第3話 太平天国
「太平天楽だあ?どこの
「先輩、言葉を憶えられないなら、黙っててもらえますか?」
「んだよ。萌黄、その態度は」
弾正が眉をひそめて食ってかかるのを、萌黄は完全に無視した。
「知ってます。ある程度は、ですけど」
「まあ、その文字が読めたようだしな」
エイクリーは試すように萌黄を
「まず、太平天国と言うのは、大陸に出来た新興国家ですね?」
「まあ、間違ってはいない」
エイクリー・ヴェインは、おおまかに首肯した。
「シンコウ国家だあ?」
「日本で言う一向一揆のようなものですよ、先輩」
萌黄の説明に、弾正は眉をハの字にして首をひねった。
「じゃあなんだ、そこは一向坊主の国か?」
「いえ、精確には
中国には古くからキリスト教が伝わっているが、その宗派は既存の宗派も含め、この時期には把握不可能なほどの亜種を産んだ。
その中で太平天国の教えは広東省の官吏試験の落第生であった
「キリストは天兄、我はヤハウェの次子」
すなわち、キリストの弟を自ら名乗った洪秀全は、清王朝に不満を持つものたちを中心に信者を獲得し、武装勢力に仕立て上げ、反王朝クーデターを起こしたのである。各地で膨れ上がった反乱軍は勢いを増し、何度も
すでに
「内情は知っています。当時のオランダの商館を通じて、幕府もあなたたちのいた上海に視察を行っていましたので」
安政の開港以来、幕府は欧米諸国との取引を直接取り仕切ることを考え、長崎奉行、
日本人たちも欧米人将校たちに率いられた中国人民兵の姿を、見聞きしている。ちなみにこのときの随行員の中で民兵隊の発想を活かしたものが一人、いた。長州藩の
「で?じゃあこの女は、その洪秀全の
「それならましだったがそれより、まずい」
くっ、と顔全体を歪めて、エイクリーは苦笑した。
「この女は、太平天国を利用してとんでもないことをしでかそうとしやがった」
エイクリーはそこまで話すと、なぜか辺りをうかがった。
「二人とも、私に協力する気はあるか?」
「そのお話の続き次第では」
その様子に萌黄は唇を噛むと、慎重に答えた。
「おい、要はここから出してやる、ってんだろ。話の続きを訊きゃ」
「そんなところだ。悪いが少し、時間を急ぐ」
「あなたも誰かに追われているんですね?」
そんなところだ、と言うようにエイクリーは頷いた。
「とにかく場所を変えたい。まだ、話し足りない」
辺りをうかがったのはそのためだろう。そこで萌黄は即座に決めた。
「分かりました。あなたについていきましょう」
と言うと、萌黄は手を差し伸べた。
「自己紹介がまだだったと思います。わたしたちは先年、倒壊した江戸幕府の武官です。精確には、
「…萌黄、お前、大丈夫なのかよ」
先に部屋を出て行ったエイクリーについていこうとする萌黄を、弾正は肘で突っついた。
「あいつはただの
「しょうがないです。現状では、あの人についていく以外、わたしたちだけの力でここを出られる方法はなかったじゃないですか。それに」
「あの女の正体か?」
弾正が面倒くさそうに聞くと、萌黄は微笑して頷いた。
「わたしの知らないことを、あの人は知っています。わたしたちがどうして、この地を踏んだか、と言うことについても。まだ信用は出来ませんが、あの人もそれなりの危険を冒してまで、わたしたちを救いに来てくれた、と言うことがよく分かりましたし」
萌黄が鍵のかかっているはずの監房のドアを開けると、そこから昏倒させられた保安官の身体が、ぐでんと転がり出た。
「野郎、ここへどんな手段で入って来やがったんだ」
「とりあえず、わたしたちよりは手際がいいことは確かですよね?」
萌黄は弾正と気絶した保安官の身体を引きずり込むと、油断なく外をうかがった。
「なんで俺が野郎の後始末なんざ…つか馬鹿か、つうことはあいつおれたちよりも、危ねえ野郎だ、ってことじゃねえかよ?」
尻込みする弾正を、萌黄は挑発するように鼻で笑った。
「怖いんですか?」
「てめえっ、俺様を舐めんな!」
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