第29話 邪神と制約

 かくて一路、エイワス農場へ。

 西の彼方にカリフォルニアのまばゆい陽は落ちかけ、早馬を駆る萌黄たちの姿は、緋色に焼きついた影のように見えた。目もくらむばかりの茜色の光を後目に、萌黄たちははしった。

 合流出来ないジャイルズの行方をクトゥグアが追う先は、エイワス農場である。紛れもない怪物である邪神の魔の手が、シャーロットたちに迫っていると思うと、萌黄たちは前後を確かめる余裕すら喪った。

 強い日が色濃い影を落とす、西部の荒野は昏い。遠くの夕陽はまばゆいのに、どんどん覚束なくなってくる足元に、馬の脚を気遣いながら、萌黄は自分が知らぬうちに闇の深淵に吸い込まれていくような錯覚を覚えた。

「そろそろ松明トーチをつけなきゃな!」

 先頭を駆るレズリーが叫ぶ。低い木すらもない荒地はどこまでもだだっ広く、なんの遮蔽物もないように見えるが、思わぬくぼみや落石も多い。

「馬を大事にしなよ、萌黄姉ちゃん」

 ハスターがふいに現れて、走る萌黄の馬首の横合いから声をかける。

「どんなに早い馬だろうと足を折っちまったら、そこまでだ。…誰か火種を起こしてくれない?」

 レズリーがマッチを持っていた。一八二七年に誕生したばかりのマッチは、当時は中々の貴重品である。わけてもフランスで誕生した黄燐おうりんマッチは、靴の裏で擦っても火が点く。

「ほらよ」

 ハスターはレズリーから小さなマッチの火を受け取ると濃度の高い酸素を送り込み、みるみる種火を育てる。

「火は風で育つ。でも、風で火を『生む』ことは出来ない」

「ハスターくん…?」

 風で燃え盛る炎を見つめながら萌黄は突然、始まったハスターの話の意図が分からず、眉をひそめた。

「奴の…クトゥグアの『能力』について話している。重要なことだから、きちんと聞いておいてほしいんだ。あいつは炎の化身だ。でも、風と比べてこの世界に炎は少ない。発生する条件が、風を起こすよりも限定的だからだ。ここまで話は分かるかな?」

「分からねえ」

 と言う弾正に、萌黄はかみ砕いて話を伝えた。なるほど、道理は通っている。風と炎、どちらにも発生する『条件』はあってこの世界に存在しているが、恐らくは風に比べて炎の方がより、発生しにくくはあるだろう。

「だからクトゥグアの『炎』も、発生に『条件』がある。つまり邪神といえども、そう無暗やたらと、爆発させられるもんじゃない。奴の炎に気をつけろ、と言うなら、注意すべきはそこだ。まずそこを理解してほしい」

「OK、分かった。素性こそ炎の邪神だが奴は、条件がそろわないと炎を使えない。つまりその条件が分かれば、つけ入るスキがある。そう言いたいんだよな?」

 と、レズリー。

「積極的な面を言えば、そうだ。…でも逆の面を言うなら、それだけ気をつけてほしい。あのピンカートンの捜査官みたいに馬車ごと、吹き飛ばされたくなかったら」

 育てた火種を渡すハスターの顔は、真剣だった。

「つまり奴は最初から、炎を起こすものを所持しているってことだな。このマッチみたいな?」

 レズリーが言うと、ハスターはむしろ、いらだたしげに顔をしかめた。

「いや違う、それは違う。…そう言う油断が奴につけ入らせるスキなんだ」

「もっと別の『条件』があると言うことなの?」

「うん、萌黄姉ちゃん、奴の能力には『条件』がある。ちょうど、新知覚能力者ドアーズたちみたいに。ある手順を踏まないことには、発動しないはずだ」

「つまりそれを見つければ、クトゥグアに勝てる…?」

 萌黄は、目を見開いた。

 何しろ相手はダイナマイトなしでも、自在に爆発を起こせる邪神だ。ハスターと同じく、人にあらざるものならば、たとえ遭遇したところで戦いようがない。

 萌黄は希望を持って聞いたが、それに対するハスターの答えは消極的なものだった。

「勝てるかどうか、保証は出来ない。…でも、犠牲者を減らせる。やつと戦ったときに、一方的にやられなくては済むはずだ」

「そもそも邪神に銃弾は効くんだろうな」

 レズリーが、いぶかしげに尋ねる。そう言えば、さっきのブームタウンの戦闘でもハスターに銃弾は効かなかったではないか。

「邪神でも銃弾は効く。それが、肉を備えた実体の部分ならね」

 と言うとハスターは、自分が撃たれたはずの腿を指し示してみせた。

「例えばおれがさっき撃たれても平気だったのは、ここだけ実体を消していたからだよ」

 と、ハスターは自分の拳をいきなり、腿に突き刺した。

 萌黄たちは声を上げかけたが、本当に驚くべきことは、予想していたこととまったく違った。ハスターの拳がその腿の中へ入り込んだのだ。まったく抵抗した感触もなく、音もなかった。まるで雲を突き抜けたみたいに。

「そうだ萌黄姉ちゃん、今、おれの足は雲で作った蜃気楼みたいなものなの。この状態のおれは弾丸では殺せない」

「でも、そうなるには、『条件』が必要る…?」

「その通りだ。『条件』は、制約なんだ。あんたたち人間たちの世界の裏側にいるおれたちが、そのルールを破って、そこに存在することが出来る理由だ」

(邪神にも弱点がある…)

 ハスターは、そう言いたいのだろう。もちろんそれで、自分の弱点をさらすような真似はしたくないだろうが、クトゥグアと相対するのにはそれは十分な希望ではある。


 ほどなく、平原は闇に沈んだ。

 落陽を受けて切り絵のようだった建物も人も鈍い色に覆われ、息を潜めている。

 地平線に太陽を閉じ込めた夜空には、光の粉を散らしたような星屑が瞬きだしていた。

「もうすぐ、農場だ」

 松明を点して、レズリーが言う。木一本生えていない一面の丘陵でなんの目印も見当たらないが、農場の人間なら違いが分かるのだろう。遠く野犬の吠え声がして、弾正が眉をひそめていた。西部の夜の平原では、ふいに襲ってくる犬や狼が、何よりの脅威なのだ。やがて闇の中にしきりにきかわしながら闇の彼方を犬が集まってくる気配がした。

「ちッ、くそ犬が」

 弾正は刀を抜きかけたが、レズリーがこれを制する。

「待て。…何か来る」

 レズリーはショットガンを構えた。野犬にたかられてこちらに来るのは、一頭の裸馬だったからだ。

「あれ…もしかして、シャーロットさんの…?」

 萌黄は思わず息を呑んだ。あれは確か、ただの馬ではない。シャーロットの黄衣の王イエロー・キングで作られた話す馬だ。

「シャーロット、無事か!?」

 レズリーはショットガンを威嚇射撃して、犬を追い払う。その直後、物凄い地鳴りとともに、はるか闇の彼方に爆炎が上がった。

「クトゥグアだ…!」

 ハスターが苦しそうに、うめいた。

「奴の仕業だ」

(間に合わなかった…?)

 銃を抜くことも忘れ、萌黄は凍りついた。

 すでに攻撃は始まっている。



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