第12話 次代(終)
それからしばらくの間、サガルたちはその場をほとんど動かなかった。
寧安に戻ることもせず、近くの街――名を常永と言い戦闘の名にもなった――を攻め取り、そこで寝起きをしている。物資も現在は充分にあるし、街で接収した分もある。あまり怠けていては腕もなまるので狩りに出かけたりはするが、大まかに言って現状は、部族全体が無為徒食の状態と言ってよかった。
これには理由があった。タクグスの助言である。
「しばらくは遊んでいなされ。一ヶ月もせぬうちに、サガルどののすべきことがおのずとわかるはずです」
これは常永の戦いが始まる前、サガルが勝った後の方針をついでに尋ねた時に得た答えで、彼としては不得要領ながらも従うに否やはなかった。もし一ヶ月で何も起こらなければ、あらためて軍を動かし、北上して内乱のただ中に飛び込めばいいだけである。そこで武勲を立て、有力者に自分とシン族を高く売りつける。
そう方針も決めていたのでサガルは言われたとおり「遊んで」いたのだが、この休息は一週間も経たずに終わった。
北から来客があったのだ。それも万に近い数が。シン族と同程度の規模を持つ一族――キュライ族が、彼に降ってきたのである。
これにはサガルも驚いた。
「なにゆえか。わしは汝らと戦ってもおらぬではないか」
やってきたキュライ族族長のエゲラにサガルは驚きも隠さずに尋ねた。エゲラは三十代後半、男として充実しはじめる時期で、また騎馬民族の族長らしく壮健で豪強である。いかに荊上峠の英雄とはいえ、戦いで叩きのめされたのでもないのに若年のサガルへ唯々として降ってくるなどありえない男だった。
そのサガルにエゲラは、これも存念を隠すことなく告げる。
「北での戦いが嫌になった」
エゲラは情けなさと憤懣をため息とともに吐き出した。
エゲラが語るところによると、北河以北の内乱は、欲望と混乱の坩堝と化しているということである。
互いが互いを食らい、争い、裏切り、叩き、潰し、殺し、侵す。
これは彼らの故郷、北の高原を舞台とした戦いの時も同様であったが、得られる富貴が段違いのため、殺伐さに陰湿さが加わり、腐汁の混じる泥沼の中で殺し合う様相を呈しているそうである。
このような戦いは、騎馬民族本来の性情にそぐわなかった。北の平原では、戦いがあり、殺し合いがあり、奪い合いがあったとしても、そこにはなにがしかのさわやかさや誇らしさがあった。が、今の戦いではたとえ勝ち残ったとしても、いや最後まで勝ち残った者こそが、最も汚れ、最も醜く、最も卑しくなるのではないか。そのような嫌悪と恐れがあるとエゲラは言うのだ。
「そこへサガルどのの捷報が届いたのでござる」
正直、北河以北で内乱をしている者たちは、北河以南のことをまったく気にかけていなかった。気にかける余裕がなかったとも言えるが、それにしてもかけなさすぎた。それだけにもし庸軍が北河を渡り、彼らの背中を討ったらどうなっていたか。負けるとは言わないが相当の被害が出て、誰が勝者になったかわかったものではなかった。
「いかに相争ってると言っても我らは同じ誇り高き騎馬の民。族内の利益ばかり求めて騎馬民族全体のことを考える余裕もないとは、情けないかぎりでござる」
自分もその中の一人だとの自覚があるのだろう。エゲラは情けなさを自身のこととして受け止めていた。
「しかしサガルどのは違った。ただ一人、騎馬の民を救うため、庸軍を蹴散らしてくださった。ただ一人、騎馬の民すべてのことを考えてくださった。ゆえにズタスどの亡き今、我らを率いてくださるに、サガルどの以上の方はおらぬとわたしは知った。ゆえにあなたに降る。どうか我らキュライ族を存分に使ってくだされ。そしてすべての民を糾合し、央華をその手に」
そしてエゲラはまたあらたに悟りもしたのだ。自分はサガルに器量で劣ると。そもそもクミルの器量不足を不満として叛乱に踏み切ったのである。クミルや自分以上の器を持つ者に降らないのでは筋が通らない。学のない騎馬民族は、おのれの性情と、骨太の筋にこそ従うのが正義なのだ。
それは今の騎馬民族の内乱を経験すればなおさらであった。欲望の強い騎馬民族だが、欲望のみに駆られることは彼らの本懐ではない。純粋な強さとそれをもって族人を導く者。そのような生き様を示した者に与えられる付随物が欲望の充足である。主客は逆ではない。
要するにエゲラは、サガルの中に騎馬民族のあるべき姿を見たのだ。それは彼らの中にある純粋さと美しさに合致するものであり、あまりに醜い争いの中、サガルの存在は彼らの目には際だって映ったのである。
当のサガルはやや唖然としている。彼はそこまで考えて北河の南に残ったわけでもないし、庸軍を迎撃したわけでもない。ただ北の内乱に軽々に加わらないようタクグスに助言を受け、次の方針が決まるまでの暇つぶしにタクグスに誘われるまま庸軍を撃退したに過ぎない。もちろん庸軍を叩いて北への進軍をあきらめさせる意図はあったが、これを騎馬民族の象徴とするような行為とは、まったく考えていなかった。
「いや、降ってくださるのはもちろんありがたいが…」
と、歯切れの悪い返事を返すしかなかったが、エゲラは感激を面に出す。
「おお、感謝いたすサガルどの。我らキュライ族はこれよりサガルどのに忠誠を誓いますぞ。ああそれと、これよりしばらくしたら、エイ族とホサイ族もサガルどのを頼って北河を渡って参りましょう。受け入れてもらえるとありがたい」
「はあ!?」
感激のままエゲラが言うことに、サガルは今度こそ間の抜けた驚声を上げてしまう。それはそうだろう。エイ族といえばキュライ族に劣らぬ規模の族であるし、ホサイ族も中規模でありながら充分戦力になる族である。それが何もしていない自分に降ってくるなどと、にわかには信じられなかった。
が、エゲラにとっては当然の話である。
「いま申し上げたように、サガルどのはすでに我ら騎馬民族の象徴でござる。エイとホサイの族長とは親しくあり、わたしが先にサガルどのに降ると告げると、目の前の戦いを収束させた後、彼らも降るとの返事がありました。我らの他にも北でのくだらぬ闘争に嫌気がさした者はおるでしょうし、彼らも遅かれ早かれやって参りましょう。どうぞその者たちも、麾下に加えてやってくだされ」
馬上、エゲラが陽に焼けた顔でうれしげに語ってくることに、サガルは今度こそ口を開けてしまった。
これは一体どういうことか。好き勝手戦い、好き勝手遊んでいただけの自分に信じられないほどの果報が次々と舞い込んでくる。これほどの幸運は、喜びより恐ろしさをサガルに覚えさせた。
が、サガルはここでふいに、ようやく気がついた。
「そうか、タクグスどのはここまで見越して…」
タクグスは知っていたのだ。いま北方の内乱に参加している将兵たちの心情を。同時にそれは選別の意図も込められている。全員がエゲラのように考えるわけではない。北で争っている者たちの中でも、我欲にまみれ、ただただ同民族の間で殺し合うことに疑問を持たない者たちと、自らの行為に疑義を覚え、騎馬民族としての正しき道を思い出しかけた者たちとに分かれるはずである。そしてサガルの戦いは、後者の心に強いゆさぶりをかけられる。それは感動と言い換えてよく、人は自分を感動させてくれた者に無条件の好意と敬意を覚え、そのような者についてゆきたくなるものだ。自分がやっていることに疑問を持ち、道に迷っている者ならなおさら。
そのような者たちがサガルを頼って降ってくるのは自然なことであった。つまりサガルは、良質の精神と強い忠誠心を持つ精強な兵を、黙って待っているだけで得られるのである。
それをすべて、タクグスが仕組んだのだ。
「恐ろしい男だ…」
タクグスに対して強い感謝も覚えたサガルだが、それ以上に恐ろしさを覚えた。ここまで先を見越してなにもかもを仕組むことが人に出来るのだろうか。敵にすれば恐ろしすぎる。
「今からでも追って討つか?」
そのようにすら考えてしまうサガルだが、タクグスたちが去ってすでに一週間。これから追手を差し向けても間に合うはずがない。無為に時間を過ごしてしまったと後悔も覚えるが、ここでまた気づいた。
「そうか、そのような可能性も考えて、タクグスどのはおれに遊んでいろと告げたのか」
タクグスはサガルを信じ、サガルもタクグスを信じてはいるが、戦場で生きる男たちに甘さがないことも知悉している。本来の信義は信義として、現実に対応することにためらいはない。何が起こるかわからぬ乱世である今、タクグスはサガルの心に、自分が逃げるための時間を稼ぐ枷をかけたのだ。
「どこまでも食えぬ人だ」
が、サガルはそんなタクグスに怒りは覚えなかった。掌の上で踊らされたことに悔しさはあるが、深刻なものではない。むしろおかしさすら覚えるほどである。実際、サガルは喉の奥で「くっ、くっ、くっ」と小さく笑い、それを終えると、いささか訝しげな顔でこちらを見ているエゲラに真摯な笑顔を向けた。
「歓迎する、エゲラどの。ぜひ我が族で励んでくれ」
エゲラとキュライ族を配下の者に任せると、サガルは急いで旧スンク族の元へ走った。そこで偶然シジンを見つけると、サガルはやや性急に彼に尋ねた。
「おお、シジン。ここには誰かタクグスどのに近しかった者はおらぬか」
「近しかった者というと、元族長の親類でござるか?」
「いや、親族でなくても構わぬ。近くに侍っていた者なら誰でもよい」
シジンに尋ね返されてサガルは性急さを保ったまま再度尋ねた。
サガルはキュライ族が降ってきた今こそが、次の方針を決める機だと悟っていた。が、具体的にどうすればいいのか思いつけなかったのだ。タクグスには「その時になればわかる」と言われていたのにとんと次の道が見えてこないことに、サガルはやや焦っていた。このまま北河を渡って内乱に参加するような単純な話ではないことくらいはわかる。そこまではわかるのだがその先が見えないのである。
それゆえサガルは再度「わからないことは誰かに尋ねる」を実行したのだ。この場合、一番の知恵者であるタクグスはいないが、もしかしたらこの件について、彼の近くにいた者は聞いたことがあるかもしれない。あるいはそうでなくとも、タクグスの近くにいた者であれば、彼の薫陶を受けて知恵の回る者がいるかもしれない。
そう考えて訪ねたのだが、シジンに案内されて何人かの天幕を回った後、サガルは落胆した。全員タクグスから何一つ聞かされておらず、自身の知恵も持ち合わせていなかったのである。考えてみればシン族に降ったスンク族は、どちらかといえば元々騎馬民族寄りの性情を持つ者ばかりで、つまり知より勇を好むのだ。「タクグス寄り」の者であれば、彼について一緒に北へ帰ってしまっただろう。
新族長への忠誠心からシジンは最初から最後まで案内を続けたのだが、想像以上に若き族長が落胆していることに驚いて尋ねた。
「いったい何事があったのですか」
ついては行ったがおのおのの天幕には入らず外で待っていたシジンはサガルの目的を知らない。落胆したサガルは、馬を力なく歩ませながらシジンに事情を話した。話したところで意味はないと思っていたので半ばは愚痴だったが、シジンは不思議そうに口を開いた。
「北河以南を族長がお取りになればよろしいのでは?」
シジンのその言葉を聞いたサガルは、かすかな間の後、弾かれたように顔を上げて彼を見た。
「…なんだと?」
「いえ、北河以南から逗河に至るまでの領域は、今は誰も支配する者がいない状態です。そこを族長がお取りになって治めよということではないかと…」
と、シジンは不思議そうな表情を隠さずサガルに言う。
「……!」
シジンの言葉の意味をサガルの脳が咀嚼するのにやや時間がかかったが、理解した途端、今度は弾かれたように南を見る。そこには平野が広がるだけで別段なにがあるわけではないが、彼の脳内には一気に地図が広がった。
そうだ、そうなのだ。
ズタスの病のため攻略を半ばにせざるを得なかったが、央華大陸を南北に二分する逗河までは進撃したのである。だがその後は自分たちの内乱が忙しく、その領域は誰が治めるわけでもなく放り出しっぱなしであったのだ。
しかも北河以北は内乱で忙しく、南へ兵を送る余裕もなく、逗河以南の南庸は最後の軍隊までサガルに蹴散らされ、もう北上してくる力も意気もない。
つまり北河以南から逗河に至る広大な領域は、現在無政府状態で、障害となる武力も存在しない。取り放題、狩り放題の、夢のような空間だったのだ。
さらにその領域は、当然ながら北河以北より温暖で生産力も高く、人口も多い。この時代、国力=人口であり、ここを治めれば内乱に勝利した者が治める北河以北以上の力を手に入れられるのだ。
そして今現在それが出来る立場にあるのは、この大陸でサガルただ一人であった。
「……」
あまりのことにサガルは再度口を開けたまましばし呆然としてしまい、自分の間の抜けた表情に気づけないほどだった。
「あの、族長…」
シジンの心配げな声にサガルはようやく我に返ったが、反射的にもう一つの衝撃に気づき、今度はこの短躯の男の顔を凝視してしまう。
「おいシジン、今の考えは汝がタクグスどのからあらかじめ聞かされていたのか?」
口裂けサガルになにか強烈な意志をこめて凝視され、シジンはわずかに怯みを覚えたが、それでもしっかりと答える。
「いえ、今族長にお話をうかがって、その場で自分で考えました」
シジンの表情は不思議さを消さない。その理由がなんとなくわかりはじめたサガルは衝撃を残したまま、もう一つ尋ねる。
「シジン、わしはタクグスどのに自分を高く売りつけるように言われた。わしにふさわしい褒賞や条件を持った者が現れるまで待てとな。しかしわしにはまだその褒賞や条件がわからぬ。汝にはわかるか」
尋ねられたシジンは答えた。ほぼ間髪入れずに。
「エゲラどのやキュライ族のような者たちのことでしょう。自分のすべてという至上の褒賞を差し出し、族長のために命懸けで働いてくれるという好条件。どちらもこれ以上のものはありえませぬ」
答えたシジンは不思議さをたたえた表情、つまり「この人は何をわかりきったことを尋ねてくるのだろう」という表情でサガルを見る。
そのシジンを目を大きく見開いてサガルは見ていたが、ふいに「ぷっ」と吹き出すと、そのまま声を挙げて笑いはじめた。
「は、ははははは……!」
心の底から楽しげに笑うサガルを、今度はシジンが目を見開いて凝視する。自分のことで笑っているとわかるが、侮蔑を込めてのものではないので怒りは湧かない。しかし今度はさっきまでの問いと違って答えが見いだせないため困惑しているのだ。
サガルの方は当然わかっている。
彼はシジンの真価を初めて知ったのだ。
シジンは知恵者だった。それも知識から知恵を得る型ではなく、自身の内から知恵を湧かせる、天与の知恵者だったのだ。
さらにおかしいのは、シジン自身が自分を知恵者と思っていない、気づいてすらいないことであった。彼は自分が考えつけることはすべての人に考えつけると思いこんでいる。だからサガルの問いが不思議でならなかったのだ。
だが考えてみればそれも無理はなかった。騎馬民族において知は敬意よりも侮りを受ける。知より力、力より勇なのだ。そしてシジンはおのれの短躯のこともあり、誰よりも騎馬民族であろうとしてきたのだろう。それゆえ彼は、自分の知に気づくこともなく、当然それを伸ばそうと思いつくことすら出来なかったのだ。
そこまで考えつつ、ようやく哄笑を収めたサガルは、涙が浮かび、笑いを残した目で、訝しさに彩られた表情のシジンを見る。
「なるほど、汝は確かにおもしろい男だ。タクグスどのは嘘を言わぬ御仁だったな」
そんなシジンを見ながら、サガルはタクグスを思い出す。彼はシジンの真価を知っていたのだ。それゆえタクグスはシジンをサガルに推したのである。自分の代わりの知恵者として。まだ未熟どころか発芽すらしていないが、育てようによってはタクグスを上回る存在になるかもしれない。
とはいえやはりこれほどの厚意をタクグスが自分に示してくれる理由まではわからない。またその他のことについてもタクグスの真意はわからないことだらけだった。
が、サガルはその点については考えるのをやめた。今はたった一つのことがわかった。そのことだけを考えると決めたのだ。
「シジン、おれは天下を取るぞ。汝も手を貸せ」
南へ目を向けたまま、サガルは宣言した。
どうやらタクグスは自分に央華を取らせたいらしい。タクグスの言う「あなた(サガル)にふさわしい長が現れる」というのは、つまり自身が自身の長になれ、ということだったのだ。これまで誰かの下について央華を攻め取ろうと考えていたサガルだが、こうまでお膳立てされて引き下がっては、彼の誇りと野心が許さなかった。彼は初めて天下を取る意志を、真にズタスの跡を継ぐことを、おのれと、天地と、自分の「軍師」になる男に示したのである。
「おお族長、お任せあれ。このシジン、族長の手足となり、刀剣となって族長の御為に働きますぞ」
突然のサガルの宣言に驚いたシジンだったが、彼にとっても望むところである。あらゆる騎馬民族の上に立ち、南庸を亡ぼし、央華大陸に不滅の帝国を打ち立てることが出来れば、それは武人の本懐である。シジンは満腔に覇気と自信を込め、あらためてサガルに忠誠を誓った。
が、誓われた方はいささか困った表情を見せていた。
「…あー、シジン。試みに問うが、汝、字は読めるか?」
「我ら騎馬の民に、字など必要ありませぬ! これさえあれば充分にござる!」
問われたシジンは憤然として、腰に帯びた剣を力強く叩く。シジンは自分が軟弱と思われることがなにより許せなかった。央華の文化や文明は、騎馬民族からすると惰弱に見られるものが多く、彼としては否定の要素にしかならないものがほとんどだったのだ。
それを見て、サガルは内心で苦笑を浮かべた。
「やれやれ、これは悍馬だな」
悍馬とは乗りこなすのが難しい暴れ馬のことである。サガルはシジンに「手足や刀剣」ではなく「頭」になってほしいのだ。しかし、彼の知力は天性のものであり、このままでは不安定で使い物にならない恐れがある。シジンの知を骨太で強大・広大なものにするには、やはり央華の学問をさせるのが一番のはず。
サガルはそう考えたのだが、これでは「学問をやれ」と言っただけで、反発どころか怒気とともに剣を抜きかねない。
以前はサガルも「学問など」と軽蔑していたのだが、タクグスから譲られた兵法書に触れることにより、その考えは変わってきていた。兵法書には彼が実戦で感得してきたことが、体系的に、より深く、より広く、より詳しく記されていた。さらに彼が知らないことまで言及されており、しかもそれが多岐に渡るため、サガルも驚嘆せずにはいられなかったのだ。
実はこの「驚嘆できる」ということ自体が、すでに大きい。たいていの騎馬民族では読み聞かせてもまず理解できず、放り出すのが落ちであった。ゆえにたとえ彼らにとってなじみ深い、戦いに関することでさえ、深奥まで達する者は皆無に近い。サガルもまだ深奥まで達しているわけではないが、おぼろげながらでもそれを感じることが出来なければ驚嘆することも出来ない。サガルにはやはり資質があり、それはズタスとタクグスによって開花を始めていたのだ。
そして自身が学問の深奥を知るからこそ、サガルはシジンにもそれを与えようと考えたのだが、困難さに苦笑せざるを得ない。
が、この悍馬を乗りこなせなければサガルの未来も拓けないのだ。
「楽をさせてくれるつもりはないのだな、タクグスどの」
内心の苦笑を、今度は年長の友人へ向けるサガルだが、すぐに表情を不敵なものに変える。
まあいい。シジンを乗りこなす程度のことが出来なくて何が天下か。
それにシジン以外にも人材は必要であろうし、なにより急がねばならん。北の内乱がいつまで続くかわからぬが、早期に終わればこちらが大陸中央部を押さえる前に連中に南下され駆逐されてしまう。
南の庸も、今は徹底的に叩きのめしはしたが、連中にとって我らがいる大地は故郷だ。あれだけの兵を失った以上、しばらくは国力の回復に努めなければなるまいが、いつなけなしの勇気を振り絞って北上してくるかもわからん。
仮に我らの中央部制覇、北の内乱の終結、南の回復が同時期に終わったとすれば、我らは北と南から挟撃される形になる。それだけは避けねばならない。
今は空白地帯を攻め治めするのだから我らが最も有利かもしれぬが、それもいつまでも続かんのだ。
それに征服はともかく、統治がうまくいくかもわからん。我らは央華を治めたことなどないし、国力の増強を考えれば、略奪ばかりをしているわけにもいかない。とすれば統治のためには庸人を使わぬわけにはいかぬが、それがうまくいくかどうか。
ここまでざっと考えただけでも課題は山積である。また北へ帰ったタクグスとも、どのような形での再会となるかわからない。友としての再会より、敵としてのそれの方がありえるのだ。そもそもそのために彼は、北へ帰って行ったのだから。
それに第一、サガルがこの央華の最終的な勝利者になるとは限らない。つまらない戦いでつまらない死に方をする、あるいはズタスのように志半ばにして病死する可能性とて充分にある。
が、すでにサガルはそのような困難は意に介す気がなくなっていた。
やるからにはやる。それだけである。
「よし、シジン、戻るぞ。ついてこい」
「はっ!」
口裂けサガルは背後の軍師候補に声をかけると、彼の大声に鼓膜を大きく震わせながら、陣へ馬を走らせ始めた。
「はてさて、どの程度伝わったかな」
西への騎行のさなか、タクグスは小さく笑った。彼は央華を去るにあたり、様々な布石を打っておいた。サガルに対してだけでなく、内乱を起こしている騎馬民族全体にもいくつかの種を仕掛けていたのだ。そのすべてが発芽するとは限らないが、すべて死蔵されるということもないだろう。そしてそのうちのいくつかは、サガルによって見いだされるはずである。タクグスは確かにサガルへの布石を質量ともに最も豊富におこなっていた。
それはなぜか。
「敵にせよ味方にせよ、話の通じる男が相手である方がありがたい」
これがタクグスがサガルに肩入れした最も大きな理由であった。
今の央華はあまりにも混沌としすぎていた。誰が勝ち残るかなど予想のしようもない。タクグスも一時は自分も央華に居残りその中で覇者を目指す、あるいは覇者の手助けをして央華を再統一し、その上で叔父を迎え入れるという手段も考えていた。が、この濁流のような混沌の中では、数年後どころか明日の行方さえ見抜くことは難しい。
このような状況ではタクグスの異能は発揮しようがなかった。それどころか無駄に考えすぎ、応変さに欠け、不測の事態に対処しきれず横死という可能性が最も高いとすら感じてしまう。
「惜しいが一度退くしかないな」
ズタスがせめてあと五年、いや三年長生きしてくれれば、とも思うが、今さら詮なきことである。彼は叔父同様、捲土重来をはかるしかなかった。
が、それでもやれることはすべてやってから去ると決めていた。サガルへの肩入れもその一つであった。
サガルはズタスも認めた異才である。年齢からくる未熟さは如何ともしがたいが、あと数年、十数年があれば、ズタスに勝るとも劣らない大器に成長する可能性がある。それは今現在、覇権を争う騎馬民族の有力者たちには求めるべくもないものだった。
タクグスにとって、戦うにせよ、和するにせよ、話の通じる相手の方が都合がいい。特に和することを考えれば。
もちろん、サガルがタクグスの想像以上の大器になる可能性もある。そうなっては飲み込まれるのは自分の方だろう。またサガルが早々に敗死してしまい、打ってきた布石がすべて無駄になることも考えられる。
それに北河以北で内乱を続ける騎馬民族の群雄の中から、さらなる英雄が現れる可能性も否定できない。口裂けサガルはスッヅとの決闘まで、ほとんど無名であったのだ。未知の大器がどこにいるか知れたものではなく、その男がサガル以上の器量や運を持っていても不思議はないのである。
すべては賭けだった。が、それでも賭けて損はないと感じるものがサガルにはあった。
タクグスは、自分にズタスやサガルのような器局がないことを知っていた。彼はあまりに才が際立ちすぎていた。これは勇を尊ぶ騎馬民族内では負の印象にしかならない。スンク族の中では叔父の威光や立ててきた武勲で守られてきた。ズタスに降った後は、先制打として寧安を陥落させることにより、侮られることを避けられた。最初に一撃をかまして自分の印象をよくする必要が、タクグスにはどうしてもあったのだ。
だが、彼本来の気質や能力が勇より知に傾く以上、敬意は持たれても忠誠は得られない。タクグスは騎馬民族内では頂点に立てないのだ。
タクグスはそのことを誰よりも承知していた。
だが王佐に徹しさえすれば、タクグスは十全に力を発揮できる。ゆえに彼は叔父を輔けて天下を取るつもりであったのだ。
実はこの西行も、そのための布石の一つであった。
「北から長城を突破して南下する以外の道があってもいい」
タクグスは、北の高原から大きく西へ迂回して央華へ攻め入る進撃路も考慮していたのだ。
もちろん西へ大きく回ればその分行軍距離も伸び、危険も増大してゆく。その危険を出来るだけ減らすため、実地で道程を確認しておきたい。タクグスの西行は、サガルへ告げた「内乱に巻き込まれないようにするため」という理由も嘘ではなかったが、別の意図もあったのである。
だがサガルはまだ自分の狙いに思い至ってはいないであろう。それも含めて「現時点でどの程度気づいているか」というタクグスの独白になるのである。
「なんにせよ、何年先になるかはわからぬが、あなたとの再会、心から楽しみにしておりますよ、サガルどの」
少し後ろを振り向きながら口にするタクグスの言葉にも嘘はなかった。再会した後が互いにとって幸福につながるかはわからないが「再会までは楽しみ」というのは本心であった。
そしてズタスが長城を破り、央華に乱入してから七年後。
長城の北の、そのさらに北方。岩石しか存在しないような山。
その中の洞窟に一人の男が目をつぶり、剣をかかえてうずくまっていた。男というにはまだ年若く、彼は一七であった。年齢からいえばまだ伸びるかもしれない身の丈は、さほど高くはない。体つきも細く見えるが、無駄な贅肉をすべて削ぎ落とした機能美にあふれている。
鋭い表情には陰影すら感じられ、彼がただの少年として生きてきたわけではないことを物語っていた。
彼自身は単純に生きてきた。強くなること。大きくなること。それだけを考えて生きてきた。大きくなると言っても体躯だけの話ではなく、男として、一個人として、彼そのものが歴史において強大な存在として明記されることを望んで生きてきたのだ。
じゃり、と岩に薄く積もる砂を踏む音が聞こえた。洞窟に一人の男が入ってきたのである。初老の域に達し始めたその男は、少年の師であった。彼に武技を仕込み、武以外のものも刻み込んできた男で、庸から見れば「裏切り者」であった。
「ゆくぞ」
初老の男――呂石は少年に声をかけた。それはただ洞窟から出るというだけの意味ではない。すべてが足りなかった少年は、この山中で呂石に磨き込まれてきたのだ。それが済んだという意味であり、ようやく山から下りる時が来たという意味であった。
少年はゆっくりと目を開いた。鋭い目つきはそのまま、だが鋭さだけではない何かをたたえるようになった彼のまなざしは静かに上げられ、彼の師を見ると、同じく静かに立ち上がった。
「ゆくぞ」
もう一度呂石が言うことに、少年――ギョラン族族長オドーは従った。だがそこに従順さはほとんど感じられない。鞘に納められた妖剣さながらの気をただよわせながら、オドーは洞窟を出るために師の背に続いた。
祖父の跡を継ぎ、北の高原を征し、央華をたいらげ、天下をおのれの物とするために。
すべてを無くしたあの日から、ようやくの旅立ちであった。
終
庸滅亡 橘遼治 @bunshuk
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