思い出の欠片

 次の日から遼はどんどん話しかけてくるようになった。休み時間や昼休み、登下校中。まだ何も返事をしていないのに、まるで気にしていない様子で話しかけてくる。




「あ~きよし!」


 呼ばれて振り向いた隙に反対側から箸先の卵焼きを食べられて固まってしまったり。




「秋吉の髪、さらっさらで綺麗だよな~」


 言われて毛先をそっと触られて応えられずにいると、器用にリボンを結んでにっこり笑って、


「この色、似合うよ」


 その一言に顔がほてってしまう。触られいるのは毛先なのに、まるでそこに神経が通っているかのようにドキドキしてしまったり。




 最初はどう対処していいかわからず戸惑ってばかりだった葵もだんだん打ち解けていき、遼の軽いジョークに少しずつ笑顔も出るようになった。

 遼が話しかけるようになって、自然と周囲との関係も変化していった。クラスメートと普通に会話できるようになり、友達も出来た。


「秋吉さんって、なんか最初のイメージと全然違う」

「うん、いろいろ噂聞いたけど・・・」



 噂。

 それがどんな内容なのかは葵には大体わかっていた。中学校の頃からでまわっていたそれは、葵が援交しているだとか不倫しているだとかいろんな男をとっかえひっかえしてるとかいうろくでもないものだ。だから自分たちみたいな同級生は子どもすぎて相手にできないんだろうと。

 中学時代、葵はそれを否定してまわらなかった。そんなことをしても無駄だとわかっていたから。悪意をもって発信し続ける者がいるかぎり、そして彼女──沙羅のほうが力をもっているかぎり、自分を取り巻く状況は変わらないと知っていたから。

 葵はずっと孤立していた。それを苦に思うことすらもうなくなっていた。

 

 公立の高校へと場所が変わっても、以前と同じように噂は流れていたが、葵は気にもとめていなかった。

 それなのに。

 周りの方が変わってきたのだ。

 そう、思っていた。


「だって、噂が噂でしかないなんて、見てたらわかるもの」


 あれは誰が言った言葉だったか今でははっきり覚えていない。


「遼くんにからかわれたりちょっかいかけられてる時の秋吉さんの反応見て、男慣れしてるって思う人はいないよ~」

「そうそう、かわい~よね~」


 遼が葵をかまいたおしているのは誰の目にも明らかで、その時の葵の反応が彼女たちいわく"男慣れしていない"そうなのだ。

 勝手に周りが変わったのでなく、葵の様子を見て変わっていった。遼がそれをひきだしてくれたのだ。




「遼が私をみつけてくれたの。…………ずっと私を見てたって。入学したときからずっと」



 入学式の日、葵は少し早めに学校に行った。まだ人影もまばらな校門前の桜並木をゆっくりと歩く。

 誰も葵を知らない。見ている人のいない状況に少し気がゆるんでいたのかもしれない。

 舞い散る桜吹雪。風に吹かれてころころと転がる薄桃色の花びら。追いかけっこをしているようなその姿に、ふと笑みをもらした。


「頭の中でシャッター音がなったんだ。あのとき、葵のなんとも言えない柔らかい笑顔にひとめぼれしたんだよ」


 これはあとから遼に聞いた話。

 それっきり一度も笑顔を見せない葵が、一人っきりの時にはふとした瞬間に笑みをもらすのに気がついて、気になってしかたがなかったって。




 葵の中で遼の存在はどんどん大きくなっていった。

 そして二年になり遼と同じクラスになると間もなく二人はつきあい始めた。クラスの中でもそれは自然に受け入れられた。二人はいつも一緒にいたけれど、二人っきりでいちゃいちゃしていたわけではなく、クラスの中に自然にとけこんでいた。




 叔母への誤解が解けたのも遼のお陰だった。

 遼はどこから聞いてきたのか、葵の家庭のこともいつの間にか知っていた。


「あのさ、夏休み初日、お前ん家行ってもいいかな」

「え? それは…………、あの…………。叔母さんがなんて言うか・・・」

「その叔母さんに挨拶したいんだ」


 突拍子もないことを言い出す遼に葵は一瞬思考が停止した。


「夏休み、葵との時間を確保したいからさ」


 半ば押し切られるようにして約束をしてしまった葵は、叔母になんと言ったらいいかわからずしばらく逡巡していたけれど、長い夏休みに遼と逢う時間が作れるかもしれないという期待がふくらみ、叔母の機嫌のよさそうな時を見計らって言ってみた。


「そう。わかったわ。午後からならいいわよ」


 意外にも叔母は簡単に了承してくれて、拍子抜けしてしまった。



 そしてその当日。

 叔母の口から信じられない言葉を聞いたのだ。


「あなたは本気でこの子を守れる?」

「はい、約束します」

「”今日”を選んだのには理由はある?」

「勿論です」


 一体何の話をしているのか葵にはさっぱりわからなかった。私を、守る? 今までずっと厳しくて冷たい態度しか見せなかった叔母の口から出た言葉とは思えなかった。それに”今日”の意味って?


「葵ちゃん、今までごめんなさいね? 後妻の私はこの家ではあなたを守れなかったの。それはこれからも同じ。あの子は相変わらずあなたを嫌っているし、私があなたにいい顔をすると余計に風当たりがきつくなるだろうから。

 でも、守ってもらえる人ができたなら安心できるわ。

 …………あなた、松本君。何があっても葵ちゃんを守るって約束してね。そして早くここから連れ出してあげて」


 後妻としての立場。なつかない先妻の娘。叔母にも事情はあったのだ。

 気が強く自己中心的な先妻にそっくりな娘沙羅は、私の覚えていない初対面の後に叔母に耳打ちしたという。


『私より可愛がったらこんな子、めちゃくちゃにしてやるから』


 その呪いの言葉は叔母の心を苛んだ。そして葵との間には大きな壁をつくった。そしてその壁はこの先も壊れない。

 ただ、叔母の心がわかっただけ、葵は少し救われた。

 これも、遼が示唆してくれたこと。


「ね、”今日”ってなんの意味があったの?」

「ああ、彼女が友達と旅行中なんだ」


 彼女が絶対に帰ってこない日。叔母が本心を話せるだろうと考えたという。どこまでも用意周到。




「遼は私に自由に生きていく世界をくれたの」


 それまで自分に背を向けていると思っていた世界は、手をのばせば自由に自然体で生きていける世界だったのだ。

 友達も叔母も、形は違っても葵に全く背を向けていたわけではなかった。


 心の底から信用して信頼できるほどに心ほどけたわけではなかったけれど。



 遼の心だけは、葵に沁みこむように入ってきた。いつだって葵の気持ちを尊重してくれて寄り添ってくれたから。

 そして葵の世界は遼に染められていった。

 遼の色にではなく、葵が自然体でいられる色に。

 遼は葵の色を引き出していってくれたのだ。



 

 どこか遠いところを見つめて話す葵の前髪をそっとかきあげると、ステラは胸がしめつけられる気がした。話し始めたときよりもほんの少しばかり明るい声になっていたにもかかわらず、瞳は相変わらず哀しみでいっぱいだったからだ。


「遼に会わせて…………」


 しばらく黙っていた葵はステラを見上げながら震える声で言った。

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