出会い

「遼と出会ったのは高校の時なの」


 葵がやっと口を開いたのは、それから小一時間もたったころだった。葵はステラの胸に顔を半分埋めたままの姿勢で囁くように言った。


「遼は私と正反対の存在だったの」


 この一時間ずっと泣いている葵を優しく抱きしめてくれていたステラに、葵は完全に身も心も委ねていた。ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「私は…………全てに関して無気力だった。なんのために生きるかわからず、みんなの間をうまく生きる術も知らず、何事にも関心を持たずに日々を過ごしていた。

 私は叔父夫婦に育てられたの。小学校に上がる前に両親が亡くなって。

 …………愛情なんて感じたことなかった。叔父さんは無関心だったし叔母さんには嫌われていたわ。同じ年の従姉妹は学校でも目の敵にしていろいろしてきたし。影薄く静かに波風立てないようにそれだけに気をつけていたの。・・・こんな話、つまらない?」


 葵は初めて顔をあげ、優しく彼女を見下ろしている顔を仰ぎ見た。


 ステラはそのぞくっとするような美しさに息をのんだ。かそけき星の光よりも儚げな存在。その漆黒の瞳に色濃く影を落としている哀しみのあまりの大きさに胸をつかれた。その瞳は深い深い哀しみに満ちていた。

 隠そうとしても隠しきれず瞳に垣間見えてしまうような悲しみではなく、同情をひくため自ら悲しみを主張している瞳をしているわけでもない。


 哀しい、哀しい、哀しい。


 瞳に宿っているのはただその想いだけ。辺りの人なんて関係ない、剥き出しの感情。

 ステラは言葉をうまく舌にのせることができず、小さく横に首を振った。葵はほんの少しだけ微笑んでまた話し始めた。


「遼は…………私と違ってとても目立つ存在だったわ。何にも関心を持たないようにしていた私でさえ彼を知っていたくらい。…………いつも何かをしようとしていて、彼の周りはプラスのエネルギーがあふれてた。

 一体どこからあれだけのエネルギーが湧いてくるのかいつも不思議でならなかったの。私は良きにしろ悪きにしろ、意思というものを持たないようにしてたから。自分の置かれている状況に対する反発や反抗なんていうマイナスのエネルギーすら持ち合わせていなかったくらいだもの」


 俯きかげんの横顔が苦笑する。


「遼は不思議と人を惹きつける人だったわ。同性も異性も、彼に惹かれずにいられないの…………」


 ステラはその細い指で半ば髪を梳くようにして葵の頭を撫ぜた。しなやかな白い指が葵の黒髪の隙間を見え隠れする。

 そしてステラは、そのままするりと葵の意識の中へ滑り込んでいった。




 放課後の屋上に葵はいた。

 手摺に肘をついてその上に顎をのせ、校庭を走り回っている豆粒たちの動きをぼんやりと目で追っている。天気がいい日はよくここで時間をつぶしてから帰っていた。

 早く家に帰っても叔母に気を使いながら家事の手伝いをするだけ。ゆっくりくつろげるわけでもない。


 従姉妹の沙羅と同じ私立の小中学校に通っていた間は真面目にまっすぐ家に帰っていた。学校にいても彼女とその取り巻きにいつも監視されているようで気の休まるときはなかったからだ。

 初めて出会ったときから沙羅は葵をひどく嫌った。理由はわからない。そして初めは優しかった叔母にもだんだん邪険に扱われるようになった。沙羅があることないこと叔母に吹き込んだようだった。弁解は通用しなかった。

 叔父は家庭内のことに関心を持たず、煩わしそうにするだけだった。

 葵は笑わない子になった。自分の感情を表情かおに出すこともやめた。葵は”生きている”のではなく、人形のようにそこに”存在している”状態で育ってきたのだ。


 その沙羅が高校まで葵と一緒は嫌だと言い張ったため、彼女はそのままエスカレーターで私立高校に行き、葵は公立の高校に入った。

 沙羅と違う行動をとるようになり心に余裕が生まれた葵は、放課後は図書館で勉強してから帰ると叔母に言ってみた。「家の手伝いもしないで!」と反対されるかと思いきや意外にも叔母は簡単にそれを許可してくれた。


 そうして葵はほんの少しの自由な時間を手に入れた。

 

 それから葵は叔母に言った通りに図書館で過ごすか、あるいは学校の屋上で誰にも束縛も監視もされない一人の時間を過ごすかというような放課後を送るようになった。

 それまで”自分の時間”を持たなかった葵にとって、それはひどく嬉しいことだった。誰にも気を使わなくてもいい、無表情の仮面を被る必要のない時間。この一人きりの時間には、葵は何かを見て微笑みを浮かべることさえもあったのだ。


 そう、それはちょうど葵がからまるように飛びまわる二匹の蝶を見て微笑みを浮かべたときだった。


 カシャッ


 近くで小さな機械音がしたような気がして、何気なく振り返った。


「お前って、一人きりのときはいい顔するよな」


 それが遼だった。カメラを片手に微笑んでいる。

 同じクラスの人の顔すら全員は覚えてない葵でも隣のクラスの彼を見知っていた。

 入学して二カ月しかたっていないというのに、もう学校中で彼を知らない人はいないというくらい何かと話題にことかかない男だ。聞く気がなくても彼の名前は耳に飛び込んできた。

 顔がよくて優しくて頭もよく、サッカーが上手で入部してすぐにレギュラー入りしたとか。誰それが告白したとか。

 

 葵は誰にも見せたことのない表情かおを写真に撮られたのかと思うと、恥ずかしさと憤りで真っ赤になった。


「私にかまわないで」


 葵はすぐにまたいつもの無表情に戻り、冷たく言い放った。


「とげのある言い方だな。なんでそんなに人との間に壁を作っちまうんだよ」


 遼は陰りのない瞳でまっすぐに葵を見ている。葵はなんと答えていいのかわからず、彼の視線から逃れるため俯いた。


「秋吉」

「え?」


 葵にはどうして遼がクラスも違う葵の名前を知っているのかわからなかった。


「のぼりぬる けぶりはそれと わかねども 

    なべて雲居の あはれなるかな

 って歌、知ってるか?」

「源氏物語ね…………」


 遼が微妙な節をつけて詠んだきれいな声に惹かれて、ついこたえてしまった。


 この人は一体何が言いたいのだろう。


 それは、源氏が正妻葵の上の死を悼んで詠んだ歌だった。訝し気な視線を投げかける。


「お前の両親は、葵の上にちなんでお前に名前をつけたと思うか?」

「…………」


 葵の上。

 左大臣家の一人娘。母は内親王で桐壺帝の妹。后候補きさきがねとしても十分な家柄に生まれ、十六で四つ年下の源氏とめあわされたけれど、年上のため深窓育ちのために素っ気ない態度をとってしまい、源氏の愛を得られなかった不器用な女性。


「俺はそうは思わない。それよりもむしろ葵科の花々を連想するな。立葵や花葵、木槿むくげ芙蓉ふよう。どれもきれいな花ばかりだ。葵の上のように沈んだ顔より華やかな花のように笑った方が絶対ににあうと思う」


 遼は親しみをこめて葵に微笑んだ。

 その瞳の色はあくまでも優しく、暖かな陽射しに包みこまれるような錯覚にみまわれる。葵にこんな風に微笑みかけてくれる人は今まで誰もいなかった。──遠い記憶の両親以外は。

 葵はその笑顔を眩しく思い、強く心惹かれた。


「あなたに関係ない」


 けれど思いとは裏腹に葵は素っ気なく言い放ってその場を立ち去ろうとした。

 

「好きだ」


 すれ違いざま、腕をとられて告白される。

 頭の中が真っ白になった葵は手を振り払って駆け出した。 




「それが私と遼の初めての会話だったの」


 葵は遼の少しはにかんだような表情を思い出して顔を綻ばせた。


「ふふっ。いつだったか言ってたわ。話しかける口実を探すのに四苦八苦したって」



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