第三章 『天使』マリシアスの館

 まず一言で言うなら、『ソレ』は汚ならしい闇だった。永い年月の間に朽ち果てたモザイクの上から無理やり黒で塗り替えて隠したみたいに様々な色が入り乱れた黒。その不定形の闇はうねうねと身悶えながら、井戸を登ってくる。

 狙いは未だ気配に気づかないリィレ、哀れな生け贄の少女だ。あの若い生娘ならば己の目的に相応しいと狙いを定め、指先を伸ばしてゆく。やがて地の底から這い出てきた穢れし闇はリィレの背後まで迫る。

 だがしかし。闇の願いは少女に届く事はなかった。懐刀がいたのだ。フェイと呼ばれた逞しき精霊が、リィレの命令を待たずに水晶珠から飛び出して。闇に向かって大剣を突き立てたのだ!

「――フェイっ?!」

 リィレは慌てて振り返り――即座に現状を把握して飛び退くと、さらに別の精霊を宿した水晶珠を取り出し構える。フェイはまだ大剣を構えたままで、相手に攻めかかる隙を窺っている。

「……妖魔が出てきた……? この井戸の中から……?」

 状況を検証する限り、それが事実であるのは疑いようがない。しかし、それをすんなり受け入れられないのが現状だ……。何故ならここはかつて女神に仕えていた天使マリシアス様の治めていた村……神聖な力を宿した場所の筈だ。その場所の――しかも村の一番奥座敷で妖魔達が湧いて出てくるなんて……普通なら考えられない……。

 ……まさか。

(……いや、有り得ないわそんな事……)

 不意に脳裏を過った解答に、リィレは顔をしかめて左右に振る。そんな事は絶対に、あり得ない筈だから。

「……とにかく追い払うわ! いきなさい! フェイ‼」

 彼女の命令と共に、フェイが闇の塊目掛けて大剣を振り下ろす!

 ……しかし。闇はぱっと四散するとフェイの凶刃を容易く逃れ、再度音も無く刃の届かない所に集束する。

「フェイ! もう一度攻撃よ‼」

 再度闇を指さし、リィレは吼える。滝のように降りしきる雨粒さえ弾き飛ばせそうな大音声で、命令を叫んだ。

 当然フェイもリィレの命令に応えて大剣を振りかざし突撃した。闇の塊はうねうねと軟体動物にも似た気味の悪い動きでフェイの刃をかわして受け流す。

「……何なの、あれ」

 さすがに気味が悪くうぅ……っと呻くリィレ。無理も無い。何故なら汚ならしい極彩色の闇がうねうねと眼前で身悶えながら襲いかかって来ているという、筆舌にし難い現象が相手なのだから。

(……ルーティス君を呼ぶべきかしら?)

 リィレは意識を闇の塊に向けつつ思う。確かに彼が居るべきだろう。しかしルーティス君は今日一日で結界を張り直したり妖魔達を浄化したり今現在も結界に力を注ぎ続けていたりと、大変な一日だった筈だ……。あまり小さな子どもに過労させたくは無い。

 だったら自分で仕留めないと。リィレは覚悟を決めた。

「フェイ!」

 リィレの命令に、フェイは無言で頷き大剣を振るう。極彩色の闇はまたしても散開しフェイの刃を翻弄する。フェイも必死に大剣を振るうものの……成果は芳しくない。

 やがて闇の塊はリィレに魔の手を伸ばす。

「――くっ!」

 慌ててかわすリィレ。

 その瞬間、水晶珠を下手投げで闇に向かって放り投げる。闇はまだ、彼女を狙っていたが……。

鋼精霊こうせいれいスピネル! 今よ‼」

 リィレの命令に従い、地面に落ちた水晶珠が輝く。

 水晶珠から呼び出されたのは幾千もの鋼の槍だった。竹林のように林立する槍達は闇を貫き動きを止めさせた……。

「ありがとう。フェイ、スピネル」

 リィレは消えてゆく闇の塊に近寄りながら精霊達を労う。フェイは片膝を付いて畏まり、槍の林が消えたかと思えば一本の馬上槍ランスがリィレの側に寄ってきた。

 鋼精霊スピネル。この精霊は自在に形を変える精霊だった。

「……確かにあの気味が悪い妖魔、この井戸から出てきた、のよね……」

 リィレは訝しげに井戸を覗き込む。あれはここからやってきた。それは間違いない、のだが……でも何でよりによってこの井戸の中からなんだろう?

(もしかしてこの井戸の中、結界の穴があるとか?)

 あり得ない話ではないなとリィレが納得したその時だ。


 いきなり闇が伸びて、リィレの身柄をかっさらったのだ。


「――な?!」

 必死に振り払おうとするリィレ。

 しかし闇の塊は触手のように彼女に絡みつき彼女の動きを封じ込めてゆく。

 慌てて主を救わんとフェイとスピネルが闇の塊に挑む。

 しかし二名の背後から、あのデュラハンが斬りかかってきた。

 気配を察知したフェイが大剣を振るいデュラハンの攻撃を受け止め、スピネルがデュラハンの腹部を貫こうとした。しかしデュラハンはさらに重い一撃を放ちフェイを真横に吹き飛ばすと、スピネルに剣を突き刺して仕留めたのだ。

「――フェイ! お願い‼ あの子に‼ ルーティス君に伝え――‼」

 何とか起き上がるフェイと復活するスピネルにそこまで指示を出したリィレ。だが彼女は闇に口を封じられて井戸の底に呑み込まれてゆく。駆け寄る精霊二名を小馬鹿にするようなゆっくりとした速さでだ。

 フェイが手を伸ばす。しかしリィレの手を掴む事は出来なかった。

 雨がさらに強くなったように錯覚する。まるでそれは……主を護れなかった精霊達を嘲笑っているかのようだった……。


「……この『マリシアス館』は巡礼者や旅人に開放された館だと言われている。確かそうだろ? オニヘビ?」

「えぇ間違いなく」

 リィレがさらわれたちょうどその時。ルーティスは商品を仕入れて帰ってきたオニヘビと一緒に館内部から村全体の結界を張り直していた。

 ここはマリシアス館の地下一階。この館はかなり広く大きいのである。

「僕はいつも思うんだ。マリシアスの『アホ』はよくぞまぁ、そんな無警戒な事ができたよねって」

 ぶつくさと文句をつけながら。ルーティスはさらに魔力を注ぐ。口の悪い愚痴とは彼らしくない。ルーティスは素直だが品行方正な白魔導士なのだから……。

「もともと頭の良い天使などおりましたかなぁ? いつもいつも女神に付き従うだけのイエスマンもしくはイエスウーマンでしたからねぇ♪」

 オニヘビは相変わらず嫌みったらしい。

「だからといっていくらなんでも限度ってものがあるでしょ? ……この地下なんか結界の力が弱すぎるし」

「上も下も、いつもいつでも間が抜けていますからなぁ♪」

 嘆息しながらさらに結界の構成を強めるルーティスとへらへら悪口を言うオニヘビ。

「おや? 誰か来ますな?」

 闇に顔を向けながらオニヘビ。

「え? 村人が来るわけないのに?」

 訝しげに振り返るルーティス。

 そんな彼の元に。フェイとスピネルが大慌てで飛び込んでくる。

「貴方達はリィレお姉ちゃんの精霊?! リィレお姉ちゃんはどうしたの⁉」

 驚愕したルーティスが問いかけるも、フェイもスピネルも身振り手振りで慌てるばかりで答えない。無理も無い。精霊は喋れないし特にフェイは黙する精霊と呼ばれる程なのだから……。


「異なる世界、異なる者。互いの意志を互いの内に。開け扉よ」


 ルーティスは即座に自分が得意な双璧の魔法である『魔力と対話する魔法』を唱えた。

『ルーティス様! 大変なのです‼ 我が主様が妖魔にさらわれてしまったのです‼』

 精霊の思いを魔力が人語に変換し、翻訳を可能にした。

「リィレお姉ちゃんが?!」

 ルーティスが叫ぶ。

『はい! どうやらマリシアス館の敷地内にあった井戸が気になったらしく……調査していたら井戸の地下から現れた妖魔にさらわれたのです……‼ 我らも奴に対応していたのですが……隙を突かれてデュラハンに敗けてしまいました‼』

 面目無い……と項垂れるフェイ。

「……いや。あのデュラハンは多分勝てないよ。あの人強いもん。むしろ良く頑張ったよね」

 ルーティスはフェイの肩を叩いて労をねぎらう。

『……まさか。あの妖魔をご存知なのですか?』

 フェイが眼を見開いた。

「何となく、僕の見立てが正しいなら、ね。

 ……だがこれで妖魔の意図や目的も判ってきたね

 フェイ! スピネル‼ オニヘビも行こうよっ‼」

 ルーティスは立ち上がり、二名とオニヘビを促した。

『どちらへ行くのだ? 井戸はあちらだが……?』

「この館のさらに地下だ!」

 ルーティスはフェイに答えながら走ってゆく。

「さささ行きますぞフェイさまにスピネルさま。この館の地下に、あの井戸の底に続く道があるのでございますぞ!」

 嫌らしい声音のオニヘビにも促されて。フェイとスピネルも追いかけていった。

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