真っ白な世界で
「遼に会わせて」
葵は身体を起こし、ステラの目をまっすぐに見てもう一度、今度ははっきりと言った。それが葵の唯一の願いだった。
「…………夢のなかでなら」
葵のためにできる限りのことをしてやりたいと思ったが、ステラにはそれが精一杯だった。
ステラが軽く右手を振った。緩やかに睡魔が葵を眠りへと誘い込む。
そして深い眠りへ落ちてゆく中で、葵は自分の身体がふわりと宙に浮くのを感じた。
「哀しみを空へ還す決心がついたら、また私を呼び出して」
ステラの声が優しく頭に響く。ベッドに辿りつく頃には、葵はすでに夢の中の住人だった。
辺り一面が真っ白の世界。
葵はただ一人、そこにたち尽していた。
足元の地面はとらえどころがなく、まるで雲の上にでもいるような気がする。
葵はそろりと前に数歩踏み出した。
どちらを向いても見渡す限り真っ白で、視界はゼロなのか果てしなく遠くまで見えているのかも判別できない。重力があるのかもわからない。前後左右上下、全て真っ白なのだ。
音もなく、色もなく、匂いも肌に触れるものも何もない。人間の五感に感じるものは何もない場所。
いつからここにいて、いつまでここにいるのか。ここが一体どこなのか、なんのためにここにいるのか、何もわからなかった。
ただ一つわかっていることは、待っているということ。
何を?
わからない。
けれど確かに葵は待っている。ただひたすら待ち続け、辺りの白に自らも同調してしまい生まれたての赤ん坊と同じ真っ白な心でそこに存在していた。
どれほどの時が流れたのか、ゆっくりと何かが近づいてくる気配がした。
葵はそれが何者なのか知っていた。意識の上で理解しているのではなく、彼女の魂が認識していたのだ。
音もなくゆっくりと近づいてくる”その人”の姿はまだ見えないけれど、葵は五感を介してではなくその存在を感じとっていた。
そして”彼”は現れた。白い闇の中から葵に向ってまっすぐに歩み寄ってくる。
「…………遼」
葵はその姿を目にした瞬間、そう呟いて彼の胸に飛びこんだ。
懐かしい匂いにふわりと包まれ、そして同時に思い出す。
これが、ステラと名のった不思議な娘が見せてくれた夢であり、葵は遼に会うそれだけのためにここにいるのだということを。
「…………約束、守れなくてごめんな」
遼が葵を抱きしめる腕にきゅっと力をこめて言った。葵は頬に遼の懐かしい胸を感じながら、彼がすまなそうに言うのを聞いていた。
「俺がお前の家族になってやるって言ったのにな。もう、お前を守ってやることもできない…………」
耳に心地よい低めの澄んだ声が懐かしく響く。
「だけど、いつでもお前のそばにいる。いつでも見守っていてやるから、もう俺のために泣かないでくれ。俺は何もしてやれないのに、お前が一人で泣いているのを見るとどうにかしてやりたくなるから」
葵は自分をすっぽり包みこんでいる遼の腕が微かに震えているのに気づき、彼の顔を見上げた。
遼は歯を食いしばって横を向いていた。その頬を涙が濡らしている。
葵は遼が──男の人が泣いているのを見たことがなかった。
「…………遼?」
葵の声で彼女を見下ろした遼は恥ずかしそうに涙を拭い微笑んだ。暖かく彼女を包みこむ春の陽だまりを思わせる優しい笑顔。
「葵。いつでも笑っててくれよな。…………お前の笑顔が一等好きだよ」
涙がぽろぽろ零れ、葵は首を振りながら俯いてしまう。
「…………だめ。…………笑えない。遼がいないのに、笑うことなんてできない…………」
遼は苦笑しながら葵の頭を撫ぜる。もう一度葵を抱きしめ、何度も何度も繰り返し撫ぜる遼の手はとても大きくて温かく……。葵はその大きな掌が大好きだった。その手でこうして頭を撫ぜてもらうと、まるで小さな子供になったような気分になり、心の底から安らぐことができた。
「葵には幸せになってほしいんだ。いつか、誰か他の」
「そんなの嫌!!」
遼の言葉を途中でひったくって思いっきり
「明日の晩、ステラに星を作ってもらえばいい」
ゆっくりと手を動かしつづけたままで、小さな子供をあやすように優しい声で言う。遼の腕の中にすっぽり包まれている葵はまったく気づいていなかったが、ずっと遠くを見つめているその
「…………それは、遼を忘れることを意味してるの?」
遼は背中に回された葵の手にきゅっと力が入ったのに気づき、何もしてやれない自分が悔しいのか唇を噛みきってしまうつもりなのかと思うほど強く噛みしめた。
それでも、その辛そうな表情に葵が気づかないようにともっと優しい声で言う。
「違うよ。哀しみを癒す魔法だ」
「遼のいない哀しみが薄らぐとは思えない…………」
葵は遼に聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で、ぽそっと言った。
「…………試してみたらいいよ」
葵の両肩に手をおいて自分の身体から離し彼女の瞳をまっすぐに見つめながら言う遼の顔からは、もう先刻の悔しそうな表情は消え失せていた。聖母のような表情、といった表現が男の人にも用いられるのなら、このときの遼はまさしくそういう表情をしていた。
ただ違うのは、彼が愛を注ぐのは万人にではなくただ一人の女にであるということだった。
「いつでもそばにいて見守っていてやるから、笑っていてくれ。お前は笑顔が一番にあうんだから…………」
遼がそう言ったとき、葵は身体からふうっと力が抜けていくような感じがして、自分が現実の、遼のいない世界に戻らなければならないのだと知った。
白い闇が二人を包みこみ、葵は優しいぬくもりに包まれたまま意識が遠のいていくのを感じていた。
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