第34話 星降る暗黒世界
(生きている…?)
どうしても、クトゥグアは死なない。殺せない。弾丸は、あらゆる急所を潰したはずだ。最後は口の中にまで、弾丸を命中させた。そのはずなのになぜ。
自らの弾丸で撃たれた傷の痛みさえも忘れ、萌黄はただ、蒼褪めた。すでに死人にでもなったかのようだ。
(わたしたちには、殺せないの…?)
次に見たものは、萌黄の悲鳴すら呑み込ませた。
血に染まったクトゥグアの唇から、不穏な黒煙が立ち上っているのだ。ついさっき弾丸が入り込んだ、口の中である。大量に出血し、肉も弾けているはずの口が不気味に引きつり、微笑した。はっきりと笑った。人智の限界を嘲笑うように。ぶすぶすと口から薄汚い煙を吐きながら、クトゥグアは首をもたげたのだ。
何事もなかったとでも言うように邪悪な炎の化身が、吐き気を催すような残忍な笑みを浮かべて、身体を起す。穴だらけの肉体だ。それなのに傷が痛むとか、損傷した箇所が上手く動かない、と言うことすらないようだった。致命傷どころか、まるで何事もない。炎の邪神に、死角はないのか?
「やってくれたな」
ついに元のまま、そこに立ち上がったクトゥグアは、血がにじんだスーツの埃を神経質そうに払った。
「この肉体は、気に入ってるんだ。これだけボロにされちまっちゃ、まともに外も歩けやしないぜ」
炎の邪神は憎たらし気に顔を歪めたが、その様子はダメージを受けていると言うよりは、自分のお気に入りの服が台無しにされた、程度の感じでしかなかった。
「だがお前らじゃ、代わりになりそうにないな」
何事もなかったかのようにのそりと、クトゥグアはこちらへ歩み寄ってくる。
「き、来ますよ!?」
「そりゃア、来るだろう。てめえからさんざぶっ放したんだ」
弾正は、他人事のようにうそぶく。が、反撃しなければ炎の邪神に吹き飛ばされるのは、弾正も同じだ。
「せっ、先輩は!?…なぜかわたしより余裕にしてますけど、何かクトゥグアを倒す方法を思いついてるんですかっ!?」
「おいおい、あわてるなっつーの。拳銃も散弾銃も効かねえんだ、刀で斬りつけたって、たかが知れてらあ。となると、残りは一つしかねえだろ?」
「一つって…だから、他に何かあるんですか!?」
「たった一つあるぜ。残された手段がよ。とっておきってやつだ。こうなったら、息が切れるまでやるぜ!」
「えっ…?」
萌黄は思わず、あっけに取られた。そのときなぜか弾正が、迫ってくるクトゥグアに向かって、堂々と背中を向けたのである。
「そっ、その態勢からどうする気なんですか?」
なんだか物凄く嫌な予感がした。なんと次の瞬間、弾正は尻込みする萌黄を突き飛ばして。
逃げたのである。
「逃げるしかねえだろうがよォォこうなったらアアッ!やーい死ぬんじゃねえぞ、萌黄ッ!まーた後でなああああああああああ…」
遠ざかる雄たけびとともに、みるみる弾正は、草原の闇に消えた。
「こッこらあッ!また後でってどう言うことですかこーの卑怯者ぉーッ!女の子置いて逃げるなあああああ!それでも武士の端くれなんですかあッ!?聞いてるんですかこらああああああッ!」
と、言ったものの、こうなったら萌黄も釣られて走るしかなかった。不死身のクトゥグアが迫っているのだ。もはや、打つ手はなかった。
(でも逃げろって…?)
どこを、どうやって、いつまで逃げたらいいのか。
エイワス農場は、どこまでも果てないだだっ広い草原である。もちろん果てには森や、海があるのかも知れない(ここはサンフランシスコだ)。だがこのまま走って、どこかにたどり着けるものなのだろうか。一晩中走って、クトゥグアを振り切れるのか。ともかく走るしかなかった。だが、こんなだだっ広い場所で自分は果たしてどこへ向かっているのだろう。
萌黄は逃げると言うよりは、暗闇と言う空白の中へ、自分がどんどん溶け込んでいっているような気がしていた。
ところで、弾正の姿は影も形もない。
(同じ方向へ逃げたはずなのに)
萌黄は自分を振り切って逃げた弾正の背中を、そのまま追いかけたはずだった。だが、農場の宿舎が燃え盛る背後以外は全方位目印もないこの平原で、方向も何もあったものではないのだろう。転がり落ちるように砂利まみれの斜面を下り、空との境目も定かではない丘を登り、なりふり構わず全速力で萌黄は駆けていく。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…はっ…はっ」
背後を振り返るのが、正直、恐ろしかった。だが見ざるを得ない。あの不滅の炎の化身が、どこまでも追いかけてくるような気がしていた。
(まさかこれほど、歯が立たないなんて…)
あまりに強大過ぎる。本気になった邪神を前には、人間相手にいくら歴戦を積んだとしても、無意味と言うしかない。このまま、どれほど賢く立ち回ったとしても、萌黄たちに勝ち目はないだろう。
(だったらどうしたら…?)
萌黄の脳裏に、ハスターが遺した言葉が、繰り返し木霊する。
「仲間を助けろ」
と、ハスターは言った。
「いいかい、萌黄姉ちゃんは一人じゃないんだ。その気になれば、みんなで奴をぶっ倒せるんだからな!」
(そんなの無理だよ…)
無理だった。手を尽くしたが、クトゥグアは人の手に負える存在ではなかった。邪神の炎はあらゆる希望を呑み込み、なお燃え盛ったのだ。残った手段は弾正の言う通り、クトゥグアを振り切って逃げることしかなかった。結果、萌黄は仲間の誰からもはぐれて、たった一人になってしまった。
気づけば行く手も越し方も、すっぽりと巨大な闇の空白のただ中だ。
頭上には、砕いたガラスを散りばめたような、鋭い光を放つ尖った星々が瞬くだけだった。
(ここは、どこ…?)
萌黄はすでに、自分が本当に地を踏みしめて奔っているのかすらも、定かではなくなっていた。見えない足元に、地面を踏みしめている感覚がなく、まるで空を突き抜けて、その果ての暗黒へ飛び出したかにも思えた。
萌黄はいつしか足を停めていた。逃げに逃げて、今の自分は、完全な虚空の中にいるのが分かったからだ。そこは人の声も、人がましい明かりすらも届かぬ本当の暗黒が支配する世界。萌黄はいつしか、ハスターが遺した言葉を思い出していた。邪神たちがその本当の目的を遂げたあと
(そうか…)
萌黄は思わずそこに、自分が立ちすくんだ本当の理由を悟った気がした。
(ここはもうとっくに、わたしたちの世界じゃないんだ)
そのとき、甲高い音を立てた夜風が斬りかかるように吹きつけ、萌黄は、顔をしかめた。思わず一歩気圧されるような、厳しい圧を持った突風だった。牧草の群れがそよぎ、夜鳥が騒いだ。
萌黄はそこでようやく我に返った。ここはまだ、紛れもない人間の世界だ。木も風も草も、そして夜空も、元のままだ。あまりの途方もない存在との対峙に、狂った現実感が萌黄にそうさせただけだ。
萌黄が、ほっ、と息をついたときだ。
巨大な羽音の群れが萌黄の小さな身体を覆いつくすように現れると、萌黄は再び正気を喪いかけた。
ミ・ゴだ。
この牧場に襲来する怪物の群れは、いまだ黄色い王の奪還を諦めていなかったのだ。大型動物よりもさらに大柄な怪物たちは、重たい羽根を羽搏かせて夜空を舞い、ただ一人の人間である萌黄を挑発するようにそのおぞましく伸びた長い尾や、不気味な形をした房をひらめかせた。
腰の銃の弾倉には、もう弾丸はない。だがここで、反撃する気力など一切、出て来そうになかった。
(わたしもこの化け物に脳を盗られる…)
萌黄の脳裏には一瞬で、膨大な時間と記憶が流れた。その中で冬の京都の夜空をミ・ゴが瓦をまき散らして飛び去り、脳を盗まれた萌黄の母親は、萌黄が何を話しかけても反応を示さない、抜け殻になった。人間が知ってはいけない事実を突き止めた彼女の苦悩は、その天才的な頭脳とともに、持ち去られた。
すべては忘却の彼方だ。
化け物たちが導く、その忘却の中へ自分もここで、消えてしまうのだ。
(こんなところでわたしの旅は終わるの…?)
迫りくる怪物たちを前に萌黄は思わず、目を閉じた。
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