第5話 新知覚能力者(ドアーズ)

 そこにあったのは、開け放たれた窓いっぱいの、西海岸の青空だった。

 林檎の果肉のように瑞々しい黄金色の陽だまりが、エイクリーの座ったテーブルには落ちていた。そして窓をくぐりかけて萌黄は、さらに驚愕すべきことに気がついた。こちら側からは窓だった入口が、出るときには部屋の観音開きの化粧台の鏡になっていたことだ。

「ちょっ、ちょっと待って下さい」

 萌黄は狼狽しかけた自分をどうにか立て直そうとした。

(だってわたしたちは、一階の窓をくぐったはずだったんだ)

 しかし出てきたのは、窓ではない。鏡台である。さらに、そこに拡がっているのは、

(二階の空だ)

 萌黄はそのままふと、陽だまりに足を踏み入れかけて弾正に留められた。狐に抓まれたと言うのは、こういう状態を言うのだろう。弾正に袖を引っ張られて萌黄はようやく、自分が正気を喪いかけていたことに気がついたのだ。

「どうぞ、遠慮しないで」

 話しかけながらエイクリーは、人数分のサンドウィッチを手際よく並べ、伏せていた二つのグラスを埃を払って裏返した。そして口をつけていない方のボトルの栓を引き開け、漆黒に近いほど濃厚そうな朱いワインを適量注ぎ分けていく。

「どういうことですか!?これっ…説明して下さいっ!」

 あまりに不可解な事態に、萌黄は思わず相手を問い質してしまった。

「説明?」

 当のエイクリーは、無邪気に目を丸くしている。

「なんのことについて、かな。さっきから、君たちに望まれるまま、説明は続けている、と思ってはいたが」

「そっ、そう言うことじゃないですっ!それも重要ですけどっ…ええっ!?」

 何から尋ねていいのか分からなくなった萌黄の前に、弾正が立ちはだかった。

「単純な話だよ。結局つまるところ、おめえは何者なんだよ?」

「名前は名乗ったはずだ。エイクリー・ヴェイン、上海駐留、アメリカ軍」

 エイクリーの言葉を、弾正は遮った。息つく間もなく抜刀し、鋭い切っ先を水平に突きつけている。

「おれが言ってるのは、ガワの話じゃねえ。中身の話だよ。おれはな、おめえが上海から来たメリケンの軍人いくさやだとか言うことには、これっぽちも興味はねえ。それでも大人しく聞いてたのは、あんたが知ってそうだったからだ。おれたちの知りたいこと、それを皆、な」

「それはそうだ。おれは君たちになんの隠し事をする気もない」

「だから、それがどうしてだって聞いてるんだよ、メリケン人のおっさん。確かにおれたちもその尼二封妃とか言う女のことを知ってる。そいつに、大事なものも奪われた。んで、かつてのあんたもそうなのかも知れねえ。だが、はるばるこんな遠くまで、おれたちを追っかけてきた、ってのはどうも納得がいかねえ。なぜ、おれたちにそこまで肩入れする?」

「難しいが、説明してやる。まず結論から言えば、君たちもおれと同じだからさ。敵討ちとやらのことじゃない。いずれ、おれと同じ目に遭う可能性が高いってことだ」

「分からねえな。メリケンのあんたとおれたちが同じ?意味が分からねえ。少なくとも、おれたちはあんたみたいに誰かに追われちゃいないがね?」

「しかし、奪われたんだろう。大切なものを」

 と言うと、エイクリーは意味深そうに、自分のこめかみを突いた。

「それが何かを知っているなら、あんたたちも奪われる可能性があるってことさ」

 弾正がさらに食ってかかろうとしたが、その瞬間、萌黄に留められる。

「いいだろう。今はその答えで勘弁してやるよ。じゃあ最後に一つだけ、答えてくれねえかな」

 と言うと、弾正は自分が入ってきた鏡の扉に手をかけた。

「こいつ、閉めないとどうなるんだ?」

 エイクリーはしばらく沈黙してから、答えた。

「そこから来たものが、戻るだけだ。それがルールなんだ」

「へッ…ってことは、こいつを閉めなかったら、おれたちはじゃあ、最初の番所の窓のところに逆戻りってわけだ」

「それならば別にいいだろう。だが、おれの経験上、やってきた場所を閉じなかった人間は、そこに引き戻されるどころか、どこかに消えていってしまうらしい。元の場所には永遠に戻れない。これは確かなことだ」

「そっ、そんなこと有り得るんですか?」

「『有り得ない』、私たちの世界の常識ではね。だから、言ってるんだ。君たちは、ここまで、『有り得ない』方法で逃げ延びてきたんだろう?」

 萌黄は息を呑んだ。反論すべき言葉が、見当たらないと言うように。

「早く閉めろ。そろそろ、まずいぞ」

 切迫した声で叱咤され、萌黄は急いで扉を閉めた。

「おい萌黄、勝手になにやってやがんだ!?」

「見ろ」

 エイクリーは萌黄に向かって、鏡台の扉の下を指さした。そこに赤黒いインクのようなもので四角い図形と、矢印のようなものが描かれていた。

「これはおれの血を混ぜたインクで描かれている。あの監房の廊下の窓からここまで、おれはあらかじめ、この印を描いておいたんだ」

 と言うと、エイクリーは卓上から羽ペンを取り出し、その赤黒いインク瓶につけた。

「目的の場所まで到達したら、今度はこうする」

 さっ、とエイクリーは矢印の終わりに『行き止まり』の線を引いた。すると、一瞬で蒸発したようにその印は掻き消え、何の跡も残らなくなってしまった。

「『窓に窓にウィンドウ・ウィンドウ』と呼んでいる。これが私の能力だ」

「能力だあっ!?」

 素っ頓狂な声で、弾正がおだを上げた。

「なんのからくりだっ!てめえ、物の怪の類か狐の権化かっ!おれたちを化かそうってんじゃあねえだろうなあ?」

「今のはただの事実だ。君たちにこれは、信じてもらわなければ、話が進まない」

「んんんッ…も一回なんかやれッ!したら、信じてやるッ」

 エイクリーは躊躇することなく頷くと、今度は一枚の白紙を取り出した。そこにさっきと同じく血を混ぜたインクで、窓と矢印の図形を描いていく。

「あなたのそれは尼二封妃が?」

「そうだ。あの女は、こうした非常識な能力を持つ人間を捜している」


 尼二封妃が欧米人たちの支持と資金を集め、慈善事業に乗り出したのは、人間を集めるためだったと言う。


「あの女は知っていたんだ。…おれたち人間の中に、今見せたみたいな特殊な能力と感覚を持ちあわせた人間が現われつつあることを」


「貴方たちはみな、新しいドアを持っている人たちのはずです」

 尼二封妃は信者たちの集会で、こう呼びかけたと言う。

「わたしたちの新しい世界は、その扉の向こうで待っています。貴方たちの中で、新しい知覚の扉を開くことが出来る者たち。彼らを出来る限り探すこと、それがこの混迷した世を救う新たな突破口になるのです」


新知覚能力者ドアーズ…?」

「そうだ。ドアーズ…尼二封妃が探し出した、新たな知覚を持つものたちは、尼二封妃の代わりに、常識では計り知れぬ奇蹟を体現しだした。だが尼二封妃の目的はただその、新知覚能力者ドアーズたちを目覚めさせることだけではなかったのだ」


「これから最も大きな扉を、開かなくてはなりません」

 尼二封妃は、最も親しい信者たちにこう呼びかけたと言う。

「彼らはそのための最も優れた生贄いけにえです。彼らを出来る限り探すのです。深淵の中なる存在者、アザトースに全てを捧げなくてはそれは実現しません。ユッグゴトフがそれの末子であるところのものに。力強き使者、ニャルラトホテプに対して全てが語られなければならないのです…」


新知覚能力者ドアーズたちを生贄に捧げるとき、彼らは常に高らかにこう唱えた…」


 IA!!SHUB-NIGGURATH!!

 THE BLACK GOAT OF THE WOODS

 WITH A THOUSAND YOUNG!!


(イア!シュブニグラトフ!森の黒山羊くろやぎに千人の若者の生贄いけにえを!!)


「見てろ」

 と、エイクリーは萌黄の渡した拳銃の銃口を、『入口』の窓の図形に押しつけた。

「おっ、おいっ…なにしやがるっ」

 さすがに弾正も顔色を変えた。エイクリーは図形を描くと、なんの前触れもなくテーブルの上の紙に向かって、無造作に引き金を絞ったからだ。その瞬間だ。

 萌黄たちは、確かに見た。萌黄の拳銃の吹いた銃火が『入口』の図形にではなく、『出口』として描かれた図形の方から吹きだしたのを。テーブルの足元の床に風穴を開けるはずの弾丸は甲高い音を立てて、天井に突き刺さったのだ。

「どうだ」

 エイクリーは、弾丸を撃ち込んだはずの紙を二人に見せた。焼け焦げ跡は、弾丸が飛び出した窓の図形にしかついていない。

「お前たちが、尼二封妃に奪われたものの正体を言ってやろう。それは奇跡の能力を持った、新知覚能力者ドアーズたちの脳味噌のうみそだ」

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