星作り

 保奈美の帰った後、葵は久しぶりにゆっくり家で過ごした。

 もう一度コーヒーを淹れる。さっき入れたのとは違う、遼がブレンドしたもの。遼が死んでしまってから一度も手をつけていなかったもの。

 冷凍していたとはいえさすがに香りは落ちているはずなのに。

 遼がブレンドしながらした会話や微笑み、ソファーに並んで座って映画を見ながら飲んでいたときの触れ合う肩の温もり、遼が教えたチェスがだんだん強くなる葵に「チェックメイト」を言った後嬉しそうにコーヒーを飲む仕草。

 淹れている間にいろんな思い出が浮かびあがり混ざり合って香りもよみがえる。遼が好きだった香り。その香りに包まれて葵はソファーに身を沈めた。

 

 保奈美にはああ言ったものの、本当にそれでいいのか自信はなかった。

 哀しみを取り除くということがどういうことなのか。遼への想いを忘れることになるのなら、それはしたくなかった。

 でも、いつまでもこんな生活をしていていいはずがないこともわかってる。遼の「笑っていて」という言葉と葵を抱きしめて涙していた姿が胸をしめつける。


 保奈美が来て、ちょっとは笑えたじゃない。また笑えるようになるんだよ。そうならないと……。

 遼は、それを望んでいるんだよね?





 夜半過ぎまで葵は膝を抱えて毛布にくるまりじっとしていた。


 月明かりが窓から射しこんでくる頃、葵はそっとベッドから抜け出した。蒼く静かな部屋を足音をたてないように、けれど揺るぎないしっかりした足取りで窓際の壺の前に歩みよると、そのすべすべした表面を掌全体で包みこむ。


「ステラ。出てきて」


 するとその刹那から壺が徐々に光を発し始め、葵は目を開けていられなくなり片手で目を覆った。

 それから数秒がたったか、葵は背後に人の気配を感じて振り返った。


 そこには前夜と同じ優美な姿で、ステラが微笑みながら葵をまっすぐに見つめて立っていた。


「決心できたみたいね」


 柔らかな微笑みをたたえたままステラは優しい声で言った。けれど声色は真剣で瞳も笑ってはいなかった。

 葵は無言で頷き返す。


「それじゃ、行きましょう」


 ステラがそう言ったとたん葵は身体が宙に浮いたように感じ、次の瞬間には二人は静かな河原に佇んでいた。


「…………ここは?」

「心配しなくてもいいわよ。帰りもちゃんと連れて帰ってあげるから」


 不安げに辺りを見回す葵を安心させるように優しい声で言う。


「一つ、確認してもいい?」

「いいわよ。なんでも聞いて」

「遼を、忘れることになるわけじゃないのよね?」

「大丈夫よ。記憶をどうこうするわけではないの。哀しみが消えてなくなってしまうわけでもない」

「…………?」

「怪我をしても、傷跡は残るでしょう? 哀しみも同じ。あなたの心の深い所には残っているの。ただ、今現在の身動きできないような哀しみを取り除いてあげられるだけなの。時が流れて癒えるように落ち着いた感じになるっていうのかしら。傷が深ければやっぱり傷跡は大きいし、その傷を想えば疼くこともあるでしょうけど」

「…………」


 見上げると空は満天の星である。

 穏やかに凪いでいる幅広い川面にもそれが映り、二人のいるこの河原はこの世のものとも思えないほど美しく、まるで宇宙空間を漂っているかのような気分にさせた。


「葵、用意はいい?」


 ステラがもう一度確認してくる。

 心が凪いでいる。とても穏やかな気持ち。

 葵がゆっくりと頷くのを確認してステラは言葉を続けた。


「目を閉じて。それから力を抜いてゆっくりと息を吐きだして。深呼吸をするように。…………そう。心を静かにして…………そのままじっとしていて」


 葵の身体から完全に力が抜けきったとき、ステラはすっと葵の胸元に白い両手を伸ばした。葵は心もち上を向いたまま無我におちいっている。その葵の胸から十数センチ先で静止しているステラの両の掌の間に、何やらふわふわしたものが溜まっていき、それが二十センチくらいの球状になったと同時に葵はふと我に返った。

 星明りだけしかない暗闇の中で、その球状のものは蒼白く光っている。


「これが…………?」

「そう。あなたの心の中の哀しみよ」


 葵はステラからそれを受け取ると、その半透明の球の中心まで見透かそうとしているかのようにじいっと見つめ、静かに涙を流した。


「葵?」


 ステラは胸を抉られるような思いで声をだした。

 過去にこの球を手にとって涙を流した人などいなかったのだ。

 それに、今の葵は自分が泣いていることにすら気づいていないのであろう、微笑みすら浮かべている。


「これを打ち上げるのね?」


 ステラに無邪気な笑顔を向けながら空を指して言う。

 ステラは願わずにいられなかった。この純粋な魂が早く哀しみから解放され、もう二度とこんな哀しみを味あわなくてもいいようにと。


「そうよ。はい、この中に入れて」


 つとめて明るい声で言い、壺を葵の前に差し出した。

 葵は一瞬躊躇したあげく、それに頬を寄せて誰に言うでもなく小さく呟いた。


「哀しみを忘れるわけじゃない。でも、私は強くなる」


 それはステラの耳に聞こえるギリギリの小さな声だったけれど、力強い響きを持っていた。昨日までの葵の、どこか夢の中にでもいるような話し方とはまるで違う、はっきりと意思を持った言葉。

 ステラはその言葉を聞いて少し安堵した。


「ステラ。…………ありがとう」


 薄緑にほんのりと光る壺の中にその蒼白く透き通った球を入れ、真正面からステラを見て言う葵の瞳に光が宿っている。──希望の光が。

 ステラはその一言に込められた葵のいろんな思いをひしひしと感じ、嬉し涙を浮かべて頷いた。


 この人はもう大丈夫だろう。


「さあ、打ち上げるわよ。…………一、二の三!」


 はりのあるステラの声に合わせて、ぽーんっという大きな音が暗闇の中に響き渡った。蒼白い球はキラキラと火花のようなものを振り撒きながら勢いよく上空へ飛んでいき、はるか高いところで一つの小さな点になると燦然と光を放ち始めた。

 輝きを増していく新しい星を愛おしむような眼つきで見守っている葵の横顔をステラがじっと見ていると、その視線に気づいた葵がステラに微笑みかけた。

 暗い闇夜に降り注ぐ月光のように静かな微笑。かつての光輝く太陽のような笑顔ではないにしても、何もかもを受け止めるような強さを持った揺るぎない強さを秘めている。

 葵のそんな笑顔を見届けると、ステラはすうっと闇の中に姿を消した。

 と同時に葵の意識も薄れてゆき、何もわからなくなった。


「明日の朝届く一通の封筒の導くままに行ってごらんなさい」


 そんな言葉が最後に頭の中で静かに響いていた。




 

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