第9話 幻のシャーロット

カタカタと、丘の上で羽の欠けた風車が回っていた。二階建てほどの大きさのものだ。風車で井戸水を汲み上げているのだった。今でも井戸が機能しているか否かは萌黄たちがみてすぐに判らなかったが、割れた木のバケツが雑草に埋もれたまま、そこに転がっていた。

「けッ」

弾正はそのバケツを思いっきり蹴飛ばすと、怪訝そうに顔をしかめた。

「おいッ、本当にここ、人が住んでやがンだろうなア?」

「確かに、人が住んでる気配は薄そうですね…」

萌黄は牛舎の方を見て回ったが、開け放たれたその場所には牛が一頭もいない。

「その化け物って奴に、喰われッちまったんじゃねえだろうな」

弾正は舌打ちすると、考え込むエイクリーに向かって手を差し出した。

「なんだ?」

「見りゃあわかんだろ。貸せよ、さっきの瓶の化け物を」

「どうするつもりですか!?」

萌黄は目を剥いた。

「聞くしかねえだろうよ。手がかりそいつしかねえんだから。萌黄、メリケン語だ」

どうやら瓶の液体に再び話しかけるつもりらしい。

「大丈夫なのか?」

「はあっ?なにびびってんだよ、おめえが持ってきたんだろうがよ」

「…とにかく手荒な真似はしないでくれよ」

言葉を呑み込んだエイクリーは恐ろしそうに、弾正に液体の瓶を手渡した。

「じゃとりあえず振るか」

「なんで振るんですか!?」

「生きてるのか何だか分かんねえだろ。生きてりゃおもくそ振ったら、何かは反応すんじゃねえかよ」

無茶苦茶なことを言いながら、弾正は全力で瓶を振ろうとした。すると、

「うおっ」

瓶の中の液体が、再び変化したのだ。次に現れたのは、いかにも白人のものと言った青い色を湛えた、大きな女性の瞳だった。

『着いたのね』

瞳は辺りを見回すようにすると、再び唇と歯に戻った。

「驚かせるんじゃねえよ!ふざけやがって。そろそろ怪しくなってきたぜ。そもそも、お前、まっとうな人間なんだろうなア!」

日本語で怒鳴りつけた弾正から、萌黄は瓶を引っ手繰った。これではらちが明かない。

「ミス・エイワス、ジョン・ダブリンから聞きました。わたしたちは日本、と言う国の武官です。あなたはここ数年、人前で姿を現していないそうですね?」

萌黄は自分たちの自己紹介をすると、瓶の中からの返事を待った。

『そう、わたしたちはただの人間よ。だからこそ、接触する人を選ばなければならない』

と、シャーロットの唇は言った。

『信じられないことも、信じたくないことも、沢山起こった。こうして暮さなければ生きていけない。これは必然だった』

「街にも、教団の手先がいるんだな」

『密偵なんか、珍しくない。人間の密偵ならこんなに恐れたりしない』

唇は声だけで、せせら笑った。

『あなたたち、信じられる?わたしの父は、【むさぼり食われた】。透明な何かに、突然捕って、頭からむしゃむしゃとね。わたしたちだけじゃない。誰もが見ていた。血と脳髄にまみれた頭蓋骨の白い欠片が、叫びをあげる臓腑ぞうふが、空中に消えていったのを。あの街の、路地裏で、今ぐらいの季節の夕方だった。しかもそんな悲惨な父の死を、保安官に証言してくれる人なんて、誰一人としていやしなかった』

シャーロット・エイワスの唇が吐き出した絶望の深さには、さすがの萌黄たちも返す言葉を喪った。凄まじすぎた。彼女の言葉が真実だとするなら、それはとても正気でいられるような事態ではない。

「まさか、あなたのお父さんは、ネクロノミコンを目にしたのですか?」

重苦しい沈黙を破って、萌黄が尋ねた。

「ネクロノミコンの原題は『アル・アジフ』。紀元七三〇年にダマスカス(現在のシリアの首都)で書かれたと言われます。著わしたのは、アブドゥル・アルハザード、狂える詩人とまで称された人物です。この世界に眠る『いにしえの者』をその著書に記したその男は、執筆直後、白昼のダマスカスの路上で、目に見えぬ透明な何かに、頭から【貪り喰われた】と言われます」

『父は新知覚者ドアーズですら、なかった』

「しかし、知るべからざる何事かを、知ってしまった。わたしの母は、ネクロノミコンに触れてしまったんです。常人なら、二秒で脳がける、とまで言われた魔書を、紐解いてしまった」

『あなたのママは、殺されてしまったの?』

萌黄は無言で、首を振った。

「肉体的には、生きています。ですが、わたしの知っている母は、永久に喪われてしまった。彼らは母の『脳』を身体を生かしたまま、盗んでいきました」

『そうだったの…』

唇は、それ以上、言葉を返さなかった。それもまた、非常識なほどに恐ろしい事実だったからだ。

『いいわ。瓶を開けて中身を出して』

それから唇は唐突に話題を替えた。

『準備は出来た。後はその馬についていって』

「馬だア?」

怪訝そうに弾正が眉をひそめると、馬が一頭、すでにいた。それはなぜか突然現れたのだ。三人がいるのは、だだっ広い平原である。何かが近づいてきたなら、必ず誰かの目につくはずが弾正も萌黄もエイクリーも全くそれに気づかなかったのだ。

『瓶の中身を』

再び言われて、萌黄は瓶のふたを開けた。すると黄色い中身が、生き物のように飛び出して、それをとことこ歩み寄ってきた馬が食べた。

「あっ」

萌黄たちは唖然とする暇もない。

『大丈夫よ。いいの、わたしについてくれば』

「馬がしゃべった!」

黄色い物体は馬と一体化したらしかった。ますます不可解であった。


カリフォルニアの黄金の陽が、ゆっくり暮れようとしていた。どこまでも広い草原を、萌黄たちはたった一頭の馬について歩いていったのだが、初めて歩くアメリカの大地は恐ろしく広大だった。目につくところすべてがエイワス農場と言うが、日本の常識では、これが一私人の私有地とは、到底思えない。

『人間が使う土地なんて、ごくわずかよ。人手もいないし、管理なんてほとんど出来ない』

牛を放牧していると言うが、野生の宝庫だ。そちこちを駆け回っている馬はみな、野生馬だし、水牛の群れも野放しだ。さらにはそんな獲物を狙って現れる狼やクーガーと、日々が戦いだと言う。

『それでも、楽しかったわ。人間相手より、よっぽどね』

平原の果ては断崖になっていた。真下は十五、六メートルの落差はあろうかと言う深い谷である。

水音に従ってその崖沿いに降りていくと、そこに深い木闇が拡がっていた。原生林が広がる藪を抜けると沢へ降りる獣道が拡がっており、覆いかぶさるような洞窟群に寄り添う形で丸太小屋が築かれていた。

「父の狩猟小屋だったの。ここなら、武器や食糧も蓄えておける」

声が二つに重なった。ちょうど小屋から、ライフルを担いだ若い女性が出てきたところだった。


シャーロット・エイワスは、美しいコーンブロンドを後ろで結わえていた。歪みのないアーチを描くアーモンド形の大きな瞳はサファイアブルーで、縦長の鼻梁びりょうもほどよい大きさで顔に収まっていた。卵型と言っていい輪郭の、あごも形も控えめであり、まさに貴婦人レディの風貌と言っていい。しかしそれは彼女と、しばらく向かい合った後で、やっと気づくことに過ぎなかった。

農場の男たちの、誰もが身に着けたであろうチェック柄の綿シャツも首に巻いた虫よけのバンダナも汗と堆肥と煤にまみれ、みてそれと分かるほどに色あせていた。年代物の巨大なバックルのついたベルトをしめたサスペンダーズボンも、頭の後ろに回したハットも使い込まれた形跡があり、人の脂でくすんでいた。

異様だったのは、目の下の黒いメイクだ。樹脂と煤を混ぜたものをここに塗ると、夏場の日よけになるのだが萌黄たちに、そこまで分かるわけはない。

「ハイ、歓迎するわ。思ったよりかわいい子なのね。ようこそ、エイワス農場へ」

「ひゃっ、痛いですっ」

さっきと打って変わって愛想よく、シャーロットは、小さな萌黄にハグする。

「おおい、おれ様たちも客だ。歓迎しやがれ!」

弾正がぶら下げている日本刀の柄を、シャーロットは物珍しそうに一瞥すると、

「ミスター・エイクリー、あなたは、上海から来たのよね。日本、ってどう言う国の人なの?」

「もちろん、清国チャイナとは違う。日本は、長い間開港しなかった国だ。この二人のような、武士サムライと言う将兵が、独立を守り続けてきた」

「すごいのね」

シャーロットは、吹きかけた口笛を、あわてて咳払いで掻き消した。

「あっ、ごめんなさい。じゃあ、二人ともえらい人なわけね?」

「いやあ、それはそのう、そう言うわけでもないんですけど…」

萌黄の声は消え入るようだ。まさか本国では、国賊級の犯罪者、とは絶対言えない。

「おい金髪、俺ア腹が減った。こんなだだっ広い場所、端から端まで歩かせやがってよう。歓迎するッてんならなア、たらふく牛鍋でも喰らわせやがれ」

牛鍋ギューナベ?」

「彼らは腹が減っているようだ。さっき襲撃されて、ランチを食い損ねた」

「襲撃?連中に、襲われたのね?」

襲撃と聞いて、シャーロットはきっと顔をしかめた。

「ああ、ぶった斬ってやったがな。おれはなあ、連中なんて屁でもねえんだ」

シャーロットはさすがに鼻白んだようだった。言葉は通じないが、態度のでかさだけは万国共通、空気でばっちり伝わったようだった。

「いいわ、食事にしましょう。まださっきので、話し足りたってわけでもないんだし」

シャーロットがぱちん、と指を鳴らすと、驚くべき事態が起きた。あの突然現れた馬が、一声、甲高い声でいななくと、黄色い霧になって消えた。

「これがあなたの能力か?」

シャーロットは頷かず、大きく肩をすくめた。

「そうでもないし、そうとも言える。ミスター・エイクリー、わたしは、彼らと生まれ育ってきた。連中の狙いは彼らよ。彼らはわたしに、助けを求めている。紹介する、彼らの名は、『黄衣の王イエロー・キング』」

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