幸せから絶望へ

 真夜中の三時。人々が寝静まる時間。

 白い十階建てのマンションの最上階の一室で、葵はぐっすりと眠っている。

 葵は骨董品屋アンティーク・ショップで貰った壺を窓の前の小さなテーブルの上に置いていた。この時間、その場所にはちょうど月光が差し込んできていて、不思議な雰囲気を持った壺に降り注いでいる。


 今、壺はその光を浴びて妖しく輝き始めた。


 次の瞬間、壺は閃光を発し部屋全体が輝きに満ちた。

 それは起きていたなら、目も開けていられないほどの眩しさではあったけれど、熟睡している葵が目を覚ますにはあまりにも短い時間だった。


 そうして、葵が身動みじろぎする間もないそのほんの一瞬の光が消えた後、壺の前には一人の娘が立っていた。

 娘は葵の眠っているベッドに近づきその端に腰かけると、腰を捻って葵の顔の前に手を伸ばした。その指先が軽く額に触れた途端、娘は葵の見ている夢の中へするりと滑りこんだ。



 葵の二十歳の誕生日。

 葵は遼と手を繋いで歩いている。幸せそうに笑っている葵。ただ遼の側にいるということが葵の幸せだった。ゼロの中から手に入れた葵の幸せ。遼と二人、いつまでもそれが続くと信じていた。


 その日は一日鎌倉を観光して歩いた。

 遼は随分街並みに詳しかった。ほとんど地図も見ずに歩く。


「なんでそんなにさっさと歩けるのよ」

「母さんの実家が昔こっちにあったんだよ。子供の頃は夏休みごとに帰省していたんだ」

「それならそう言ってくれたらよかったのに。遼にはつまらないんじゃない?」

「だって、来たかったんだろ。鎌倉。俺がよく知ってる街だって言ったら、葵は行先変えようとするだろうから」

「確かにそうだけど…………」

「ほら、次はこっちだよ」


 そう言って優しくリードしてくれる。甘やかされ過ぎているよなと思う。遼はいつでもそうだ。高校の時クラスの委員長や部活のキャプテンをしてみんなに慕われていた頃から。統率力があって時に厳しいことを言ったりもするのに、葵にだけはひたすら優しい。

 

 帰る前に海に行きたいと葵が言ったので、海へ足を向けた。海水浴客たちはもうほとんどが引き上げ、人影はまばらになっている。夕闇が少しずつ降りてきていて空が綺麗なグラデーションを織りなしている。他愛無いおしゃべりをしながら海水浴場の外れまでゆっくりと砂浜を歩く。


「今日、楽しかった? 知っているところばっかりでつまらなくなかった?」

「そんなことないよ。懐かしい場所に葵と一緒に来れてよかった。自分の秘密のテリトリーを明かしてるみたいで楽しかったよ。葵のいい表情かおもいっぱい撮れたし」


 屈託ない笑顔。

 この笑顔を見ると優しい真綿に包まれているような幸せな気持ちになる。照れくさいようなくすぐったいような思いをのせてふわりと笑み返すと葵は駆け出した。


「転ぶぞ」

「大丈夫だよーだ」


 後ろから声をかけてくる遼にくるりと踵を返して返事する。今日のために買った真っ白なサマードレスの裾が、薄闇の中ひらりと揺れる。

 遼はゆっくりと歩きながら何枚か写真を撮り、ふと足を止めて砂浜から石を拾い上げ凪いだ海に投げた。

 水切り。石はいくつもの波紋を残して先へ飛び跳ねていく。


「遼、うまい!」


 葵は遼のところまで駆け戻った。

 遼はもう一度投げた。先ほどと同じように跳ねていく石。最後は水面を滑るように進んでいく。


「私もやる」


 石を拾おうとしゃがむ。邪魔になる髪を耳にかけ、平たい石を探す。


「葵、手出して」

「何? 石、持ってるの?」


 遼を見上げて素直に手を出しながら尋ねると、悪戯っぽい笑みを浮かべている。


「いいものやるよ」

「いいもの? 綺麗な貝でもあった?」

「立って」


 葵を立たせ正面を向かせるとポケットから何か取り出して葵の掌にそっと乗せた。それは小さな赤い薔薇を模ったベルベットケース。遼は黙って箱を開けて中を見せる。


「誕生日おめでとう」

「…………遼、…………これ…………」


 葵は遼の顔を見てそれからもう一度自分の手の上に置かれたそれに目を落とした。花をモチーフにした指輪。五枚の花弁が葵の誕生石のルビーになっている。

 

「俺がお前の家族になってやるって言っただろ? まぁ、今すぐってわけにはいかないけどさ。…………いつか、な」


 いつになく照れくさそうに言いながら指輪を取り出し、葵の左手の薬指にはめた。

 葵の目からぽろぽろと涙が零れた。


「遼。遼…………大好きよ。あなたさえいてくれたら私、何もいらない」

「側にいるよ。ずっと」


 遼はそっと顔を近づけ軽く啄ばむようなキスを落とした。それからふわりと包み込むように葵を抱きしめた。

 葵は遼のシャツの胸元をきゅっと握りそこに顔をうずめた。薄いシャツ越しに体温が伝わってくる。

 繰り返す波の音を聞きながら葵は幸せを噛みしめていた。葵の孤独を丸ごと受け止めてくれる遼。家族の愛情に恵まれなかった葵の心の空洞を埋めてくれたのはいつも遼だった。そして葵を一人の世界から連れ出したのも。

 シャツから離した手を背中に回して隙間を埋めるようにぴったりと身を寄せる。二人だけの間に流れるゆったりとした時間に身を委ねる。心地好い瞬間とき

 すっかり闇が辺りを包み込み星が空一杯に散りばめられた頃、遼が腕をほどいた。


「そろそろ食事に行こうか」

「うん、お腹すいたね」

「すごく雰囲気のよさそうな店を見つけてあるんだよ。葵の気に入りそうな」

 

 ちらりと時計に目をやる。


「もしかして予約してるの?」

「勿論。今日は完璧なデートコースだろ? お姫様」


 茶目っ気たっぷりに言う。

 国道に出ると二人の正面に獣の爪の形をした白く薄い三日月が見下ろしている。それに向かってゆっくりと歩く。繋いだ手から温もりが伝わってくる。他愛無い会話。見上げると降ってくる笑顔。

 遼は何度も繋いだ手の親指でさっきはめてくれたばかりの指輪をこする。その存在を確認するように。その度に葵はちらりと見上げ、二人目交ぜする。そろって無意識に口元が綻び、きゅっと繋いだ手に力を入れる。



 葵が遼の顔を見上げた何度目かの瞬間、急に眩しい光に包まれた。と同時に葵は遼に車道と反対側の繁みに思いっきり突き飛ばされていた。

 葵の後ろで轟音が鳴り響く。


「…………りょ……………お?」


 繁みの中から不安げに振り返った葵のに映ったのは、ガードレールを突き破って歩道に乗り上げている大型トラックのひしゃげた残骸と、その数メートル先に力なく横たわっている血塗ちまみれの遼の姿だった。


「…………遼? 遼⁈」


 ふらふらと遼の側に近寄ると、そっと頬に手を触れた。──と、その瞬間に気づいてしまう。頬はまだ温かいのに、血はまだ流れているのに、遼がもう息をしていないということに。


「遼? …………やだ、遼⁈ 遼‼ 遼──‼」


 遼の頭を抱きかかえて泣きじゃくる葵の真っ白なサマードレスが、もう動かない遼の躰からなおも流れ続ける鮮血で真っ赤に染め上げられていく。




「遼──‼」


 毎晩のように繰り返す悪夢。葵は夜毎に自分の叫び声で眼を覚ます。

 幸せから絶望へ。夢は葵を翻弄する。




 


 


 





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