第8話 エイワス農場
「え!?今、誰か何か言いました!?」
萌黄は思わず、振り返ったが、そこには怪訝そうな顔の弾正とエイクリーがいるばかりだ。
「おれは何も言ってないぞ」
「馬鹿か。おれらの他は知らねえメリケン野郎ばっかだろうがよ」
二人とも辺りを見回したが、異体の彼らに話しかけてくるような人間が周りにいるはずがなかった。
「ところでこのシャーロット・エイワスと言う方とは、どちらで待ち合わせですか?」
萌黄が問うと、エイクリーは苦笑で返した。
「分からない」
「おいっ、ふざけてんじゃねえぞ」
「本当だ。先方が寄越したのは、この黄色い液体とそいつの養い方だけだ」
「じゃっ、じゃあわざわざ街に出てきたのは…?」
「こいつがそろそろ、腹を空かしそうだったからさ」
「知るかっ!つか棄てちまえよそんな化け物!」
弾正がその黄色い液体の入った瓶に、手を伸ばしかけたときだ。瓶の中の液体が激しく動いたのは。
『ミス…ター・エイ…クリー?』
今度は確実に、女性の声がした。
「だっ、誰だこの野郎ッ!」
弾正は思わず、柄に手をかけた。無理もない。今の声は、異様だった。この雑踏の中で、明らかに至近距離から話しかけられたものだった。
『…かっ…ほっ…に…る…わね』
だがもっと奇妙なのは、そのはっきりと近い声の遠近感が微妙にずれることだ。この時代には存在しなかったがそれは、ラジオやトランシーバーのチューニングが上手くいかないときの状態に似ていた。
「エイワス。ミス・エイワスか?」
エイクリーは辺りを見回しながら、闇雲に話しかけた。しかしその必要がないのは、すぐに分かった。なんと、しゃべっていたのは瓶の中の液体だったからだ。
「えっ、エイクリーさんっ!これ…」
萌黄が思わず、蒼褪めるのも無理はない。再び声がしたとき、瓶の中の液体は元のままではなかった。それは
唇だ。
瓶の中の液体は、若い女の唇に変貌したのである。
『シスコへようこそ、ミスター・エイクリー。…連れのお二人も。はるばる上海から。歓迎するわ』
唇は信じられないことに、シャーロット・エイワス本人だと名乗った。
「あなたがミス・エイワス?この瓶の中にいたのが?」
「ばっ、化けもっ」
悲鳴を上げかけた弾正の口を、萌黄は塞いだ。
『わたしは確かにエイワス。でも、それは少し違うわね』
と唇が、不満そうに話し出したからだ。
『わたしの声が聞こえている、と言うことは、瓶の中の液体はわたしの唇か何かに化けているはず。…ミスター・エイクリー、あなたに送ったその物体は人間の身体の一部に変化し、そのものになることが出来るのよ。あなたも別の能力を持っているはずだから、それが理解できるはず』
「つまり、君も
『そんなところね』
心なしか、瓶の中の唇が微笑むように、ほころんだ気がした。
『…はるばる東洋から来たあなたたちにはぜひ逢って、お話ししたいことがあるわ。これから、わたしの言う場所に来て下さる?』
「ああ、そうしようと今、思っていたところだ。連れの二人を助ける過程で、向こうの人間にも襲われたしな」
エイクリーは『
『それは困ったわね。(唇は苦笑した)…実は、わたしもなの。うかつに連中に行動を悟られるわけにはいかない。つまり、あなたたちからわたしを訪ねて欲しい、と言うことなんだけど』
「どこへ行けばいい?」
エイクリーは率直に聞いた。相手も簡潔に答えた。
「エイワス農場…?」
『ええ。この街の外れに、『
唇はそう言い残すと、それだけ言えば十分だと言うようにまた、液体に戻った。
「なんだよ。こそこそしやがって。おい、その女、本当に大丈夫なんだろうな?」
「居場所を隠してるみたいですね。…もしかして、彼女も追われて…?」
「だろうな」
エイクリーは訳知り顔で頷いた。
「残念だが、想定していたことだ。連中とことを構える以上、安全な場所なんてどこにもない」
「へっ、こっちだってそんなこたあ先刻承知だ。さっさと行こうぜ」
『小鬼』はすぐに見つかった。町はずれにある大きな欅の古木のある坂の下だ。軽快そうな名前だが、軽いのは吹けば飛びそうな造りの安手の建物だけで、客のいない店内は地獄のように湿っぽくて暗かった。亡者のように青白い顔をした女以外には、鬼のようにいかつい顔のバーテンしかいない。ジョン・ダブリンは、退屈そうにグラスを磨いていた。
「何か飲もう」
でなきゃ口を割りそうにない、とエイクリーは言った。エイクリーが人数分の飲み物を頼む間も、地獄の
「あんたがジョン・ダブリンだな?」
アイルランド人は自分の名前を呼ばれて、眉をひそめた。
「あんたらよそ者だろう。おれに、何か用かい」
「エイワス農場について聞きたい」
率直にエイクリーが問うと、男は不快そうに肩をそびやかした。
「正気とは思えねえなあ」
「エイワス農場なら、この店の坂を上り切ったところ一帯すべてが縄張りだよ」
この開拓地でも、最も古い農場の一つだと言う。ライウイスキーの小さいグラスを干して、エイクリーは質問を続けた。
「それは、でかいのかい?」
「土地はな」
「なら、景気はいいはずじゃないのか?」
ジョン・ダブリンは大儀そうにため息をつくとこう言った。
「化け物屋敷だぞ」
農場はそもそも、一八三〇年代、まだこの街が流行っていない頃に、チャールズ・エイワスと言う男が一家を連れて、切り拓いたのだと言う。一家は食うや食わずの生活だったが、それからほどなく、西部のゴールドラッシュが起こり、おびただしい人口増加が農場に莫大な富をもたらした。
ゴールドラッシュ時にはどの街でもそうだったのだが、人口爆発した場所は物価が信じられないほどに高騰する。開拓地では牛肉の値段がはねあがり、東部の数十倍に達したと言われる。生鮮食品の輸送技術のないこの時代、牛を生きたまま輸送し、現地で食肉に加工する必要があったために、人手はいくらあっても足りなかった。
エイワス農場も最盛期は、腕のいいカウボーイを十数人も雇って、景気よくやっていたらしい。だがその頃から、不穏な噂が立っていた。
「あの農場には、牛以外の化け物がいる」
と、言う不可思議なものだ。折から鉄道用地の買収が始まり、そうしたエイワス農場の悪評も、用地買収者が流した悪質なデマだと、当時は言われていたらしい。
「でも、本当にあの農場には化け物がいやがったのさ」
十年ほど前から、怪しいカルト教団が農場に頻繁に出没するようになったと言う。
「我が力強き使者ニャルラトホテプへ、未知の知覚の供物を」
どこからともなく湧き出でた邪教団は不気味な文言を唱えながら、一時は農場を包囲するような事件も起こしたらしい。
「チャールズはそれを何とか追っ払ったらしいが、カウボーイたちが寄り付かなくなっちまってな」
ゴールドラッシュの終焉も相まって、農場は一気に寂れていったと言う。
「だが、邪教の連中はまだ諦めてねえらしい」
ひと気のなくなった農場ではまだ、不気味な睨み合いが続いているのだそうだ。
店を出た三人を、ジョン・ダブリンは農場の入口まで案内してくれた。
「噂によると十年ほど前、チャールズが死んだ。今でも健在なら、エイワスの一家が農場を管理してるだろうよ」
ダブリンは太い指で、広大な牧草地の丘陵の彼方を指した。
「健在なら?」
バーテンは皮肉そうに鼻を鳴らすと、片頬だけで笑った。
「なぜならここ数年、エイワス一家の誰も、その姿を見られたことがないからさ」
ダブリンによればチャールズ・エイワスには、四人の子がいた。シャーロット・エイワスはその末娘であり、今、生存していれば二十一歳のはずだと言う。
「生きてるんだろ?さっき話した女が、その化け物ってやつじゃなきゃな」
「こっ、怖いこと言わないで下さいよ先輩っ!」
萌黄は悲鳴を上げた。
瓶の中の黄色い液体は、あれからなんの反応も示さない。さっきそれが女の唇の形になって声を発したことなど、誰も信じないに違いない。
「彼女としか、手紙のやりとりはしていないんだ。生きていると信じるしかないな」
エイクリーは苦笑した。彼はむしろ、バーテンの話を聞き、確信を持ったらしい。
「シャーロットがおれに送って来た内容と、バーテンの話が一致する。邪教団に悩まされた農場は、連中の正体を知るためにあらゆる手立てを講じたようだ」
そしてシャーロット・エイワスは、エイクリーたちの協力者になったのだと言う。彼女は東部にいると言う別の協力者と面会し、
「へんッ、無事ならいいがな」
弾正は目を剥くと、丘陵の向こう、ぽつんと建っている古ぼけたサイロのたたずまいを目をすがめてみた。
「まあいい。行くぜ」
弾正は柄に手をかけると、一番先に牧場に足を踏み入れた。
真夏のサンフランシスコの午後の陽が、これから暮れようとしていた。
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