第32話 かすかな手がかり

 ハスターはもう、そこにはいない。

 発射された弾丸すらも制止させるすさまじい能力を持ったあの風の邪神が、なす術もなく、そして跡形もなく吹き飛んだ。あまりに現実の激動に、思考が追い付いていかない。いや、五感すらがまず働かない。まるでぬるい泥沼の中に潜っているかのようだ。


(身体が動かない…?)


 こんな経験は初めてだ。これまでのどんな場面でも萌黄は、これほどに我を喪った経験がない。何しろ、こちらへ向かってくる邪神にいくら銃を向けるように頭が指示していても、肝心の手指が思うように動かせないのだ。


(ハスターくんが…)


 殺された。


 萌黄の目の前で、あまりにもあっけなく。

 空気を遮断するはずの真空のシールドは、なんの役にも立たなかった。むしろハスターは脱出不能の風の檻に自らを閉じ込めてしまった。墓穴を掘った、と言ってもいい。


 ハスターの狙いは、炎の息の根を絶つことだった。この世界の『常識』によれば空気の対流がなければ、炎は発生しない。炎が燃え続けることが出来るのは、炎によって燃焼した酸素の欠乏部分に、次々と新たな空気が入り込み続けるからだ。


 真空の状態では、その流動が起こりえない。そこにある酸素を燃やし尽くしてしまえば、餌を喰いつくした檻のネズミのように、炎は飢えて息絶えてしまうはずだったのだ。

 だが邪神の『炎』は、消滅しなかった。クトゥグアの産み出す炎は、人間界の炎の『常識』を、軽く超越した。


 何もかもを、無尽蔵に焼き尽くす邪悪な炎。

 それがクトゥグアなのだ。

 あまりにも理不尽、あまりにも無茶苦茶だ。

 真空状態でも燃え盛る炎があるなら、それは。

 誰にも消すことの出来ない炎じゃないか。

(そんなやつに勝てっこない)


「おい、どうした。次はお前の番だぞ?」


 いつの間にか信じられないくらい近くに、クトゥグアの声が響く。

「ひっ」

 萌黄は喉元から悲鳴がせり上がりそうになるのを、必死で抑えた。

 もはや、蛇に睨まれた蛙だった。萌黄は邪神が自分の間合いを侵すのを、なす術もなく立ち尽くして見ているしかなかったのだ。


「ふん、あと一人がお前とはな。下らねえ。殺す価値もねえと言いたいところだが」

 クトゥグアは手のひらを広げると、恐怖で硬直している萌黄の口を塞ぐようにした。

「まあ、それはそれだ。お前はもう、この世界には必要とされてない。おれが決めた。おれの決定は絶対だ。てわけで、跡形もなく消えな」

 あの邪悪な火炎を操る手が、迫ってくる。萌黄は、思わずこらえていた悲鳴を漏らした。しかし、咽喉の筋肉が硬直して実際は、声にすらならなかった。

(わたし…こんなところで終わってしまうなんて…)

 罪人の汚名を着てまで、出国してきたこの旅が終わってしまうなんて。だが、この邪神の力は、もはや人知の及ぶものではない。萌黄がどうにかする余地など、ないのだ。

(すみません、母上…)

 萌黄が目を閉じ、身をすくめた刹那だ。


「くるあああッ!どっち見てんだボケええええええええッ!」


 聞きなれた怒号が萌黄の耳を打つと同時。

 目の前のクトゥグアが、消えた。

(消えた?)

 信じられないことだ。あのクトゥグアの身体ごと、萌黄の視界から消えたのだ。白いスーツの邪神はなんと、薄汚れたブーツに蹴り飛ばされていた。そして今、萌黄の目の前に立っているのは。


「先輩…?」

 萌黄が恐る恐る顔を上げると、本当に弾正だ。信じがたいことにこの男、遠くからわざわざ助走をつけてジャンプしてきて、邪神を蹴ったのだ。

「『先輩…?』じゃねえよ!さっきからいたっつの!お前、おれさまを意図的に何シカトしてんだッ!?」

(はっ)

 極端に、視野が狭まってしまっていた。何しろ目の前で、風の邪神ハスターが、あれほどすさまじい消され方をしたから。

「ごめんなさい先輩。いると思ってませんでした。だって…真っ先にやられたから」

「ああん!?誰がやられただあッ!?おれさまはぴんぴんしてるだろうがッ」

 確かによく見ると、弾正は軽傷である。あんな正体不明の爆撃に巻き込まれたのに運がいいと言うか、往生際が悪いと言うか。

「おれもまだ、戦える。忘れてもらっちゃ困る」

 萌黄はそこで初めて、弾正がショットガンが破裂して負傷したレズリーの応急処置をしていたことを知った。火傷を負いながらも、二人はずっと反撃の機会を、うかがっていたのである。


「ちッ、燃え残りが。調子に乗りやがって」

 クトゥグアは立ち上がると、憎たらしそうにスーツについた土ぼこりを払った。

「いいだろう。次に消えるのはお前だ」

 と言うクトゥグアにはもちろん、ダメージはない。ただ、怒らせただけである。

「どうするんですか先輩!今度は先輩が吹き飛ばされますよ!?」

「上等だッ!まだおれ様は負けちゃいねえ。つーか萌黄、てめーは何をびびって、ぼーっとしてやがったんだよッ!何を使おうが、野郎は丸腰じゃねえかッ」

「丸腰って、そんな馬鹿な…」

 と、萌黄は言いかけて、息を呑んだ。

「あああっ!?」

(そう言えば)

 こんなときに気づいたが、実に信じがたい事実だ。今の今までパニックになりすぎて、うっかりと見落としていた。ハスターがクトゥグアに敗北する前に、萌黄に言っていたことだ。冷静になれば、クトゥグアは倒せる。くしくも弾正が言った何気ない一言が、萌黄の直感をプッシュしたのだ。

(まさか本当にそんなことが)

 絶対に、乗り越えられない壁だと思っていた。あまりに、理不尽な邪神の力だと思っていた。

(違う)

 本当の敗北は、諦めてしまうことだった。

「燃えカスも残さんぞ、人間ども」

 再び接近してくるクトゥグアを前に、萌黄はホルスターの銃に手をかけた。

「勝ちます」

 撃鉄を起こす瞬間、萌黄は自分の犠牲になって消滅した風の邪神を想った。

「クトゥグアにすら、弱点はある」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る