第4話 窓に、窓に

「こっちだ」

 暗い廊下に出ると、エイクリーが手をこまねいていた。みると男はすでに、窓を破り外の裏通りに立っている。

「あっ、はい」

 廊下の果てのドアにはまだ、鍵が掛かっているのだろう。この頑丈な鎧戸も、萌黄たちが連れて来られた時には、ぴったりと閉じられていたはずなのだが、今はすっかり開け放たれていて、西海岸の能天気な陽射しが降り注いできていた。

「ちっ、いちいち剣呑な野郎だぜ」

 と言いつつも、弾正は満更でもない様子だ。彼はどこか嬉しそうに舌打ちをすると、ひといきにその窓を飛び越えた。外の様子にすかさず注意を払い、萌黄を招き入れる。

「二人とも窓から出たら、必ずそこは閉めてくれよ」

 エイクリーは二人が飛び出したのを確認すると、それがひどく重要なことだと言う風にわざわざ戻って来て言った。

「一度開けた窓は、出たら必ず閉める。必ず守ってくれ。それが決まりだ」

「はあ…」

 何の決まりなんだと思いつつも、萌黄はその通りにした。


(一体何から追われてるんだろう?)

 白昼の通りに出たのに、なんの音もしない。桑港サンフランシスコの町並みは、昼下がりの静寂に沈んだままだ。しかし、尾行を警戒しているのかエイクリーは通りごとに極度の注意を払って歩いていく。

「君たちは、警戒する必要はない」

 せわしなく目を配りながらエイクリーは、不思議なことを口走った。

「私の問題だ。とりあえずは、言われた通りに私についてきてくれればいい」

「…ちっ、何を言ってやがる。誰かに追われてんならてめえについてきた時点で、おれらの問題でもあるんだよ」

 弾正が聞えよがしに文句を言ったが、エイクリーは気にする風もない。先を進むことに集中しきっていて、言い返してすら来なかった。

「こっちだ」

 エイクリーは突然立ち止まると、他人の民家の出窓を勝手に引き開けた。

(また窓だ…)

 驚くべきことに、この男には鍵のかかっていない窓が分かるらしい。もしかしたらそれを探して歩いているのか、萌黄たちはそれからも窓ばかり潜らされた。

「どうなってやがる」

 さすがの弾正も不審顔だ。こんなところへ出入りしていて誰かに見咎められでもしたら、それこそ余計に目立ってしまう。

「行くしかないですよ」

 萌黄は、躊躇ちゅうちょする弾正の背中を引っ叩いて言った。

「ッてえ!何しやがるてめえ!」

「男でしょ、先輩!こんなところでわたしたち、放り出されたってどうにもならないんですから」

 言われて弾正は辺りを見回した。確かに、いくつか通りを越えてきたとは思うが、そこはもはやどこからやってきたのかも区別のつかない街角だった。

「ちっ、乗りかかった船ってか」

 と、言うと弾正はブーツを履いた足をその窓に踏み入れた。


「歩きながら、話が出来ますか?」

 集中しているエイクリーに無駄と思いながら、萌黄は英語で話しかけた。

「先を急ぐのは分かりますが、最低限の事情は話してもらわないと困ります。まずあなたを追っているのは、尼二封妃が放った手の人間ですか?」

「そんなところだ」

 それに対してエイクリーは日本語で答えた。

「おれは尼二封妃を追い、逆に追われてもいる。そう言う解釈で構わない」

「目的は?」

「どちらのだ?」

 エイクリーは立ち止まって窓を確かめた。しかしそれは開かず、舌打ちをして次を探しにかかる。

「まずはあなたの。尼二封妃の命ですか?」

「場合によっては。だが、それよりも大事なものがある。おれの命よりも。そのためだ」

「大事なものって?」

「どうしても、取り戻さなくちゃいけないものだ」

 エイクリーはせわしげに歩調を変えると、並列する窓を手探りで確かめ始めた。

「尼二封妃たちの目的は?」

 いぶかる萌黄に、エイクリーは意味ありげな視線を投げかけた。

「おれと同じものだ」

「命よりも、大事なもの?」

「だろうな。連中にとっては特に、人の命よりもな」

「は…?」

 わけが分からない。萌黄は首を傾げるしかなかった。その肩をさっきの仕返しとばかりに、どん、と肘で突く弾正。

「へッ、上手くはぐらかされてやがんの」

 萌黄は、きっ、と弾正を睨み返すと、歯噛みしそうな声で言った。

「だったら先輩が聞いて下さいよっ!」

「やアなこッた。まるで謎かけとんちじゃねえか。てめえの命より大事で、どうしても取り戻さなきゃならないものだとよ。知るかよ。ふざけやがって」

 弾正は一蹴したが、萌黄は考えずにはいられなかった。

(本当にそんなものがあるのだろうか?)

「急ぐぞ」

 エイクリーの声が降る。男は目指す窓を見つけたのか、すでに暗い屋内から二人を呼んでいた。

「取調室からの話も続けよう。まず尼二封妃と言う女が何者か、と言うことからだが」


「戦乱で困っている人たちのための、療養院を造りましょう」

 上海居留地の上流階級社会で、そんな声が上がったのは、太平天国の乱末期の、一八六三年のことであった。このときすでに上海に迫っていた太平天国軍と李鴻章りこうしょう率いる准軍わいぐんとの戦いが激化し、被害が多岐に及んでいた。最も始末に負えないのは、『匪賊ひぞく』と呼ばれる強盗集団の横行であった。

 阿片戦争あへんせんそう以来、失業者が街に溢れ、彼らは暴徒と化して太平天国に加わっていた。そのため威勢に乗った略奪暴行が流行り、治安の悪化と民衆の貧窮は極に達していたのだ。

 声を上げたのは、あるイギリスの貿易商であったと言う。阿片取引でもうけたと言う黒い噂のあるその商人が言い出したのを、居留地では、

「どうせ売名行為だろう」

 と、冷笑をもって迎えたが、彼が私費で開設したその治療院はたちまちのうちに大きな評判を呼んだのだ。

 どのような傷も疾患も完治させると言う、奇蹟の施術師がそこにはいた。女は古代王朝時代からの流れを汲む、道気術を極めた風水師だった。


「それが尼二封妃?」

「ああ、その女は元々、上海の社交界では花尼ホアニィと言われた踊り子くずれだったんだが」


 尼二封妃が起こした奇蹟は、常識では図り難いものばかりだった。彼女が調合した薬を飲み、または気功による施術を受けた者は、どんな障害をもたちどころに克服した。毒を流された井戸の水を飲んで失明した少年は視力を取り戻し、匪賊たちの暴行を受け足が萎えた老人は再び歩けるようになった。

「私の娘も助けられたのだ」

 初めに出資の声を上げたイギリスの貿易商もまた、肺病に侵され、余命いくばくもなかった娘の命を救ってもらったのだと言う。これが知れ渡り、尼二封妃の下には続々と出資者が現われた。巨万の富を得た尼二封妃は、居留地に巨大な居館を建て、見る見るうちに勢力を拡大していったと言う。


「つまり尼二封妃は太平天国の乱を利用して、自分で宗派をてたと言うことですか」

「その通りだ。だがやったことは、それだけじゃなかったのさ」

 表通りが近づいているのか、人いきれの気配がする。エイクリーは慎重に辺りを確かめると、大きな鎧戸を押し開けた。萌黄は思わず声を上げそうになった。そこはどう見ても、人がいる商店の窓で、そこを開けたなら、中にいる人間が気づいて声を上げるに違いなかったからだ。

「なんだ…?」

 先に声を上げたのは、弾正だった。

 窓の向こうは、そこにいっぱいに拡がった青空から射しこむ昼の光が、室内に強い陽だまりを落としている寝室だった。簡素だがベッドがあり、陽だまりが落ちているテーブルには食事が用意されている。ワインが二瓶、そしてライ麦パンのサンドウィッチだった。カーテンが棚引いて、鮮やかな真夏のかすかな微風が薫ってきていた。

(どうなってるの…?)

 窓の向こうは二階だ。萌黄は思わず息を呑んだ。自分たちはずっと、平地つたいの一階の窓を、渡り歩いてきたはずじゃないか?

「ようこそ、おれの宿へ」

 エイクリーは窓の外の部屋に入ると、もうコートを脱いでいる。この恐ろしく異常な事態を、彼はすでに平凡な情景と捉えているようだ。当然、まだ説明はなかった。

 なぜ一階の窓の向こうが、二階の寝室なのか?

 エイクリーはテーブルのワインをボトルごと煽ると、茫然としている萌黄たちに向かって一言だけ、言った。

「言うまでもないが、開けたらその窓は必ず閉めてくれよ?」

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