友情

 淡いグリーンのカーテンを透かして朝の光が部屋いっぱいに入ってきている。

 葵は久しぶりに安らかな気持ちで目を覚ました。なぜだか胸の中がふんわりと温かかった。毎晩なかなか寝つかれず、やっと眠りに落ちたかと思うと例の悪夢を見て何度も目を覚ましていたのに、昨夜はぐっすり眠れたようで今朝はとても爽快な目覚めだった。

 ベッドから抜け出して窓辺に近寄りさっとカーテンをひく。途端に眩しい光が部屋に刺しこみ、葵はほんの少し目を細めた。清々しい陽光はきらめいて葵の白い肌を輝かせる。

 なんだかいつもとは違う気分で朝食を作ろうとキッチンへ入ろうとしたとき、あの壺が葵の目にとまった。


「…………?」


 不思議な色をたたえているその壺が葵を呼んだような気がしたのだ。

 ついっと向きを変えて壺に歩み寄り、すべすべとした表面に触れる。


「…………ス…………テラ?」


 昨夜の、夢か現実かわからないようなできごとが甦る。

 そして遼の温もりも。


 チリリリリーン


 その余韻に浸る間もなく、電話の音が鳴り響いた。

 表示画面に保奈美の名前が浮かんでいる。

 

 遼が死んでしまって以来一度も出なかった。家の電話も携帯も留守録でいっぱいだった。


「出ろよ。大丈夫。前に進めるよ」


 葵は遼の声が聞こえふわりと後ろから包みこまれたような気がして手を伸ばした。


「もしもし」

「葵? 葵なの?」

「うん」

「やっと捕まえた! 元気なの? ちゃんと食べてる? 今家にいるの? いや、家にかけてるんだから家か。今から行く! 行くから家にいて! 絶対だよ!」


 矢継ぎ早に質問してまくしたてる保奈美の剣幕に思わず「わかった」と返事してしまう。


「出かけたり居留守したりしないでよ」


 念を押され苦笑する。


「大丈夫よ。…………それより朝食、一緒に食べない?」



 電話から30分ほどで保奈美はやってきた。汗だくで息を切らして、家に入るなり葵に抱きつく。


「葵~。心配したんだからね。電話にもメールにも返事くれないし。ここに来てもいつもいないし。ホントに、ホントに心配してたんだからね!」


 葵を睨みつける顔は涙まみれだ。汗と涙でぐちゃぐちゃになっている。いつもきっちりメイクしているのにすっぴんで、くせっ毛をが嫌で毎朝きっちりセットしてるのにクルクル髪のままで。彼女がどれだけ急いで駆けつけてきてくれたのかがわかる。


「ごめん。…………ありがとう」


 遼以外信じられないと思っていた。友達はそれなりにたくさんできたけど、誰も遼ほど信用していなかった自分が恥ずかしかった。そして、嬉しかった。

 葵の目からもポロリと涙が零れ落ちた。

 昨夜ステラの前で泣いて涙腺がゆるんでいたのか、あとからあとから涙が溢れてくる。二人して抱き合ってしばらく泣いていた。




 少し落ち着いてリビングに通した保奈美がコートを脱ぐと……。


「保奈美! その恰好って…………」

「だって! また葵がいなくなったらって思ったら着替えてる時間も惜しくて。コート着たらわかんないし」

「こんな汗だくってまさか」

「うん、自転車で飛ばしてきた」


 パジャマ姿のままぺろっと舌を出して笑う保奈美を見て思わず吹き出してしまう。それからまた涙がこみあげる。自転車なんて疲れるっていつも言っていたのに。


「もうっ。高校卒業して以来だよ。自転車乗るのなんて。葵のせいだからね」


 確かにバスと電車を乗り継いで来るより自転車の方が早く来れるだろうけど、それを保奈美がするなんて。嬉しくて…………でも今度は涙でなくくすりと笑いが込みあげてくる。


「も~っ! 葵ったら。泣くか笑うかどっちかにしてよね。…………でも、思ったより元気そうでよかった」

「もっと死にそうな顔してると思った?」

「…………ん。だってお葬式のときの様子見てたら、ホントに死んでしまいそうだったし」

「昨日までは、確かにそうだったの」

「昨日まで? 昨日、何かあったの?」

「うん。信じられないような話なんだけど、笑わないで聞いてくれる?」


 葵はゆっくりと言葉を選びながら説明していった。


 この三カ月間の生活のこと。あちらこちらを彷徨って歩いていたこと。

 それから、昨日見つけた骨董品屋でもらった壺のこと。夜中にステラと名のる娘が現れ夢で遼に会わせてくれたこと。


「それってオカルト? お化けのたぐいじゃないの? 私そういうの駄目なんだけど」

「わからない。夢かもしれない。でも、そんな怖いものじゃないと思う」


 優しく包まれているような感覚を思い出す。


「不思議とね、今朝起きた時から気持ちが安らいでるの。こんなに穏やかな気分になれたのはあの日以来初めてなの」

「それで電話に出てくれたのか」

「うん。…………今までほんとにごめんね」

「ううん、私こそ。・・・しつこいくらい電話してごめん。でも、心配だったから」


 全く電話にもメールにも返事なしの葵に、ずっと連絡を取り続けてくれた保奈美の気持ちがありがたくてまたまた涙が出そうだ。


 遼以外信じられないと思ってしまっていた自分が本当に申し訳なくなる。


「私だけじゃないよ、心配してたの。彩も美貴も香菜も…………他のみんなもだよ。葵とつながらないから、みんな私に何度も連絡してきてる」


 高校、大学の友人たちの心配そうな顔が浮かんでくる。


 一人じゃ、ない。


 心からそう思えた。


 遼がのこしてくれた新しい世界、友達を大事にして生きていかないといけないと思った。


「今晩、ステラにお願いするわ」

「星を作ること?」

「うん、星を作ってもらって何が変わるのかわからないけど。でも、信じてみたい。前を向いて生きていけるようになることを。…………今のままじゃだめだから」


 葵の瞳に力が宿る。


「なんか、悔しいな」

「え?」

「だって、私が葵の力になりたかったのに。あ、いや葵が元気になればそれでいいんだけどさ」


 拗ねたように口をとがらせ、あわてて言い直す保奈美をみて胸の中があったかくなる。


「保奈美が来てくれたから、決心できたんだよ」


 葵の言葉に保奈美が一瞬目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。


「ホントだよ。遼が夢の中に出てきてくれてすごく安らいだのは確かだけど、前に踏み出す覚悟ができたわけじゃなかったの。

 だけど、保奈美が駆けつけてくれたから。…………すっぴんのクルクルのパジャマで、自転車とばしてとんできてくれたから。

 それから、私のわけのわからない話を真剣に聞いてくれたから。

 だから、決めたの」

「すっぴんのクルクルのパジャマって。ひどいなぁ」


 保奈美がむくれる。

 

「それだけ急いで来てくれたのが嬉しかったってことだよ」


 コーヒーを淹れながら微笑みかける。


「無理にセットしなくても、クルクル、似合ってるよ」

「え?」

「保奈美が気に入ってないみたいだから今まで言わなかったけど、クルクルのままの方が保奈美らしい感じがする」

「私らしいって?」

「ん~、お茶目で愛嬌があって?」

「葵!! 今日は一日おしゃべりしよう! 本音でいっぱいしゃべろう! 葵ともっと話がしたい」

「うん、そうだね。私も保奈美ともっと話したい。…………けど大学は?」

「う…………あ~午後から授業入ってる」

「私はもう休みまくってるけど、保奈美はちゃんと出ないと」

「ん~。じゃあ、それまでだけか」


 少しがっかりした様子の保奈美にまたふわりと胸が温まった。




 葵は遼以外の人間に初めて心の中の境界線を越えさせた。

 目に見える壁を壊してくれた遼が、今度は心の中の壁も崩す後押しをしてくれた。葵は一歩を踏み出した。

 



「ねぇねぇ、呼び出すって、アラジンのランプの精みたいに? 壺をこするの?」


 機嫌をよくした保奈美は興味津々できいてきた。


「今日は泊まる! 絶対泊まりにくる。私も星の精、見てみたい!」


 きらきら目を輝かせている。


「…………本当に夢じゃないのか自信はないんだけど?」

「でも、頼むつもりなんでしょ?」

「うん、やってみるつもりだけど」

「なら私も立ち会いたい! やっぱり昨日のは夢だった、でもいいじゃない。そのときは夜通しおしゃべりしよ」


 一歩距離を置いていた保奈美を懐に入れてしまったら、愛おしい気持ちはわいてきた。でも……。


「保奈美。嬉しいけど、これは私が自分で乗り越えないといけない壁だから。ってステラに頼ってる時点で他力だけど。…………明日、報告する、じゃ駄目かな?」


 保奈美の天然の明るさに救われたけれど、遼をなくした哀しみとは自分自身で決別したかった。


「ん~、わかった。明日は休みだし、一日ゆっくり話ししよ。約束だよ」

「ごめんね。ありがと」


 ちょっと寂しそうな表情かおをしたけれどすぐに納得してくれた保奈美に心から感謝した。

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