星の精
はぁ…………はぁ…………はぁ。
すごい汗が葵の躰から噴き出している。ゆっくりと身を起こし袖口で額の汗を拭うと、葵は両手で顔を覆った。
腕の中でだんだん冷たくなっていく遼の躰をどうすることもできずにただ強く抱きしめて泣いていたあの日の生々しい記憶を、
いくら揺すっても返事の返ってこない肉の塊になってしまった遼の躰を、それでも揺すりながら名を呼び続けた。
だらりと垂れ下がった意思を持たない腕が、葵が揺さぶる度にゆらゆらと揺れる様。血の気がどんどん失せてゆく薄い唇。閉じられてしまって開かない瞳。背中に回した掌を濡らす血液の固まってゆくぬめぬめとした感触。
すべてが消そうとしても消せない記憶の回路にインプットされている。
どうしてあの時一緒に死ねなかったのか。
どうしてあの時狂ってしまえなかったのか。
両手を顔から剥がして見つめながら葵は思った。その手が今も遼の血で真っ赤に濡れているように見え、もう一度顔を覆ってしまう。
ああ、いっそ狂ってしまえればよかったのに。
何度そう願ったことか。
けれど葵には後を追うことも許されなかった。
斎場を後にしようとした葵の背にかけられた遼の妹の
「許さないわよ! 死んだりしたら、許さないからね‼」
半ば涙声で、それでもはっきりと聞きとれる力のこもった声だった。
「お兄ちゃんは葵さんを守るために自分の危険も省みずに死んでしまったのに、そのお兄ちゃんが守った命を粗末にしないでよ⁉ 生きてよ! 絶対に死んだりしないで‼」
葵さん、葵さんと慕ってくれていた遥香。お兄さんっこだった遥香はしょっちゅうデートにもついてきていた。遼は渋面を作っていたけれど、葵は愛嬌たっぷりの遥香の仕草や茶目っ気のあるおしゃべりが大好きだった。遥香も「そのうちお姉さんになるんだよね。葵さんみたいなお姉さんがほしかったんだ~」とよく言ってくれていたし、葵も本当の妹ができたようで嬉しく思っていたのに。
遥香の声が頭から離れない。……死を選ぶことはできない。
呼び止められて判決を待つ死刑囚のように視線を落としていた葵にかけられたその言葉を思うと、いつも焼香の時の場面が思い出されてしまう。
彼に期待していただけに落胆の色を隠せず、それでも涙は見せずにきっと心で泣いているであろう父親に、ハンカチを目に押し当てたまま嗚咽をもらしている母親。そして俯いてぼろぼろ涙を零し声を押し殺して泣いている遥香。
誰も葵を責めたり詰ったりしない。
憎まれても当然なのに、恨まれても当然なのに。
葵の身を案ずる遥香の胸中を思うと、葵は頷かざるをえなかった。
喉の渇きを覚えてベッドから滑り出てよろめくようにキッチンへ向かう。葵の視界に昼間貰ってきた壺が妖しく光るのがはいった。
ふと思い出す。店の男が葵に壺を渡すときに言った言葉を。
「その壺はね、”
不思議な魔力に吸い寄せられるように壺に歩み寄り、指先で滑らかな表面を撫ぜながら話しかける。
「ねえ。もしお前が本当に魔法の壺なら、私の願いをきいてくれるの? それなら、遼に会わせて。…………遼を返して。もう一度遼を生き返らせてよ」
葵はあふれる涙を拭おうともせず、涙声になりながらも壺を撫ぜ続ける。
「遼に会わせて…………」
と、今までどこにいたのか、さっきの娘が葵の肩に手を置いた。
葵はびくっと躰を震わせ後ろを振り返る。
「…………あ…………なた…………誰?」
娘を見つめながら、かろうじてそれを口にする。突然現れた娘に怯えているのか。心なしか声が震えている。
「葵…………怖がらないで、葵。私はステラ。
「
「そう。”
「星作りって?」
「言葉の通りよ。星を作るの。…………太古の昔から星を作り続けてきたわ。昔はね、星はもっと少なかったのよ」
「星を作る…………ってどうやって?」
「人の哀しみを取り除いてあげるの。それをこう、ボールのように丸めてね、壺の中に入れて空にうちあげるのよ。花火みたいに。…………今、この地球の上空に見える満天の星たちは、私たち星作りが何千年もかけて打ち上げてきた人々の哀しみの心なのよ」
葵の素朴な疑問にゆっくり丁寧に答えてくれるステラに、葵はだんだん緊張を解いていった。
「さっきのあなたの夢、見させてもらったわ」
人差し指を頬に当ててちょっと小首を傾げたステラは、葵の反応をみるようにゆっくりと言った。
「夢? …………ああ」
葵はステラの意味するところを理解すると、また身を固くして明らかに不快そうな顔をした。そのことには触れてほしくないという意思がありありと窺える。
ところがステラは葵のそんな態度をまるっきり無視して少しも表情を変えずに細く白い手をすっと葵の方へ伸ばした。葵は無意識にびくっと躰を打ち震わせてわずかに身を引いたが、ステラは構わずに葵の頬に手を触れた。
「怖がらないで。私はあなたを傷つけたりしない」
「…………」
ステラの言葉に葵は何か言おうと口を開いたけれど、それは言葉にならなかった。頬に触れた掌から何か温かいものが伝わってくる。
「葵。あなた、人が怖いのね」
葵を見つめるステラの瞳には哀しみが満ちていた。
「…………同情なんていらない」
葵はなんとか声を絞りだしてそう言った。冷たく突き放すように言うつもりだったのだけれど、実際にはひどく掠れてほとんど聞き取れないほどだった。
それは葵の本心ではなかった。……そう、葵は本当は誰かに助けてもらいたかったのだ。ただ、人にそれを伝える術を知らなかった。遼以外の人を信じきることができなかった。自分を曝け出してしまうことはできなかったのだ。
けれど、頬に触れた掌から伝わってくる何か。そして嘘のない真摯な瞳。それだけで十分だった。凍りついた葵の心を溶かすのには。
葵の目から熱い涙が溢れだした。
葵が人前で泣いたのは、遼が死んでから初めてであった。葵は止めどなく溢れる涙を拭おうともせずただ目を閉じた。
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