骨董品屋<アンティーク・ショップ>
通り向こうからセーラー服を着た女の子たちが数人、きゃっきゃっと笑い声をたててふざけあいながら歩いてくる。
楽しそうな笑顔。悲しみなんて何も知らないというように幸せそうに笑う少女たち。
少女たちは笑い転げながら公園に入ってこようとする。葵はいたたまれず半ば反射的に立ち上がり、少女たちが来るのとは反対側の出口に急いだ。
今はまだ、楽しそうな笑い声をたてている彼女たちの幸せに、必要以上に近寄りたくなかった。葵にとっての幸せは、彼女たちのように当たり前に手にしているものではなく、嵐のようにやってきて葵を巻き込み、葵がやっとそれに慣れた頃にまた嵐のように去っていったのだ。
”幸せ”を知った後に、もう一度その枠から追い出されるのは、筆舌に尽くしがたいほどつらいことだった。
逃げるようにその場を離れた葵は、少女たちの声が完全に聞こえなくなると少しほっとした。それから歩を緩め何気なく角を曲がったとき、およそこの町並みには似合わない小さな店が葵の目に飛び込んできた。
一軒の小さな
古びた──といってもぼろいのではなく、年代を感じさせる重みのある古さ。それは暗く冷たいイメージはなく、優しく温かい──胸の奥底から自然に湧き上がってくるような懐かしさを思わせる。
葵は妙に心惹かれて店の前で足を止めた。
あの日以来、葵が何かに興味を示したのは初めてだった。
チリーン
荘重な雰囲気に似合った柔らかい鈴の音が小気味よく響く。象牙色の扉は思ったよりも軽く、葵は吸い込まれるように店の中に足を踏み入れた。
店の中は美しい
脚の部分が鷲のはばたいている形になっているコンソールテーブルの隅っこについている小さな傷や、短脚洋箪笥の角にあるナイフでついたような傷。テーブルランプの笠を綺麗に彩っているステンドグラスに入っている小さな蜘蛛の巣模様のひび。金髪で青い目のフランス人形の、汚れているというのではなく少しくすんでいる様。
それら全てが歴史を物語っている。
ここは居心地がいい。
葵は肌でそう感じとっていた。骨董品たちは葵に対して、いや多分誰に対してもなんだろう、とても優しい。
長い長い時を経てここに辿りついてきた骨董品たちの間で葵はしばし全ての哀しみを忘れて幸せな気分に浸った。
穏やかに時が流れる。
一つ一つに目を向け、心の中でそれらに話しかける。
お前たち──永遠に時とともに生き続ける物たち。お前たちが全ての人々に安らぎを与えるのと同じように、全ての人々がお前たちを大切に慈しんでくれたらいいね。
と、そのときふと一つの壺が葵の目に留まった。
それは一見何の変哲もないただの壺だった。
淡いエメラルドグリーンの上に白を重ね塗ったような色合いの青磁で、口は狭く両脇に小さな飾り取っ手がついていて、その下は緩やかなカーブを描いて膨らんでいる。
他の物とどう違うのかは分からなかったけれど、葵は何故か妙にその壺に魅かれた。
そこにある全ての物が、その歴史でもって己の存在を主張している中で、どういう訳かその壺だけが異色だった。まるで今まで”時”に関与されたことがないかのように超然と存在している。
葵はその壺に言い知れぬ親近感を覚えた。指先でそっと壺の表面に触れる。ひんやりと冷たい感触。けれど不思議と心の中が温かくなるような・・・。
「その壺が気に入ったようですね」
突然後ろから声をかけられ、びくっと躰を震わせた。
ぞくっとするようないい声。深い澄んだバリトン。──遼の声に似ている。
そんな思いを胸に葵はゆっくりと振り返った。
二十五、六才だろうか。すらりとした長身。背中まで伸びている髪を無造作に左肩の上で束ねている。男の人の長髪は嫌いな葵だが、この店の雰囲気と青年の柔らかい笑顔が醸し出す様子のせいか、不思議と嫌悪感はわかなかった。
声が似ているせいか顔立ちまで遼に少し似ているように思えた。
高めの鼻、薄い唇、一見クールそうに見える切れ長の眼。でもその奥にあるのは柔らかく誰もを包み込んでしまう優しい
「ええ。…………この壺は、とても優しい」
葵は触れている壺に目をやり、素直に言葉にした。
「そうですか。それなら、あなたに差し上げますよ」
男はさらりと言う。
「ええ⁉」
だって、こんな高そうな物をそんな簡単に……。
葵は慌ててもう一度壺に目を走らせる。
よく見ると、その壺にだけ値札がついていない。周りに置いてある他の物にはどれにもちゃんとついているというのに。
「これはね、売り物ではないんですよ」
男はその壺を手にとって微笑みながら言う。
売り物じゃないって……それじゃ、売り物にできないほど高価だってこと? それとも何か思い出の品とか……? でも、それならどうして譲るなんて?
そんな葵の思いを見透かしたように男はもう一度柔らかく微笑み、手にした壺の表面をするりと撫ぜた。
「壺がね、自ら選ぶんですよ。自分の所有者を…………自分を必要としている人をね。だから、この壺があなたに優しいということは、壺があなたのところへ行きたがっているということなんですよ」
「……は……あ……」
葵は不得要領な顔をして曖昧な返事をする。
「いらなくなれば返しに来てくれてもいいですし、誰かにあげてしまってもかまいませんよ」
男は言いながらてきぱきと手を動かしてすぐに壺を包装してしまい、葵は訳が分からないうちにそれを受け取ってしまっていた。
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