない。そこから記憶の針は飛んで、タクシーの後部座席に寝かされてセリヌンティウスに自宅の場所を尋ねられた記憶がよみがえる。

 ただただ、自己嫌悪の念しか浮かばない。酒の飲み方も知らぬ若者がはしゃいでいたとたわいもない笑い話として忘れてくれることを願うばかりである。


 メロスとセリヌンティウスは酔いつぶれた宮田を送ってから、更にもう一軒ぐらいと夜の街をさまよっていた。前の店ではセリヌンティウスも飲んでほろ酔い気分になっていた。公民館でビールを口にしなかったのは彼が下戸というわけではなく、単にぬるいビールを飲みたくなかっただけなのである。メロスとはというとこれはもうぐりゃふにゃになるまで酔っ払っている。

 千鳥足でふらつくメロスに任せるまま歩いていると、普段の生活であまり足を踏み入れたことのない方面に来たのか、辺りの景色がひどく新奇に感じられた。とはいえ、酒に酔えば見知った自室ですら物の輪郭はむやみにキラキラと光り、色彩は波打って、夢か現かといった感覚になるのだから、いわんや夜の街をや。

「どうも、まだやっていますか」

 不意にメロスがしょんべんをしたいと急かしてきたため、手っ取り早く近くのバーとおぼしき店に入った。

「はい。おや、お連れさんは随分飲んでらっしゃるようですが」

 店にはほかに客はいなかった。扉一枚隔てただけで、それまで感じられた夜の街とたむろする人々からの危うい熱気や猥雑さがすっかり消えていた。

「や、大丈夫大丈夫。こいつは陽気な酒だから」

「はあ。まあ見てのとおりほかにお客さんもおりませんのでどうぞ」

「しっこ」

「お手洗いはそちらの奥です」

 酔ったときのメロスのトイレはしばしば小用でも長い。彼は酔うと尿が近くなるにもかかわらず、尿が出づらくなるそうで難儀な体質である。メロスがトイレにこもっている間、セリヌンティウスは適当に柑橘系の入ったカクテルあたりを注文して、お通しらしきクラッカーをぼんやりかじったりした。

「なかなかいい雰囲気の店だね。なんというかキャンプのテントの中みたいな趣がある」

「ありがとうございます」

 退屈しのぎにマスターに話しかけてみたが、おしゃべりが好きなたちではないらしく手短な返答のみである。もっとも、セリヌンティウス自身も泥酔でもしていない限りは見知らぬ人間と当たり障りのない会話をさぐりさぐり交わすのが好きなわけではないのだが。

 二杯目を頼もうかどうか迷っているとようやくメロスが戻ってきた。メニューに目を落としたが既にろくに文字を読めない域に達しているらしく、マスターに「なんか甘いやつ」といい加減な注文を飛ばして、セリヌンティウスに「酒飲むとデザート的なもの食べたくなる」と甘いものを頼んだことに対する照れ隠しと言い訳らしきことを口にした。

「マスター、トイレに劇団のビラがいろいろ貼ってあるのは趣味なのか」

 メロスはカウンターに立て肘で上体を支えるような姿勢でゆらゆらしている。

「ええまあ、そういうものです」

 メロスに頼まれた何かのカクテルを作りながらマスターは返事をする。

「なるほど。いや、おれは劇団とか舞台とか見に行ったことはないのだがおもしろそうだなとは思っていてね」

「いいものですよ。テレビや映画とはまた違った味わいがありますから」

 何かいろいろと話したそうな気配があり、その手の薀蓄でも話すのかと思ったが、マスターはそこから先は言葉を継がなかった。

 温かい料理を一品だけ頼み、酒をちびちびやりながら、またぞろメロスとセリヌンティウスはしょうもない話を繰り返した。

「さすがにそろそろ帰るか。明日は早くはないが仕事がある」

 セリヌンティウスが重い腰を上げた。

「そりゃ大変だ。とはいえ、おれも明日はマラソンだ」

 メロスもふらりと立ち上がった。幾分酔いはさめているようだが、その分、うっすらとした気持ちの悪さを感じているようである。

「いい店だったよ。機会があればまた来る」

「ありがとうございます。ですが、あいにくと今月一杯で店をたたむ予定でして」

 平日の遅い時間のためにほかに客がいなかっただけで、店の様子、清潔さや料理等の感触からはそれなりには繁盛しているようにセリヌンティウスには感じられたので意外であった。

「それは残念だ。客商売というのは大変ですからね」

「ああいえ、別に閑古鳥が鳴いてたわけではないんです。歳でしょうか、なんとなく辛くなりましてね。長くとどまりすぎたのかもしれません。田舎にでも帰って土いじりでもして暮らそうかと」

 メロスとセリヌンティスが店を出ると看板を下ろし、マスターは酔えない酒を独りで飲みながらのろのろと朝まで過ごした。


 ウスラトンカチことディオニス王は、朝食もろくに口にできないまま重臣らと東の隣国に係る対策会議に頭を悩ませていた。主にやる気のなさを原因として、王とメロスとの遭遇から実時間において二年もの月日が流れていた。その間に、構想やら設定やら隣国との状況とやらも変化して、ディオニス王の国と東の国との関係は喫緊の状態に陥っていた。

「遅かれ早かれ、こうなっていたのだ。これは東の国との決着をつける良い機会ではないか」

「そこもとは東の国の力を見誤っておるからそんなことをいうのだ。いいや、我が国がやつらに劣るとはいわんが、楽勝できる相手とも思えん。多くの血が流れる」

「情報が足らぬよ。もう少し様子を見ねばなるまい」

「何を悠長なことを。明日にもやつらは大挙して攻め入ってくるぞ」

「東の国とて馬鹿ではあるまい。血が流れるのは向こうも同じであろう。今回の一件は単なる脅しに過ぎん、下手な外交よ」

 喧々囂々の様相を呈するも議論はいっこう前に進まない。表向きはみなもっともらしいことを並び立てているが、その実、各々の一派に有利な案を画策していたり、無理にでも功を成そうと過激で拙速な意見を押し出している。

 そのうち、椅子から立ち上がり、指差し、大声を出して、議題そっちのけで個人的な罵倒の応酬が始まる。こうなると時間と労力を無駄にするばかりである。

「しばしの休憩とする」

 憤りと情けなさに耐えかねて王は席を立った。部屋には気まずい沈黙が訪れる。会議に参加している重臣らは厳しい試験を合格してきた選良ぞろいのはずなのだが、王からすればみな物足らない。歳が若いことを差し引いても貫禄がまるで足らない。小物ばかりである。

 王が信用していた寵臣や側近どもはいつのまにか王のもとから去っていた。そうしたことに全く心当たりがない。王は雲を踏むようなうつろな足取りで廊下をさまよいながら、在りし日に思いを寄せていた。フォン・ハルシュタイン侯、あれは外交の天才だった。おれの親父の代から仕えていた、やつこそ臣下の中の臣下であった。あれに任せていれば周辺諸国との関係はなんの心配もなかった。しかし病気で死んでしまったらしい。アカバー・イバルディ将軍、十の戦に立ち無傷だったことから十全将軍と呼ばれたやつは国外追放になったと聞く。理由は不明。アレキス・アレクサンダーは王政の事務に関して、外壁に使われたレンガ一個の価格まで即答できるほど、あまねくすべてを掌握していた。やつに任せれば外交文書、檄文、勅令、どんな文章だって間違いのないものに仕上がっていた。だがやつも処刑されてしまった。長年にわたって税を不正に私していたというのだが、おれにはいまもってやつがそんなことをしていたとは信じられぬ。その他、長年にわたっておれを支えてきてくれた、おれがやることは首を縦か横に振ることと、書類に署名をすることだけで、家臣たちはそっくりいなくなってしまった。残ったり、替わりにやってきたやつらの程度はたかが知れている。

 人気のない部屋に入って腰を下ろして目を閉じると深いため息が出て、緊張がゆるんだせいか疲労が濡れた布のように体に覆いかぶさってきた。このまま眠り込んで、目が覚めたら何もかもが解決していればどれほど楽なことか。まさしく夢のようなことを一瞬想像して、すぐに我に返ると気が沈んだ。

 そもそもの始まりは三年ほど前にさかのぼる。歴史的な経緯から東の国との関係は良好とはいえない情勢が続いていたのだが、最近では小競り合いにもお互い厭気がさしていた。国交を断絶しているとほかの国々への旅行や交易にも何かと不便であり、内心では互いに歩み寄る時機をうかがっていた。

 そうした気配をいち早く感じ取ったフォン・ハルシュタインは東の国の外交担当と私的、公的に話合いを重ねて、ついに両国間で国交を開始するに至った。

 とはいえ、長年にわたる緊張した関係のため、いきなり何もかもが許し合えるというわけにはいかず、「両国の友好を期して」という名目で互いに相手の国へ大使を駐在させる取り交わしが行われた。もちろん現実には人質のようなものであった。

 大使として、こちらからは王族の中からなるたけ人畜無害な、さしてはたらきがいいわけでもないが騒ぎも起こさないような人間を送った。

 東の国からは、東の国の王の歳の離れた弟というやつが送られてきた。明るく華やいだ雰囲気の男だった。頭から爪先まで、生まれてから今日まで日の当たる道だけを歩いてきたことを感じさせた。赴任した日のスピーチで、

「私もまた一人のシラクス市民です」

との言葉でしめくくり喝采を浴びた。東の国の人間ということで不信と値踏みするような目つきで集まっていた人々の心をたちまち氷解させた。

 東の国からやってきた男はだれからも好感を持たれる人たらしであった。公務で出かけるたびに人々から声援を受けた。敵対していた国の人間からそれだけ好かれるほどであったのだから、祖国ではもっと愛されていた人物であったのは想像に難くない。

 その大使が、先月死んだ。

 朝食の時間になっても食堂にやってこなかったため、従者が部屋まで呼びに行ったが不在であった。ベッドの様子からすると前の晩はここで寝なかったようである。胸騒ぎをおぼえながらみなで周辺を探したところ、井戸に頭から突っ込んだ状態で発見された。

 東の国の大使の死亡までの行動を調査したところ、前の晩に行われていたパーティーで随分と酔っ払っていたことが多くの人間に目撃されていた。ただ、大使は酒が許される場ではたびたびそういうことがあり、暴力沙汰や色事で問題を起こすこともなかったため、だれも特別の注意を向けるということはなかった。

 会場からお見送りした人間の話によれば、その日も普段どおりの足取りで帰路についていたとのことであった。

 遺書などは見つからず、争った形跡も見当たらなかった。水を飲もうとして誤って転落した――。それが当局の出した結論であった。

 遺体を東の国に送り。事態を慎重に報告して、哀悼の辞を送った。

 しかし、東の国の王は烈火のごとく怒った。謀殺されたと決めつけて聞く耳を持たない。

 思えば、このころから政治に細かいあらが目立つようになっていた。フォン・ハルシュタインはこの半年ほど前から病気を理由に自宅にこもりっきりで、アレキスは少し前に当局に拘引されて身動きできない状態になっていた。もし彼らが健在であれば、この一件もこれほどにはこじれなかったのではないかとディオニス王は考えていた。だがもはや手遅れである。

 間もなく東の国からこちらの国の大使が送り返されてきた。大使の頭と胴体はつながった状態で帰ってきた。口には出せねど、王は「こいつが処刑されていれば手打ちにする口実もあったものを」と残念がった。こちらの国の大使が五体満足で戻されたことが、東の国の冷静な怒りを表しているようであり、ディオニス王以下家臣一同、これは厄介なことになったと感じた。

 講和か交戦か。どちらの道を選んでも悲観的な将来ばかりが頭に浮かんでしまう。

 侵攻に備えて守りを固めておけとの指令を出してはいるが、アカバー将軍を失って以来、兵士らの質は如実に低下している。国境を警備している兵の多くは最前線に立つことに緊張を感じるどころか僻地に飛ばされたと感じて職務に幻滅しているようであり、ひとたび東の国が攻め込めばたちまち白旗を振って我先に投降しそうな気配である。

 かといって講和を目指そうにもいまとなっては交渉のきっかけが皆無である。もう少しでもましなやつを大使として送り込んでいれば東の国との内密な関係を形成できていたのかもしれないが後の祭りである。

 何もかもが悪い方にばかりころんでしまった。いや、偶然そうなったというよりも、なんらかの悪意を持った見えざる力がはたらいて、これなる窮地に陥らせたようにすら感じられる。

 密かな陰謀が動いているのだろうか。背筋に冷えた金属の棒が当てられ、妙に頭が冷え冴えるような錯覚がした。すぐにそんな馬鹿なと王は首を振って頭にかかった悪い思念を振り払おうとする。こういうときこそ臣下を信じずにどうしようというのだ。


「陛下、こちらにいらっしゃいましたか」

 ディオニス王を探していたらしい若い事務官が部屋の入り口から声をかけてきた。事務官は部屋には入らず、椅子に座った王よりも頭を低くするためにひざまずいた状態で話を始めた。

「先日、暗殺未遂の現行犯で捕えたメロスと、その保釈の担保として捕えたセリヌンティウスの両名について、牢番のベラマッチャが逃したことが判明いたしました」

 深く考え事をしていた王はすぐに頭を切り替えられず、事務官の話がすんなり入ってこなかったが、何かほかの面倒事が持ち込まれたらしいことは理解してうんざりした。しかし、王の表情一つで周囲が大げさな反応を示して右往左往するため、滅多なことでは気持ちを顔には出せない。あれは王位について間もなくのことであったが、夕食のスープにネズミか何かの毛が浮いていて思わず顔をしかめた。すると、それに気づいた付き人がすぐさま飛んできた。王は軽い小言ぐらいのつもりであったのだが、結果的に料理長は二度と包丁を握れぬような不具にされて城を放逐されてしまった。以来、王は人前では表情を変えぬことを自らに課した。だが、それがまた民には不気味なようであり怖がられている。

「メロスとな……。ああ、あれか。あれはもうよい。いまは国家の一大事である」

 王の記憶にメロスとかいう変なやつの変な言動がよみがえった。

「おそれながら進言いたしますが、暗殺は社会秩序に対する邪悪な挑戦であり、これを見過ごすことは国家安寧の破綻につながりかねませぬ。また、それほどの罪人を一介の牢番が独断で釈放したというのも同様でございましょう。なにとぞお取り上げを」

 正直なところ、王はメロスとかいうたわいもない男のことなどすっかり忘れていた。暗殺未遂とはいうが、報告書を読んでみるとメロスとかいう痴れ者は警備の兵士らに話しかけると自らを縛らせて、そんな状態で王の目の前に連れてこられたやつである。確かに暗殺という言葉を口にはしていたが具体的な計画性もなければ危険性もないようであり適当に放っておくつもりでいた。

 しかし、この神経質そうな事務官の几帳面で有無をいわせない態度を前にしてはそうもいかなくなってきたようである。「そちらで適当にやっておいてくれ」などとあいまいな物言いをすれば、どれだけの人間の首が不合理に飛ぶかわかったものでもない。

「そちの申すこと、もっともである」

 全く気分は乗らなかったのではあるが、不承不承、事務官にうながされるまま王はメロスたちが捕らえられていた牢へと向かった。事務官の話によれば、いまは牢の中にはベラマッチャが入っているそうである。

「一体全体どういうことなのだ。そのベラマッチャとかいう牢番はここがこれなのか」

 王は頭を指差しながら指先をくるくると回した。

「そうではないようです。ですが、ベラマッチャに事態を尋ねても『陛下に直々にお話したい』としかいわないのです」

 事務官の話のとおり、メロスたちを放り込んでおいた牢の中にはベラマッチャが入っていた。新しい牢番が王と事務官にややぎこちなく最敬礼した。ベラマッチャは床の中央に行儀良く正座している。王の姿に気づくとベラマッチャはうやうやしく叩頭してきた。その行為に嫌味や当てこすりなどは感じられず、王政への忠誠を失ったとか反逆を企図してというわけではないようである。王は事務官を下がらせ、ベラマッチャと二人きりで話をすることにした。

「ベラマッチャとやら、なにゆえかようなことを」

 とにかく言い分を聞いてみようと、王は威圧するでも懐柔するでもなくできる限り公平な態度で話しかけた。

「人の世に美徳を示すゆえ」

 ベラマッチャは姿勢を正したまま、堂々とした声で答えた。しかしなんだかわかったようなわからないような返答である。こいつもメロスと同じような手合いだろうかと思うと辟易する。

「メロスの身代わりとなったセリヌンティウスのそのまた身代わりになることがそうだと申すのか」

「はい」

 ベラマッチャは力強く返事をした。先ほどまで会議室で騒いでいたぼんくらどもとは異なる自信と信念に満ちた顔つきである。

「メロスとかいう男、あれは余が接してみた限りではかなりちゃらんぽらんなやつに感じられた。期限までに戻ってこないかもしれぬ。そうなれば余はお前を処刑せねばならん」

「覚悟の上です」

 王にはこの若者を殺すのがいかにも惜しいように思えた。メロスとかいう箸にも棒にもかからないようなアホのために処刑する必要があるのだろうか。無罪放免というのがまずいのであれば国境警備にでも送り込めばよい。多少は不良兵士どもの風紀も改善するかもしれない。

「その意気や天晴れである。そちの勇気と信心に免じて、この件、委細は不問とする。ただし、牢番の任は解き、国境警備に配属とする」

 臣下と民衆たちの生殺与奪を恣にするのは王の権利であるとともに、その正しい行使は王の義務でもある。何かうるさいことをいわれたら「どのみち処刑することになるにせよ、こんな地下牢に無為に座らせておくよりは前線に立たせておいた方がましというものだ」とでもごまかせばよかろう。 

「東の国との状態はお前も知っておろう。期待する」

 王はベラマッチャを牢から解放するように牢番に命じようとしたが、何やら牢番は当惑した様子できょろきょろしている。だれかに助けでも求めたそうな素振りである。

「どうした、お前が牢番だろう。鍵を持っているだろうが」

「はぁ」

 返事はしたが牢番は行動には移さないようである。

「それとも何か。お前はベラマッチャを釈放することが納得できぬというのか。余の意思にそむこうというわけだな」

「ああいえ、そういうわけではないんですが、その」

 牢番は冴えない口調で語尾を尻すぼみに小さくすると、そのままひそひそ声で王に弁明した。

「アドリブをするにしたって、話の筋を丸っきり変えてしまうっていうのは私には荷が重いものですから……」

「何をわけのわからぬことを。ええい、ほかならぬ余がよいといっておるのだ。開けるのが嫌だというならおれがやってやる」

 王は声を荒らげながら牢番から鍵を取り上げると、ベラマッチャに牢から出るようにうながした。

「覚悟の上です」

 しかしベラマッチャは正座を崩さず、先ほどと同じ語句を繰り返した。だが、心なしか先ほどとは変わって声に自信のなさが潜んでいるように感じられる。しかたなく王がベラマッチャを抱えて引きずり出そうとすると、ベラマッチャも先ほどの牢番と同じようなとまどいの表情を浮かべて、抵抗するとも服従するとも判然としない中途半端な態度を示した。

「あの、台本によれば陛下は私をなじるはずなのですが」

 ベラマッチャは抱えられながら小声で王にささやいた。

「お前までいったい何をいっておるのだ。メロスといいお前らといい、よってたかっておれをこけにしようってわけか。好き放題やりたい放題やりやがって。おれだってなぁ……」

 いらだちの余り思わず伝法な口調になったディオニス王であったが、そのとき、視界にスケッチブックを持った事務官の姿が映っていることに王は気づいた。事務官はスケッチブックを指差しながら王に向かって懸命に向けている。

 国政や外交にかかわる演説や条文などは、事務方が作成して王はそれをただ読むだけということが常であったし、会議などの途中で秘書官がメモを見せてくるということはときどきあった。したがって、王は事務官が何かの指示を出しにきたのだろうとは思ったが、それなら最初から文書にして手渡しておけばよいものを、全くこいつらの手際の悪さといったらあきたらない、嗚呼、アレキスがいればこんな馬鹿くさいやりとりせずともよかったろうに、などと肩を落とした。

 まあよい、一体何をしろというのかとスケッチブックに書かれた文書を読んだ瞬間、王の口から王の随意などお構いなしに言葉が出てきた。

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」(青空文庫、太宰治、『走れメロス』より引用)

 勝手に動く口を認めながら、王はいよいよ自分は狂ってしまったのだと恐怖に戦慄した。体も勝手に動いて、あれよあれよとベラマッチャを座り直させて改めて牢に閉じ込めた。

「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」(青空文庫、太宰治、『走れメロス』より引用)

 王の心配をよそに、ベラマッチャは再び自信に満ち溢れた態度を取り戻して溌剌と発言した。

「いや、なんでもない」

 それっきりベラマッチャは黙り込んだ。牢番は無表情で直立不動している。王は生きることが厭になってきていた。


 メロスはひどい粘り気のある液体の中でもがき苦しむ悪夢にうなされていた。息苦しく、出口を失った吐息が頭をふくらませて破裂させようとしているように感じる。這い出ようとすると頭から手足にまで液体がまとわりついてすぐにまた苦痛の中に沈められる。

 がはっ、と非常停止ボタンを押された機械のような音を伴って息を吸いながらメロスは悪夢から脱出した。息が自由にできることに安心したが、すぐにやってきた頭痛、吐き気、倦怠感が全身を重くした。口から始まる消化器系がドブの汚水をつめたゴミ袋にでもなったようである。汚水で満たされた全身をたぷんたぷんと揺らせながら、どうにかこうにか厠へ入り、上からも下からも盛大に放流した。

 うめき声を聞きつけたメロスの妹が「馬鹿じゃないの」と心底さげすんだ声を叩きつけていった。返す言葉もない。確かにおれは馬鹿だと自らのお調子ぶりを呪った。腹の底から昨夜飲み食いしたものが腐ったような臭いがのどを通って口と鼻に伝わって尽きることのない嘔吐の衝動をもたらせてくる。常に少しずつ変化して慣れるということもできず、なおかつその臭いが昨夜の暴飲暴食ぶりを嫌悪感を伴って思い出させる。

 苦痛から逃避するべく寝直そうにも、あまりの気持ちの悪さに心身を安静にすることができずそれもままならない。ただただ、うなり声とうめき声を漏らしながら寝床で横になっていることしかできない。

「お兄ちゃん! さっき村長さんたちが来て話をしていったんだけど、昼からマラソンなんてできるの? あたし嫌だよもう酔っ払いのしりぬぐいするのは」

 しかしメロスの事情などいっこう斟酌せぬように、妹は心身ともに衰弱したメロスのそばにやってくると容赦なくぎゃんぎゃんほえた。平素であればたちの悪い冗談でも抜かしながらのらりくらりやりすごすところなのだが、いかんせんいまはその元気も気力もない。

「そんなに大声出さないでくれ。神経が磨り減って辛い」

 部屋に斜めに差し込む朝日がまぶしく、メロスは目を腕で覆いながら弱々しい声を出した。

「正午スタートらしいからね! 私もう知らない!」

 妹はいうだけいうと家を出て行った。静かになったところで枕元に用意されていた水差しから水分を補給する。一緒に用意されていたバケツが濡れているところから察するに、昨夜の時点で既に何度か戻していたようである。他人の吐瀉物の始末などメロスはやったこともなければやれそうになく、それをやらせてしまった妹には大変申し訳なく感じる。自分が世界で一番やくたいもない存在に思えてくる。酒飲みは馬鹿だ。水を飲むといくらか楽になり、そのままメロスはしばらく眠った。

 村の観光名所のかなめとなるメロスの出陣式の会場にはぞくぞくと村人が集まっていた。ほとんどの村人は何が起こるのかろくに把握していなかったが、ともかくみなが暇であり、昨日とは違う出来事が起こるのならなんだっていいと思っていた。なにせこの村では野良猫の喧嘩にすら十人は下らない人々が集まるほどなのである。

「えー、皆様お忙しいところお集まりいただきありがとうございます。本日は天気にも恵まれ、これも普段のメロス君の徳と人望のなせる業でありましょう。我が村は施行以来なんちゃらかんちゃら」

 村長の谷口があいさつをしているが、暇を持て余した村人ですらろくに聞いていない。何かをしゃべっているのだが終われば一分もしないうちに中身を忘れてしまう、そういうあいさつをいつでもできるというのが首長の素質なのだと谷口は開き直っていた。

「というわけでありまして、今日の良き日にメロス君の出陣を激励します」

 聞いているときの態度からすればやけに盛大な拍手が沸きあがり、おもしろくない話が終わったことに対するよろこびを表しているようでもある。しかしともかく一仕事終えた谷口が壇上から降りようとすると、役場の職員が小走りに駆け寄ってきた。

「村長、メロスさんはまだお見えになっていないようです」

「なんじゃと。何かトラブルでもあったか」

「二日酔いだそうです」

「あんだけ飲めばそりゃそうだ」

「職員がメロスさんを連れ出しに行ったところですので、もうしばらくスピーチを伸ばしてもらえませんか」

「しかたあるまい」

 再び村長が壇上に上ると、先ほどまでの毒にも薬にもならぬあいさつのときとは変わってイレギュラーな事態に村人は期待のまなざしを向けた。

「私は最近痔の手術をしまして、ええ、一週間ばかり休んでいたとき、あれがそうです」


 昨年末に痔の手術でついに入院した。

 そもそも痔の調子がもうかれこれ三、四年ぐらい悪くて、病院で処方される薬や市販の薬でごまかしながら生きていた。

 ところが、昨年の四月ぐらいから症状がだいぶ悪くなってきて、具体的にはトイレで大をした後に一時間ほどお尻の痛みが取れなくなった。大をすれば多少は痛くなるだろうに辛抱が足らん、と思う人もいるかもしれないけど、立ったり歩いたりにも難儀するほどの痛さだったので困った。

 でもまあ、一時間ほど安静に寝ていれば治まっていたので帰宅してからトイレをするようにして、やはり依然としてだましだまし過ごしたのである。しかしながら、そうして過ごしていても症状は悪くなるばかりで、十一月ぐらいにはトイレの後は二~四時間ぐらいは身動きできないほどの痛みが続くようになっていて、そのころは一日のスケジュールが立たないのでトイレの大は寝る前にしていた。

 十一月の末、これではまともに生活できぬと思い、以前にも診てもらったことがある病院に駆け込んだのだけれども、「まあ薬で様子を見てみましょう」ということで大きな動きはなかった。しかたなくもらった軟膏をお尻に注入してみるもいっこうに改善の兆しが見られないでいた。

 そういう状態で十二月のある日に忘年会に参加したのである。

 知ってる人は知ってると思うけど、アルコールは痔にすさまじく悪い。世の中にこれほど効果的に痛めつけるものがあるだろうかと驚くほど悪い。まず、アルコールで血流が増えてお尻周りの血圧が上がることで患部に悪さをする。それから、これは特別に私だけなのかもしれないけれども、私はアルコールを飲むと尿意があるにもかかわらず排尿が著しく困難になる。にもかかわらず、アルコールを飲むとじゃんじゃん尿意がやってくる。したがって、膀胱は出したい出したいと矢のような催促をするにもかかわらず、出口がなぜか開かない。しかたなく、絞り出すべく下半身に力を入れる。そうすると、当然のことながらお尻にも過剰な力が入る。無論のこと、これは痔にすさまじく悪い。

 その日の忘年会で、有り体にいってだいぶ飲んだ。もうろうとした意識でいつのまにか家の布団で眠って、目が覚めるとお尻が猛烈に痛かった。むしろ、痛みで起こされたというような有様で、そこからはろくに眠ることすらできなかった。あまりの痛さにこれまでの己のあまたの愚行が走馬灯のように頭を走り回るほどであった。

 しかしまあ、一日か二日、じっと安静にしていれば治まると考えていた。以前にも何度かそういうことがあったが、やはりそのぐらい養生すれば治っていた。十一月に病院でもらった薬を使いながら、じっと嵐が過ぎ去るのを待っていたのである。

 ところが、眉間にしわを寄せて苦虫をつぶしたような顔をしながらも一日経ち、二日経ったが、ほとんど症状が治まらない。立ち上がるだけでも大きな苦痛を伴うほどであるから、これでは日常生活もままならない。

 いよいよどうにもならなくなったことを自覚して、手術まで視野に入れて専門の病院をネットで探し、痛みに耐えながら自転車と電車とバスでお尻を揺らしながら、どうにかこうにか目当ての病院にたどり着いた。最後にバスに乗っているときは、もし何かのかんちがいでそこの病院が休診とかだったらもういっそ殺してくれ、とそのぐらいの苦痛であった。

 幸い、病院はやっていて、診察時間にも間に合った。しかしもちろん病院に来ただけで痛みが消えるはずもなく、問診票を書くときに日付や簡単な漢字を思い出せなくなるほどの痛みにさいなまれていた。

 それでもどうにかこうにか診察になり、医師にお尻を向けてストレッチャーに寝そべる。すると、「ちょっとがまんしてくださいね」との声が聞こえるや否や、お尻に指か器具かを突っ込んでかき回してきたのである。状態を確かめるためだというのは理解できるし、医師だって私を痛めつけてやりたくてやったわけでもないのもわかる。しかし、何もしないでも痛いところを、力強くかき回されるわけであるからその痛みたるやかなりのものである。あまりの痛さに「おお、おおう」と苦悶の声を漏らして、それだけではあきたらず、ほとんど無意識で壁をかきむしって這って逃げるような動きすらした。泣いたり気絶するほどではなかったが、それほど痛かった。

 触診が終わると、医師は「これはすぐにでも手術しなければならない」と告げ、その日が土曜日だったため日曜日をあけて、月曜日にも手術して入院した方がいいが大丈夫か、と話してきた。月曜日からはさほど予定もなかったため、この痛みから解放されるのであれば、と手術を受けることを即決する。

 その日はそれ以上は何もなく、痛み止めの薬としてロキソニンを処方された。こんな錠剤がどれほど効くのかと頼りなさを感じつつも飲んでみたところ、ものすごくよく効いた。こんなに効いて大丈夫かと心配するほど効いた。飲んで一時間もしないうちに痛みがやわらぎ、帰りの自転車では鼻歌も出そうなほどであった。どういう仕組みなのかは知らないが、世の中にこれほどすばらしい薬があるのかと感動すらおぼえた。

 で、手術してから一週間ぐらい入院するとの話であった。それまで入院生活というものを送ったことがなかったため、何が必要で何が必要でないのかいまひとつピンとこなかったのだけれども、第一にひまつぶしの道具を最優先した。やってる途中だったゲームを持っていくことにして、更に、まとまった時間があるときに読もうと買っていた『蒼穹の昴』の一~四巻を持っていくことにした。結論からいうと、一週間の入院生活としては過不足のない道具であったと思う。ゲームしたり本を読んだり、寝転がりながら手元だけでできるひまつぶしをおぼえていると入院生活で便利なようである。

 入院案内に用意するように書いてあった着替えや箸のほかに、持っていってよかった、持っていけばよかった、持っていかなくてよかったというものは特にない。強いていえば、ほとんどの場合でタオルで事足りたので、バスタオルは一枚で十分だったことぐらいだろうか。

 日曜日、一週間入院するにあたって多少の始末を行って、下着や靴下を買い足す。この日はあいかわらず薬が効いていたのかそれほど辛さはなく平穏に過ごせた。手術そのものよりも、手術後の入院生活への不安の方が大きかった。

 月曜日、キャスターのついた旅行かばんに荷物を詰め込んで、ガラガラ押しながら病院に向かう。遊びに出かけるわけではないからたのしいというわけでもないが、かといって、過酷な労役などが待っているわけでもないから悲壮な気持ちになるでもなく、日常や社会からしばらく離れることが少しばつが悪く、少し面はゆい。

 病院に着いて入院手続きを行う。そうたいしたこともなく、同意書や保証人に名前や住所を書くぐらいで、それから、検尿と血液検査をした。平日の午前中でも来院者はけっこうな数だったが、おそらくその中では私が最年少だったようで、何か気後れする。

 しばらく待ってから部屋に案内される。この病院は全室個室であるらしい。入院生活を振り返ってみて、仮に複数人が同室であればかなりの神経を使っていたであろうからこれはありがたいことであった。部屋にはベッドのほかにトイレも備えつけられている。これも振り返ってみて、トイレが自分専用として部屋に備えつけられていたのも非常に助かった。

 手術は午後をやや回ってからで、それまで手術と入院生活に関する説明と、浣腸をして直腸の中身を空にするようにとの指示を受ける。痔の手術をかなりの数こなしている病院ということで、手術や術後のケアなどについては十分な経験があるだろうと全幅の信頼をおいていたため、そこに関してはさほど心配も動揺もしなかったが、浣腸はやや憂鬱であった。座薬はやったことがあっても、浣腸はまだやったことがなく、苦しそうな予感がしていたからである。浣腸自体が苦しそうなこと以外にも、お尻が痛い状態でそんなに勢いよく排出して大変なことにならないかという心配もあった。

 しかしまさかいい歳をこいて、また、この期に及んで浣腸をしたくないなどと駄々をこねたところで話も進まないので、腹をくくって浣腸を受ける。液体を入れられると、果たして、苦痛と不快で全身の毛が逆立つような寒気を錯覚する。すぐにでもトイレに駆け込みたいところだったが、そのまま五分待機との指示を受ける。しかし、時計のゆっくりとした秒針をにらみながら自分の状態と相談して、率直に「無理そう」と伝える。すると、じゃあ三分ぐらいでもいいです、といわれる。液体を入れた看護婦さんがいなくなってから、なんとか三分辛抱しようとしたが、一分三十秒ぐらいでいても立ってもいられなくなってトイレに駆け込む。盛大に排出するが、安堵や快感よりもやはり苦痛ばかりであった。人体の腸の構造なんてよく知らないが、腸の内壁に生える毛を乱暴に逆なでられるようで、寒気や吐き気を感じた。

 浣腸が終わったらそのまま絶食、絶飲して手術を待つ。そのあいだに、テレビカード(病室のテレビは有料)を買ったり、自販機や売店の品ぞろえをチェックしたりする。この後の苦痛など想像だにしていなかったため、のんきなものである。

 手術自体は下半身に麻酔をかけるため、痛くもかゆくもなく終わる。むしろ、手術中にずっとうつぶせで寝そべって首がだるいとかそういうことばかり考えていた。しかし、後で痔の手術の実態について調べてみたところ(その病院では映像で少しだけ紹介していた)、お尻におそろしい器具を突っ込んで、切ったり刺したりしているようであり、それを見ているとおそろしくなり気分が悪くなる。

 手術室からストレッチャーで病室まで運ばれて、そのまま麻酔が切れるまで六時間ほど待機と伝えられる。下半身に麻酔をかけられたのは初めての経験だったため、どういうものかと少しだけ自分の体をいろいろ確かめてみると、脚というのは動かせなければかなり重いもので、また、太ももをなでたり押したりしたときの感触がぬいぐるみや枕などを触ったときとも違うような、不気味な感触であった。自分で自分をくすぐってもくすぐったくないように、ヒトは自分の体を触るときは「いまから触られる」という信号が脳から出ていて、それが実際に触ることで生じる皮膚感覚とある程度打ち消し合うらしい。したがって、麻酔が効いた自分の体を触ると、触られるという信号だけが発生して何か変な感触になるのかもしれない。脚を動かそうとしても動かせないことは思っていたよりも違和感はなく、睡眠中の金縛りのような気分でまあそんなものかと感じた。

 六時間もベッドでただ寝そべっているだけであれば退屈でしかたがなかったかもしれないが、持ってきていた本を読んでいたら淡々と時間はつぶせた。退屈よりも寝返りを打てなかったことの方がはるかに辛かった。持ち込んだ小説である『蒼穹の昴』は中国の清朝末期を舞台にした話で、序盤の方で宦官に関する記述がある。宦官というと男性器を切断して宮廷に仕えた人たちで、そのための施術においては、切断後の傷の痛みもさることながら、傷口が治まるまでの数日間は渇きと尿意にも耐えなければならなかったそうである。朝食を軽く摂ってからずっと飲まず食わずにもかかわらず夜に入っても不思議と飢えや渇きは感じていなかったが、小説を読みながら、尿意については不吉な予感をおぼえた。

 お尻が痛くなると排尿が困難になることは既に経験的に知っていた。そして現に、手術後の過ごし方を記した手引書によれば、排尿が著しく困難になるということが記されていた。私は腎臓がぽんこつなのか膀胱がへっぽこなのか知らないが、たぶん同世代の平均的な人たちよりもトイレが近いような気がしている。そのため、麻酔が効いているそのときはまだ尿意は感じていなかったのだが、平時であればおそらく既に相当な尿意を感じているはずなのである。これも含めて尿意をうまく処理できるか、手術前からそのことが心配の中心であり、そして実際に手術後の生活における難儀のほとんどすべては尿意と排便にかかっていたのである。

 麻酔が切れ始めてくると足の指の方から少しずつ動かせると想像していたが、実際には脚の付け根や膝の方が先に動かせるようになって、皮膚感覚や足首、足の指は後から動くようになっていった。夕食は事前に部屋に運ばれていて、麻酔が切れたら食事を摂ってもいいということだった。ナースコールで看護婦さんに食べてもいいかと尋ねてから、ベッドから椅子に移動しようとした。食事はベッドの上ではなくベッドの隣の椅子と机で摂るようにできていたからである。が、思ったより脚に力が入らず転倒して頭を打ちそうになる。ものすごく運が悪いときであれば何かの角で頭をぶつけて死んでてもおかしくないぐらいに盛大に転んでしまった。体の具合が悪くなって改めて気づくことはかなりあるのだけど(たとえば、痔になると日常的な些細な動作ですらいかにお尻に負担になっていたかが如実にわかる)、脚に力が入らないと椅子に座るのもままならない。座っているだけにもかかわらず椅子から転げ落ちそうになる。腕で上体を支えながらどうにかこうにか出されたパン、スープ、飲み物を摂る。自分ではあまりそう思っていなかったのだけれども、やはり体は水分を欲していたようで猛烈な勢いでスープと飲み物を飲み干す。このときはまだ痛みも辛さもなく心にかなりの余裕があって電話をかけたりもした。

 食事を摂ったらあとは寝るだけなのだけれども、痛みはまだおぼえていないとはいえ、既になんとなく尿意を感じ始めており、麻酔が切れたときのことを想像してかなりの嫌な予感がしていた。でもまあ、手術はうまくいったという説明だったので、麻酔が効いているうちに眠ることを試みた。それで二三時間ぐらいは眠れたと思うが、深夜にこれまで感じたことのない苦痛で目が覚めた。果たして麻酔が切れたら大変な事態が待ち構えていた。

 人間は苦しかったときの知覚というのは案外すぐにわすれるもので、それは生きていく上ではけっこうなことだが、いまになってはなかなか当時の知覚は正確に思い出せない。それでも思い出してみると、すさまじい尿意もさることながら、とにかく体が苦しかった。痛みのもとはお尻からきているのには違いないのだが、お尻が痛いという感じではなく、何か体全体が痛いというよりもただただ苦しかった。全身を有毒物質が駆け巡っているようであり、これまで生きていた中で感じたことのない苦痛に悶絶、呻吟した。私はもちろん体を刀で斬られたことなどないのだが、なぜかもし刀で切り刻まれたらこういう苦痛を味わうに違いないと思い込んだ。たまらずナースコールで看護婦さんに助けを求めたところ、「痛み止めの薬は飲んだか」という声が返ってきた。食後に飲んでいたのでその旨を伝えると、「じゃあもう一回飲んでみて」といわれたため、どうにかこうにか薬を飲んで三十分ほど歯ぎしり、うめき、かきむしりながら薬が効くのを待った。

 人間、苦しいと歯ぎしりとかいろいろするけど、実際のところどれも痛みの緩和にはたいした効果はない。せいぜい、100の痛みが99.9になるかどうかといったところで、痛みをごまかすというよりも体が勝手に動いてしまう。それでもどうにか痛みをやわらげようとやった中で多少は気晴らしになったのはうめき声をあげることだっただろうか。心底辛いとき、案外「痛い」とか「辛い」とか言葉は吐かない。単に、「はあはあはあ」とか「ううう」とか「ああああ」とかそういう声だけが出てくる。しかも、繰り返すがそれをしたところで苦痛は別段どうともならない。したがって、再度ナースコールを押してどうにもならないということを伝えると、では痛み止めの座薬を入れますとの返事があった。ほどなくして看護婦さんがやってきて座薬を入れてくれたが、座薬を入れられるときに上体が大きくのけぞって軽く叫んだ。座薬を入れてもすぐに効くわけではないので、効果が現れるまでの三十分か一時間ぐらいの間は地獄の亡者さながらに責め苦に耐えることしかできない。

 そのときも当然のことながら引き続き激しい尿意はあったのだが、トイレに行ってもうんともすんとも出せない。看護婦さんの説明によれば、痛み止めが効いてくれば出せるようになる、とのことだったので、尿意に耐えながらも痛みが引くのを待った。

 痛み止めのおかげかいつのまにか短い時間まどろんでいたようだが、今度は激しい尿意で目が覚めた。体中を責めるような苦しみがやわらいできたので、トイレで排尿しようとしたがやはり出せない。携帯電話で排尿を促すストレッチやツボなどを必死に探していくつか試してみたが全く効果がない。傷の痛みも苦しいものだが、尿意というのも独特の苦しさがある。東海林さだおさんのエッセイで読んだ記憶があるけど、かの剣聖宮本武蔵ですら、尿意に耐えるのは困難である、と言い残しているらしい。いわんや、私のようなへたれをや。憔悴しきった声で再びナースコールを呼んで、「どうしてもおしっこが出ない」と訴えた。すると、「じゃあ管を通して出しましょう」との返事があった。

 尿道カテーテルというやつである。これはいままで生きてきてまだやったことがなかった。よくいわれることだけど、切羽詰まった苦しさの前には羞恥心など思い浮かぶ余地もない。むしろ、尿道カテーテルというのは痛くないのかということの方がよほど心配であった。そこで、看護婦さんが用具を持って来るまでの間に、携帯電話で尿道カテーテルの体験記を大急ぎで探して読む。痛そうならやめようというわけではなく(そもそも、たとえ痛かったとしてもほかに代替手段がないのであるからしようがない)、心の準備が欲しかったのである。すると、だれも彼もが「痛かった」とか「ひどかった」とかそういうことばかり述べている。嘘か真か、絶叫したという記述すらあった。

 憂鬱にはなったが、そうはいっても目前のすさまじい尿意から解放されるのならばなんでもやらせてくださいという気持ちの方が強い。間もなく看護婦さんがやってきて尿道に管を入れられた。尿道を管がにょろにょろ進みときはまあ確かに痛みというか不快感はあったけど、さして耐えられないものでもなかった。が、きつかったのは管が最後に膀胱にたどり着くか何かした瞬間で、このときに尿で満杯に膨れ上がった膀胱を力強く押されたかのような刺すような激しい尿意を受けた。そんなことが起きるとはだれもいっていなかったため、不意の感覚に「うわわわ」と叫び、胸をかきむしって上体を震え上がらせた。

 それを乗り越えれば後は特に辛くはない。管から尿を出してるときは排尿をしている感じはなく、本当にこれで出ているのかとやや不安になったが、下腹部を押されると尿意はすっかり消え去っていて確かに出ていたようである。管を抜くときもやや不快感はあったが、たいしたことはなかった。尿意から解放された安堵感の方がはるかに大きかった。

 そのときに出した尿は麦茶のような不気味な色で、記憶の限りではそんな尿は出したことがなかったために自分の体はどうかなってしまったのかと少し怖くなった。看護婦さんがいうには、「水分を取っていないので尿が非常に濃い。尿が濃いと少量にもかかわらず膀胱を刺激して激しい尿意をわき起こすが、尿の量が少ないために排尿が困難になる。だからもっと水分を摂れ」ということであった。それはまあたしかにそうなのだろうけど、しかし素直に考えて水分を摂ればすぐにおしっこをしたくなるわけで、トイレが近い身としてはなるたけ水分は取りたくないと考えてしまうのが人情ではないだろうか。したがって、やはりどうしても水分を摂ることが怖かった。

 ひとまず尿意は過ぎ去ったので寝ようと努力したのだが、今度は眠るたびに一時間ぐらいの周期で、お尻にずしんと猛烈な勢いで何かが入ってくるような痛みで目が覚めてしまうのに悩まされた。非常にはっきりとした感触で、最初は私が寝ている間に医師が触診を始めたと錯覚するほどであった。だが、もちろんそんなことはなく、身体の何かの機序、たぶんレム睡眠とかノンレム睡眠とかそのあたりの切替えか何かで、そういうことが起きているらしかった。そのためろくに眠ることもできず、かといって本を読んだりゲームをするほどの心身の余裕もなく、ただとにかくこのような境遇を招いた自分の際限のない馬鹿さ加減を呪うしかなかった。

 二日目の朝食の時間になり、食欲はなかったが栄養を摂らねば治るものも治らないので無理して食べる。昼前に痛み止めの座薬を入れてもらったが依然として自力で排尿はできず二回目の尿道カテーテルを行う。その際、膀胱にたまっている尿の量を調べる機械(超音波か何かで計るようである)を使われ、「それほどたまっていない」ということをいわれる。私の膀胱の容量が小さいのか尿への反応が過敏なのかは知らないが、そうはいわれても当人は限界なのだからお許しいただきたい。私は看護の仕事をやったことがないので、そういう仕事をする上でのよろこびやたのしみというのは知らないが、やはり尿道カテーテルをやるからにはたくさん採尿できた方がうれしいものなのだろうか。もしそうであれば、私はすこぶる期待にこたえられない患者であったということになる。

 二回目もやはり管が膀胱に達する瞬間に歯ぎしりして、悲鳴を上げて、胸をかきむしった。痛みは慣れるという話もあるけど、尿意は慣れることも耐えることもない。今回の入院でつくづく思ったのは、痛覚や尿意に設定されている最大値は設計ミスではないのかということで何もあそこまで身体をいじめて、弱らせて、尊厳を奪わなくてもよかったと思うのである。もっと穏便な方法で、鼻の頭が光るとか、耳がかゆくなるとか、そういうことで伝えてくれてもよかったのではないか。もし私が将来何かのはずみでCIAやそれに準ずる組織に入って、敵を拷問にかけることがあったとしても、人間としての最低限の情けとして排泄を制限することだけはやめようと心に強く誓った。

 麻酔が切れた直後ほどではないにせよ、二日目は辛かった。やはり刀で体を斬られたかのような苦しみは残っていたし、思うように排尿ができないことが相当に堪えた。こちらの随意などお構いなしにたまって膀胱を膨らませる尿は時限爆弾のようで、何をしていても気が晴れず生きた心地がしなかった。ふとした拍子に下腹部から伝わる尿意を自覚したときは、自分の体であるにもかかわらず自分の思うようにならないことへのいらだちと絶望を感じたものだ。

 何度か排尿を試みたがやはり自力では出せず、夕方ごろにみたび「どうしてもおしっこが出ない」とナースコールで訴えた。例のごとく尿道に管を通され、やはり歯ぎしりして悲鳴を上げた。出された尿は麦茶のような色をしていて、やはり「それほどたまっていない」といわれた。尿が濃いのでもっと水分を摂れと注意された。ともあれ、そのころは尿意から解放されるとまあまあ心身に余裕ができて、さきほどまでの苦しみはどこ吹く風で、本を読んだりゲームをしたりで過ごせた。小説を読みながら、私は宦官には絶対になれなかっただろうな、とか思ったりした。

 三日目、朝起きて当然のことながらおしっこがたまっている。出そうとしたのだが、いろいろやってみても、いきんだり、深呼吸したり、伸びたり縮んだり、押したり引いたりしてもやはり一滴も出せない。ナースコールで「どうしても出せない」と告げると、「そろそろ自力で出せないと癖になる。もう少しがんばってください」と返される。座薬で痛みを抑えれば出しやすくなるといわれたので座薬を入れてもらってがんばったがやはり出せない。水を飲んだり痛み止めの飲み薬を食後の一錠に加えてもう一錠飲んでみたがそれでも出ない。押し寄せる怒涛の尿意もさることながら、このまま出せないでいると自分はどうなってしまうんだろうかという焦燥感も加わり、髪をかきむしったり頭を抱えたり、寝たり起きたり、飛んだり跳ねたり、おおよそ思いつく神様にお祈りしてみたがやはり出せなかった。そうこうしているうちに昼食になり(つまり、この日の午前中はほとんどおしっこと戦っていたのだ)、昼食後に痛み止めを飲めばもう少しはましにならないかと食事に手をつけたが、もはや椅子に座る体勢ですら激しい尿意で困難な有様で、中腰のような変な姿勢のまま、非常に情けない気分で食事を摂った。

 薬を飲んだらトイレに駆け込み、もう自分はこのまま頭が狂ってしまうのではないかというような尿意にもがきながら、最終的にはどうにかこうにか、なぜ出せてなぜそれまで出せなかったのはわからないが、排尿できた。いままで生きてきた中でもっとも切迫した時間であった。これ以降は、すんなりというわけではなく、毎回、伸びたり縮んだり息を吸ったり吐いたりとかいった意味があるかどうかはわからない行為を伴い時間がかかったにはせよ、自力で排尿できるようになった。精神的にかなりの余裕ができて、後はもう平穏に寝ていればいいな、ははは、なんて思っていた。

 四日目、ところがそうは問屋が卸さないもので、世の中には小があれば大もある。そして、手術からその日までまだ一回も大を出していなかった。術後の生活に関する手引書によれば、二日目に出なければ就寝前に下剤を飲むというようなことであった。しかし、二日目は痛みと尿意でそれどころではなく、三日目もまだ大をする気分にはなれなかった。より正確かつ率直にいえば、出すのが怖かったのである。とはいえ、一日目に浣腸をしてほとんど空にしていたとしても、二日目と三日目の分で丸々二日分のツケはたまっている状態である。尿意とは異なり便意は来ていなかったとはいえ、これ以上厄介ごとから目を背けて逃げ回ったとしても、いつかは出さねばならないし、後回しにすればするほどツケが増えておそろしい事態を招くことは想像に難くない。そこで、自力での排尿ができるようになっていたことから若干の油断もあり、自力での排便を試みたのである。

 そうしたら、これが心の余裕などいっぺんに吹き飛ばすほどの難事業であった。

 出そうと軽くいきんでみたところ、確かに出口の手前まで来たような感触はあった。ところが、そこですさまじい渋滞が起こった。出口の大きさに対して何倍もの大きさのものが通過しようとするようであり、かけ値なしに針の穴にラクダを通すような不可能さに思えて、もしお尻が言葉を発することができたのであれば、まちがいなく、「無理無理無理無理無理」と叫んでいた。お尻を業火で焼かれているようであった。お尻というのは基本的には一方通行であるから、出口まで来たものを一旦引き返してもらうということもできず、かといってなんとか出そうにもあまりの激痛で気が遠くなるようであり、まさしくのっぴきならない状態になった。

 おしっこは尿道カテーテルという手があった。だが、大が出ない場合にそういう迂回路があるとは聞かない。やはり人体でただ一つの出口を自力で拓かねばならないように思えて、あるいは、最悪の場合は腹をかっさばくことになるのではないかと想像して、衰弱した意識で更に絶望にうちひしがれた。

 それでもどうにかこうにか、出口やら出そうなものやらが多少でもおとなしくなるまでこらえて、ナースコールで「大をしようとしたらすさまじい痛みで出せなかった」と伝えると、痛み止めの座薬を入れましょうということになった。

 やってきた看護婦さんは「最初に出すときはものすごく痛いから事前に痛み止めを入れないとえらいことになるよ」といいながらも座薬を入れてくれた。しばらく待つとある程度は痛みは治まった。そこで、再び排便に挑んだが、やはり想像される出口の径に対して、何十倍もの大きさのものが通ろうとしているかのようなイメージが思考を埋め尽くすような痛みが生じて、何をどうしても無理であった。

 差し迫った便意が来ているわけではないので、出さないでいようと思えばいられた。しかしながら、時間が経ったところでなんら事態は好転するものでもなし、ほかのだれかが片づけてくれることでもなし、声援だの激励だのなんの手助けにもならぬ、正真正銘、究極のプライベートなビジネスなのである。苦悶、呻吟、嗚咽、絶叫、忍耐。しかしどうしても激痛で出口が押し返してしまう絶望。再びナースコールで「どうしても出ない」と伝えると「じゃあ浣腸しましょう」ということになった。

 浣腸の辛さは体験済みではあったが、そこで駄々をこねたところで後々の苦しみが増すだけである。したがって、「お願いします」と弱々しくくちびるだけを動かしながら返事をする。ややあってから看護婦さんが浣腸の器具を持ってきて、お尻から液体を入れてきた。平素の元気なときですら耐えるのが困難な苦痛だったのであるから、精も根も尽き果てた体にこれは堪えた。少し入れられただけで「うわうわうわ」と悶絶した。だが、ある程度は入れなければ効果が出ないはずであるから、看護婦さんの「大丈夫ですか」の問いに蚊の鳴くような声で「大丈夫です」と答えた。その時点での自己の限界まで入れられたところで、看護婦さんが「五分待ってください」といってきた。繰り返すが、平素でも三分ももたなかったのである。ほんの三十秒程度で火がついたようにトイレに飛び込み腰を下ろした。

 体の内側に生えている毛をやすりで逆なでられるような苦痛の中で、最初は浣腸で入れたと思しき液体だけが勢いよく吹き出した。引き続いて出そうなものが出口に殺到してきて、やはり出口の規模にたいしてあまりにも無理非道な要求を通そうとしてきた。

 誇張なしに一世一代の覚悟を決めて、なんとかこの厄介者を追い出すことにした。私はこれまでに子供を産んだことはないしこれからも絶対に産むことなどあり得ないのだけれども、もし出産のときの痛みがこれ以上のものなのだとすれば、世の中のすべての母親に終生頭が上がらない思いがした。

 少しずつ、気が遠くなるようなゆっくりとした歩みながらも、股がさけるのではないかという痛みで出口を広げながら、出るものが出ようとしてきた。これほどの苦しみを味わわなければならないほどの愚行や悪徳をしてきたのだろうかと天を仰ぎ罵倒して、なぜだか裏声で「ヒーヒー」と叫んだ。意外に涙は出なかったが、何度も意識は遠のいた。

 いつ果てるともわからない責め苦の末に、出るものはある程度までひねり出されると、あとはいきまなくてもふるふると出てきた。下腹部の圧が下がっていくことがわかった。しかしそれですぐに爽快感や安堵感があるかというとそうではなく、激しい痛みに吐き気やめまいに苦しめられた。傷口が汚れているのが良くないと考え、シャワートイレでお湯を当てるといくらか気が楽になった。

 出してしばらくは身動きもままならないほど弱っていたが、夕食のころにはすこぶる元気になり、このころからは出された食事もほとんど全部食べられるようになってきた。それまであまり見る気になれなかったテレビをつけてはたいしたことのない出来事ばかり伝えるニュースに退屈して第三次世界大戦でも起きないかなんて思ったり、普段は読まない週刊誌を買ってなんとか年末の気分を感じようともした。

 五日目以降はそれほど特筆することもない。朝に痛み止めの座薬を入れれば、トイレに少しばかり難儀をすること以外は、ベッドで横になって本を読んだりゲームをしたりテレビを見たりした。家にいるときもまあ似たり寄ったりな生活をしていただろうから、そういう意味ではまとまった休養になったともいえる。

 トイレの大について、五日目はまだかなりの痛みを伴っていてトイレの手すりを握りしめて息ができなくなるような痛みに耐えなければならなかったが、それでも四日目の痛みに比べればはるかにましであった。六日目からは気が遠くなるほどの痛みはなくなり、薄紙をはがすように日に日に良くなりながら、今日まで来ている。

 入院中のたのしみであり平坦になりがちな一日のアクセントとして食事がある。病院によって当たり外れがあるのだろうけど、私が入院したところのご飯は三食ともおいしかった。暖かいものは暖かく、冷たいものは(冬場なのでほとんどなかったが)冷たいまま出された。食べることそのもののたのしみに加えて、栄養の摂取と食後の薬の内服で症状がどんどん良くなっていくことへの期待もあり、食事はいつも待ち遠しかった。

 配膳は病室まで持ってきてくれたが、下げるときは自分で食器類を戻すことになっていて、食器類を戻す棚はナースセンターの前にあった。病室の配置の関係から、その階では私のところに最初に食事がやってくるようであった。そして、最近は多少は気をつけるようになったとはいえ、私は食べるのがやや早い方である。すると、どうしたって食器類を戻すときは私が一番乗りということになる。

 別に最初に食器を戻すことで何がどうということもないのだけれども、毎度毎度一番に食器を戻しているとなんとなく決まりが悪い。そんなことをいちいち考えているはずも絶対にないのだけれども、ナースセンターにいる看護婦さんたちが、「こいついっつも最初に飯食べ終わってるな」ととらえて、「よほどの食いしん坊か、いやしい早飯野郎に違いあるまい」などと見られるのではないかと心配したのである。浣腸されて座薬を入れられて尿道カテーテルまでされて何をいまさら恥ずかしいことがあるかとあきれる人もいるだろうけど、ともかくせこい見栄を守りたくなり、何日目からかは食事が終わってもすぐには食器を戻さずに、十分ぐらい待ってから戻すようにした。それで何がどうなるわけでもなかったのだが、少なくとも私の中だけでは事態は良い方向に向かって気が晴れた。

 退院するときもまだ排便のときには痛みがあったが、排尿についてはほとんど難儀することなくできるようになっていた。退院する前日からは、退院後の練習もかねて痛み止めの座薬も毎朝自分で入れるようにしたため、そのころはもう自分の家のようにゆるみきって本を読んでゲームをしてた。

 座薬を入れたことがある人はわかると思うけど、あれは思ったよりも奥に入れないとうまくいかない。「これ以上は痛いし、座薬全体が入ったしこれでいいだろう」でとどめると失敗する。私も自力ではじめて座薬を入れたとき、「これでいいか」と思って立ち上がろうとしたらお尻から座薬がポンと飛び出した。お尻が「ここは一方通行だよ」といったようであった。いい歳をしてお尻から物を飛び出させた事実におおいに脱力するとともに一人で苦笑して、それからおおいに情けなくなった。そういうわけで、座薬を入れるときはこんなもんだろうからあと一歩踏み込むということをおぼえておいていただきたい。先人からの教訓である。

 退院日の朝、手続きが済むまで待合ロビーで待機していると入院しに来た朝のことが思い出される。正直なところは入院前にさほど不安はなかったのだけれども、いまになって思うのはその認識はいささか甘かったなということである。よくあの苦しみに耐えられたものだと自画自賛したい。退院する日も、入院しに来た日とやはりおなじように大勢の患者が来院してきていたが、違うのは私は逆に家に帰るということで、優越感や清々しさ、あるいは大人になってから子供のころに通っていた公園に遊びにきたような余裕や少しの疎外感があった。

 痛み止めの座薬と飲み薬はしばらく使わなければいけないようであったが、ともかく戦いは済んだ。いまは退院してから二週間近く経ち、痛み止めの飲み薬はまだ服用しているが症状はだいぶやわらいだ(大のときや、長時間立っていたり走ったりすると痛むが)。トイレの後に何時間も身動きできない痛みに苦しめられることもないし、おしっこもすんなり出てくれる。そんな些細なことがいかにすばらしいことだったのかとしみじみ感じられる。過ぎ去ってしまえば辛かったという体験は記憶されていても、痛みそのものの具体的な感覚はすっかりわすれてしまっている。

 痔の手術そのものは失敗することはほとんどなく、生き死ににかかわることもめったにないらしい。一度痔になってしまえば手術しなければ根治しないそうなので、もしいま痔で苦しんでいる人がいれば、私は手術した方がいいよと提言するが、その一方で、数々の艱難を思い出せばおいそれとは楽なものだとはいえない。しかしそれでも私は手術した方がいいと明言する。人間には痔になって手術してはじめてわかることがある、尿意と排便はいかなる聖人でも抵抗できないであろうこととか、くしゃみをするとお尻にけっこうな負荷がかかるとか、そういうことである。何もないことがいかに幸運であることか。痔とその治療は人間が二本の足で大地を歩き、二本の腕で智慧を得てきたことへの原罪と贖罪なのかもしれない。


「そういうわけでしてケツは、きつい、汚い、危険な仕事をけなげにがんばっているわけですから、みなさんもいたわってあげてください」

 谷口は苦痛で胸をかきむしる演技だとか悶絶する表情だとかをたくみに織り交ぜてスピーチをやった。これは集まっていた人々におおいに受けて会場はやんやの盛況ぶりである。痛みに耐えて手術した甲斐もあったと谷口は満足げである。これに気を良くした谷口は更に話を続けようとしたが、あいにくメロスの用意ができていたようで、職員が舞台の袖から指で作ったオーケーサインを表示している。

「メロスさん、大丈夫ですか。走れますか」

「無理そう」

 自力で歩けそうにないのか職員らにかつぎこまれたらしく、メロスは外した木戸に横たわっていた。すぐそばでは妹が「兄が大変申し訳ありません」と頭を下げて回っている。

 とはいえ、村の人々はメロスがこうして二日酔いでわやになることなんて慣れっこなのである。なんとなれば、メロスは酒を好むたちで自分から率先して飲むし、その上、陽気な笑い上戸であるから酒宴では周囲の人々もおもしろがって飲ませたがる。その結果、次の日はひどい二日酔いで家でのびるというのがもはや村の慣習と呼べるほどであった。メロスの仕事は気ままな羊飼いであったため緊急の期日に迫られるということもなかったし、また、一日ぐらいなら妹や近所の人たちに仕事を代行してもらって特に問題を起こすこともなかった。

 したがって、この期に及んでも村人もメロスもさして事態を重く受け止めておらず、なあにこんなことはいつものことさ、別に今日どうしてもやらにゃならんもんでもあるまいし明日でもいいか、ぐらいに考えていた。

「メロスさんの具合もよろしくないようですし、今日のところはお流れということで」

「しかたあるまい」

「ホントにもう兄がご迷惑をおかけいたします」

「すみません」

 メロスの二日酔いならしかたあるまい、と一同納得して解散しようかというところに、人相の悪い三人組の男がその場に割り込んできた。

「念のため心配になって見に来ればやはりこのざまだ」

「こんなだらしのない人間のために旦那の命を賭けるなんてもったいない話じゃねえか」

「おい、メロス。てめえいつまで寝ているつもりだ。さっさと走れ!」

 男たちのあまりの剣幕に、メロスを除いた一同は係わり合いを避けるように半歩下がって、これは一体どういうことでしょうかねぇとお互いに顔を見合わせた。

「無理」

 男たちの大声が神経に障るのか、メロスは凶悪そうな男たちにどなりつけられても短く返答するだけで、薄目で寝そべったまま起きようとはしない。

「あの、そちら様はどちら様でしょうか」

 その場で最若手の職員が押し出されるようにしぶしぶ尋ねた。

「こいつは失敬。ゆえあって一人ずつ仔細名乗るわけにゃいかんが勘弁してくだせえ」

「おれたちは天下の大泥棒ズルチン一家だ」

「なあに、別に物盗りに来たわけじゃあねえ。ちいとばっかし、そこのメロスに用があってな」

 三人組は息の合った調子で代わる代わるセリフを口にした。唯一出てきた固有名詞を頼りに職員らは顔を見合わせたがだれも得心しない。

「大泥棒ズルチンですって。班長はご存知ですか」

「いやあ聞いたことない。こういうのは主幹の方がお詳しいんじゃ」

「ちょっとわからんなあ。局長どうですか」

「どうもぴんとこないな。やはりここは村長に」

「わしだってこんなやからは知らんよ。メロス君の知合いだったりするんじゃないのか」

 役場の職員らは相変わらず腫れ物でも触るような態度である。たらい回しにメロスに話がやってきたので、億劫げにメロスは薄目を少し開いて男たちを確認すると、直ちに無言で小さく首を振った。

「ということは、だれとも親戚でも友人でも知人でもないというわけか」

「うちの村に迷子以外でそんな人が来るなんて珍しいんじゃないですか」

「うむ。ひょっとするとセリヌンティウス君のいっていた地方活性の効果がもう現れたのかもしれん。惜しむらくはもう少しがらのいいお客さんだったら良かったんだがな、ふはっ」

 谷口はうれしくもあり悲しくもあるといった顔で半ば自嘲するように鼻で笑った。

「どうもなんだか調子が狂うな」

「おれたちは遊びに来たわけじゃあねえんだ」

「そこのメロスが今日中に城に戻らにゃ頭の恩人である旦那が命を落とすことになる」

 三人組の男らは谷口らに事情を話した。それによれば、彼ら一家を束ねるズルチンが牢に入っており、そこで彼らが旦那と呼んでいる牢番に大変お世話になっているということらしい。

「おれたちも詳しい話は聞いちゃいねえんだが、旦那の命が危ういとのことだ」

「旦那の命を救うため、頭は牢獄からひそかに伝令を飛ばしたのだ」

「その内容というのが、『なんとしてもメロスを連れて来い』というものだったのだ。そういうわけでメロス、おれらはお前を引きずってでも連れて行かねばならんのだ」

 事態の前後関係は不明だが、ともかくメロスが城に行くかどうかで一人の人間の命が左右されているらしいことは谷口ら職員もなんとなく理解した。

「人の命がかかってるとあっては二日酔いとはいえがんばらないといかんなあ」

「ですねえ」

「それは大変だ」

 そう口にはしたものの、旦那とやらの人となりを知らなければ姿かたちをお目にしたこともないため、谷口ら職員一同はいまいち当事者意識に欠けるふうである。職員らは仕事がら多くの傷病や老衰などで死ぬ人に接してきたのではあるが、辺鄙な村のさして高くない設備と技術では医療の限界もあり、生きるか死ぬかという状況に陥った人間は十中八九死んでいた。村人らも人生というのはそういうものだととらえていた。したがって、どういう理由でその旦那とやらが死にかけているのかは知らないが、死ぬのであればそれはもう寿命だったのだろうと潜在意識の中で解釈していたのである。

 ましてや、メロスの存在によってだれかが生きるか死ぬかの選択を迫られているという状況も理解に苦しむ。彼らの知っているメロスの取り柄をいくつか想像してみたが、やはりそれで人の命を救えることにつながるとは到底思えない。であれば、メロス自身が有する無形の技能ではなく、メロスに属する資産等に期待しているのだろうか。たとえば大量の羊が必要になるとかそういうことなのだろうか。そういえばディオニス王の国と東の国との関係が最近悪化して一触即発の状況だそうである。戦争になってもおかしくないと述べる識者もいる。その戦争のための兵站の一環として羊が必要になっていて、その契約のためにメロスが赴かなければならない、そして契約がうまくいかなければあちらさんの責任者の首が飛ぶ、さすがに考え過ぎだろうか。

「メロス君のせいでだれかが死ぬ理由について、わしはこう考えてみたんだがどうだろうか」

「なるほど。確かに話としては一理ありますね」

「しかし村長、それならメロスさんが直接訪ねなくても手紙で済ませてしまってもいいんじゃないですか。あるいは代理人でもいいでしょうし」

「あの国の商習慣がそうなのかもしらん」

「でも、あそこから塩とか買うときは担当者が直接行かなくても書類のやりとりだけで済んでいますよ」

「政府と軍で慣習が違うのかもしれんよ。政府の意向とは関係なく軍では勝手に戦争の準備を始めていて……、おお、そうか。つまり秘密裏に事を進めたいから書類を残すのはまずいわけで、したがって当人が直接顔を合わせて口約束だけで済まそうって魂胆なのだろう」

 谷口らはどうすれば一介の羊飼いであるメロスのせいで人が死にかねないのかについて、さして真剣に考えるでもなく互いに思いつきを口にしていた。すなわち、この村の人々が日常的に行っている暇つぶしの雑談である。その場限りの無責任な娯楽であるからなるたけ馬鹿馬鹿しく大げさなことをいった方がたのしいわけである。

 しかし、部外者の三人組の男たちは職員らの会話がそうした性質のものとは考えなかったようである。村長と役場の職員という身元のはっきりした人間が話し合っているからには、相応の信憑性をもった話であるととらえた。

「おい、メロス。いまの村長さんらの話によりゃあ、お前はおれらの国の一大事にかかわっているみたいじゃねえか」

「おれたちはこう見えても案外愛国心を持っていてな。盗みに入るたってえあこぎなまねで貯め込んでいるやつらか東の国の連中からと決めているんだ」

「東の国のやつらと戦争しようっていうのなら黙っちゃいられない。旦那の命を救わにゃならんのもあるが、その戦争のためにもなんとしてもお前は連れていかねばならんようだ」

 メロスは彼らの遠慮の欠いたダミ声に吐き気を耐えながら、引き続き横になったまま小さく首を横に振った。その仕草に気づいた妹がメロスに顔を近づけて話しかけた。

「羊売るの?」

「売らない」

 弱々しくほとんど聞き取れないような声であったが、長年の経験から妹は唇の動きからメロスの意思を即座に察した。

「お集まりのみなさん、兄は羊は売らないといっています。何かのまちがいではありませんか」

「嬢ちゃん、こいつは軍がひそかに進めている話なんだぜ」

「まったくだ。他人に聞かれてはいそうですと答えるわけはなかろう」

「こうしちゃいられん。一刻も早くメロスを連れていかねばな」

 そのままほうっておけば男らはメロスを木戸に寝かせたままシラクスまでかついでいきかねない勢いであった。しかしそれは谷口らが制止した。

「ままま、そんなに急がなくとも。それに私らの方でもメロス君には用があるんです。いやいや、そんなに時間はとりませんから」

 あいかわらずしなびた青菜のようにぐったりしているメロスの意思などお構いなしに、どうやらメロスは城まで行かされる方針で話がまとまりつつある。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

「無理」

「でもなんだか断れそうにない雰囲気だよ」

「死ぬかも」

「飲み物買ってこようか」

 メロスはなんとか小さくうなずいた。妹はスポーツ飲料か何かを買いに行った。職員らは三人組の男らにメロスの出陣式の段取りを説明している。

 どうしておれはこんなに馬鹿なのか。急性アルコール中毒ならいざしらず、こういう状況にある元酔っ払いが体を動かして故酔っ払いになったという話は聞いたことがない。したがっておれは別に死にはしないだろう。しないだろうが、すさまじく辛かろうことは確かである。シラクスまでの長い道のりを想像して吐き気がしてきた。

「ではメロス君。体調がすぐれないところ大変申し訳ないが、せめて村を出るところぐらいは自分の脚で歩くなりなんなりしてくれんかね」

 返事の代わりに、メロスは死にかけの結核患者のように上体を起こした。

「はいお兄ちゃん」

 それから妹が買ってきてくれた飲み物を半分ぐらい一気に体へ流し込み、少し焦るような足取りで厠へ向かうとのどに指を突っ込んでやや強引に腹の底でよどんでいた汚水を吐き出した。メロスの盛大なえずき声に三人組の男らは露骨に顔をしかめたが、職員らは「お、やってるやってる」てなものである。妹はやや表情が暗いが、身内が醜態をさらしていることへの羞恥が半分、メロスの健康を心配する気持ちが半分といったところである。

 厠から戻ってきたメロスはある程度は気分が持ち直したようであった。妹から残り半分の飲みさしを受け取り、先ほど見せたドブの浄化作業のための乱暴な流し込みではなく、体が欲しているものを確かに補給するといった健康的な様子で水分を飲み干した。体の隅々に滋養が浸透していくようであった。気分爽快とまではいかないが、かぜで熱があるときよりはましなようである。

「まだ完全復帰というわけではありませんが、まあなんとか、歩くぐらいなら」

「おお、そうか。ならみんなを待たせていることでもあるし、さっそくやってもらおう」

 メロスが壇上に現れると、先ほどのメロスのえずき声は会場に集まっていた村人たちにもしっかりと聞こえていたらしく、村人らの大半はメロスの二日酔いを冷やかしたりからかったりする声を上げた。

「ええ、みなさん。メロスです。既にご存知かと思いますが、いま大変な二日酔いです。ですが、未来ある若者の命を救うために、がんばります」

 事態を知らない村人らは「命を救うため」という部分を冗談だと理解した。

「あのメロスがか。そいつはおもしろい」

といった調子で会場はおおいに沸いた。その盛り上がりを維持したまま出発地点へと移動した。出発地点には紅白のテープが用意してあり、これを谷口、丸井、妹がはさみで切るのが出発の合図なのだそうである。

「しかしなんだろうね、この儀式は」

「セリヌンティウス君の提案だそうだ。都会ではこういうのがはやっとるんじゃろ」

「お兄ちゃん、気をつけてね」

 テープの後ろでメロスは所在なげに手足をぶらぶらさせていた。こういう待ち時間というのはたまらなく嫌なものである。どこを向いて何をしてもうそ臭くて様にならない。これから厄介なことを始めるのだから期待に胸が高まるということはないのだが、かといって沈痛な気持ちというわけでもなく、なぜか高揚する気分だけは確かに感じてそれを持て余してしまう。

 チョキンとテープが切られると、村人らはいつのまにか手にしていた小旗を花吹雪のように一斉にはためかせた。「嫁さんもらえよ」とか「飲み過ぎんなよ」といった掛け声が上がる。メロスは妹や村人たちに手を振りながら気持ち小走りになった。すると直ちに軽い頭痛を、頭の中をぐるりと回ったぶっとい血管が膨張するような、感じて、できればおれもあちら側に立っていたかったと早くも後悔の念が湧き上がったのであった。


 セリヌンティウスは昨夜のうちに夜行駅馬車で自宅に戻っていた。昼前にのろのろと起き出し、若干の頭の重さを感じていたがトイレで小用を足しているうちにそれも消え去った。昨夜の酒の影響は残っていないようであり、朝食のような昼食のようなメニューを平らげた。

 平日のためセリヌンティウスの予定としては職人ギルドの仕事がいつものようにあった。しかしまあ、身もふたもないことをいってしまえば、そんなことは話の本筋には全くなんの関係もないように思えた。

 話の最後、メロスが王のところにたどり着くシーンに合わせてメロスのもとを訪れれば、セリヌンティウスにも出番もセリフもある。そういうことであれば、ここからのセリヌンティウスの行為は大なり小なりなにがしかの影響を物語へ及ぼすことになるので、注意深い洞察が必要になるかもしれない。

 しかしこの、なんだこの話は。セリヌンティウスは食後の茶をすすりながら書店で購入してきた『走れメロス』をなおざりに扱いながら、そこにしたためられているやりとりを読んで非常な居心地の悪さを感じていた。おれはメロスの野郎にこんな嘘くさく恥ずかしいセリフをいわねばならんのか。またその逆に、メロスからこんなセリフをいわれるというのもぞっとしない。そりゃあ、二日酔いの状態で走るというのは大変なことだとは思うが、メロスとしてもおれから声援や称賛を受けるなんてばつが悪い思いはしたくないだろうし、おれとしてもどんな顔でどんな言葉をかければいいか見当もつかない。後日にメロスの口から多少の脚色だとかを交えつつおもしろおかしく話してもらった方がよほど気が利いている。

 そういうわけで、セリヌンティウスはメロスの走りに関与しないことに決めていた。であるから彼が何をしようと物語の結末にはなんの影響も及ばさない。しかし、セリヌンティウスとの付き合いもかれこれ二年を超えて、その間に愛着のようなものもわいてきた。このまま無言でフェードアウトさせるのも惜しいようなかわいそうな気もした。したがって多少の蛇足で名残を惜しもうかと思う。

 『走れメロス』を読み終わると、セリヌンティウスはどうやら自分に残された時間はわずかなようであり、また、世界の趨勢に関与できないことを悟った。そうとわかっていればもう少しましなものを食うんだったなと少しだけ後悔したが、それもなんだか見苦しいように思った。死刑囚が最期に何を食べるかというのは世人の興味を引くところであるが、案外、普通のものを普通に食べているようである。決定した死を認めたくなく普通の日常を思い込ませたいのか、いい思いをしたところでそれを二度と味わえぬことに悔いを残したくないのか、無理をいったりあけすけな欲望を要求するのが看守に悪いのか遠慮しているのか恥ずかしいのか、機会があれば調べてみたいものである。

 普通に過ごそう。おれはいまの生活にも仕事にも満足している。それを繰り返して何が悪い? セリヌンティウスはイレギュラーな行為を潔くないと考えて普段どおりに過ごすことにした。

 彼の普段どおりの生活では、今日は仕事の日である。そして彼の普段の仕事は石工職人で、この時代の職人というのは技術や知識を手探りで調べるものであり、万物の仕組みを解き明かそうとするインテリであり学者であり、真理を追究する哲学者のような側面もあった。そのため、セリヌンティウスが所属するギルドは研究機関のようなこともやっていたし、高等教育機関のようなものも運営していたし、注文に応じて物を設計したり製作したりということもやっていた。

 セリヌンティウスの今日やらなければならない仕事として、弟子が早朝に政府から点検作業の依頼が来たことを伝えてきた。

「絞首台の点検をして欲しいそうです。まただれか吊るされるんですかね。おお、ツルカメ、ツルカメ」

 絞首台はセリヌンティウスが所属するギルドが数年前に作成したものである。年に一度の定期点検のほかに、使用する前にも点検が行われている。さして複雑な仕掛けは組み込まれていないのだが、専門家に調べさせたという実績を作っておかなければ何かのときに責任追及がややこしいことになるのだろう。それほど難しくもない仕事のためギルドの構成員で輪番制で行っている。その当番がセリヌンティウスだったわけである。

「ああ、めんどうくさい。あんなもの当分は壊れりゃしないよ」

「そうおっしゃらずに。金払いはいいじゃないですか」

 セリヌンティウスは絞首台の点検について気が乗らないようなことをいっていたが、内心では案外にまんざらでもなかった。というのは、絞首台の設計にはセリヌンティウスもからんでいて、なかなか満足のいく代物が完成したのである。したがって、ほかのものはどうかは知らないが少なくともセリヌンティウスにとっては、その成果物を改めて目の当たりにして出来栄えにうっとりしながらやはりおれたちは天才に違いないとうぬぼれることは、時に自信を失いそうになる職人生活の中での励ましにも慰めにもなっているのである。

 なぜ嫌がるような韜晦をしているかといえば、弟子や周囲の人間に「あれぐらいの仕事でよろこんでいるのか」と見くびられないようにするためなのである。あの程度の代物なぞおれの能力からすれば造作もないことであるといういじましい見栄である。

 かかる倒錯気味な愚痴をこぼしながらも弟子を伴ってセリヌンティウスは王城へと向かった。その途中でふと、そういえば今回処刑されようというやつはあのベラマッチャなのだろうかと考えた。それまでベラマッチャの処刑についてなんらの懊悩を見せていなかったのは、別段、セリヌンティウスが人命を軽んじていただとか先日のやりとりを無責任に忘れていたというわけではない。過去の慣習に照らし合わせれば、処刑が決まってから実行に至るまでには早くても一週間程度はかかっていたからである。にもかかわらず、そんな短い期間でベラマッチャが処刑されるのではないかと考えたのは、ほかに処刑されそうな人間の名前をセリヌンティウスは知り得ていないし、ここでなんの脈絡もない初登場の人間をわざわざ処刑していてはさすがに話に収集がつかないであろうと推測したからである。

 自分のせいで無辜の若者が命を落とすことについて、セリヌンティウスはどのように考えているのか。しかし、このときのセリヌンティウスは哲学者ではなく実践的な職人の顔をしていて、そんなことに悩むことなど時間のむだであると考えた。彼が、ことさらに偽悪的に振る舞うことで本当の自分ではない何かによる行為であると逃避しようというわけでもなければ、他人の命など羽毛のように軽んじる冷血漢というわけでもない。セリヌンティウスは実践的な行為として『走れメロス』をきちんと読了して、その上で、この話ではだれも処刑されないのだということを知っていたからである。少なくとも、現時点においてはだれも処刑されない予定にあるのは確かなのだ。

 したがって、セリヌンティウスは良心にさいなまれるということもなかったし職務と人情とに葛藤するということもなく、慌てず騒がず、ベラマッチャを助けるために処刑台になんらかの細工を仕掛けるということも全く考えていなかった。とにかく、いままでの自分の人生を肯定する意味でも、いつもどおりに過ごすことにだけ腐心していたのである。

 王城に着くと担当の刑吏に話をつけて倉庫から絞首台を運び出させた。レバーを引くと囚人を支えている床板が抜けるという、仕掛けとしては単純なものである。試験すると特に支障なく動作した。ほかには、目視による点検と、動作させたときの音、叩いたり押したりしたときの音を点検するぐらいである。

「異常なしです」

「ご苦労様でした」

 半時もかからずに点検は終わった。おれとその仲間たちが造ったものがおいそれとおかしくなるはずがないのだ。セリヌンティウスは心の中ではえへんと胸を反らしている。

 これで絞首台には何も異常がないということは明らかになった。したがってベラマッチャが処刑されようという土壇場で不測の事態が起こることはないのかというと、どうもそうではないかもしれないという予感をセリヌンティウスは抱いていた。

 思うところあるセリヌンティウスは、城から戻ると弟子の手も借りながらギルドの会計関係の書類を調べ出した。

「一週間ぐらい前にカラース商会というところと取引きをしたはずだ。そのときの書類を探すのだ」

 セリヌンティウスが所属する職人ギルドは様々なものを手広く取り扱っていたため、売買のいずれでも多くの業者と取り引きしていた。したがって、契約書や領収書、納品書、請求書はそのままディオニス王の国の商業者一覧のようなものであった。

「ありました!」

「おお、それだそれだ。ほら、見てみなさい。カラース商会というのは納品書ではなく『完了書』という名目の書類を作らせたところなのだ」

 少なくとも、過去に取り引き実績のあるディオニス王の国の業者は、製品を納めるときに領収書、納品書、請求書という名目の書類三点を求めるのがほとんどであった。それが、カラース商会というのは「完了書」という名目の書類を求めてきたのである。

 完了書を求める業者はなくはなかったが、セリヌンティウスは以前はそういう業者を不思議に思っていた。しかし東の国との関係改善に伴う交易の開始によって、ギルドは東の国からも注文を受けるようになった。そのときに、完了書という名目の書類は東の国の慣習であることが明らかになった。東の国からの大使が死んでからは交易もなくなり、久しく完了書という書類を作っていなかったため、カラース商会の注文は頭の片隅にひっかかっていたのである。

「カラース商会の住所は東の国ではなくうちの国になっているが……、どうだか。弟子君、ひとっ走りこの住所に行って、適当な用件を作ってカラース商会とやらの様子を見てきてくれたまえ」

「わかりました」

 セリヌンティウスの頼みを聞くと、弟子はすぐに元気良く走り出していった。まだ十二かそこらの歳だったと思うが、よく気が利くいいやつである。ギルドに入会できたのであるから利発であることは当然だとしても、嫌味のないところが付き合いやすい。

「ただいま戻りました」

 こんなことに時間をかけてもしかたなく、弟子はすぐに戻ってきた。よほど一生懸命走ってきたのか、ちょっと待ってくださいと息を整えてから話し始めた。

「カラース商会の住所というのはパン屋の二階でした。パン屋の主人に貸事務所にでもなっているのかと尋ねましたが、できた当時からパン屋が家族で暮らしているという話でした。カラース商会という名前も、その代表者の名前も聞いたことがないということでした。念のため、近所の住人にも尋ねてみましたが、やはりパン屋の主人の話のとおりでした」

「うむ、ご苦労であった」

 セリヌンティウスはカラース商会との取り引きを思い出そうとしていた。記載の住所に住んでいないということは品物は直接届けなかったのであろう。ということは、カラース商会の人間が直接うちに品物を引き取りに来たのだろうか。セリヌンティウスは対応した記憶はないのでどんな人間であったかは不明であるし、ほかの弟子や小間使いに尋ねてもいちいち人相をおぼえてはいないだろう。それに、顔を見たところで東の国の人間であればどうせ知らんやつであるし、無精ひげの生えたうだつの上がらない学生風の顔をした冴えない男程度なのであろう。

 手がかりは書類に残された発注された品物の内容である。ウロヘチマでロープのようなものを作って納品したようである。製作を担当した職人に話を聞いてみると、ウロヘチマの身を乾燥させて取り出した繊維をより合わせて太いひも状にしたとのことである。

「しかし、そんなもんじゃ使いもんにならんだろ。あれは見た目と違って引っ張れば簡単にちぎれる」

「おれもそう思ったんだがね、渡された仕様書にはロープとは書いてなかったし、引っ張ればちぎれて欲しいと書いてあった。苦情や返品もないようだし、あれでよかったんだろう」

 これでセリヌンティウスは得心した。背後でどんな絵が描かれているのかまでは知らないが、ともかくベラマッチャは死なない段取りになっているのだろう。

「というわけで、その兵士はメロスがどうなろうと死なないようなのだ」

「不思議なこともあるんですねえ」

 もはや傍観者に過ぎないセリヌンティウスは自らの推理を他人事のように弟子に話した。こういう職人的知識や技術と関係のない話を興に乗って話すと軽侮されそうであるからなるべくそっけない態度を装った。弟子は本心では根掘り葉掘り聞きたいところであったのだが、セリヌンティウスの口ぶりに合わせて隣町で起きた猫の喧嘩を聞くぐらいの顔で聞いた。

 これでセリヌンティウスの出番は終わりである。疑り深く心のひねくれた人の中には、彼の弟子がセリヌンティウスから聞いた話をうっかりだれかに漏らしてしまい、それが物語に関与するということもあるのではないかと邪推するものもいるかもしれないが、そういうことも絶対にないのである。


 同じころ、メロスは青息吐息で路傍に横たわっていた。村人の声援を受けて出発はしてみたものの、小走りとはいえ振動が頭に加わることでいっときましだった吐き気がすぐに戻ってきた。腹からこみ上げるものはないのだが、後頭部の首の付け根のあたり、眼球からおでこまでのあたりに不条理ではあれど確かに吐き気を感じた。

 小走りはやめて、なるべく体を揺らさないように足腰に工夫をしながら歩いていたところ、不自然な姿勢のために膝と腰が痛くなってきた。それに、朝から栄養がつくものをろくに食べてきていないため体がだるくてしかたながなかった。

「おい、メロス。てめえいつまで寝ていやがるんだ」

「今日中に城に着くんだろうな」

「てめえ遅れやがったらただじゃあすまねえぞ」

 メロスに着いてきた盗賊団の三人組がやいのやいのとつついてきた。しばらく横になっていささか気分が戻り、メロスは「まあ落ち着け」と男らを制した。妹が持たせてくれた握り飯と茶を腹に入れる。胃に物を入れたことがかえってよかったのか、全身に力がみなぎり、随分と楽になってきた。

「おれとて無策無謀に十里に挑もうというわけではないのだ」

 そもそも考えてもみて欲しい。マラソン、ありゃ見ててたのしいものだろうか。たいした代わり映えのない映像が二時間余りも続き、ほかの競技などで見られる目を見張り舌を巻き息を飲むような妙技、神業、離れ技というものもおがめない。すごいとは思うがそれをつぶさに観賞する気にはどうしてもなれない。

 実際、『走れメロス』ではメロスの偉業は以下のように表現されている。

「ぶらぶら歩いて二里行き三里行き(中略)」(青空文庫、太宰治、『走れメロス』より引用)

 あっさりとしたものである。仮に、一里を四キロメートルだとすれば、「二里行き三里行き」のわずかの間に四キロメートルもの道のりがあって、歩いたとすれば約一時間もの時間がかかっているはずであり、もちろん四キロメートルの道のりを歩いただけの苦労も存在するはずなのである。

 しかし、それをつまびらかに書いたところでだれがうれしいのか。例えば、メロスの一歩一歩を馬鹿正直に次のように表現してみよう。

 てく

 てく

 てく

 いま、これでメロスは三歩を歩いた。一歩で四十センチメートル進むとすれば、十里である四十キロメートルを達成するには十万行必要になる。文庫本に印刷したとして、一ページに十七行とすればおよそ六千ページ、一巻について三百ページとすれば二十巻にもなる大長編である。いうまでもなく、こんなものは馬鹿の見本である。

 したがって、メロスが十里もの道のりを踏破する行為について、その大部分はまともに描写されないのが望ましいのではないだろうか。途中、体調が悪くなったり暴漢におそわれたり、そういう特筆すべき事象については描写するが、それ以外のどうでもいい冗長で退屈な部分については書かないでもいいのではないだろうか。

「そういうわけでだな、おれが走るなり歩くなりすることろはほとんど触れられないのだ。おれがここで寝転がっているだけでも、ほんの十行も先ではもう城に着いてしまってるかもしれん」

 メロスは男らに対していかに自分が走ることがどうでもいいことであるかを自信満々に説明した。だが三人組の男らは納得してくれないようである。

「何をわけのわからぬことを。てめえは魔法使いか何かか」

「百歩譲って、てめえが走らないでも城に着くとしよう。しかし、この話の主題というやつを忘れたわけじゃああるまい。この話の主題は『酔っ払いが二日酔いの辛さに耐え忍んで約束を守る』というものだ」

「そうだ。だからお前は走らねばならぬし、むしろお前が走って苦しむところをしっかりと伝えれば伝えるほど主題は強調され、説得力を持つのだ」

 三人組の反論に対してメロスは再反論できずにあべこべに納得してしまった。確かにおれが苦しむところをしっかり表現すればこそ、我が本懐を遂げたときの称賛は華々しいものとなるであろう。

 だが心配であるのはおれにマラソンの苦しみを飽きずに描写する能力がまるでないことである。だいたい、おれは一キロメートルも走れば腹が痛くなり、二キロメートルで音を上げて、三キロメートルも走ればその場に倒れこむような虚弱体質なのだ。ましてや十里なんて距離、走るどころか歩いたことすらない。苦痛の表現にだって限度がある。したがって十里踏破の苦心を描写するなど不可能なのである。

 メロスは体調はともかくとして、表現に自信をもてぬことを正直に話した。男らと相談して知恵を出し合い、なんとか解決策を導き出した。

「ワイプ方式でいこう。メロス、お前の走りはきちんと表現されるが、それとは別の時間稼ぎとして、ほかの話も表現していく」

「これならばお前が走っている表現がメインとはならぬから書く方も読む方もつらくはなかろう」

「特筆すべきことが起こらないうちは、ほかの話の合間合間にメロスの走りに関するどうでもいい表現、『てくてく』とか『疲れた』とか『吐きそう』といった表現を入れればいいのだ」

 迷いが消え、貧血気味で血の気の失せていたメロスの顔に紅みが差してきたのであった。


 朧飛車――! およそ将棋をたしなむ人間であれば一度は耳にしたことがあろう。

 曰く、先手必勝の定跡である。曰く、人の棋理に反した戦法である。曰く、棋力及ばぬものその全身知らばたちまち発狂し絶命に至るが資するもの手に取らば必ずや天をもつかむ――、と。

「ええ、もちろん聞いたこたあありますよ。しかしありゃ伝助将棋の香具師が口上に使う『牛の首』みたいなもんでしょう」

 料亭で旬の焼き魚をつつく手を止めることなく、話半分といった様子で小山は答えた。同じ魚でありなが普段食べるものとは全く異なり、これほどうまい魚があるのかとうさんくささすら感じる味である。

 小山は賭け将棋を生業にする真剣士である。この日も大金を賭けた真剣に勝ち、師匠とも親父とも長(おさ)とも呼んでいる丸岡にねだって分不相応な夕食にありついていた。

「わしはそれを知っておる」

 思いがけない丸岡の言葉に小山の動きがぴたりと止まる。

「親父さん、そいつは真実(まぶ)ですかい?」

 小山の問いかけに丸岡はすぐには返事をせずに、懐からピースを取り出すと一本くわえた。熟練の相槌のように小山はすばやくマッチを取り出して火をつけた。丸岡にいわせれば、ライターの火は油の臭いがうつっていかんのだそうである。

「正確には半分だけ、いや、もしかするとせいぜい二分か三分といったところかもしらんが、途中までは確かに知っておる。どうだ、知りたいか」

 答えなどわかりきった問いである。丸岡とてそれは承知で、愉悦至極といった表情で小山の返事を待っている。

 小山はその性分として、相手の意に乗ることを嫌っていた。「こういうふうなことをやって欲しい、いって欲しいんだろうな」ということに気づくと、必ずその反対の行動を取るか、相手を無視するか、腹を立てるかしてきた。そのおかげで物心ついたころから数多くのつまらぬ損をしてきたのだが今更改めようもない。

 丸岡も小山のそういった性分を把握していて、その上で、意地悪をしてたのしんでいるのである。歳と貫禄にまるで見合わず丸岡はおしゃべりと悪戯が好きで、常々それが達者の秘訣であるなどと周囲にうそぶいていた。

 小山としては全く不本意ではあったのだが、生き方を将棋に置くものとしては見過ごすことはできぬ話題である。ただし、おしゃべり好きの宿命として丸山がおうおうにして話を盛ることが心配ではあったが。

「そりゃあもう。真実の話なら教えてくださいよ」

「ふふふ、そうかね。いや、そうだろうそうだろう」

 一本取ったりといわんばかりに丸岡は顔をほころばせた。小山としては小癪ではあったが、ぐっと飲み込んで話を急かせた。

「天野宗歩を知っとるだろう。その時代からだ」

 丸岡が語り始めると、ほかの客たちですら聞き耳を立てているかのように、不意にあたりの喧騒がやんだように錯覚した。


 メロスは姿勢だけは走っているかのようではあったが、速度は歩いているようなものだった。ズルチン一味らにもっと急げねえのかといわれたが、全身が重いのだからしかたがない。


 四助(よすけ)は飛騨国の樵の家の四男として生まれた。家は貧しく、四助は数えで十になる年に口減らしのために奉公へ出された。

 奉公先は油問屋で、繁盛しているらしく多くの使用人を抱えていた。主人は楽隠居を決め込んで、生え抜きの番頭に商売のほとんどを任せていた。初日の顔合わせでは主人はあいさつもそこそこに「火の扱いにだけは気をつけておくれ」と告げて引っ込み、後は番頭が商人としての心構えだとかしきたりだとかを説明した。

 田舎で暮らしていたときは周囲も本人も気づかなかったのだが、四助は要領が良く賢い子であったらしく、いいつけだとか遣いだとかをいちいちきれいにこなした。傍目にはどうでもいいように映る箒の扱い方一つ取っても教えられたことを素直に守った。物覚えが良く、手代や番頭にいわれたことはしっかりおぼえていた。行儀作法や読み書きなどの話を忘れたと手代や番頭に聞き返せばしかられるものだから、ほかの丁稚らは「あれはどうだったろうか」とこっそり四助に尋ねるということがしばしばあった。

 そういうことを積み重ねていれば、やはり周囲からは、

「見込みがある」

と、多くの丁稚の中からでも一つ抜きん出た存在となるのであった。


 どうなんだろうかこれは。ふとメロスは不安になった。最初はページの右下に枠を作ってそこにテキストを書くつもりだった。しかし実際にやってみるとこれは非常にめんどくさいことがわかった。メロスは休み休み歩いている。


 奉公を始めてからしばらく経ったある朝、いつものように店先の掃き仕事をしていると四助は番頭に声を掛けられた。

「四助、私はこれから掛取りに出かける。あいくに手隙の手代がいないようであるからお前を連れて行くことにした。すぐに仕度をして着いてきなさい」

 番頭は四助の仕事が確かなものであると感じたため、彼に少し目をかけてみることにした。丁稚の中で金を直接触るのは年増のものでも一握りである。ましてや掛け金の回収というのは難しい仕事であり、信じた使用人が回収したいくばくかの金を持ったまま店に戻らず行方をくらますというのはしばしばあることだった。

 番頭は四助に特に何をしろとはいわないまま、取引先の商家や小売を訪ねて回った。すぐに金を払えるところからは受け取り、間が悪かったところにはわびを入れたり念を押したり釘を刺したりした。

 ときどき、訪ねた先で、

「今日は随分と若い人を連れているのだね」

と聞かれても、

「出かけたついでに桶を買って帰ろうと思いまして、その荷物持ちに元気のいいやつを連れてきたのですよ」

などと番頭は答えた。

 おおよその取引先を回りきるころには日が高くなってきていた。番頭は手ぬぐいで顔をぬぐい、不意にくたびれた感じの声で四助に話しかけた。

「私は今日はもうすっかり疲れてしまった。あと三件ほど残っているんだが、四助、お前が掛け合ってきてくれないかね」

 番頭は四助に三件分の証文を渡すと、案外平生な足取りでさっさと店の方へと歩いていってしまった。もちろん番頭は本当に店に戻ってしまったわけではなく、離れたところで四助の仕事ぶりを見張ろうという腹づもりであった。いいわたしたところはつきあいの古いところであるから、多少の不始末があったとしても悪いことにはならぬであろうし、後で薄謝でも持って四助の見込みや振舞いなどについてあらためるつもりであった。

 一件目は応対できるものが不在であったらしく、四助はあいさつだけをして帰った。しかしそのあいさつ一つとっても、番頭のやり方を四助はきちんとおぼえていて、間違いのない立ち振る舞いをした。

 二件目は店の主人が応対に出てきて、やはりここでも四助は先の番頭のやり方を見習ったやり方を見せた。金の扱い方もいい加減なものではなかった。そこの店の主人は年寄りで、孫かひ孫かという四助に何か気を遣いたそうな様子であったが、四助は「早く店に戻らねば番頭様に心配をかけますので」と固辞した。

 三件目では家の中に入って、物陰から見張っていた番頭には様子がわからなかった。しかし、この調子なら心配はあるまいと思っていた。金を持って逃げ出すということもないだろうし、先方をこじらせるような下手を踏むこともないだろう。

 金を取るにせよなんにせよ、すぐに用は済むかと思いきや四助はなかなか出てこなかった。三件目の家の人間には気性の荒いものもいないし金に汚いということもないから、そうそうややこしいことにもならぬはずである。まさか昼飯でも食べさせられているのだろうか。四助がそんな厚かましいことをするとは思えなかったが、腹を空かせた育ち盛りの子供ゆえ、つい魔が差してということもあり得る。それになんだかおれも腹が減ってきた。早く事を終わらせて飯を食いたい。

「ごめんくださいまし」

「ああ、番頭さん。お宅の四助が掛取りにきたものだからどうしたのだろうと思っていたよ」

「何か粗相をしたようでしたら、あいすみません。それで、四助のやつは?」

「裏手で『これ』を眺めていますよ。珍しいみたいで」

 番頭の応対に出た使用人は軽く苦笑しながら手を振り下ろすような仕草をして見せた。「これ」とは将棋のことで、ここの家の主人は将棋好きで病膏肓といったものなのであった。

 中を通してもらって裏手にこしらえられた縁側に行くと、家の主人とその友人とが将棋を指していた。その様を四助が食い入るように眺めている。

「どうだ、これでおれの勝ちだ」

「へっ、最後にちいと勘違いしただけで、途中まではおれの方が良かったさ」

「抜かしやがる」

 丁度、一局終わったところであった。番頭が声をかけると、四助はばつが悪い顔をして「申し訳ありません」と頭を下げた。

「いやすまんね、番頭さん。最近奮発して買った駒を人に自慢したくってね。帰りたがっている小僧をおれが呼び止めちまってさ」

 四助が泣きそうな顔をしていたためか、家の主人は四助をかばうようなことをいった。それから「まだこんな歳でしゃんとしたもんだ。うちのガキなんざ未だに一人で洟もかめやしねえ」と四助を褒めた。たぶん、この店でも四助は如才なく働いたのであろう。あやしい道草を食っていたわけでもなかったし、番頭は店への帰り道で「これからは気をつけるのだよ」と簡単な小言だけで済ませた。

 ともあれ、その日のあらましにおいて、やはりおれの目に狂いはなかったのだと番頭はあらためて四助を高く評価して、次第を主人の耳にも入れておいた。


 ともかくこうしている間にもメロスたちは少しずつではあるが確実に進んでいる。こういう話を聞いたことがある。宇宙が均等に等速で広がっているのであれば、一定の方向に一定の速度で進み続ければ、どれだけゆっくりだろうといつかは宇宙の端に到着するらしい。ズルチン一味に話したらああそうかいとつれない返事であった。


「ほう、四助が将棋をねえ。あれは賢い子のようであるからな」

 四助の働きぶりを認めるとともに、主人は彼が将棋を見ていたことに食いついた。四助の店の主人も将棋に熱を入れていて、毎日のように将棋道場に入り浸っていた。女房は呆れていたが、女に入れ込むよりはましだと思ってほうっていた。

 趣味人にありがちなことで主人は教えたがりであり広めたがりであった。ある程度歳のいった使用人は少なくとも一度は主人に将棋を押し付けられていた。しかし、あいにくと将棋を好んでたしなむ使用人はできあがらず、時々主人に催促されていやいや相手をするぐらいのものであった。

 主人は暇なときに四助を呼んで駒の並べ方、動かし方から丁寧に教えた。丁稚や手代らは顔には出ないように努めてはいたが、彼らが気乗りせずに将棋の相手になっていることなど主人はとっくに気づいていた。したがって、なんとか四助ぐらいはたまの遊び相手にならぬかとがんばっていたのである。

 果たして四助は飲み込みが良く、半時ほどで指し方を理解したようであった。試しに主人は十枚落ちで四助と指してみた。

「そう難しく考えずに、好きなように動かしてみなさい」

 途中、主人は何度も四助の手に口出ししようとしたり、緩手や悪手を厳しくとがめようかと思ったが、じっと辛抱を重ねた。よたよたとした差し回しになったが、どうにかこうにか四助は主人の王を詰ませることができた。

「初めてにしては上出来だ。まだおもしろいようであったら、私や番頭にいえば暇なときなら教えてやろう」

 四助は駒を動かしながら最初から最後まで足がつかぬところで泳いだような気分であったが、だからこそ、そこに途方もない深さを感じて強く興味を抱いた。

 主人は四助に廃材で作った粗末な駒一式をあげて、「ほかの丁稚たちにも教えてあげなさい」と伝えた。

 四助はほかの同じくらいの歳の丁稚らにも将棋を教えて、休憩時間や寝る前などに指し合った。四助が先におぼえたということを差し引いても、ほかの丁稚らは彼にまるで歯が立たずにいた。

 しばらく経ってからの雨の日に、四助は主人に呼ばれて盤をはさんだ。四助は主人の二枚落ちを圧倒するほどの力をつけていた。定跡など知らぬ我流ながら、だれに教えられたでもない筋のいい手を指した。さすがに平手では主人が勝ったが、何度かは主人の予想の範疇を超えた手もあった。何より主人を感心させたのは四助が一生懸命に読んでいることだった。これぐらいの歳の子であればじっと考えるということができずに、いきあたりばったりな手を雑に選ぶことが多いのだが、四助は少しでも良い手を指すべく己の能力の限界まで頭を使おうとしていて、耳まで顔が真っ赤になっていた。

「こいつはとんでもない逸材かもしれない」

 四助は間違いなく自分よりも強くなるに違いないと主人は考えた。別段、腹が立つなどということもなく、主人は歳なりに自らの才のたかを見切っていたので、今更むきになって競ったところでどうしようもないと思っていた。むしろ、そういうった天稟備えた人間が手中にあることをだれかに吹聴したい気持ちであった。

「うちに四助というまだ子供がいるんだがね、これがまたとんでもなく将棋が強いのだ」

 主人は会合だとか道場だとかで将棋を知る人に出会うと、ことあるごとに四助のことを自慢した。毒のない放言と話半分に聞き流すものも多かったが、四助の普段のしっかりした働きぶりを知るものは、さもありなん、とおおいに納得した。


 気持ちが悪くなってまた少し休む。胃にものを入れれば治まるのか、胃のものを吐き出せば治まるのかがわからない。ズルチン一味らに胃薬を持っていないか尋ねたが睡眠薬ぐらいしか持っていないとのこと。


 納得したものの中に、以前に四助が掛取りに行ったところの主人がいた。主人の名は木兵衛といった。木兵衛は玄人筋の指導も受けていて、行きつけの将棋道場では名の知れた腕であった。さっそくおもしろがって、四助と指してみたいということをいってきた。

「木兵衛さん、四助はまだ始めたばかりなのだから、あんまりいじめてやらないでくれよ」

「たまにゃ若えもんと組まにゃあカンが錆びちまうからな。せいぜいたのしませてもらうよ」

 かくして四助と木兵衛の対局が決まった。木兵衛はさっぱりとした性格の人間であるから、ことさらに腕を衒ったり下手(したて)をなぶるような指し方はしないだろう。それでも、四助がみっともない負け方をしては四助がかわいそうなのも確かだが、はしゃぎ回っていいふらした自分もいい面の皮である。そういうことを心配して、主人は前の日に四助に二枚落ちの定跡を知る限りで教えた。

「こうなれば下手必勝だ。しかし木兵衛さんは滅法強いから、もちろんこんなふうにはいかない」

「勉強になります」

 木兵衛がわざと定跡を外してくることはないだろうから、一応は勝負の形にはなってくれるはずである。後は四助のひらめきに期待するしかない。

 翌日、通りに面した縁台に盤を置き、互いに一礼して駒を並べると、早くもちらほら通行人が足を止めて見物を始めた。勝負を前にした四助よりも、その横の主人の方がよほど気をもんだ顔をさらしている。

「二枚落とすが、いいか」

「はい、お願いします」

 パチリパチリと、お互いさほど時間は使わず手を進めて、まずは定跡通りの展開になった。見物人らは「ほう」とか「ふむ」とかまずまずの反応である。最低限の面目は保ったかと主人は少し胸をなでおろした。

「筋がいいな」

 そこから数手指して定跡から離れていくと、木兵衛はうんうんとうなずきながらだれに聞かせるでもなくつぶやき、一見すると意味のわからない手をちょこんと指した。見物人は十人ほどに増えていたが、彼らはだれも木兵衛の手の意味がわからないようである。顔を見合わせながら、なんだいありゃ、取ればいいんじゃねえかい、やけくそってやつか、などと勝手なことをいいあった。

「おっと、みなさん。お静かにお願いしますよ。遊びとはいえ口出しはご法度だ」

 木兵衛は口に指を当てる仕草をして集まった人たちを静かにさせた。それから、さあどうだ、という顔で四助の方に向き直した。

 四助は膝に手を置き、腕を突っ張って上体をやや前傾させた姿勢で、盤をじっ、と見つめている。しばらく考えているうちに木兵衛が指した手のねらいを読み取った。手拍子で応じれば大駒を失ってしまうところであった。更にもう少しだけ考えてから、四助は木兵衛の仕掛けた技を丁寧に返した。

 見物人らは、四助が指した手が彼らの予想に反したものであったから、初めは良くない手であると感じた。しかし、改めて局面を見直すうちに木兵衛と四助の指した手の意味を理解した。なるほど、なんだそういうことか、といった感嘆の声が上がる。

 最後の寄せで木兵衛のねばりにてこずったところはあったが、結局は中盤に木兵衛が指した手をきちんととがめた四助が有利を保って勝ち切った。

「よし、おれの負けだな。なかなか強(つえ)えじゃねえか、坊主」

「ありがとうございました」

 木兵衛の腕前を知る人々は、二枚落ちながら彼に勝った四助を惜しみなく褒めそやした。始まるときの心配顔はどこ吹く風で、主人はどんなもんだいと鼻高々で「あれはうちの人間だ」としきりに自慢していた。


 がんばって少し歩いて、やはりこれは腹が減っているのではないかとメロスは考えた。体を動かせば腹が減るものだし、朝から戻した量を考えればもっと腹に何かを入れた方がいいような気がしてきた。ズルチン一味に何かさっぱりしたものでも持っていないかと尋ねたがスルメぐらいしか持っていないとのこと。


「あれは将棋指しにしてみちゃあどうかね」

 その将棋から間もなく、四助に何か感じるものがあったらしく、世辞とも本気ともわからぬ口調ではあったが木兵衛は四助の主人にそういうことをいってきた。

 主人は四助の才能は認めながらも、将棋指しにすることには難色を示した。そもそも、四助の年季はまだ明けていなかったし、このころの将棋指しは身分がかなり不安定なもので、専業として食っていけるのは棋力と縁がめぐり合ったごくわずかのものだけであった。

「四助の将棋をそこまで見込んでくれるのはうれしいがね、あれはあれで商人としても期待しているのだよ」

 一旦は主人は断った。しかし厠で用を足しているときや夜寝る前などに、四助が堂々たる姿で御城将棋を指す光景をふと想像してしまうのであった。金は十分に稼いだがあいにくと子宝には恵まれなかった。店は番頭を養子にでもして継がせればいいのだろうが、そこから先の人生にたいして思うところもなく無性にむなしさを感じることがある。趣味の将棋も歳のせいか最近は伸びを実感できずにいる。それならばせめて身近な人間の成長を眺めてたのしむというのも一興かもしれない。

 十日ほど逡巡した後、主人は四助を将棋指しにしてみるのも悪くはないのではと考えるようになった。とはいえ、本人の意思を確認してみないことには始まらない。

「四助、少し話があるから私の部屋に来なさい」

「承知しました」

 四助が伺うと部屋には主人が前もって声をかけておいた木兵衛もいた。

「この間の将棋を見て、木兵衛さんはお前が玄人になれるかもしれないといってくれている。もちろん簡単になれるものではない。お前のこれからの努力だって大事だし、運にも左右されるかもしれない。だが、もし四助がやってみたいというのであれば、私はやらせてあげてもいいと思っている」

 なんの話をされるか見当もついていなかった四助は突然の話に事態を飲み込めずにぽかんとしている。将棋指しという職業自体を把握していないのかもしれない。

「坊主は将棋指しがどういうもんか知ってるか?」

「あまりはっきりとは」

 木兵衛は四助に将棋指しという職業があること、その頂点に名人がいることなどを教えた。

「ただし、名人は世襲制だからおれたち庶民にはどうにもできないがな」

「それではいくら強くなったとしても名人にはなれないのですか」

 名人よりも強くなるつもりかと木兵衛は内心苦笑したのだが、まだよく知らぬ子供ゆえしかたあるまいと見過ごしておいた。

「ま、強けりゃ名人の上ってものになれるのかもしれんがな。しかしだな、坊主はまだおれよりも弱いってことを忘れちゃいかん。お前がおれよりも勝っているのは、おれよりもずうっと若いってことだけだ。おれはお前の若さを買っているのだよ」

「四助、お前が将棋指しになりたいというのなら、私ができる範囲では加勢をしてやりたいと思う。年季については将来偉くなってから利息をつけて返してもらえば構わない」

 さあどうだねと問われたが、唐突な話に依然として四助の考えはまとまらない。いまの生活よりも楽なのか辛いのか。将棋指しというのは将棋を指して食っていけるそうだが、それだけで悠々と暮らしていけるのであれば世の人々は我先に将棋指しになろうとするはずである。そうではないということはなまなかな覚悟で手を出すべきものではないのかもしれない。だがしかし、もし本当に将棋を指しているだけで食っていけるのならたのしそうであるし、何よりこの将棋というものを一生をかけて極めてみたいが……。

「やらせていただけるというのならお願いいたします」

 四助は深々と頭を下げたのであった。

 そうと決まれば善は急げと、木兵衛は自分が将棋を習っている玄人筋に話をつけて、その一門への弟子入りを打診した。

「木兵衛殿が推すほどの子供であれば腕は確かなのであろう。我が師匠に話を通してみます」

 木兵衛が将棋を習っているというその玄人の将棋指しは、四助を一目見るなり「態度が気に入った」といい、四助たちの申し出を受け入れた。これこれの日時に道場まで来なさいという話になった。そこで入門の試験をするのだという。

 試験の数日まで、四助は丁稚仕事に手を抜くことなく、少ない暇を作り出しては将棋の勉強をした。ほかの丁稚たちもいままでの四助への借りを返さねばならんといって、できる範囲で手を貸してくれた。性根がちょっぴりひんちけにできている主人などはまたしても当の四助よりも気を遣い、夜中にやにわに起き出しては意味もなく駒を並べたりしてすっかり寝不足になっていた。


 腹が減っていると思うと急に空腹を感じるようになってきた。スルメでいいから少しくれというと、ズルチン一味らは断った。タダとはいわん、多くはないが金は払うというと、そういうことではなく、賞味期限が心配なのだといわれた。いつから持ち歩いているかわからないスルメなのだそうだ。


 試験の当日、主人と木兵衛に連れられて四助は道場に赴いた。板敷の大広間には多くの盤が並べられて、素人同士が遊んでいたり、道場の門弟から指導を受けたりしている。応接に出てきた小僧に話をすると、奥から木兵衛に教えている先日の将棋指しが出てきた。

「木兵衛殿から聞いているかもしれぬが、拙者は大野辰之助と申して二段を許されている。本日は拙者と指してもらい、その様を見て先生が入門を判断する手筈である。木兵衛殿とご主人は申し訳ないがこれよりは立ち入れぬゆえ、ここでお待ちいただきたい」

 四助は辰之助に連れられて、道場の裏手にある一門が生活しているらしい建物の方へと向かった。主人と木兵衛は上の空で将棋を指しながら四助の試験が終わるのを待つことにした。

 道場の立派な造作と比べると一門が暮らす建物は意外に見劣りするようであった。少なくとも、四助が働いていた店よりはずっと粗末な家である。

「ははは、貧相な暮らしぶりだと思っただろう。お前の主人がやっている大店と比べればそうかもしれんな。将棋指しなんていうのは食えん仕事さ。うちの先生も苦労なさっている」

 四助の心をすかし見たようにして辰之助は自嘲とも自負ともとれるように笑った。気安く肯定するわけにもいかず四助は「左様でございますか」とだけ答えた。

「木兵衛さんから話は聞いている。私はこの道場の師範で天野宗歩様から宗端の名乗りと五段を許されている。四助よ、一生懸命指すのだぞ」

 辰之助の師匠という人間は一番奥の部屋で待っていた。書斎や私室と呼ぶには狭く、部屋の隅にはしまう場所がないのか畳んだ布団が置いてある。道場を南口にこしらえたために北向きの部屋にはなかなか日が入ってこないようで薄暗く肌寒い。四助が身震いしたのは試験を前にした緊張ばかりではないようである。ややもすると四助ら丁稚どもが寝起きする部屋よりも悪いかもしれない。

 とはいえ部屋の造作で将棋がどうこうなるわけでもあるまい。四助は宗端と辰之助の二人に「よろしくお願いいたします」と丁寧に頭を下げた。自分を買ってくれた主人と木兵衛のためにも、とにかく無様なまねだけはするまいと心を引き締めて駒を並べる。部屋のわりにはといってはなんだが、盤と駒は立派なもので、厚い本榧と盛り上げである。初めて手にした漆の感触と心地よい音に四助はしばし陶酔した。

 まず角落ちで指したところ、存外楽に勝てた。一局終わっても宗端は特に何もいわずにいる。

「よし、それでは飛香落ちでいくぞ」

 続いて飛香落ちの対局になった。はて、角落ちよりも勝ちやすいはずだがと四助はいぶかしんだが、どうして簡単にはいかず、最後は指運に救われるような形でなんとか勝てた。

「次で最後だ。おれは四枚落とすので心して指せ」

 更に楽になっているはずなのだが、どうしたことかますます苦しい将棋になった。攻めようとすればことごとくねらいをつぶされ、機を待とうとすればじわじわと模様を悪くされていった。

「負けました」

「うむ、そうだな」

 ほとんどいいところもなく、四助はあえなく詰まされた。木兵衛も随分強いと思っていたのだが、玄人とはこれほどのものかと四助は蒼白となり震えが止まらなくなった。

「四助といったな。筋は悪くはないと思うのだがまだ臆病な面が見られる」

 三局が終わるとようやく宗端は口を開いて、四助の将棋を短く評した。何か返答する気力もなく、四助はうなだれたまま聞いている。

「ひとまず入門は認めるが、一年の間に入品できねば将棋で食うことはきれいさっぱりあきらめて、元の丁稚に戻れ」

「それでは入門を許していただけるのですか」

「ひとまずは、な。ゆめゆめ精進するのだぞ。辰之助、手がすいているときにでも四助に稽古をつけてやるように」

「承知いたしました」

 かくして四助は宗端一門への入門を許された。主人と木兵衛に伝えると「よくやった」と褒めてもらえた。そこでようやく将棋指しへの道を進み始めたことへの実感がわいてきて、うれしさ以上に、親元を離れ、そこからまた主人を離れることへのさみしさがこみ上げて四助は泣き出してしまった。必ずやいっぱしの将棋指しとなり、この恩を返さねばなるまいと四助は心に誓ったのであった。


 シラクスまでの街道には店がない。以前は一軒だけ食堂があったのだが、代替わりすることなくたたんでしまった。迷った挙句、そのスルメでいいからくれとメロスは伝えた。ズルチン一味らは出し渋ったが、そこをなんとかとお願いしていると、どうせ捨てようと思っていたものだし、カビも生えていないようだし、乾物だし大丈夫だろうといって一枚全部くれた。


 いったいに将棋の師匠というのは弟子に対して直接稽古をつけるということは稀であった。宗端もやはりそうであり、四助に限らず弟子に対して将棋に関することを教えるということはなく、初日に以下のような三つの掟をいいわたしただけであった。

 一、いかなる理由あれど真剣を指すべからず。

 二、許可なく他流試合を指すべからず。

 三、許可なく素人と指すべからず。

 二と三については、やむにやまれぬ事情があれば酌量することもあるが、一については絶対に見過ごすことはないと伝えられた。

「ほかのものもよいな。真剣を指したことがわかれば即破門だ」

 宗端は四助の顔合わせのために集めたほかの弟子たちにも改めていいわたした。四助は神妙な顔で聞いていたが、ほかのほとんどの弟子たちはまたそのことかといった顔をしている。

 宗端一門には四助のほかに五人の門弟がいた。一人は辰之助で、彼だけは二段であった。残りは全員初段で、二十歳をかなり超えた年嵩のものから、四助と二つ三つだけ年上の少年までいた。

 お互いに簡単に紹介を終えると、年嵩の弟子が「あいさつ代わり」にと四助と将棋を指そうといってきた。どこか、因縁をつけるような口調であった。年嵩の弟子は定松という名らしいが、国元や生い立ちなどについてはあいまいにはぐらかした。薄い唇をゆがめていやらしい笑みを浮かべている。

「四助の面倒はおれが見るからお前は手を出すな」

「へん、ちっと先に二段になったからって後から入ってきたくせに偉そうにしやがる。おれはこの小僧にうちのしきたりを教えてやろうってだけだ」

 辰之助が止めに入ったが、入門早々いざこざを起こしたくなかった四助は「勉強させていただきます」と頭を下げて駒を並べ始めた。

「二段様が目をかけてくれるほどだ。平手でよかろう」

「わかりました」

 定松の腹のうちは決まっている。四助を無様に負かせて劣等感を植えつけて、上下関係を必要以上に強要してやろうという魂胆である。元々初段格で入門してきた辰之助は違ったが、ほかの弟子たちはみな定松のこうした嫌がらせを受けていた。定松は野卑、粗暴な性格で、内弟子としての家仕事なども一切行わず、ほかの弟子はみな彼を嫌っていた。定松に歳が近い二人の弟子は舎弟のように使われていたが、陰ではやはり彼を汚く罵っていた。

 将棋は、序盤から定松が四助を舐めきった手を繰り出してきた。定松は四助を小馬鹿にするような内容でしきりに話しかけたり、四助が手を指し終わるかどうかという頃合で間髪を入れずに手を指したり、威嚇するように駒を空打ちしたり、終始、不遜な振舞いを見せた。

 ところが、定松に何か見落としがあったのか、四助の辛抱が功を奏したのか、指し進めていくと定松の攻めは頓挫してしまった。すぐに勝負がつくというわけでもなかったが、素人目に見てもそのまま続けたところで定松の玉はゆっくり寄せられるだけのようであった。定松は口数が少なくなっていき、露骨に苛立った様子で駒を叩きつけるように指した。

 盤と駒を傷つけるなと辰之助に厳しく注意されると、定松は「うるさい!」と大声を出して手にしていた駒を床に叩きつけた。

「馬鹿くせえ。こんなへぼと指してちゃあ、おれの腕までおかしくならあ!」

 悪態をつき、定松は周りで見ていたほかの弟子たちをわざと押しのけるように肩を揺らしながら道場から出て行った。白けた雰囲気がただよったが、辰之助が「よく指した」と口を開くと、ほかのものも口々に四助の健闘ぶりを称えた。

 その日、定松は出て行ったきり夕食どきになっても戻ってこなかったのだが、ほかの弟子がいうにはよくあることだという。おおかた、どこぞでよからぬ遊びでもしており、金がなくなれば何食わぬ顔で戻ってくるのが常なのだそうだ。

 それほどの狼藉ぶりを繰り返してどうして破門されぬのかと四助は素朴な疑問を抱いた。しかしあまりにも当たり前過ぎるために何か事情がありそうに感じて聞けずに黙っていた。すると、四助の顔つきから簡単に察した辰之助がこともなげに答えた。

「やつは先生にとって恩義のある人の倅らしいのだ。方々をつまはじきにされた末に、どうにか、うちで面倒を見ているのだ」

 じっとしたままでは話しづらいのか、辰之助は散らばった駒を拾い集めながらやるせない声で続けた。

「やつの腕は素人を相手に調子に乗るにはいいかもしれないが、玄人としてはまるで話にならん。だがそんなことよりもまずいことに、やつは少し前から真剣に手を出しているようなのだ。いまは将棋をかじったぐらいの旦那衆から金を巻き上げて気持ち良くなっているだけで済んでいるが、早晩大怪我をするだろう。そのときにやつと縁を切れていなければうちの一門はおしまいだ」

 そういってため息をつく辰之助にどう構えばいいかわからず、四助はただ黙って話を聞くばかりであった。


 おそろしく硬いスルメであった。手で裂くことも噛み切ることもできず、メロスは端っこをくわえてしゃぶってやわらかくなるのを待ちながら歩いた。あごが疲れてのども乾いてきた。この姿はアホらしくないかと尋ねると、まあアホらしいなという答えが返ってきた。


 数日経っても定松はなんの音沙汰もなく帰ってこなかった。当然、宗端は気づいているに決まっているのだがそのことにはまるで触れずに朝飯を食べている。宗端の胸のうちは四助には想像もつかなかったが、辰之助以外の弟子たちは明らかに清々したといった顔で過ごしていた。

「私は辰之助と出稽古に行ってくるので、道場の方は頼んだぞ」

 宗端の将棋による収入は道場の経営と稽古による月謝であったが、それだけではとても食べていくことができず、主要な食い扶持は代筆や写本で稼いでいた。宗端は達筆なばかりでなく筆が早いらしく、藩の人間からも重宝がられていた。四助はこの師匠が駒を持っているところは一度も見かけたことがなく、文机に向かって何かを書いている姿しか拝めずにいた。

 昼ごろになると道場に客が入ってきたが、素人と指すことをまだ許されていない四助はもっぱら雑用である。それは丁稚のときの経験のためにさほど苦労もなかったのだが、兄弟子たちに悪気なく「四助が入れる茶は手際が良い上にうまい」と褒められたところで素直によろこんでいいものかわからなかった。

 有り体にいえば、内弟子としての仕事は店にいたときと比べれば楽なものであった。生活する人間の数が少ないために炊事や洗濯も少しでいいし、商品や金銭の扱いに気を遣うということもなかった。だからといって、毎日茶をくんで客にお愛想をいっているだけではいつまでたっても将棋指しにはなれぬ。

 この時代、高段者の棋譜や定跡書のたぐいはほとんど出回っておらず、強くなるための勉強といえばもっぱら実戦しかないと考えられていた。そうはいっても、弱い相手と指したところで自分の勉強にはならないため、兄弟子らはよほど退屈しているときでもなければ四助とは指したがらなかった。辰之助だけは師匠のいいつけに従っているのか一日に一局は稽古をつけてくれるのだが、あまりに力に差があり過ぎて時間を割いてくれている辰之助にも申し訳ない気持ちであった。どうにか、彼らに肩を並べなければ身の起きようがない。

「将棋は序盤と終盤、どちらが大事だと思うか」

 あるとき、いつものように指導将棋を指してもらった後に辰之助は懐手をしながらしみじみと尋ねてきた。

「それは……。やはり終盤でしょうか」

「ほう、どうしてそう思う」

「ほかの兄さんたちもそういっていますし、将棋は相手を詰ませる勝負ですから」

「確かにそうだ」

 四助が答えると、辰之助は下あごをさするような仕草で少しだけ何か考えているようであった。

「だが言葉のあやのようなことをいうが、将棋というのは序盤も終盤もつながっていてどちらがより大事というものでもなくどちらも大事なのだ。四助、お前は寄せのための深い読みとか、状況を打開するためのひらめきだとかについてはほかの弟子たちに引けを取らないだろう。つまるところ、序盤に問題があるのだ」

 確かに、序盤から早々に戦況を悪くしてしまうことがままあり、そのことは四助も薄々自覚していた。しかしそれは自分がいわゆる定跡というものを知らないだけであって、だれかに教えてもらえばすぐに身に着くはずである、したがって序盤は五分でしのげれば御の字である、と考えていたのである。

「ですが辰之助様、序盤はあまりにも漠然としております。終盤ならば詰みという方針がはっきりとしていますが、序盤はあまりにも指す手が多過ぎて考えようがありません」

「だが寄せが詰将棋なのだとすれば詰将棋では正しい手を選べば詰みまで一本道だ。もし序盤と終盤が等しく続いているのであれば、序盤から正しい手を選び続ければ将棋は詰みまでやはり一直線の道ができているはずだ」

 辰之助は平素の柄にもなく熱っぽく語った。眼光が野心で妖しく光っているように見えた。

「つまり突き詰めていけば初手から、飛車先を突くか角道を開けるかというところから既に正しい手は決まっているはずだ、というわけですか。にわかには信じがたいとはいえ理で語ればそのようですが……」

「そのとおりだ。四助、やはりお前はおれが見込んだとおり賢いやつだ」

 四助は初めは半信半疑に答えたが、辰之助の確信めいた口ぶりに次第に引き込まれていった。

「宗端様は多忙ゆえもっぱらおれが一人で調べている。どうだ、少し見てみるか」

 辰之助は盤に駒を並べると、一人でパタパタと手を進めて見せた。

「こういう将棋は見たことがあるだろう」

「はい」

 先手も後手もよくある駒組みのように見えた。ところがそこから先は驚愕の連続となった。

「この将棋はこれで先手の勝ちなのだ」

 局面は後手玉には必至がかかっており先手玉には詰めろがかかっていない。後手の応手は自然なものであり、わざと先手を勝たせようとしたわけでもないようである。懐疑と驚きで四助は言葉もなく盤から目を離せずにいた。

「実際には相手はもっと前に違うことをするかもしれないし、おれの勝手読みもあるかもしれない。しかし、おれは将棋というものは突き詰めていえば初手からこういう勝負なのだと思っている。四助、もっと強くなれ。おれと一緒に将棋を極めたくはないか」

 辰之助の言葉に、四助は真っ暗な深奥を覗き込んだような恐怖と興奮を感じたのだった。


 時間はかかったが、なんだかんだでメロスはスルメを半分ぐらい食べた。無性にのどが渇き、残っていた水筒の中身をすべて飲み干した。スルメのカロリーってどれくらいだと尋ねたがだれも知らなかった。ともかく空腹を紛らわすことはできたので、久しぶりにメロスはちょっと走ってみた。


 それからたちまちのうちにというわけではないが、四助は日に日に腕を上げていった。辰之助の言葉をたのみに自分の読みに自信を持つようになって、攻めるべきところでは堂々と攻めて、受けるべきところではしっかりと受けられるようになった。げんきんなもので、強くなるにつれてほかの兄弟子らも四助と将棋を指してくれるようになり、それがまた良い影響を与えた。

 入門から三月が経ったころ、四助は宗端に呼ばれた。部屋は相変わらず薄暗く、文机の周りには請け負った代筆などの仕事らしき紙束が積んであった。部屋には盤と駒が用意してあり、上座には既に宗端が座っていた。

「お呼びでございますか」

「うむ。お前のことは辰之助からよく聞いている。今日は一つ気楽に指してみよ」

 将棋は平手で行われた。全く心の準備ができていなかった四助は最初の一手を指すまではひどく動揺していたが、駒を手に取りパチリと盤を鳴らすと不思議なほど心が落ち着いてきた。

 宗端は自分からは動こうとはせずに四助のやりたいようにやらせるような指し回しで、局面は四助がかなり指しやすい形勢になった。

「上出来、上出来。しかしわかっておろう。将棋というのは勝ちそうなところから勝ち切ることが難しいのだ」

 そこから宗端は本気を出してきた。彼は下手とは駒落ちの将棋よりもこういうやり方を好むたちであった。四助が数手ほど緩手を指してしまうとたちまち差を縮められた。

 互いにいまにも詰みそうな不安定な玉型が続き、のど元に刃物を当てられ続けているような苦しい将棋であった。熟考につぐ熟考で頭に血が上り、眩暈と吐き気すら感じてきた。

 しばらく続いていた宗端の攻めがひと段落して四助に手番が回ってきた。宗端は局面よりもむしろ四助の様子を端倪していたが、盤面に没頭している四助は無論そんなことには気づいていない。

 四助の玉も危ない形をしていたが、宗端の王もいかにも寄りそうに見えた。すぐには詰みは見えなかったが、数手進めれば見えてくるということはよくあるので、一瞬、四助は読み切らないまま寄せを試みようかと思った。これほど苦しい将棋を続けることが辛く、勝つにせよ負けるにせよいっそ終わらせてしまいたいという思いもあった。

 しかし四助はもう一度だけ詰みがないかを読んで、これはすぐには詰ませられないと結論を出した。自分の読みを信じることにしたのだ。詰まないのであれば、まだまだ我慢を重ねなければならない。

 四助は歯を食いしばって自陣に手を入れた。物心ついたころから辛抱するのが仕事のようなものだったではないかと自分を鼓舞した。四助の手に宗端は得心するように小さくうなずいた。

 結局、将棋は四助が勝った。宗端は駒を投じると、

「よく、わかった。四助にはただいまよりこの宗端が初段の名乗りを免ずる。これにおごらず研鑽するのだぞ」

と告げた。精も根も尽き果てた四助は混濁した意識でかろうじて頭を下げたが、張り詰めた緊張から急に解放されたこともあって、そのまま畳に顔を突っ伏して気を失ってしまった。

 明くる日、道場に入った四助は門弟の名札が掲げられているところを見て、初段の末席に自分の名が加えられていることに気づいた。ようやく将棋指しとして認められたように感じて何やらうれしさがこみ上げてくると、うまい解消の仕方を知らぬ四助はほかの兄弟子らに「あれは私の名前ですね」と何度もいっては彼らを苦笑させた。

 だれかが教えたらしく、午過ぎになると油問屋の店主が道場にやってきて四助のがんばりを褒めるとともに、「私の人の見る目はどうだい」と無邪気に周囲の人々に自慢してこれも居合わせた人たちを苦笑させた。


 少しも進まないうちにメロスの下腹部が鈍痛を発した。数十年も使っていればこそわかる、すぐにそれとわかる痛みであった。メロスは「トイレ……」と弱々しい声を発したが、近くに公衆トイレがあるとは知らない。ズルチン一味はそのへんでやっちまえばいいじゃないかといったが、メロスはそれはできんとがんばった。そんなことがばれれば、村のガキどもにノグソンとかメロクソンとかあだ名をつけられるのは目に見えている。メロスは眩暈すら感じながらもなんとかトイレを探したのだが――。

「放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ」(青空文庫、太宰治、『走れメロス』より引用)


 四助が初段になると、宗端はしばしば彼を外に連れて行くようになった。

あるときに宗端は「今日、お前が指す相手は三段を名乗っている」といって四助に他流試合をやらせることを伝えてきた。四助は未だに辰之助には歯が立たない状態であり、辰之助が二段であることを考えれば三段のものになどとてもかなわないと正直に話した。

「心配するな。やればわかる」

 そういって、宗端はどこか力なく笑ってみせた。

 せいぜいみっともない将棋にならなければいいがと心配しながら四助は盤をはさんだが、いざ指してみると拍子抜けするような相手であった。もちろん弱いわけではないのだが、明らかに辰之助の方が強かった。

 終盤に入って四助は自分の勝勢を確信していた。どちらの玉型も危ない形をしていたが、これならば一手差で勝てると読み切っていた。相手が苦し紛れのどうにもならない手を指したのを見届けて、四助が決め手を放とうとすると対局に立ち会っていた三段の師匠という人間が声を上げた。

「そこまでだ。この勝負、ここで指しかけとする」

 突然、対局が中断された。納得がいかず四助は抗議を含んだまなざしを向けたが、声の主は四助など歯牙にもかけぬといった顔で無視している。相手の三段は平静を装おうとしているが明らかに安堵の表情を浮かべている。

 ろくに見送りのあいさつすらされずに、宗端と四助は帰路に着いた。四助はひどく腹が立っていたが、一方ではいまにも泣き出しそうであり、感情が乱れることを避けてずっと黙っていた。

 しばらく歩いていると宗端が口を開いた。

「先ほどの将棋はお前の勝ちだった。そんなことはあの場にいた人間はみんなわかっていた」

 なおも黙ったままの四助に構わず宗端は話し続けた。

「あれは本家筋のものたちだ。三段が初段に負けては将来の名人に瑕がつきかねんということだろう」

 正確な意味はわからなかったが、宗端のやりきれない口調から、道理や理屈だけではいかんともしがたい破廉恥な概念が偉そうに横たわっていることは薄々感じられた。

 それだけ話し切ると宗端は小さく「すまん」とつぶやいて黙り込んだ。二人は重苦しい沈黙の中で歩き続けた。

 本家筋の三段との将棋は四助の心に暗い陰を落としたが、それはそれとして、四助は辰之助やほかの兄弟子との稽古は怠らなかった。意識していたかどうかはわからないが、本家筋のだれよりも強くなることが雪辱になるという思いも潜んでいた。

 四助は辰之助と将棋を指しているとき、もっとも心が安らいだ。自分が三段を倒せたぐらいなのだから、辰之助ならば本家筋のやつらなどだれもかなわないに違いないと思うと気が晴れた。四助と辰之助による研究は深夜にまで及ぶこともあったが、貧乏所帯ゆえ長く火を使うわけにもいかず、二人は真っ暗な部屋でささめき合いながら頭の中で盤と駒を動かした。そのままいつのまにか眠りに落ちるのが四助には心地よいものであった。


 ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。(青空文庫、太宰治、『走れメロス』より引用)

 メロスは確かに水洗トイレの流れる音を聞いた。だめなら野となれ山となれ、とやけくそ気味に音の方へと向かってみた。なんという幸運! たまたま近くで大規模な公共工事をしており、その作業員のために簡易トイレが設営されていたのだ! メロスが切迫した表情で火急の用を話すと、現場にいた作業員は快くトイレを貸してくれたのだった。

 ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。(青空文庫、太宰治、『走れメロス』より引用)

 人生はクライシスとカタルシスに満ちている。メロスは澄み渡る青空のような清々しさをおぼえながら、このスルメはアタリメだったな、などとしょうもないことをいってズルチン一味らをあきれさせた。残りのスルメは投げ捨てた。


 ある冬の朝のことである。宗端と辰之助は遠方に泊まりの用があるといって道場を空けていた。まだ暗いうちにもかかわらず戸を叩く音で四助は目が覚めた。随分と無遠慮な叩き方で、ほかの兄弟子たちも不審さと不機嫌さを混ぜ合わせた表情を浮かべながらも布団から這い出してきた。

 戸越しに誰何したが返事はなくひたすら叩き続けるばかりであった。しかたなく四助たちが用心棒を外して戸を開けると、そこには定松が立っていた。冬場にもかかわらず薄手の着物であった。

「久しぶりだな。いいてえことはたまってるが、とにかく中に入れろよ」

 そういいながら、定松は四助たちの返答など待つ気などないといった態度でずかずかと上がりこんだ。定松は勝手に炭を入れた火鉢の前に陣取ると、舎弟扱いしている弟子に酒と飯の用意を命じた。弟子の一人がうちのものはだれも酒を飲まないと断ったが、客に飲ませるやつがあるかもしれんし、なけりゃ買って来いと恫喝した。定松の振舞いは以前にも増して横柄になったようであり、その端々に何か凶器をちらつかせているような嫌らしさすら感じられるようになっていた。

 兄弟子たちは定松にあれこれと命令をされたせいで動き回っていたが、直接は何もいわれなかった四助はなんとなく動きづらい。定松の横で火鉢に当たるわけにもいかないが、かといってやつを一人きりにするのも嫌な感じがして、宙ぶらりんな気持ちで部屋の隅に座ってじっとしていた。定松は四助に一瞥もくれずに火鉢で手をあぶっていた。

 出された食事に悪態をつきながらも、定松は飯を三杯も食った。それから、どうにかして調達された酒を冷えたままで一合ほど一気にあおると、勝手に布団を持ち出して横になった。この上どんな横暴を見せるのかと弟子たちはびくびくした顔を並べていた。

「ちっ、しけた面しやがって。手前の家で飯を食って何が悪いんだ」

 定松は昼まで寝かせろというとすぐにいびきをかき始めた。四助たちはその場を離れると互いに顔を見合わせて深いため息をついた。


「ちょっと休憩」

 寝ころびやすそうな草むらを見つけるとメロスは投げ出すようにして地面に仰向けになった。同行している三人組のズルチン一味には「またかよ」とののしられたが、しかし疲れたのだからしかたがない。

 とはいえ、メロスとて考えなしに休んでいるわけではない。将来、自分が休息を取ったいくつかの地点が「メロス安息の地」としてささやかな名所になることを考慮して、腰掛ける切り株一つとってもいくらかは見栄えのする場所を意識的に選んでいるし、苔や蟻の存在ですらあだやおろそかにはしていない。

 メロスは粋や風流などてんで理解していないが、いまだって自分を遠巻きに眺めている鴉ですらスノッブなポモ野郎(鼻持ちならないポストモダン野郎の意味)が見れば何か含蓄のある教訓をこじつけてくれやしないかと期待している。

「いまどれくらいだ」

 メロスの問いにズルチン一味は「せいぜい四、五キロメートルってところだ」と答えた。日の傾き具合から察するに午後もだいぶ回っているようだ。ズルチン一味たちは焦燥感あふれる口調であったが、当のメロスはそんなものだろうと納得して落ち着いている。

「やい、メロス。いつまで休んでやがるんだ。半端なまねしやがって」

「てめえ、今日中に間に合わなかったら承知しねえぞ」

「なんなら、永遠にそこに休ませてやろうか」

 男たちはめいめいに物騒な文句をわめきたてたが、メロスは平然としている。根っからのめんどくさがりで飽き性なのだ。

「まあそう騒ぐな。男を下げるぞ。とっておきの奥の手があるのだ。いまからおれの秘策を見せてやろう」

 秘策――。それは一里が四キロメートルとは限らないということであった。

「日本の一里は四キロメートルだが、中国の一里は五百メートルなのだ。『走れメロス』の一里が日本の一里だとはどこにも書いてない。もちろん中国の一里だとも書いていないが、中国の一里ではないとも書いてない。ということは、おれの村とシラクスまで十里。こいつを中国の一里だとみなせば、その道のりはたったの五キロメートル。ほら見ろ、現に城はもう見えるところじゃないか」

 メロスがそう語ると、さほど遠くないところに突如として城が見えた。いや、見えたというよりはいままでメロスたちの意識に上らなかっただけで、実はとっくに見えるところにあっただけなのかもしれない。そう考えた方がつじつまが合う。そうだ、そうに違いない。

 ズルチン一味らは言葉をなくして呆けた顔をしている。メロスは機は熟したといった観でゆらりと立ち上がった。沿道にはメロスのゴールを見届けようと、先回りして待っていた村の友人、知人、それほど交流のない暇人、野良犬、野良猫、羊たちが並んでいる。メロスは彼らの声援に思いを込めて手を挙げ、我が村のメロスここにありと答えた。

 みなの期待を背負って気持ちのいい重圧を感じながらしばらく歩いていると、後ろからあわてた感じの足音と呼び声が聞こえてきた。振り返ると、ズルチン一味らに劣るとも勝らない人相の悪い三人組の男らがこちらに走ってきている。

「見つけたぞ」

「村とシラクスまでの街道は一本道のはずだが……、ふん、まあよい」

「貴様がメロスだな。その命、もらった!」

 男たちは躊躇することなくギラリと刃物を抜いた。沿道の人々の反応は様々で、何かの出し物かと思って興奮した声を上げるものあり、メロスに加勢しようと飛び出すものあり、本物の通り魔のたぐいと思って警察に通報するものあり、悲鳴を上げるものあり、逃げ出すものあり、飛び跳ねるものあり、遠巻きに携帯電話のカメラで撮影するものあり、とにかく皆がめいめい思い思いの方向へと動こうとしたために現場は大変な混乱となった。


「村長、メロスさんがお見えになったようです」

 メロスたち現場から更に進んで、シラクスの広場の一角に設営された来賓控え室では村長やメロスの妹らがメロスの到着をいまや遅しと待ち構えていた。

「ご苦労様です」

 職員から報告を受けた村長は緩めていたネクタイを締め直してゴール地点へと向かった。職員役員らとメロスの妹も村長の後に着いて行った。

「しかし村長、なんですな。今日は大変な人出のようですな」

「うむ。何かほかのイベントと重なっているのかもしらん」

「案外、うちの村のイベントの参加者かもしれませんよ」

「ははは。メロス君のおかげでうちもそんな有名になってしまったかね、ふはっ」

 職員らの冗談に村長は自嘲気味に力なく息を垂れた。メロスのマラソンがあまりに急なことだったため、ポスターやパンフレットなどは全く頒布しておらず、であれば何も知らせていないシラクスの人たちが参加するはずがない、と事情を把握していない村長も職員も考えていた。

 ところが、実際のところ広場に集まった一般の人々はメロスがどうかなるのを興味深く待っていた。彼ら一般の人々はベラマッチャが処刑されるに至った経緯やそれにメロスがどのように関与したのか詳細には知らされていなかったのだが、「ベラマッチャという兵士が処刑される予定だが、その身代わりにメロスとかいうやつがやってくるかもしれない」ということは知っていた。これまで貴賤善悪織り交ぜていろいろな人間がいろいろな理由で処刑されてきたが、土壇場に身代わりの人間がやってくるかもしれず、なおかつ、その身代わりの人間が処刑される人間となんの関係もないやつというのは初めての事態であった。

 ここ数年、ディオニス王はやたらと大勢の人間を処刑してきたものだから、シラクスの人々は処刑される直前の人間が見せる悪あがき、潔さ、諦念めいた表情をかなり見物してきていた。そのせいで処刑について目が肥えてきてしまっていた。ちょっとやそっとの執行を見ても、「ああ、そのパターンね。それなら○○の前例があるし、そっちの方がよっぽど見ごたえがあった」などとしたり顔をする始末であった。

 シラクスの人々は手際の良さとか死刑囚から引き出した言葉や感情などの観点から執行人を順位づけしていた。毎年、投票によって最優秀執行人、名死刑、最優秀最期の言葉を決めて表彰していた。

 この国の人間にとってはいかにおもしろく、かっこよく、感動的に処刑されるかが生きがいとなっていた。だれもが自分の処刑についてこだわりをもっていたし、毎晩寝る前には遺書を読み直しては書き直すのがたしなみであった。

 自ら開発したという珍妙な処刑装置を持ち込んで壮絶な死にざまを見せつけたものもいたし、あまりにもすばらしい辞世の句をひねり出したために、なんの罪も犯していなかったにもかかわらず自ら罪をでっちあげて処刑を望んで、皆の前で渾身の一句を発表した瞬間にうれしさのあまり死んだものもいた。これ以上のよろこびは今後の人生で得られないと確信できると人は死ぬものらしいことがわかった。

 そんなシラクスっ子たちにとって、今回の案件は初めての様相であった。死刑囚の身代わりになることを訴えるものというのはシラクスっ子にとってはさほど珍しくもなかったのだが、その身代わりがどこの馬の骨ともわからないやつというのがおもしろそうなのである。身代わりのメロスというやつが現れるにせよ現れないにせよ、そのときに発露される関係者らの極限の感情だとか言動だとか、シラクスの人々はそこに人間の嘘偽りのない本質があり、そのあけすけさに触れることがわいせつの極みだと感じていたのである。

 ベラマッチャはなぜ処刑されるのか、メロスは来るのか来ないのか、走ったのか走らなかったのか、それらの事象はシラクスっ子たちにとって気にはなるがメインディッシュではなかった。彼らが見聞きしたいものは最期に何があるか、ただそれだけであった。


 そのころ、牧田は楽屋で震えていた。死ぬことへの恐怖もあったが、それよりは一世一代の見せ場を絶対に失敗できないことに対する緊張の方が大きそうであった。もう間もなく、係りのものが「出番です」と声をかけてくれば、そこから先はもはや後戻りできない。その声が実質的な死刑宣告なようなものである。さっさと済ませてしまいたいという気持ちといつまでも来ないで欲しいという気持ちがせめぎあっていた。

 牧田は迷った末に実家に電話をした。母親が対応に出て、意外そうな声でなんの用かと尋ねられた。どうしても本当のことを伝えられず、なんとなく声を聞きたくなったといってすぐに切ってしまった。ぼんやりとしながら、自分はおそらく馬鹿なのだろうと牧田は思った。せめて時々でも、ああいう馬鹿なやつがいたという笑い話でも構わないから、話題にして欲しかった。それで十分、供養になると自分を励ました。

 係りの刑吏がやってくると、牧田は腰縄で連れて行かれることになった。かび臭い楽屋も、暮れなずむ遠景も、地面も、自分を縛る縄も、何もかもが離れていくようで郷愁を覚えてきた。遠くに見えるヘルメットをかぶって死刑反対のプラカードを振り回しているのはいつぞや迷惑をこうむった上級生たちのようだが、彼らすらもはやひたすらに懐かしい。とりわけ、自らの最期に立ち会うこの刑吏こそがもっとも名残惜しく懐かしい存在であるように感じられた。

 ベラマッチャが広場に姿を現すと、集まったシラクスっ子たちからは大きな歓声が上がった。

 処刑台までの歩みですら彼らの採点の対象で、堂々とするにせよ、暴れるにせよ、そこに人間らしさが現れていることが高評価につながる。以前、大雨の日に処刑が執行されたときに死刑囚が傘を差していないことがあった。担当者は囚人の分の傘も用意していたのだが、囚人が断ったのだそうである。「合理的である」という意見と、「わざとらしくはないか」という意見で評価が割れた。いまでも結論は出ていない問題である。それ以来、公的には「装置の安全性のため」という理由で処刑は晴れの日にしか執行されなくなった。シラクスでは「この雨で草花と極悪人どもがよろこんでおりますな」というのが季節のあいさつになっていた。

「今日のあの刑吏はだれだ? 見たことがないが新人かね」

「ベラマッチャというのは元兵士なんだろう。同胞を手にかけたくないとかいって厄介ごとをおしつけたのかもしれん」

「そうだとすれば感心せんな。よし、あの新人をおれらでいっぱしの処刑人に育ててやろうぜ」

 粛々と歩むベラマッチャと刑吏にシラクスの人々から暖かい声がかけられた。ベラマッチャは最期の瞬間には良いものを心に浮かべながら死にたかった。彼らの前で死ねるのであればそれはそれで納得できるように思えた。

 ベラマッチャと刑吏が処刑台のもとにたどりつくと、広場を見渡せる高さの建物にディオニス王が姿を現した。シラクスっ子は「ボウクン!」、「ジャチボーギャク!」、「ナンセンス!」、「コンコンチキ!」と口々に大声で王を罵った。おれたちは為政者の悪口ぐらい平気だぜというシラクスっ子の気概であり、権力に対する礼儀であり甘えなのだ。

 浮かれてはしゃぐ国民とは対照的に、ディオニス王は疲れきった顔で座っている。王の横には文官代表と武官代表がそれぞれ座っていたが、王を挟んで二人で今年のプロ野球の話に花を咲かせている。王がにらむと二人は一応はしゃべるのをやめるのだが、互いに「お前のせいで怒られたじゃねえか」といいたげな顔でニヤニヤしながら視線を送り合う。それからしばらくするとまたぺちゃくちゃとおしゃべりを始めるのだからたまらない。王はいっそのこといまこの場でこいつらを力いっぱいにぶん殴って、何もかも投げ出して西の国にでも亡命したい気分であった。

 王がパリーグの捕手について彼の意思を無視して詳しくなったころに、部屋に事務官がやってきて王に定刻になったことを告げて、書類への署名を求めた。

「陛下、時間となりました。我らに天命を賜りますようお願い申し上げます」

 差し出された羊皮紙には御印が押してあり、ベラマッチャというやつをこれこれこういう理由で処刑しますということがおそろしく堅い表現でしたためられていた。その末尾に王の署名欄が設けてあった。いままで何度と憂鬱な気持ちを偽りながらやってきたことにもかかわらず、今日は一段と気が進まない。

「まあ待て。ひょっとすればメロスとかいうアホがやってくるかもしれん。約束では今日中に戻るということであった」

「おそれながら進言いたしますが、我々官吏にとっては何日までといえばその日の午後五時までを意味します。また、日が落ちてからの処刑というのは前例がありませぬゆえ」

 王は少しだけ抵抗してみたのだが、事務官はもう決まったし準備もできたことを覆すなどできるわけがない、こいつは何をいってるんだ、ちょっと頭がおかしいんじゃないか、といわんばかりの顔で見返した。いや、小声で実際に口にしたような気もするし、なぜか王には事務官のそうした心理が文章のようにありありと読み取れた。

「あまりここで時間を取りますと、人々が妙な期待を抱きますよ」

 これまでの王政の歴史の中で、直前で王が署名を拒否して死刑が中止になったというケースはゼロであった。そんなことになれば臣民に王の権力があやしまれることになりかねない。人心は荒れ、国の平安はおぼつかない。臣民は権力者が天命に基づき正しい判断でもって生を安んじて死を賜っていると信じている。その信頼を失ったときにいったいに何が起こるのか――。半ばはわかりきったこととはいえ、縁起が悪いとうそぶいて具体的に想像することを避けてきた。

 しかしそれも限界なのかもしれない。王は最近とみに多くなった深いため息をついた。いままさに自分のすぐ横にいる側近、臣下らの代表である二人、こいつらのぼんくらぶりを目の当たりにして、この国はもう長くはないだろうと嘆き、ご先祖様たちと過去の重臣らに詫びた。


「罪人、ベラマッチャ。その名、相違ないか」

「相違ありません」

「牢番の身でありながら謀反人を逃した罪、相違ないか」

「相違ありません」

「陛下に代わり、これより貴様に死を賜る」

「ありがたきしあわせ……」

 処刑台へと続く十三階段の前では、ベラマッチャと刑吏が最後の手続きに入っていた。刑吏は周囲の人々にも聞こえるような大声でしゃべっているが、ベラマッチャは平時の声量で答えている。刑吏はこの土壇場でトチりでもすれば台無しである。二度と市場では買い物ができぬであろうし、刑吏を小ばかにした歌が作られて国中の子供たちが満面の笑みではやし立ててくれる。それを苦にして自殺した刑吏もいるのだが、シラクスっ子たちは「こっちは命がかかってるんだ」と改める気持ちは皆無のようである。

「最期に何か言い残すことがあれば聞いてやろう」

 これもマニュアルどおりの問いである。処刑されるものの多くは渾身の遺書を既に作成していることがほとんどなのだが、この場でアドリブで何かをやりたがるものもいる。割合にすれば半々ぐらいである。死を目前にした脳が最後の力を振り絞って人智を超えた霊感をひらめき、とてつもない遺業を成し遂げるものもいれば、恐怖にかられて収拾のつかないお粗末をやらかすものもいる。ただし、ここで死刑囚が何をやっても、プラス評価にこそなれマイナス評価にはしないという不文律がある。人情というものである。


 広場の端っこに設営したテントの下では、村長たちは陽だまりかぬるま湯かを思わせるようなのんきな雰囲気でメロスの到着を待っていた。

「しかし村長、なんですな。メロス君はもう近くまでやってきてるそうですが、なかなか広場には入ってきませんな」

「この人だかりだからなあ。案外、そのへんのトイレでうなってるかもしれんがな」

 職員らは無邪気な笑い声を上げた。いたたまれなくなるほどでもないが、メロスの妹はちょっと恥ずかしくなってうつむいた。

「村長、あそこの高い建物にいるのってここの王様じゃないですか」

「おお、君は目がいいな、うらやましい。わしゃ近眼と老眼のダブルパンチでろくに見えんよ。耳も遠くなったし、近くなったのはトイレとお迎えぐらいなもんだ、ふはっ」

「あ、村長。広場の中央のあたりにあるのって処刑台じゃないですか。ほら、輪っかのついたロープが垂れてますし、あそこに人を吊るすんでしょ。やだなあ怖いなあ」

「なんとなんと。今日ここでそんなことするってわかってれば、もう少しましな場所をゴール地点にしたんだがな。まあわしらは小さな村らしく、隅っこの方で小ぢんまりとささやかにメロス君を祝福してあげよう」


 そのころ、メロスは距離でいえば広場まであと数百メートルまで来ていたのだが、その現場は突如現れた闖入者によって依然として大混乱が続いていた。

「危ないこれ本当危ないきゃっ痴漢バカ押すなメロスを助けろ殺す危ない逃げろ危ない警察呼べメェーメェーなんだこの羊警察ワンワンどけどけニャーニャーメロスはどこだそんなとこ押すなって触るな押すな危ない逃げろ警察まだかメロスはどこだ痛い救急車痛い呼べ救急車スリだバカ撮るな痛い痛い野郎ぶっ殺してやる構うこたあねえ八つ裂きにしてやれ血が出てる痛い死ぬメェーバカやめろ助けて救急車来たあけろ道あけろバカどけ痛いこっちだこっちどけってどけ押すなあーもうだめだー」

 おびただしい量の血が地面にこぼれていることに気づくと、人々は次第に冷静さを取り戻してきた。メロスを襲った暴漢らはズルチン一味によって地面に押し倒されていた。その血だまりの中にはメロスがかわいがっていた羊が一頭、倒れていた。

 メロスの危険を察知すると、真っ先にメロスの前に立ちふさがって盾となり、その結果こうして命を落としたのだった。メロスは無傷で、大騒ぎしていたほとんどのものもたいした傷は負わず、せいぜいが転倒による擦り傷や打撲、捻挫ぐらいのものであった。

「これはメェー助だ」

 メロスは死んだ羊の傍らに腰を下ろして、血で濡れるのも構わずいたわるようにその横腹をなでた。

「あんたが飼っていた羊か。大事にしていたんだな」

「この場にいただれよりも勇敢だった」

「しかしひどい名前だ」

 メロスはこんなことなら妹の意見を取り入れてセントクリストファーとかジョセフィーヌとか名前をつけておくべきだったかと少しだけ後悔した。ほかの羊たちもメェー助を取り囲んでメェーメェーと鳴いた。悲しげなメェーであった。

「いったいだれの差し金だ。痛い目を見せてやろうか」

「こいつらもプロだろうからちっとやそっとじゃ吐きゃしねえだろ」

「けっ、まあいい。おおかた予想はついてるんだ」

 ズルチン一味は手慣れた手つきで暴漢らを縛り上げると道端に転がした。暴漢らは何事か媚びるようなすがるような恨みがましいような視線を送っていたがメロスたちは黙殺した。

「おれはなんとしてもゴールまでたどり着き、ディオニス王の邪心を打ち砕かねばならぬようだ。メェー助、お前の犠牲は決して無駄にはしない。お前の主人はきっと英雄になってみせよう」

 メロスは頭痛、吐き気、倦怠感、関節の痛みに耐え、満身創痍の身に鞭打って走り出した。


「どうした、何か言い残したいことはないか。タバコも一本ぐらいなら吸えるがどうだ」

 刑吏の問い掛けにベラマッチャは無言で首を振った。

「あの刑吏、新人のわりにはなかなかいい声じゃないか」

「ベラマッチャという兵士の表情もなんともいえない。これは今年の名死刑候補か」

 聴衆らはそのやりとりを固唾を飲んで見守りつつも、いまにも広場の入り口にメロスか何かが現れないかと期待している。

「牧田、それにしたっていいざまじゃないか」

 唐突に刑吏はほとんど唇を動かさずにベラマッチャにだけ聞こえるぐらいの小声でささやいた。久しく忘れていたが聞きおぼえのある声だった。ベラマッチャは自分の心臓の鼓動を感じるほどの驚愕と動揺をおぼえた。

「しっ、表情はそのままにしておけ。お前に気づかれなかったってことは、おれの変装もなかなかのもんだろう?」

 刑吏の正体は伊藤だった。牧田の脳裏にアパートでの数カ月の記憶が壊れたスライドのように高速で流れていった。

「いいかよく聞け。お前は死なない。あの縄には細工を仕掛けてある。この処刑は失敗する」

 聴衆に気取られぬよう、伊藤は牧田から何かを聞き出そうとしているかのようなふりをしながら話を続けた。

「細かいことは後で話すが、いまはあのときの借りを返しに来たとでも思っといてくれ。あの世から請求書でも送られれば後生が悪いんでな」

 牧田は何かいおうと顔を上げたが、周囲から湧き上った歓声によってうやむやにされてしまった。歓声は広場に事務官が現れたためだった。事務官はうやうやしい所作で勅命書を運んでくると、ベラマッチャというなにがしそれがしという人物をこれこれこういう理由で処刑しますということを、周囲のだれも理解しないようなもったいぶったくだくだしい表現で宣言した。

 ディオニス王は高所から処刑台を見下ろしながら、メロスとかいうアンポンタンがやってきて、眼下で行われている虚栄と建前で糊塗した馬鹿げたなりゆきをぶち壊してくれることを切望した。何もかも、くそくらえだと毒づき、これではまるで白馬の王子様にさらわれることを妄想するお姫様じゃないかと自嘲気味に顔をしかめた。

「それではこれより執行を開始する」

 事務官は勅命書を読み終えると、刑吏に一礼して執行をうながした。聴衆らの興奮は最高潮に達している。伊藤は返礼して、牧田を後ろ手に縛って目隠しをした。階段を一段ずつ上がらせながら、伊藤は小声でささやいた。

「あの縄は切れる。頭だけは打たないように気をつけろ。お前が落ちたのを合図に、この広場で大騒動が起こる。おれはそのどさくさに紛れてお前を抱えて逃げる手筈になっている」

 周囲に気づかれない程度、牧田はかすかにうなずいて答えた。目隠しの布が濡れてにじんでいたが伊藤は気づかないふりをした。

「待て、待ってくれ!」

 牧田が輪っかに首をかけようとしたそのとき、広場の入り口から声が聞こえてきた。初めは聴衆らの喧騒にかき消されたが、事態に気づいたシラクスの人々らはたちまち静まり返り、と同時に、人垣が割れて入り口から処刑台まで一本の道を作り出した。

 メロスがどういう人物であるかを把握していなかった人々は、この乱入者こそがメロスであるに違いないと考えた。唯一、牧田だけは耳に届いた声からその人物の正体を理解していた。

「その男が何をしたか知らんが、どうか待ってくれ。その男は私の息子なんだ。息子が何をしたかは知らないが、どうか許してくれないか。どうしてもというなら親の私から殺してくれ!」

 やってきたのは牧田の父親であった。少し前に、牧田の父親は見知らぬ番号から着信を受けた。妙な悪い予感をおぼえながらも出てみると、私はおたくの息子さんを雇用しているものだが、おたくの息子さんがこれこれこういうことになっている、ということを伝えられた。電話をかけてきた相手はこのことを伝えるべきかどうか相当に迷ったそうなのだが、そこから先の判断は無責任かもしれないがあなたにゆだねる、と慙愧に耐えないといった口調だった。

 連絡を受けて、牧田の父親もまた同じように迷った。しかも彼の場合はもう時間がない。息子が一人の人間として好きで選んだ道なのだから親がとやかく口出しするものではないのかもしれない。それはそれで自分も世間も納得するだろう。

 急に仕事場から帰ってきたと思いきや難しい顔でずっと居間で腕組みをして唸ってばかりいる夫を不審に思い、何事かと問い詰めて牧田の母親も事情を知った。そして二人で相談した結果、やはり息子にはまだ死んで欲しくないという結論に達した。

 予定外の乱入者に事務官はあからさまに困った顔をしていた。死刑にやかましい生粋のシラクスっ子たちは、執行の直前で「待った」がかかった前例と、それに対してどんな処置が行われたかを知悉しているのだが、今日の事務官は場数が足らないようで対応に困窮しているのがありありと伝わってくる。シラクスっ子は、「お役人さん、さあどうする」と意地悪な好奇のまなざしを遠慮なくぶつけている。

 刑吏に扮した伊藤はたいして動揺していなかった。実際の現場で予定外の事態が起こることなど当たり前だと思っていた。なんにせよ、牧田の処刑が失敗するなり中止するなりしてくれれば、王権への不信と不満は爆発する。それを嚆矢に、この広場に紛れ込ませている工作員たちが一斉に騒動を起こしてシラクスの人々を巻き込んだ暴動を起こす。混乱に乗じて国境で待機している東の国の軍隊が一気に攻め込む、という計画になっているのだった。

 牧田の父親は事務官にすがりつこうとしたが、立場上の役目として一応止めなければいかんと判断した伊藤にやんわりと制止された。牧田の父親はどうかお願いしますと事務官に土下座したが、伊藤に「頼むなら陛下へ」と耳打ちされるとディオニス王に向かい直して何度も何度も地面に頭を打ち付けた。ディオニス王まで届きそうにもないのだが、牧田の父親は喉がつぶれんばかりの大声でお願いします、お願いしますと叫び続けた。

 子を思う親のともすれば無様ともいえるほどの行為は、処刑すれしたシラクスっ子の心さえ動かそうとしていた。一方からは、なんかもうかわいそうだし処刑しなくてもいいんじゃない、という雰囲気がただよってきたが、別の方面からは、でも知合いがやめてっていったぐらいでやめるんだったらいままで処刑されてきた人が不公平だよね、という雰囲気もただよっていた。そして、これら相反する意見を止揚するところによれば、つまるところはこの場を収める事務官殿の腕の見せどころじゃないですか、という結論に収束した。

 事態は明らかに事務官の裁量を超えていた。死刑執行を止める権限なぞこの事務官は持ち合わせていなかったし、かといって、事態を適切に処理しないまま執行を強行すれば思うように欲求を解消できなかった市民らが暴徒と化して、袋叩きにされるのではないかと恐怖した。ここ最近は死刑執行があまりにも滞りなく進み過ぎたために、ろくな警備を用意していなかったことも災いしていた。

 事務官は「なんでおれのときに」と己の運の悪さを神に呪った。自らにはなんらの落ち度もなく、ただ単に今日が当番だったというだけで、どうしておればかりがこんな目に合わねばならんのだと腹を立てていた。なんとかいいつくろってこの場を一旦切り抜けて、上長なり王様なりの意見を仰がなければならないと考え、上手な建前を全身全霊でひねり出そうとしていた。

「もうよい。もう人が死ぬのはたくさんだ」

 威厳に満ちた声が聞こえた。感情を込めないというよりも、あらゆる感情を飲み込んだ結果として公平さと中立さを具現したような声だった。

 ディオニス王が広場に下りてきていた。周囲は水を打ったように静まり返った。ディオニス王はベラマッチャたちのところまでゆっくりと近づきながら、広場に集まった人々すべての人生を慮ろうとしていた。

「村長、なんか急に静かになりましたね」

「そうじゃな。ま、あっちはあっちでなんかやっとるんじゃろ」

「そんなことより、どうですか村長。せっかくシラクスまで来たんですからこの後は例の店で一杯」

 やってきたディオニス王に事務官が最敬礼をすると、王は「もういいんだ」とやさしい声色で返答した。ディオニス王は地べたにはいつくばっていた牧田の父親のそばにやってくると、「息子さんには大変申し訳ないことをした」とひざまずいて頭を下げた。王が謝罪して頭を下げるなど前代未聞の事態であり、人々はなんとか声を殺しながらも浮き足立った様子でなりゆきを見つめていた。

 ディオニス王は処刑台に上るとベラマッチャの目隠しを取った。手を縛っていた縄はほどけなかったため、刑吏にベラマッチャの縄を解くようにお願いした。

 ベラマッチャを処刑台から下ろさせると、そのまま王は一人だけ処刑台に残った。

「私はいままで多くの間違いを犯してきてしまった。どんな言い訳をしたところで、それらは決して許されることではないと思う」

 ディオニス王は処刑台の上から人々に語りかけた。シラクスの人々は王の姿をまともに見ることができず、ほとんどのものはうつむいて王の声に耳を傾けていた。初めは軽い幻滅をおぼえて、それから羞恥と悔悟の心がわきあがってきていた。

 伊藤は「おやおや」とかすかに驚きつつも、さもあればあれ、たぶん王はあのまま首を吊ろうとするだろうから、どさくさで暗殺してしまえばいいと判断していた。

「私には民を治める能力も大義もなかったのだ。許されることではないとは思っているが、私の最後の個人的なわがままだと思って、どうか見過ごして欲しい」

 ディオニス王は事務官に装置の操作を命じると、だれに命じられるでもなく自ら輪っかに首を突っ込んだ。

「待て待て待て! メロスだ、メロスが約束どおり戻ってきたぞ!」

 そのとき、静まり返った広場にお呼びでないといった無神経で独りよがりで手前勝手な声が響いた。白けた空気がただよったが、我らがメロスはそんな機微など感じるはずがない。

「おれこそがメロスだ。勇者が帰ってきたぞ。おれは英雄になったのだ!」

 集まった人たちはみな「なんだこいつ」という顔をしていた。ベラマッチャの父親が待ったをかけた時点で身代わりのネタは達成しているのだから、このかぶりは蛇足であり野暮でありいかにも無粋である。

「なんかメロスさんの声があっちの方から聞こえますよ」

「ありゃ、入り口がほかにもあったんかい」

「まあそのうちこっちに来るでしょ」

 メロスは人々の反応になど全く気づかないまま、何度もよろけながらも広場の中央までたどりついた。

「おや、ベラマッチャ君じゃないか。君はもう処刑されないことになったのかね」

 ベラマッチャはやや気まずそうにメロスから顔をそらした。そこでようやくメロスはあたりの様子がぎこちなく、自分の存在が余分なものであるらしいことを察した。

「となると、もしやセリヌンティウスが処刑されるのか?」

 そう思って処刑台を見上げればなぜだかディオニス王がいた。ふむ、こいつはいよいよもってわけがわからん。あれだけ大見得切って現れた手前、何かしなければ格好がつかない。

 ディオニス王もシラクスの人々もメロスが次の展開を作るのを待っていた。しかしこうなった事情を把握していないメロスには何をすべきかよくわからず、決まりの悪い顔をしながら腕組みをした。

「メロスさん、そこのレバーを引いてみてください」

 すると、刑吏の兵士がメロスに耳打ちした。

「いやしかし、これ引くとあそこの床が抜けるんじゃないのか」

「ええ、確かに抜けますが、でも王様はそれじゃ死にませんよ」

 ディオニス王は嫌なやつではあるが、殺すほど嫌なやつでもないなと思ったメロスは、念のため懐から『走れメロス』を取り出して最後のシーンを確認した。なるほど、確かにディオニス王は死なないようである。

「よし、じゃあやってみるか」

 メロスは深く考えるのがもうめんどくさくなり、えいやとレバーを引いてみた。あまりに斟酌のない思い切りの良さに、王もシラクスの人々も「え?」という顔をした。

 床がガコンと抜けて王はピューと落下した。人々は息を飲んだ。しかし縄はピンと張らずにたやすく切れて、王はドスンと地面に落下した。再び王とシラクスの人々は「え?」という顔をし直した。解放の瞬間を待ってたまりにたまった興奮の感情の行き場を失ったシラクスの人々はどこへともなく石を投げたり怒声を上げたりした。そのときを待っていたかのように、どこからともなく「天命はディオニス王にあらず! 革命だ!」という声が上がった。

 たちまちシラクスの人々は狂躁状態に陥り、めいめい思い思いの方向へと動き出した。どさくさに紛れて、日ごろから高慢ちきな官吏のケツを思い切り蹴り上げたいやつ、屋台から食い物をかっぱらいたいやつ、王様の装飾品を掠め取りたいやつ、ただ叫びたいやつ、脱ぎたいやつ、走りたいやつ、死にたいやつ、目立ちたいやつ、広場にはそういうろくでもないやつが大勢いた。騒動を収めようと遅まきながらいくらかの兵士がやってきたが多勢に無勢でどうにもならない。むしろかえって騒ぎを大きくしてしまったようである。

 メロスはぶん殴られたりぶん殴ったり、踏んだり踏まれたり、もみくちゃにされながらもなんとか広場から抜け出した。来たときとは別の出入口まで逃げ出すと、村長の谷口や妹のアイたちが待っていた。彼らの顔を見るとようやくメロスは生きた心地がしてきた。

「やあ、なんかえらいことになっとるね。革命でも起きたのかな、ははは」

 村長が朗らかに笑った。ゴールはうやむやになったが別に急ぐ仕事でもないのだ。今日の騒ぎが落ち着いたときにでもまたやり直せばいいだけのことだ。

 メロスたちが広場を出ると、すれ違いで東の国の軍隊が広場へ吶喊していった。振り返って広場を見れば、火の手が上がり、血しぶきが赤いもやを作り出していた。

「えらいことになっとるな。だがわしらにはどうしようもないことだ」

 シラクスの市を出ると、沿道では村人たちがメロスたちの帰りを待っていた。帰り道を一緒に歩いてくれるものがいるというのはいいものだと思うと自然とメロスは笑顔になった。

 メェー助の遺体を数人で運ぶことにした。メェー助が命を落としたところに石を重ねておいた。村長にメェー助のことを話すと、立派な慰霊碑を建ててやろうといって悲しんでくれた。

「お兄ちゃん、服どうしたの!」

 メェー助の死を悼んで、村人一同がしんみりした気持ちでいると、メロスの妹が頓狂な声を出した。夕闇と泥や返り血で汚れていてすぐには気づかなかったが、メロスがまとっていた衣装はぼろぼろになってほとんど裸に近い状態になっていた。

「おいおい、まだ酔っ払っているのか」

「英雄がいい格好じゃないか」

「そこからどうやって落とすつもりなんだよ」

 村人たちは口々にメロスを冷やかした。すると、なんの前触れもなく一人の女がメロスの目の前に現れて、英雄に緋色のマントを差し出した。

「なんだこれは」

 メロスが説明を求めると、女はしたり顔で答えるのであった。

「サゲでこざいます」

 おれはひどく赤面した。

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もしも走れメロスのメロスが太宰治の『走れメロス』を読んだら @con

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