第四章 井戸の底に潜む『モノ』
じめじめとした不愉快な湿気が身体にまとわりつき、天井から結露した水滴が落下して。気絶したリィレを起床へと導く。最初はまだ少し、意識が戻った程度だが。徐々に顔を歪めつつ意識が身体の隅々に行き渡る。
「う、うぅ……ん……?」
うっすらと眸を開き、リィレは自分を現実に呼び覚ます。
最初に見えたのは頑丈そうな石の壁だった。
「……ここ、どこよ?」
リィレは床に手を付いて上半身を起こすと、
改めて辺りを見回してみると、そこは二度焼きされた耐火煉瓦の石壁で被われた一室だった。地下である為か不愉快極まりない湿気が籠り、石天井の寒気で結露しては滴り落ちて来ている……。……そして何故か、鉄が錆びたような臭いがうっすらと漂ってきていた。
その時やっと、リィレは自分の手のひらにある違和感に気づく。ゆっくりと手のひらを見てみると、そこには床から剥がれた苔がべっとりとくっついていた。うぇっと呻いて手を振って。苔を落とす。
「……もしかしてここってあの井戸の底かしら?」
リィレはきょろきょろと壁や天井を見ながら推測を呟いた。確かに井戸の底である可能性は高いだろう……あの井戸の底にこんな広い空間があるとは驚きだ。
……しかし。
「何の目的でこんな部屋を造ったのかしら……?」
ぽつりと呟くリィレ。そう、確かに彼女の疑問の通り、この部屋の存在理由が不明なのである。もしここが井戸の底ならば、わざわざ井戸の底にこんな部屋を造る目的が思い至らない。普通に水捌けを良くした方が良いしかといって貯水槽にも見えないし……。とにかく薄気味悪い部屋である。
「何かここ……地下墓地みたいね……」
ふと洩らした言葉にはっとなる。
そうだ。ここは霊廟のように冷たい雰囲気が満ちている場所。その言葉は確かに的を得ている。唯一霊廟との違いを上げれば、ここに死者を弔うような空気がまるで感じられないというところ。この空気はそう……死にゆく命を侮蔑するような狂気が似合う。
その時彼女の視界に何やら影が見えた。
冷や汗を滴らせ、振り向いてみるとそこには人影……らしき『物』があった。
そう。らしき『物』。その表現がぴたりと符号するに似つかわしい『物』だ。大きさはリィレの身長より高く、手足の無い人形みたいな見た目をしている……。
どうしてそんな代物がここにあるのか気になったリィレはそっと近寄ってみる。
どくん……。鼓動が強く鳴る。この狂気の闇を祓う退魔の鐘みたいに。
どくん……! 一歩を踏み締める度に、強まる鼓動。その強さに耐え兼ねて、リィレは自分の胸元でぎゅ……っと小さく拳を握る。
どくん……‼ さらに高鳴る鼓動。呼吸するのも痛いぐらい。脂汗を流し、必死に歩みを進め、微かな鉄錆びの香る空気を流し込む。
どくん! 後一歩。後一歩で闇の向こうにある『ソレ』を見る事が出来るはず……。もう心臓が痛い。倒れこみそうに、痛い。過呼吸寸前ながらも何とか呼吸すると、さらに古臭い鉄錆びの香りが胸いっぱいに侵入してくるのが辛い……‼
どくんっっ‼ さらに強く突き刺すように痛くなる胸。もう限界だ。早く倒れて楽になりたいのだが……。それでもあれを見ない事には安心出来ない……。
やっと闇の帳から『ソレ』のご尊顔を拝む事に成功したリィレ。
一言で言うならそれは『寸胴の人形をした棺桶』……と、いった見た目である。まるで鎧を着た手足の無いずんぐりとした金属製の胴体にデスマスクのようなのっぺりした……辛うじて『乙女』だと判る瞑目した仮面のついた、よく判らない物だった。
「何よ……これ……?」
リィレはノッカーみたいな取っ手に手を伸ばし、ゆっくりて引いてみた。どうやら扉みたいに開けるらしい。ぎぎぎ……っと錆びを無理やり引き離す不愉快な騒音にリィレは顔をしかめつつ扉を開き、
「……!」
中を見て、絶句した。
そこに有ったのは変色して腐り落ち、蛆虫の湧いた赤黒い塊と、蓋みたいな扉の裏にびっしりと剣山みたいに着いた針だけだ。
「何よこれっっ?!」
慌てて飛び退くリィレ。その際に鼻腔から肺に流れ込む鉄錆びの臭いとその正体に気づいてしまう。
そう、これは腐敗した血の臭いだったのだ……!
「――‼」
えずいて口元を押さえ、尻餅をついて倒れ込むリィレ。気を抜いたら嘔吐してしまいそうであり込み上げてくる吐き気を抑えるのに必死だ。そしてその中で、この金属人形の正体も悟る。
「
豪奢な金髪を振り乱し、リィレはソレの名前を見上げながら答えた。
そう。これは有名な拷問器具の一つだ。対象をこの棺みたいな中に入れて、針山の扉を迫らせ自白させたりする拷問器具……。何でそんな物がこのマリシアス村の井戸の底にあるのか……。
立ち上がりつつ改めて暗闇に慣れた眼で見回してみると。そこにはささくれ立って荒んだ木製の机と椅子、中身が蒸発したインク壺にインクが先にこびりついた古いペン等があった。
(もしかしてここ……拷問部屋?!)
もしかしなくても、間違いないだろう。こんなけったいな物を飾る趣味の方が異常極まりないのだから。
よろけて後退ると、柔らかい何かにぶつかった。壁では無いそれを訝しみつつも、リィレは振り向く。
黒髪で両眸を閉じた、ルーティス君と同い年ぐらいの小さな少年が、そこに立っていた。
(…… 何で子どもがここに居るのよ?)
リィレは疑念と共に双眸を細めた。ここはどう見てもあの井戸の底……。こんな所に普通に子どもが居るわけないのだ。
じっくりと少年の見てくれを観察してみると中々酷い。裾がぼろぼろの一枚布の服に足元は傷だらけ……。髪の毛だってあちこち跳ねて質感が悪く艶が全く無い。足も手も、指先の爪が剥がれて血の固まった後が生々しく見られ、直視出来ない次元で痛々しい……。
だが一際眼を引くのが。閉ざしている両の眸だ。何故か少年、開けようとしないのである。
リィレが手を伸ばしてみた瞬間。少年はすんすん……と鼻を鳴らして。リィレの匂いを嗅いでいたのだ。
(ひょっとしてこの子……眼が見えていないのかしら……?)
身を引きながら、リィレは推理した。多分この推理は間違ってはいない。……いないのだが……ここにこんな子どもが居る事の説明にはなっていない。
「あの……君……?」
リィレが問いかけた刹那。にこーっと少年が無邪気に笑い、
「ママ~!」
思いっきりリィレに、体当たりしてきたのだ。
「きゃあっっ?!」
リィレはその体当たりを受け止めきれず、少年と共に苔の生えた床に倒れ込む。
「ママ! ママ‼ 逢いたかったよママっっ‼」
すりすりとリィレの胸元に顔を擦り付ける少年……。
「あの……私は貴方のママじゃ……」
「どうしたの? ママ?」
何とか否定しようとしたが、少年のあどけなく光の無い眼差しを見て。口をつぐむ。
「あのね……君は――」
「ねぇママ! 僕ずっと待ってたんだよ♪」
「話を聞いて‼」
にこにこ笑う少年に、さすがのリィレも叫び返す。
「ママ‼ 僕頑張ったんだよ‼ 皆を『喰べて』一番になったんだ‼ だから褒めて褒めて‼」
「――へ?」
さらに胸元に顔を埋めて要求する少年の言葉を聴いて。つぅ……と、リィレの頬に冷たい汗が伝い落ちる。
「ねェ……ママも……一緒に居てくレるよ……ネ……‼」
そしてゆっくり顔を上げた少年を見て。リィレは顔を引きつらせた。
そう、そこにいたのはさっきまでの眼が見えない無邪気な少年ではない。
そこにいた少年の
「――‼」
声にもならないような絶叫を出してリィレは少年を突き飛ばし、全身をバネに飛び退いたのだ。反対方向に吹っ飛んだ少年は壁に激突するが……
「ねエ……ナんで避ケるの……?」
ゆっくりと……骨格を感じさせない、水を入れた革袋のような雰囲気で立ち上がった。
「な、ななな何なのよこの子……!」
がちがちと奥歯を鳴らしながら水晶珠を構え、腰が引けたように後退るリィレ。
刹那。後ろに気配がした。
驚愕して弾けるように振り返ると。そこにはあの首無し騎士――デュラハンがいた。
「……ママ。ぼクがんバッたんだ……にゲないデホめてよ……。セバスのおにィちゃんはホメてくれたンだカら……!」
調子の外れた口調でだらんと首を後ろに反らせる少年。その足元からざわざわと、暗がりの中を毒蟲が這いずり回るような勘に障る音と共に闇が湧き出てくる……。極彩色のモザイクの上から無理やり黒を塗って隠したような汚ならしい闇色を見て。リィレはこの子がこの妖魔異変の原因だと悟った。
……絶体絶命、だ。顔面蒼白で脂汗を滴らせ、四白眼に近くなり瞳孔が開き、がたがたと零下の風に耐えるように身体を震わせながら。リィレはまざまざと現実を突き付けられた……。
……だが。
(諦める訳には……いかないのよ!)
そう。まだ諦める訳にはいかないのだ。自分が諦めたらこの村の人達を助けられないし……何よりあの白魔導士の少年に申し訳も立たない! 何とかして彼と合流する手立てを考えないといけない……。しかし、どうすればいいのだろうか……?
(いま手元にあるのは……?)
右手で水晶珠を構えつつ、左手でコートの中を探るリィレ。あるのは古代語の辞書と、小瓶に入れた聖水が六本だけ。じりじりと己に闇が迫り、デュラハンは長剣を構え機会を窺っている。
そして少年の奥には扉が見える。
(……一か八か。掛けね)
精霊はフェイとスピネルの、戦闘能力の高い二体が居ないので心許ないが……一体問題児がいるので何とかなるだろう。
「火焔精霊『ラグリア』! 行きなさい!」
リィレの命令に従い、彼女の水晶珠の中から一体の精霊が躍り出た。
水晶珠から呼び出されたのは巨大な『黒猫』だった。獅子よりも二回り程大きな体躯を持ち、燃え盛る灼熱の業火を纏った猫……。その炎熱は強烈で床に生い茂る苔を存在すら許されず焼き尽くし、何と離れて残っていた古ぼけた木製の机とあの強固な耐火煉瓦の壁達も、更には鋼鉄製の
ぐるるるっっ……と肉食獣さながらの唸り声を上げ、さらに臨戦態勢に入る火焔精霊ラグリア。前足に猛火が盛り、生物の生存を拒む程の灼熱地獄を形成してゆく。単純に戦闘能力だけなら。自分の持ち精霊の中ではラグリアが一番高い……。
しかし。コイツは呼び出せない理由があったのだ。
「ラグリア! この子達を――ってもう行ってるか!」
リィレの命令を待たずに、ラグリアは既に少年に襲いかかっていた。
そう。ラグリアはリィレの命令をあんまり聞かない問題児なのだった。それでも単純な戦闘能力だけなら手持ち精霊の中では一番高いので、リィレはいざという時には頼りにしていたのだ。
ラグリアは暴れ狂う焔を纏う爪で一気に少年を切り裂き少年を怯ませた。
瞬間。リィレはデュラハンの方に意識を向けた。あの少年は眼中には無い。何故なら幾らあの少年が強くても、ラグリアを一撃では沈められないのは読める。それなら追撃の心配を無くす為にも、こちらに注力させる必要があった。
リィレが取り出すのは聖水の小瓶を二つと古代語の辞書。彼女はこれを利用して、付け焼き刃だが退魔の魔法を完成させるという作戦に出た。もちろん、自分じゃこんな大物を仕止める事など不可能だ。
なので。逃げ切る事だけ考えればいい。
リィレは聖水の小瓶をデュラハンに投げつると古代語の辞書の――四千年前の古語が書かれたページを開く。そこにはかつて魔法契約に用いた『ギアス語』が記されている。これは魔力を持つ言語の一つで結界や築城、もしくは精霊やゴーストの契約などの魔法を使う時に用いられるものだ。魔力を持ったこの言語を前には『真実』以外語る事が出来ないとも伝えられているが……今は特に関係が無い。
リィレの作戦は。聖水の力を増幅させて。退魔の力を有した結界を創る事だ。
『――カリネ・フラネク・リーバ・サークス!』
ギアス語が効果を発揮し、デュラハンを中心に聖水の鎖が巻き付いて退魔の封印を形成する。
「ラグリア!」
もちろんこんな物が効く訳ないので。リィレはラグリアに命令した。
「ナァ!」
ラグリアは素直にリィレの言うことを聞いた――というよりは、本人もご主人さまを逃がしたいと思っていたのだろう。少年を体当たりで壁に叩きつけるとリィレのコートを食わえて背中に乗せたのだ。
「一気に突破するよ!」
「ナァっ!」
ラグリアは猛火を宿した右前足で扉を焼き尽くすと。廊下に飛び出して駆け出していった。
「……何とか撒けたかな?」
額の脂汗を拭うリィレ。後はルーティス君と合流するだけだ。
「……どうしたの?」
その時ちらりと、ラグリアの視線を感じたリィレ。
ラグリアはリィレを見上げていたが、
「みゃあっ!」
と、甘えた声を上げる。
「はい判ったわ。偉いわねラグリア!」
意図を悟ったリィレは嘆息して、ラグリアの頭を撫でてあげる。
「ナァアア~!」
そしてラグリア君はご満悦で鳴くと。更に速度を上げたのだった。
「……ニげた。ママがにゲた。どうしテなの?」
リィレが辛くも逃げ仰せた瞬間に。あの少年が起き上がる。
「ママ……ママ……」
ゆっくり……ゆっくり……と。ふらつきながらも闇の呼び出す妖魔。
「セバスおにーちゃん」
ゆらりと振り返る少年妖魔。
そこにはあの、デュラハンがいた。
「ママ……おィかケるよ……ボクがんバッたから……ママといっしょだ……!」
ゆらりと出ていく妖魔に。デュラハンも付き従い出ていくのだった……。
天使の安息地 なつき @225993
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。天使の安息地の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます