第31話 絶対窮地
瞬く間に、戦況が決まった。こっちは四人、相手は一人だ。しかし、武装した二人がなす術なく火傷を負った。対する火神は、無傷。どころか、出現してから自分の立ち位置を、一歩も動いてはいない。いぜん丸腰に見えるが、萌黄たちなど、恐れる様子もない。邪神など、本当に倒せるのか。
(恐れるな)
萌黄は自分を叱咤した。何があろうと、そこに陥っては、おしまいだ。いつの場合も戦場では、恐怖におのれを見失った人間から、死神の顔をのぞくことになる。
「さて、どうする?…おれはここで、お前たちを皆殺しにしてもいいし、別に、しなくても構わないが」
無防備に見える炎の邪神は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。だがさっきのあれを見てしまった今は、この男の無防備は決して虚勢ではなく、絶対的な実力から来る自信によるものだと言うことが分かった。
いや、本当は萌黄たち人間などに、はなから関心がないのだ。
証拠にクトゥグアの
「…聞こえるか。ちゃんと聞いてたら、そのままうなずいてくれ、萌黄姉ちゃん」
ハスターの差し迫った声を、ようやく萌黄の意識が捉える。上げそうになった悲鳴を、萌黄はすんでで呑み込んだ。あまりに非常識な事態に、いつしか腑抜けのようになってしまっていたのだ。
「おれが言ったことを、憶えてるよね。…もうだめだ、と思ったら、頼むから、それを思い出してくれよ」
(…そうだった)
そこでようやく萌黄は、我に返った。弾正に続いて、レズリーもあっさりと降され、茫然自失としてしまっていた。
(しっかりしなきゃ)
邪神とて無敵ではない。ハスターが話してくれたことが事実なら、今の爆発だって、何がしかの『仕掛け』があって成立しているはずなのだ。
もちろんそれは、わたしたち人間が使うような、『仕掛け』ではない。起爆装置を隠し持ったり、爆薬や油などの助燃剤を仕込んだり、手間のかかるようなことはしないが、炎の邪神が生み出す炎にすら、魔術の『タネ』があるのだ。
『制約』である。
いかな炎の邪神と言えど、生身の人間が存在を占めるこの世界では、無から有を、何もないところから無限に炎を創り出すことなど、出来はしないはずなのだ。そして風はこの世界にありふれているが、炎はそこまでではない。
(これまでの爆発には、理由がある…?)
「いい顔に戻ったね、萌黄姉ちゃん」
萌黄の目に理性が立ち戻ったのを見澄ましたのか、ハスターは満足げに笑みを浮かべる。
「忘れちゃだめだ。…人間は十分、邪神と戦う力を持っている。ニャルラトホテプがそれを狙っているように、邪神を倒す最大の鍵は、姉ちゃんたちのここにあるんだ」
とんとん、とハスターは自分のこめかみを叩くと、クトゥグアの前に立ちはだかった。
「次はお前か。…つくづく、無駄な真似が好きだな」
ハスターが
「そんなことして何になる、って言いたいんだろ。今のおれにとっては、意味があるんだよ」
「ともに運命を道連れにする人間への同情か?それとも、くだらない愛着か…」
クトゥグアは煮立てるような憎悪の目を、風の邪神に向けた。
「ところで訊くが、それは、風の意志なんだろうな?」
「それは…」
クトゥグアの言葉に、ハスターは心なしか一瞬、言葉を詰まらせた気がした。
「お前に話す義理はない。とにかく、風の邪神のおれがいる限りは、お前の好きなようにはさせない」
「馬鹿を言え。…お前が、お前ごときが。まさか…おれと対等のつもりか…?」
クトゥグアは殺意に沸いた目を向けた。
「見くびられたもんだ。お前みたいな風の邪神の出来損ないに、このおれが、ここまでなめた口を利かれるとはな」
突如、白いスーツのクトゥグアから、異様な緊張感が放射された。今までも十分不穏だったが、これほど追い迫ってくる危機感に直面するのは初めてだ。まるで一気に目の前に、炎の壁が迫ってきたようだ。
(来る…!)
身構えるより先、脂汗をかいた背筋が強張ってくる。萌黄が息を呑んだ時だった。
「萌黄姉ちゃん、大丈夫だ。…落ち着けって言ったろ」
立ちはだかったハスターの声が耳朶を打つ。
「さっきみたいなことはもう、出来ないはずだ。時間はある。だから、ちゃんと考えてくれ」
「ハスターくん…?」
萌黄は、不安そうな表情になった。時間はある、と言ったハスターだが、この風の邪神の少年の言葉はなぜか急き、もはや時間などないように思えたからだ。
「仲間を助けろ。…ここには、萌黄姉ちゃんの仲間がいたんだろ。だから急いで戻ってきたんだ。…あいつはまだ、誰も殺せてないぞ。おれには分かるんだ。いいかい、萌黄姉ちゃんは一人じゃないんだ。その気になれば、みんなで奴をぶっ倒せるんだからな!」
「言いたいことは、それだけかッ!」
腕を振り上げて、クトゥグアは襲い掛かってくる。ハスターへの憤怒に燃える表情は恐ろしげだが、その手に得物はない。まっさらで、何も握られていない。はずなのだ。だが、さっきの爆発のように、そこには必ず何かがあるはずだ。
気がつくと、萌黄は銃を抜いていた。左手でハンマーをスライドさせ、続けざまに弾丸を撃ち込む。ハスターの身体は小さく、背後からクトゥグアを撃ち抜くことは、十分に可能と思えた。
だが弾丸は、炎の邪神には届かなかった。弾丸はハスターの身体の横をすり抜けるかのうちに、らせん状に停止した。弾丸が推進力を喪ったのは、風の邪神が空気の対流を留めているからだ。
風の邪神は、真空のシールドを張っている。空気の流れがなければ、この世界で炎は、発生することすら出来ない。クトゥグアが何をするにせよ、こうすればハスターは、邪神の炎を防ぐことが出来ると判断したのだろう。
「馬鹿めッ」
だが、その読みは外れた。クトゥグアが空の手を振りかざした途端、炎の柱は燃え上がり、ハスターを呑み込んだのだ。まるで真空のシールドが、
粉々になった牧草の切れ端と、大量の土砂が舞う。その中にすでにハスターの姿は見えない。まさに、声を上げる間もなかった。
(まさか)
今のを、誰が予想することが出来ただろう?誰も出来はしない。この世界の常識が、萌黄の知らぬ間に軽く、超越されているのだから。だが、ありえないなどと言うことは、ありえない。
炎の邪神の『炎』は空気がなくても、発生するのだ。
この前提条件は、すでに動かし難い『事実』である。皮肉にも、今それがハスターの身をもって証明された。唯一、この圧倒的な炎の邪神に対抗しうる存在だった、風の邪神によって。
この瞬間、萌黄は、絶叫する声すらも詰まった。あまりに唐突だった。そしてあっけなかった。あのハスターが。人知を超えた風の力を持った邪神が。あの炎の邪神の前に、なす術もなく敗北したのだ。
爆風とともに、風のシールドがほとばしって消え去る。そのとき上がった、甲高い風切り音はまるで断末魔のようだった。
それが去るとぽたり、ぽたりと何かが、風を巻いて落ちてくる。あの一瞬、萌黄が放った弾丸だ。風の邪神によって宙に留められていたその弾丸は鈍い光を放って、爆風で掘り起こされた地面の中に消えた。
すでにそこには何もない。ハスターはいない。今の爆発で、粉々に吹き飛んでしまったのだ。
あとには草いきれと湿った牧草土の生々しい匂いの混じった、うっとうしいばかりの熱風の残り香があるばかりだった。
「あと、一人」
出くわした死神のように、炎の邪神が言う。
この男の前に、立ちはだかるのはすでに、萌黄、ただ一人だけだ。
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