星作り<シュテルン・マッヘン>
楠秋生
プロローグ
嫌になるほど空が青い。
葵はゆっくりとした足取りで小奇麗に並んだ住宅街を適当に歩いていた。どこを歩いているのかまるでわからなかったが、別にどうでもよかった。ただ歩きたかっただけなのだ。
あんまり空が青いと泣きたくなってしまう。
小さな公園に出くわした葵は、黄金色の葉がだいぶ落ちて淋しくなった銀杏の下のベンチに歩み寄った。足元で枝から離れてしまった木の葉たちが渇いた音をたてる。
胸にちりりと痛みが走る。
葵はベンチにそっと腰を下ろすと恨みがましく抜けるように青い空を見上げた。
冬の間近な晴れた午後の秋空は、青い水彩絵の具を幾重にも塗り重ねたように見える。それはまるで透明な薄青い液がそこにあるかのように不思議なほど深く澄みきって、その奥はずっと高くどこまでもそれが続いているかのように思わせる。
不意に、葵の意志を無視してぽろりと涙が零れた。
「…………やだ」
慌てて手の甲で涙を拭う。
あんなに泣いたのにまだ涙は涸れないのか、と自嘲するような笑みが微かに葵の口元に浮かぶ。
こんなことを繰り返していてもどうしようもないのだということは、葵にもよくわかっていた。……理屈では。
それでも葵はこの
行先も決めず、歩くことが目的でもなく、ただあてもなく歩き続けている葵の姿を、三月前までの彼女を知っている者が見たならば、そのあまりの変わりように絶句したであろう。ただの通りすがりの人の眼にも重い足取りで彷徨い歩いている姿はかなり強烈な印象を与えた。
死をも凌ぐ絶望の淵を覗きこんだ葵には風采などどうでもよかったが、元より人目を惹きつける端麗な容貌を覆いつくしている哀しみは、人々の心を深く打った。多くの人は彼女を見た数瞬の間、一体どれほどの哀しみが人をここまで悲壮にさせられるのかということに心を奪われた。
あの日までの葵は、とてもよく笑う女の子だった。くるくるとよく変わる豊かな表情。いつでもどんな時でもきらきらと目を輝かせていて、彼女から幸せそうな笑顔が絶えたことはなかったほどだったのだ。
それがあの悲しい事故で、葵の人生観はぐらりと傾いだ。
幸せな色で染め上げられるはずだった彼女の人生は、一瞬にして黒々とした闇の中へ突き落とされたのだ。
葵を慰めようとした人たちのどんな言葉も彼女の心にまでは達しなかった。例えそれが真に彼女のことを思って言ってくれた、じんと心が温まるような言葉であっても、である。
頭の表面では、それらの言葉をありがたく受け止めていた。心配してくれる人たちに感謝しなくては、という考えもあった。
けれど彼女の心は、そういった言葉さえ受け入れる余地もないほどに塞ぎ込み、哀しみがその大部分を占めてしまっていた。
今の葵は人生という長い長い旅路の途中で進むべき道を失ってしまった寄る辺なき迷い子だ。
身動きがとれない。
それでも、だからこそ、認めたくない現実から逃れるために歩き続けなければならなかった。
家の中で一人きりでじっとしていると、不安が恐怖とともに訪れてきて、彼女を呑み込んでしまいそうだったから。
そして家を空けて歩き続けるもう一つの理由は、今はまだ誰にも会いたくなかったから。このままではいけないとは頭のどこかで思うのだけれど、感情がついていかない。
高校時代からの友人の保奈美から何度も電話やメールが入っているが、返事はしなかった。
何も考えたくない。
夏休みが終わり後期の授業が始まると毎日のようにメールが入るようになった。家に帰ると玄関に張り紙がしてあることもある。大学に来ない葵を保奈美が心配してくれているのはよくわかるのだけど、自分の気持ちだけで精一杯で心配してくれる彼女の気持ちに応える余裕などなかった。
自分が生きてこの世に存在しているという事実さえもが、葵の心を責め苛んだ。全ての記憶が葵を追い詰める。
葵は空を見上げたまま目を閉じた。
もうすでに冷たくなってきている風が葵の長いストレートの黒髪を撫ぜてゆく。
空の青に溶けてしまいたいと葵は本気で思った。
このまま木枯らしの吹き抜けてゆく中でじっと目を閉じていれば、その澄んだ空気の中で自分の身体も透き通っていくような気がした。
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