第33話 再び赤い悪夢
「弱点だあ…?」
萌黄の意外な言葉に、弾正は眉をひそめた。
「そいつが分かってるなら、なんで教えねえ。さっき、あいつの爆弾で死ぬとこだったじゃねえか!?」
「そのときは分からなかったんですよ!今、気づいたんです!…あんまり言いたくないけど、先輩が、クトゥグアを蹴り飛ばした時に」
「おれがだあ…?」
弾正は、首を傾げた。
「どういうことだ、言いやがれ」
萌黄は息を呑んで、答えた。
「今、先輩、蹴れましたよね?」
「蹴れましただあ?」
「先輩は、クトゥグアを蹴ることが出来たんですよ?」
「だからそれがなあんだッ!つうんだッ」
「クトゥグアには、『生身の身体』があるんです」
愕然たる事実を、萌黄は口にしたつもりである。
「ぬああに言ってやがんだ!?」
本能で生きている弾正に、理屈は通用しない。
「あいつは初めっから、生身の人間だろうがよ。みりゃあ分かるだろうが。二本の足で地面に立ってやがるじゃあねえか!」
「…ハスターくんのことを、思い出してください」
めまいをこらえつつ、萌黄は話し続けた。
「あの子は人間の姿はしていました。でも、その実態は『風の塊』だったでしょう?」
この発見は衝撃的な事実のはずだった。萌黄の記憶が確かならば、ハスターは腿を弾丸で撃たれても、出血すらしなかったのだ。
「あの子は、『風』そのものだったんです。あれは、生身の身体なんかじゃなかった。…たぶん『風』は『火』に比べると、この世界に存在しやすいからだと思うんですけど」
邪神たちは恐らく、この世界でも元の姿に近い状態でいたがる。その方が、楽だからだ。だからこそハスターは、萌黄たちの前に親しみやすい少年の姿で現れたとは言え、それに生身の肉体を持たせようとは考えなかったのだ。
「『風』はこの世界のどこにでも、吹いています。だからハスターくんは、そのままの風でいることを択んだ」
そう言えばクトゥグアはハスターを容赦なく爆破したが、その瞬間に燃えカスすら飛び散らなかったのもそうためなのではないだろうか。
「おい!はっきり言え!そのことがこれからおれたちがあいつをぶっ倒そうってことと、どうつながるんだ!?」
萌黄は、刹那、ホルスターから抜き撃った。息もつかせぬ早撃ちである。クトゥグアが何か反応する前に引き金を絞ったつもりだった。弾丸は迫りくる炎の邪神のよく磨き抜かれた靴の先に穴を開けて、きな臭い白煙を上げた。
「わたしたちは、あなたを『殺す』ことが出来る。違いましたか、クトゥグアッ!」
じろりと殺気で澄んだ目で、炎の邪神は萌黄を見上げた。焼け焦げた穴の開いた自分の靴先を見つめて、クトゥグアは何も言わなかった。そしてこれ以上、前進してくることもない。
「だからどうしたと言うんだ、この虫けらが」
「撃ってみろ、とは言わないんですね、やはり」
切り返すように、萌黄は畳みかけた。
「おかしいと思ってたんです。…もしあなたが炎そのものだと言うなら、わたしたちが攻撃するのも構わず、辺り一帯を焼き尽くしてしまえばいい。だがあなたはわたしたちを『迎え撃つ』と言う姿勢を取った。…それほど、自分の強さに自信があったから?いや、それは違う…」
言葉を切ると、萌黄は愛銃の照準をクトゥグアの顔面に向かって持ちあげた。
「あなたの炎は、どこからでも発生するわけではない。だからあなたは、わたしたちの『出方』を待つ必要があった。それは攻撃する手段も、防御する手段も限られているからです。つまりあなたは風の邪神、ハスターよりも不自由で制約の多い存在なんです!」
はったりを言うつもりはなかった。銃を突きつけたのは、相手を制止するためではない。これは唯一の勝機である。次の瞬間、萌黄はためらいもなく、引き金を絞っていた。
オレンジの火箭は真っ直ぐに、クトゥグアの顔面を撃ち抜いたかに見えたが、狙いがやや甘い。だが、萌黄は見た。この男は今、首をひねって避けた。ハスターのように風そのものであれば、弾丸など避ける必要はない。その肉体は血を流すこともない。
しかるに、顔を上げたクトゥグアの額には、どろり、と血が垂れて来ていた。
「殺すぞ、小娘ッ」
「はったりならもう、十分ですよッ!」
真っ向から、萌黄は早撃ちを放った。弾丸はクトゥグアの白いスーツにことごとく穴を開け、血を噴きださせる。
(…殺せる)
こうなったらもう、躊躇することは一つもない。反撃される余地も残さず、クトゥグアを射殺するだけである。
「ハスターくんの仇ですッ!」
最後の一発は顔面に。
萌黄は狙いをつけて撃ち込んだ。顔の中心を狙った弾丸はホップして、声を上げかけたクトゥグアの口の中へ飛び込んだ。
火の邪神は一言も発せず、吹き飛ばされるようにして背後へ倒れ込んだ。まさに一瞬の決着、ほぼ数秒の出来事だった。
「はあっ、はあっ…はあっ…」
気づくと、萌黄は肩で息をしていた。
(火の邪神を
これまでにない緊張感だった。相対していたのは、
巨大な人喰い獣をどうにか仕留めた感じに似ているが、不気味さはそれよりも巨きい。引き金にかけたままの指がまだ、自力では外れそうにないのだ。
「おおいてめえッ!いきなり
すぐ近くで弾正ががなっているが、すぐに何かを答える気力も湧かない。大きく深呼吸して、ようやくか細い声で言い返すことが出来たほどだった。
「まったく先輩は…それじゃあ、不意打ちにならないじゃないですか…」
「ああっ!?何言ってんだ萌黄、声小ッさくて聞こえねえよッ!?」
「せッ先輩こそ!ちょっと、うるさすぎるんですよ!」
萌黄は声を励ました。まだ、胸の鼓動が収まっていない。邪神との遭遇からどうにか、生き残ることが出来た。安堵がのしかかってきて、どっと足腰が崩れそうになった。
「てゆうか、何してんだよお前!邪神倒せるなら先に言いやがれ。いいとこ持ってんじゃねえっつの」
「無理ですよ。先輩、死に損なってたんだから」
「誰が死に損ないだコラ!」
内心だが萌黄は、この無頓着な先輩に感謝していた。結果として萌黄の決断が物を言ったが、クトゥグアは生身の身体の持ち主だ、と、弾正の直感的判断が萌黄の背を押してくれなかったのなら、萌黄は撃てなかっただろう。あまりの圧倒的な力の差を見せつけられ、萌黄はすっかり身がすくんでいたからだ。
これは存在感の格の違いである。邪神はちっぽけな人間ひとり程度には到底、手に負えるものではない。ハスターの犠牲と、弾正の後押しがあって、どうにか生き残ったと思っている萌黄に、勝利の実感はなかった。
クトゥグアは、磔刑に処された聖人のごとく、両手を広げて地面に横たわっている。純白のスーツはペンキをぶちまけたように、真紅に染まっていた。まだ萌黄は様子をうかがっていたが、その血まみれの身体は微動だにしない。最後に口の中に入ったのも含めて、弾丸はすべて急所に命中している。普通の人間なら、助かる術はないはずだ。
「…まずはここを離れましょう。今度は、シャーロットさんたちの無事を早く確認しなくちゃ」
と、萌黄がそこから目を離した瞬間だった。銃声のような炸裂音を聞いた、そう思った刹那、萌黄の右の二の腕が、火箸を突っ込まれたように熱く疼いた。
(撃たれた…?)
萌黄と弾正は身をすくめ、狙撃した何者かの位置を見極めようとした。だがその弾丸がどこから飛んできたか、と言うことについては、一目瞭然だった。
クトゥグアの死体の方角からだ。萌黄は愕然とした。クトゥグアの首だけが、持ち上がってこちらを見ていたからだ。いや、まさか。そんなはずがない。奈落に落ち込みそうな絶望の中、萌黄の脳裏に、自ら肝に銘じたはずの言葉が思い浮かんだ。
(ありえないことなんて…)
ありえない。
「もう、これで満足か?」
血に染まったクトゥグアの唇から、不穏な黒煙が立ち上っている。何事もなかったとでも言うように邪悪な炎の化身が、吐き気を催すほどに残忍な笑みを浮かべて、身体を起すところだった。
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