第6話 未知からの襲撃

「脳味噌…?」

 萌黄がはっとした顔をしたことに、エイクリーは気づいたようだった。

「どうした?何か、心当たりがあるって顔だな」

 萌黄はその瞬間、強くかぶりを振った。まさかそんな、そんなはずはない。

「もしかして首を振ったのは…?脳を盗られたら当然死ぬはず、だからそんなことはありえない、そう思っているからじゃないかな?」

 今度こそ萌黄は、愕然がくぜんとした顔をした。なぜこの男はこれほどまでに、自分の図星を当てえるのだろう。

「てめえふざけたことを!頭カチ割られたら、死ぬに決まってるじゃねえかっ!?」

「ふざけてないさ。ならばはっきりと言おう。連中はな、物凄い技術を持っているのさ。人間の脳を、生きたまま取り出すことの出来る、そんな能力をね」


「いけんッ、石川いしかわっ、わしア脳をやられたっ」

 彼は、叫んだと言う。萌黄の母は、それを確かに訊いた。彼女はそれを、直接聞いたのだ。このとき彼が助けを求めた石川、それはその男の旧名だ。この石川こそ近江屋事件からの唯一の生存者、中岡慎太郎なかおかしんたろう。彼女がその声を聞いたのは、その中岡からではない。彼女は坂本とともに受難し、そこから何らかの方法で逃げてきたのだ。

(だからだ)

 萌黄は想った。

「わたしも同じ…脳をやられた」

 あのとき、そう言ったのは。

 慶応三年(一八六七年)十二月十日、京都近江屋にて土佐藩脱藩浪士、坂本龍馬さかもとりょうま暗殺さる。事件の真相は、今を以て謎のままである。


「エイクリーさん、あなたのお話、わたしは信じます」

 夢想を破られた萌黄は、意を決して言った。

「かつてわたしの母ともう一人、大事な人間が、脳を盗られました。恐らくそれは、あなたたちが言う尼二封妃たちの陰謀によって、だったのでしょう」

「なるほど。私もその件は、調べていた。近江屋事件オウミヤジケン…あなたの母上も、あの晩、あそこにいたのだね?」

 萌黄は、今度は躊躇の無い表情で頷いた。

「母は坂本さんについて長崎に行き、尼二封妃と会っていたと思います。そのとき、坂本さんからある文書の解読を依頼された、と話していましたから」

「それで君は尼二封妃のことを知ったのだね?もしかしたら、いにしえの者たちのことも…?」

「はい。とても信じられない話ですが、ある程度は聞いていました」

「文書…それは、もしかしてネクロノミコンと言われるものじゃなかったかね?」

 文書と聞いてエイクリーは、ぴくりと柳眉を逆立てた。

「書名は分かりません。しかし母は、その本を読んだことをとても後悔していました」

「なんだって…?」

 萌黄の言葉に、それでもエイクリーは期するものがあったようだ。

「あれが『読めた』のか…?もしそれが事実だったとしたら、一度会ってみたかったな。君のお母さんとやらに」

「無駄です」

 突き返すように萌黄は言った。その語尾は悲しみで上擦り、瞳は涙で濡れていた。

「母はもう、永久に喪われてしまった…まさか、まさかっ、本当に脳を盗まれていたなんて…」

 ついに顔を覆って、萌黄は泣き出してしまった。

「あーあ、泣かしちゃったよ。どうしてくれるんだこのメリケン野郎」

「辛い記憶を、思い出させたようだな。悪かった」

「だったら悪かったついでに、もう一つ話しちゃくれねえか?」

 弾正はすかさず切り込むと、卓上のサンドウィッチを一口で頬張った。

「あんたが追ってる尼妃のことだ。あんたの話によると、そいつはあんたがいた上海では、大きな組織を率いて資金源も十分だった。普通の悪党ならそれで御の字だ。だがなぜかその女は消えた。つまり、組織は崩壊したのか?」

 エイクリーは頷いた。

「ああ、私の通報で疎開軍が動き、教団は表向きは壊滅したことになっている。しかし尼二封妃はもちろん、組織の重要な幹部たち、そして彼らに洗脳された新知覚能力者ドアーズたちは、もちろん捕縛されていない」

 それ以前に、尼二封妃はすでに来日し、横浜から日本を発ったと言うのだ。

「日本に何があった?」

「簡単に言う。奴らは『封印されし者』を引き揚げたのだ」

 エイクリーは顔を上げ、弾正を睨み返した。

「この国で蘇った。その首謀者の一人は、お前たちのよく知る、その坂本サカモトと言う男だった」

「知ってます」

 と、声を上げたのは萌黄だ。

「母は、龍馬さんと長崎であるものの陸揚げに立ち会ったんです。それは海の奥底深く、いつとも知れないくらい旧くから、沈んでいたものでした」

「君は中身を見たのか?」

「見ないほうがいい。そう、言われましたから」

 この質問にも、萌黄は首を振った。

「ただそれがなんであったかは、こう聞いています」


 は永久に横たわる死者にあらねど

 測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの


「ちっとも分からねえじゃねえか!どんな化け物だ!?」

「わたしにもわかりませんよ!て言うか先輩、わからないなら黙ってて下さいって言ってるじゃないですか!?」

 涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、萌黄は食ってかかった。そのような得体もしれないものに母親の脳を盗られたのだ。無理もなかった。エイクリーはハンカチを取り出して、泣きじゃくる萌黄に渡してやった。

「…口では表現できないくらいの化物だな。つまりは私たちが気が遠くなるほどの時間を生き永らえ、やがてはその死すらも超える『化け物』。尼二封姫はそのひつぎから出てきたものとともに、さらに東へ向かった。さるアメリカ商人の保護を得てな。出港はちょうど今から40日前。着いたのは、おれたちが今いるサンフランシスコの港だ」

「おい…てことは、連中はおれたちより早くこっちに到着してるんだろ?おれらが横浜ハマを出たのも、ちょうどそれぐらいなんだ。奴らを追ってな。だがまだ、この街にいるってのか?」

 愕然とする弾正に、エイクリーは、はっきりとうべなって見せる。

「私が着いたのは君たちよりもちろん後だが、情報はすでにいくつも得ている。こちらにも協力者がいる。いわば連中の敵だ」


『そうかい。ふうん、それで分かった』


 ふいに男の声がした。上海語訛りの強いブロークンな英語だ。


「誰だ」

 椅子に座ったまま、エイクリーが言った。

 するとその何者かが答えた。


『さっき自分で言ってただろうがよォ。あんたを、狙ってる人間だよ。すでに接触していたんだな。そこまで聞けば十分だ。あんたが船を降りてのち、接触した人間全員をぶっ殺しちまえばそれで済むことだからなァッ!』


「どこから話してやがる!?」

 弾正は抜刀の準備をしながらあたりをうかがったが、声の方向は定かではない。

「隣の部屋でしょうか!?」

 萌黄が銃を構え、隣室のドアを開けようとしたが、

「違う。ここは角部屋だし、隣室は物置で人が入れないようになっている。私が確認した。問題は、そいつの声が壁からじゃない、どこから響いてくるか分からないことだ」

「天井ですかっ!?」

「無闇に発砲するんじゃねえ萌黄ッ!弾丸タマの無駄だッ!」

 すかさず萌黄を叱咤すると、弾正は食べ物が乗ったテーブルを蹴飛ばして部屋の中央に立った。

「萌黄、翻訳しな。分かってるってよ。お前、例の化け物だろ。このメリケン野郎と一緒だ。何か細工して隠れてやがるな?」

 相手は答えなかったが、図星を突いたようだ。

「あー、なんだア…そう確か、新知覚能力者ドアーズって連中だ。そうだろ?」

「先輩が新しい言葉を憶えた…?」

 萌黄はそこに感動している。

「なぜすぐ、そうだと分かった…?」

 尋ねたエイクリーに向かって、弾正は鼻を鳴らしてみせた。

「こんな薄気味悪いのは、初めてだからな。いいかい、剣客ってのは、姿形がなかろうが、人の気を読むのさ。その伝でいくとのぞき野郎、ここはよ、どこからもお前の気配が匂いやがるンだよう」

 ゆっくりと腰を落とすと、弾正は再び柄に手を置いた。

「この部屋じゃあ、どっからまでもおれの一足一刀いっそくいっとう(一撃で致命傷を与えられる距離)の間合いだ。てめえに度胸があるなら、どっからでも顔出しな。ぶった斬ってやらあ」

 挑発する気満々の殺気を、弾正は放った。その裂帛の気合いを当てられて、大抵の人間はことに怖じただろう。

『おい舐めるなよ…』

 しかし、小さな沈黙のあと、声の男はふつふつと怒りをたぎらせたのだ。

『おれの能力は『深きものディープ・ワン』。自慢じゃないが、狙った獲物は外したことがなくてねえ』

「へッ!まアたもそもそ新しいこと言うんじゃねえ!憶えきれねんだよ。いいから、さっさと狙ってこいッ」

 相手は言葉は分からないながら、挑発と受け取ったようだ。

ドタマぶち抜いてやるッ!後悔するなよッ!』

「せっ、先輩ッ!後ろッ!」

 弾正が啖呵を切った瞬間だった。

 なんと。

 何もない壁から、腕だけがふいに、突き出してきたのだ。

 その手は、革袋をした男のものだ。弾丸を装填した拳銃を一丁、握っていた。

「くたばれえッ!」

 引き金を絞られると同時に、弾正が無言でその手首を斬り落とした。

「ううッ」

 ごとりと銃を握ったままの手首が、血潮を巻いて床に落ちる。弾正の剣は狙いあやまたず、男の殺気を捉えたのだ。

 しかしだ。弾丸は弾正を外れはしたが、背後にいたエイクリーの胸に飛び込んだのだ。衝撃でエイクリーは背後に倒れ込んだ。弾丸は心臓に飛び込んでいる。萌黄があわてて駆け寄った。

「エイクリーさんッ、大丈夫ですかッ!しッ!しっかり!」

「てめえッ、なにしやがる!てか日本語しゃべれッ!」

「っるせえ!つうか英語でしゃべれこのクソ野郎ォッ!」

 弾正は手首を切った。だが、その腕は出てきた場所から、幻のように引っ込んで消えてしまったのだ。すかさず萌黄が封鎖されていた隣室のドアをぶち破ったが、そこには誰もいない。

「どうなってやがるんだ…?」

 弾正と萌黄は、愕然として方途を見た。

 男の腕が引っ込んだ壁には、コールタールを塗ったような黒いシミが、残っているばかりだった。

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