第12話終わり と はじまり

 物語はあまりにも唐突に終わりを告げ、俺たちは大いなるショックを受けていた。

 システム異常によって、バーチャル・スピリッツから全員が強制ログアウトさせられていた。

 原因が、あの“エロガキ”の“自爆”にあることは明白だった。

 この騒動の当事者として俺、心 公一と宇野水月はバーチャル・スピリッツの運営に事情を説明するためにこの部屋に呼ばれた。

 本来なら理沙も同席すべきなのだが、眼の前で少年の身体がバラバラになったことがよほどショックだったのだろう。医務室で寝込んでいる。

 現在、あのドアの向こうではリキが事情を聞かれているらしい。

 流石に俺たちを同席させる訳にはいかなかったのだろう。

 俺と水月の間に会話はなく、ただ時間だけが過ぎていった。


 やがてドアが開き、ひとりの青年が係員に連れられて出てきた。

 巨体を誇るリキとは異なり中肉中背、どこにでもいる普通の青年だ。

 スピリッツのリキはスキンヘッドにサングラス、そして筋肉質に見える巨体。

 リアルにおける彼は体格はもちろん、染めた髪とサングラスを外し眼を出しているため大きく印象が変わる。

 正直、他人に指摘されないと分からないと言うのが本音だ。

 ただ、彼をどこかで見たような気はするのだが……。

 「あ……」

 水月が何か話しかけようとするが、青年を監視する係員に制止され、彼は他の部屋に連れて行かれてしまう。

 入れ替わる形で、俺たちがリキが出てきた奥の部屋に入った。

 「やあ、どうも」

 恰幅の良い中年男性が俺たちに話しかけてきた。

 彼はこのステーションの責任者で原と名乗った。

 姿は何回か見かけたことがあったが、名前は初めて聞いた。

 俺たちも名乗ろうとすると、「あー、いいよ。君たちは有名人だからね」と大きな腹をさすりながら笑った。

 「儂でも知ってるよ、ハハハ。櫻井先生にお世話になってるんだって?」

 「……え。あ、はい」

 水月は異常に緊張しているようなので、俺は黙って彼女の手を握った。

 その様子を見ていた原さんは「安心しなさい」と、笑いながら言った。

 彼が言うには、ドールが物理的に爆発したため、バーチャル・スピリッツのシステムが一部破壊されてしまったそうだ。

 異常が発生したためシステムは強制停止してしまい、俺たちは強制ログアウト。

 爆発したステーションはここではないが、専用ネットワークで接続されているために全システムに障害が発生しているらしい。

 爆発したステーションでは今も数人のドールがロックされたままだというが、情報がかなり錯綜している様子が窺える。

 まさしく、前代未聞の事態が発生した訳だ。

 「君たちは、単にゲームをプレイしていただけだからね。何かペナルティがあるという訳ではないから、わっはっは」

 原さんはまるで他人事のように笑った。

 オーバーアクションなのは俺たちを安心させる為なのだろう。

 正直言ってわざとらしいが、助かった。

 彼のおかげで水月も、やや緊張が解けたようだ。

 「バーチャル・スピリッツは自由度が高いからな、かっかっか。

 開発者の意向もあってね、多少のもめ事があっても儂らは口を挟まんのだ。

 良く言えば“自由”、悪く言えば“放任主義”。だから、トラブルはユーザー自身によって解決して欲しいんだよ。

 でもね、自由度が高いシステムというのは、運営が大変なんですよ。

 開発者は気軽に言ってるけど、はっはっは。まさしく、言うはやすしってね。はっはっは」

 笑いながら話をする原さんにつられたのか、水月が口を開く。

 「あ……私、このシステム好きです。

 ものすごく敏感に反応してくれて、スピリッツが思った通りに動いてくれるんです」

 いつもとは違い、やや口調は堅めではあるけれど。

 「嬉しいこと言ってくれるねぇ。

 やれ、できることが多すぎるだの、難しすぎるだの、反応がピーキー過ぎるだの文句が多くてね。

 おかげで操作体系にはイージーモードなんてのを導入せざるを得なかった。

 これで開発者と揉めてねぇ。大変だったんだよ」

 「え? イージーモードって何ですか?」

 「すまん、実はそういうモードもあるんだけど、お前なら不要かな?と思って教えなかったんだ」

 「へぇ、そうなんだ。

 私、バーチャル・スピリッツの操作が難しいとは思ったことなかったから、なんか意外。

 何か、昔から馴染んでいるような感じがするもの」

 「おやおや、流石だね、お嬢さん。

 開発者に聞かせたら涙流して喜ぶよ、はっはっは」

 原さんは一通り笑った後、話を本題に切り替えるため真剣な表情になった。

 「でも、システムに物理的な障害が出てるからね。話だけは聞かせてもらうよ。参考人としてだけど。

 流石にドールに爆発物が仕掛けられることは想定していなかったからね」

 「警察には届けるんですか?」

 「ノーコメント。そこは儂の判断ではないからな。ただ、可能性はあるとだけ。もしかすると君たちに協力をお願いするかもしれない。その時はよろしく頼むよ」

 「はぁ」

 煮え切らない回答が歯がゆいけれど、それこそ俺が口出すことではない。

 それよりも“エロガキ”だ。

 まさかドールを爆発させてまで俺たちに挑んでくるとは思わなかった。

 トラブルの経緯、恨まれる覚えがないことなど、包み隠さず原さんに話した。

 どうせ、ログとして記録は残っている。

 彼はいくつかの質問を挟むものの、基本的には黙って俺たちの話を聞いてくれた。

 「ふーむ、なるほどね。君たちとしては降りかかってくる火の粉を払った、そんな感覚なんだね」

 「はい、そうです」

 「まあ、確かに基本的には彼らが悪い。ただ、君の方にも問題があるぞ、公一君」

 「え?」

 「まず技術的にだがね。コードのコピーに対して、君は甘く見過ぎていたんじゃないかな?

 正直な所、君たちの作るスピリッツは今、ダントツだ。

 ここだけの話、色々な業界からも注目されているほどだ。

 つまり喉から手が出るほど、その秘密が欲しいという者が現れても不思議ではない」

 「……はい」

 「君たちは狙う価値のあるターゲットだ。

 <楽園>にしても、ミウやアリサにしても狙われて当然。

 つまり君たちは、君たち自身の評価を低く見ているんだよ。

 だから、この事件が起きた。違うかね?」

 俺はその意見に同意した。

 「確かに、コピーへの対策は簡単なもので充分だと考えていました。

 しかし悪用されることも考えないとマズイですね。

 恐らくイタチごっこになるでしょうが、しっかりとその辺はやる必要がありそうです」

 「そうだよ、はっはっは。

 君はお人好しそうだから、しっかりとやっておきなさいよ。

 それからもうひとつ。

 新しいミウのデモンストレーション、あれはまずかったね」

 「えっ、なぜですか?」

 「君たちは、あのあまりにも強過ぎるスピリッツに対してあまりにも情報を公開しなさすぎた。

 それが嫉妬を生んだんだよ」

 「でもルナは、俺と理沙の技術の結晶ですよ。

 簡単に秘密を公開することなんかできませんよっ!」

 「まぁ、聞きなさい。

 ルナはあの世界で超人と言ってもいい存在だ。

 もし、あの娘が実在したとしてみよう。

 人は、あの娘はとんでもない鍛え方をしたんだとか、超人になる薬を飲んだとか、実は宇宙人だったとか。

 まあ、とにかく、あの力には何らかの理由があると考えるんじゃないかね?」

 「はは、アニメや映画みたいですね。でも、たぶんそうでしょうね」

 「ところが、コンピュータの世界ではそうは思われない。

 何かインチキをしているんじゃないか、などと思われるのがオチだ」

 「そんな! ルナは俺たちの技術の結晶ですよ!

 どれだけの苦労をしたか、あなたには分からないんだ!」。

 「そうだよ、誰も分からない。

 それが問題なんだ。

 不思議なことに人は、リアルの世界で起きたことには何が理由があると考えるけれど、バーチャルの世界では違う。

 何でもできてしまうが故に、努力が隠れてしまうんだ」

 「でも、スピリッツ作成の苦労はみんなが体験しているんじゃ……」

 「言っただろ? 君たちはダントツの存在だと。

 君たちの領域を理解できる者はほとんどいないんだよ。

 人は理解できないものを頭ごなしに否定したり、妬んだり。

 いずれにせよ、ろくなことを考えやしない」

 「そんなこと言われても……。

 俺たちは規約レギュレーションの範囲内でいじってるだけだし……。」

 「今回の事件でたったひとつだけ、みなが理解したことがある。

 それは君たちの開発したコードをコピーすることに大きな意味があるということだよ。

 もっとも、コードがコピーできてしまうのはシステム側の問題でもあるから検証が終わり次第、対策されるよ。

 それでも、コピーしようと挑戦してくるものは後を絶たないだろう。失敗したことによるデメリットが少ないからね。

 理不尽だが、それは起こりうる未来。

 コンピュータの世界は良い意味でも、悪い意味でも公平なんだ」

 全く思いも寄らぬ指摘で、俺は言葉が出なかった。

 これまではコードの優秀さだけを争っていれば良かった。

 しかし、リキたちのアプローチによってそれ以外の対策も考えなければいけない世界に突入してしまったのだ。

 最初から、コピーに関する対策をしていればこんなことにはならなかったかもしれない。脆弱性の存在と、そこを攻める価値を許してしまったことは、完全に俺のミスであり、負けなんだ。

 コピーに対する対策は急務だ。

 技術的にも、啓蒙的にも……。

 その後、原さんと水月で雑談をしていたようだったけど、俺の頭には全然入ってこなかった。

 「……する?」

 ふと気付くと、水月に肩を大きく揺らされていた。

 「聞いてるの、こーちゃん?

 リキさんが話をしたいって言ってるらしいんだけど、どうする?」

 「あ、ああ。リキか。水月はどう思うんだ?」

 「私は……一度、話をしておきたい」

 「そうか。じゃあ、原さん、お願いします」

 「分かった、儂も同席させてもらうよ。

 トラブルがあったら即、中止だ。

 それから、名前は本名ではなくスピリッツ名を使う方が良いだろう」

 そう言うと、原さんはスタッフにリキをこの部屋に入れるよう指示を出した。

 「ねぇ、こーちゃ、じゃなくて、ハムイチさん」

 「いつもの『こーちゃん』でいいよ。どうせバレバレだし」

 「それもそうか。

 それより、気付いてた? リキさんって、ファミレス“大円”で私たちが騒いでる時に注意しに来た男の人だよ」

 「あっ」

 リキが、ルナのフルチューンの話を知っていたのは、そこで何らかの方法で盗み聞きしたからなのか。



 *



 ミウとハムイチは、俺の申し出を受けてくれた。

 理由は教えてもらえなかったが、アリサとは会えないとのこと。

 プライバシーって奴は面倒なことで。

 まぁ、いい。

 バーチャルの話とはいえ、足が切れてしまった俺に対して『痛くない!』などとほざいたあのガキにひとこと言いたい。

 あの時のことを思い出すと、なんだか足が痛くなってくる。

 あまりの痛さで気が遠くなるところだったんだぞ。

 あのままでいたら、俺の気がおかしくなってたかもしれない。

 あんな思いは、もうゴメンだ。

 ……しかし。

 「混乱した俺を救ってくれたのも、あいつなんだよなぁ……」

 しばらくすると係員に部屋に通された。

 先に若い男女、それに原が座っていた。

 「どうも」と軽く会釈をして少女の対面に座った。

 少女の隣にいる青年、バーチャルと印象が違うがこいつがハムイチだろう。

 俺の隣には原が座っていた。

 さて、どう切り出すかと、考えていると、突然少女が「ごめんなさいっ!」と頭を下げてきた。

 「お、おい、ミウ」

 慌てる青年と原と、唖然とする俺。

 「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。

 今回は俺が謝罪するのが筋だろう」

 なんだか、妙なペースになってきたぞ。

 「で、でも、私が注意してれば、あなたが足を滑らせることもなかったし。

 本当にごめんなさい。

 その上、『痛くない!』とか言っちゃって」

 少女は、顔を真っ赤にして力弁している。

 バーチャルで会ったミウとだいぶ印象が違う……いや、同じなのか。

 この娘は何に対しても一生懸命なのだ、恐らく。

 本当に、俺とは根っから違う人種なんだなぁ。

 「い、いや。あれは仕方ないし」

 「でも、痛かったでしょ?」

 「……え、まぁな。痛いというより、驚いたな。

 確かに、あの時は痛かったけど、あんたに活入れられて正気に戻れたよ。

 ありがとな。それより、無様なところ、あんたに見せちまった」

 「そう、良かった」

 こいつ……涙まで浮かべてやがる。

 そう言われたら、そう返すしかないだろう。

 なんだか、完全に文句を言う機会を逸してしまった。

 ……いや、これで良かったのか。

 今日でこの世界を去るのだから、洗いざらいぶちまけてしまうのだ。

 深く深呼吸をした後、俺はテーブルに頭を付けて一気にセリフを吐いた。

 「すまないっ!

 あいつらに乗せられたいたとはいえ、あんたらに非道いことをしちまった。

 俺はあんたらに負けた。

 だからケジメとして謝罪する。すまない」

 「リキ……くん。頭を上げてくれ。

 まずは挨拶と自己紹介から始めようじゃないか。話はそれからだ」

 口調は柔らかいが、真剣な顔つきの青年が言う。

 彼はハムイチ、そして少女はミウ、俺も本名ではなくリキを名乗った。

 原はあくまでオブサーバーとして、そこにいるだけのつもりらしい。

 まあ、あのぞんざいなセリフを聞かされるよりは、黙っている方がマシだ。


 挨拶後、ハムイチがミウとアイコンタクトを取ってから、話を切り出し始めた。

 「リキくん。まず、謝罪についてだが、俺とミウは条件付きでだが受け入れようと思う。

 ただ、今回の最大の被害者はアリサだ。

 君に痛めつけられたのは勝負だから仕方ないとしても、3日間も磔になっていたんだからな。

 彼女が納得するかどうかは俺にも分からない。今、彼女はショックを受けて寝込んでいる。

 そして<ヘヴン>の人を含め、被害者は君が思うよりも、恐らくはずっと多い」

 「……ああ」

 アリサは眼の前で人間が爆発したのだからショックを受けて当然か。

 バーチャルなのに体験は本物と変わらない。しっかりと、痛みは残る。

 俺の右足がその証明だ。

 「恐らく首謀者は“エロガキ”だろうけど、君は代表のような役目を担っていたからな」

 「“エロガキ”?」

 「あ、そうか。

 あの自爆した少年、俺たちは“エロガキ”と呼んでたんだ。名前を知らないからな。

 とにかく、今回の騒動の中心に君がいると、みんな思っている」

 「……そうだな」

 「だから、謝罪については申し訳ないが、後日とさせてくれないか?

 その前にやるべきことが山積みだ」

 これは困った。

 俺は、今日を境に二度とここへは来るつもりがなかったからだ。

 また、何か面白いことを見つけ、適当に遊べればそれでいい。

 謝罪は……ばっくれるか。

 ハムイチはそんな俺の思惑を無視して話を続けてくる。

 「それよりも、俺たちは“エロガキ”の情報が欲しい。

 よかったら教えてくれないか?」

 俺は、しばらく考えてから、全てを話すと告げた。

 最初から決めていたことだが、すんなり話すのは気が引ける。

 「ちょっと話は長くなるぜ。

 まず、あんたらが“エロガキ”と呼んでいる奴、あいつは“エマノン”と名乗っていた」

 「エマノン……」

 そして、俺はエマノンと直接の面識がないこと。

 コンタクトは俺のコピーのひとりとだけしか取れず、誰とも直接会ったことはないこと。

 そして、今は全く連絡が取れなくなっていることから説明を始めた。

 ハムイチは俺たちの関係を疑問に思ったようだが、ウソはついていない。

 そして、スピリッツ“リキ”の件になると、ハムイチがぐぐっと前のめりになってきた。

 元々俺の持っていたスピリッツを預けると、エマノンの手によってパワータイプに改造されて返って来た。

 体格も筋骨隆々とした身体に改造された新しいリキは通常よりも多いコアが組み込まれており、通常のスピリッツを凌ぐ性能を持っていた。

 もちろんミウとは違い、第1世代のコードだったから鬼神のような強さはなかったけれど。

 何体かのスピリッツと対戦したが、結果は圧勝。

 俺はその実力に酔いしれた。

 そこでエマノンからミウとアリサの話を聞いた。

 俺よりも小さな身体のくせに、俺とは比較にならないパワーを持つあいつらに俺は嫉妬した。

 「……その時、エマノンに言われたのさ。『あいつらの力、コピーちゃおう』ってな」

 ハムイチの表情が硬くなるのが分かったけれど、俺はそのまま話を続けた。

 「新型ミウの発表会が開催されると聞き、俺たちはその場に乗り込むことにした。

 どうせなら、最新型のコードをいただきたいからな。

 俺とあいつの二段構えの作戦でミウのコードをコピーしようとした。

 成功したのはあいつだけだったがな。

 コードデータはエマノンから送られてきて、簡単に組み込むことができた。

 そして俺は有頂天になったよ。

 圧倒的なパワー。

 セルが多いリキなら、あんたやアリサにも勝てると思った。

 ようやっと、俺は憧れてた存在に近づけた気がした。

 ……まっ、“井の中の蛙”だった訳だが。

 で、俺はこの力を存分にふるってみたくなった訳だ」

 そこでミウが質問してきた。

 「ねぇ、リキさん。

 その日、“大円”で私たちと会ってるでしょ?

 あのウエイターさんはリキさんだよね」

 「え、ああ。よく分かったな。

 ウエイターのふりをして、テーブルに隠しマイクを付けさせてもらった。

 だから、俺があの場所に行った時からの会話は全て知っている。

 俺はあの時、ミウがまだ未完成であることを知った。

 エマノンに話すと、あいつは完成する前にとっとと倒してしまおうと言いだした。

 <エル・ドラド>におびき寄せ、後はあんたらの知ってる通りだ。

 結局、俺も裏切られ、予定外のことも沢山起きたけどな」

 俺が吐き捨てると、ハムイチが真剣なまなざしでこう言った。

 「ドールの受け渡しをしたってことは、エマノンの住所は分かるんじゃないのか?」

 「いや。今は匿名で荷物を受け渡す方法はいくらでもある。

 今回はSNSの配送サービスを使ったよ。

 わざわざ、そのサービスに入会させられてな。

 初めて使ったけど、本名や住所をサービスに登録しておけば、相手にはIDだけで受け渡しができて便利だよな」

 「やはり……。

 リキくん、君は“裏切られた”のではなく、最初から頭数に入っていなかったんだと思う。

 直接のコンタクトを避けたのも、後で足が付かないようにするためだ。

 エマノンのドールが爆発するようになっていたのも、そして君の位置からは見えなかったかもしれないが、君のコピーたちが爆発したのも同じ理由だろう。

 リキと比較してコピーたちが弱かったのは、そこにも原因があるかもな。

 こうなると、SNSの登録情報も信用できない。

 コピーを大量に作り印象を強めたのも、君に責任を全部なすり付けるためだったんだろう。

 なにより、名乗った名前が“エマノン”というのが、最大の根拠だよ」

 「???」

 「“エマノン”とローマ字で書いて、逆から読んでみな」

 俺は、テーブルの上にあったメモ用紙を拝借して言われたとおりにしてみた。

 EMANON。

 逆から読むと「NO NAMEノー・ネーム……つまり『名無し』か……」

 「残念なことに、君に最初から名前を名乗る気はなかった、ってことになる」

 そうか……、裏切られたのではなく、利用するために近づいてきたのか。

 あいつらにとって、俺は、仲間でも何でもなかったんだな……。

 あいつの口車に乗った時点で、俺にはバーチャル・スピリッツに居場所がなくなっていたんだ。

 未練はない……ないはずなんだが……。

 「リキさ……あっ」

 カラン……。

 ミウが手を伸ばそうとした時、彼女の椅子の近くで何かが倒れる音がした。

 その音を聞くとハムイチが慌てて立ち上がり、その何かを拾い上げた。

 ハムイチがミウに渡しているのは松葉杖だった。

 「あ、あんた。

 足、ケガしてるのか?」

 ハムイチがにらんできたが、ミウは気にせず、少しはにかみながら言った。

 「実は……。私も……」

 そういうと彼女はパンツの裾を上げて見せた。

 急に俺の右足に痛みが甦ってきた。

 「まさか……あんた、右足が……」

 「……うん。リキさんと同じ」

 ズキンと強烈な痛みが襲う。

 呼吸が苦しくなる。

 急に汗が噴き出してきた。

 擬似的な体験ではあったものの、それでもこれだけのショックがあるに。

 なら、あの時、彼女はどんな思いで俺を見ていたんだ……。

 「馬鹿か! あんたは。

 全然、同じじゃないだろ!

 俺のはバーチャルな痛み。ニセモノだ。

 そんなもの放っておけば良いだろう?」

 俺はいつの間にか、椅子から立ち上がってミウに叫んでいた。

 「同じだよ。あの時、リキさんは本当に痛いと感じてたでしょ? だから」

 「違う! 違う! 違う!」

 なぜか、必死になって否定する俺がいた。

 こいつといると、自分のペースがかき乱される。なぜだ!

 あ……。

 ふいに思い出した。

 彼女が言った『痛くない!』という言葉。

 あれは俺に向けて言ったのではなく、過去の自分に向けて言ったのではないか?

 気になっていたんだ。

 鬼のような形相で俺をにらみ付けたあの眼が。

 あれは、さっき見た、あの表情なんだ。

 俺に会って、いきなり涙を浮かべたあの表情と。

 つまり、あの時、彼女は泣いていたんだ。

 だから同じ……なのか。

 俺は、ソファに腰を落とした。

 そうか。

 痛いのは足じゃない、心なんだ。

 俺は、スピリッツとは、ただ単にスピリッツだと思っていた。

 その先にドライバーが、痛みを感じる人間がいるなんて考えたこともなかった。

 俺にとってのスピリッツは、単なる標的であり、単なる障害物であり、単なる人形に過ぎなかった。

 俺は、俺の心は、彼女の痛みを本能的に分かっていたんだろう。

 それに気づかなかった俺は、とんだ間抜けだ。

 だからこんなにも心を乱されるんだ。

 当たり前だ。

 頭と心がバラバラなのだから。

 「なあ、あんた。……それ、聞いてもいいか?」

 「交通事故。1年くらい前に」

 「直らないのか?」

 「無理。だって、もう無いもの」

 「痛かったのか?」

 「わからない」

 「わからない?」

 「うーん。私、その時の記憶がない、というか曖昧なんだよね」

 記憶がない……。それはとんでもない痛みがあったってことじゃないのか?

 淡々と答える小柄な少女が、より一層小さく見えた。

 「でもね、バーチャル・スピリッツで走り回ることができるようになって、それでたぶん救われたんだと思う。元々走るの好きだったし」

 「……そうか、だからあんたは必死になって俺に対抗してきたのか。あの場を守るために」

 「それもあるけど、リキさんにもバーチャル・スピリッツを好きでいて欲しかった。だって、こんなに楽しい場所なんだから」

 あっけらかんと言う少女に、俺は改めて負けたのだと実感した。

 この娘は、ずっと日向にいた娘ではなかった。

 下手すると、俺よりもよっぽど深い闇の中にいたんだ。

 俺は、彼女に叩きのめされた時に飲み込んだ言葉を口にすることにした。。

 「……あんた、本当に強いな」

 言ったら負けだと思っていた。

 あの時は、そう思った。

 今だから言えるが、あの時耐えて正解だった。

 負けたという結果は何ひとつ変わらないけれど。

 中途半端な負けでなく、とことん叩きのめされるのも悪くない。

 だからこそハッキリした。

 「……完全に負けた……いや、間違えたのかな」

 「ん?」

 「いや、なんでもない」

 少女の表情はコロコロ変わる。

 今は不思議そうな顔をしているその少女は、次の瞬間、もうイタズラっぽい表情を浮かべるのだ。

 「あ、そうそう、リキさん。謝罪の条件、先に言っとくね」



 *



 事件から数日後、バーチャル・スピリッツのシステムはほぼ復旧し、平常に戻っていた。

 5つのステーションのみが“事情により”閉鎖されたことを除いて。

 運営から発表がないものの、それがエマノンとコピーたちが自爆した所であるのは明白であった。

 閉鎖されたステーションは各地に点在していて、それが遠い県外であることはハムイチたちを安心させた。

 <楽園>は平穏を取り戻した。


 「ぶっわぁはっっはっはぁ!」

 「ちょっとエンさん、失礼だよ」

 「そうは言ってもミウちゃん、こいつの格好……ぶっ!ぶわはっはっはぁ!」

 お客の少ないアルバの片隅。

 腹を抱えて笑う白衣の中年男エン、それをなだめる制服を着たミウ、そのふたりを笑いながら見ている初老のファンキー発明家といった風貌のドク、ひとり憮然としているアリサの四人がテーブルに着いていた。

 彼らの前には、注文を取りに来たウエイター・リキがいた。

 スキンヘッドの巨体にエプロンを着けた姿は、コントでもやっているような違和感しかない。

 戦闘時には付けていたサングラスはさすがに外している。

 ミウから出された謝罪の条件が「<楽園>のみんなに奉仕してね。アルバでウエイターなんかどうかな?」というものだったからだ。

 「い、い、いらっしゃいませ。ご、ご、ご注文は」

 「ほれほれ、お客さまには、もっと愛想よくな」

 「もう、エンさんたら。やめなよ」

 さすがにドクが見かねてエンを諫める

 「もう、それくらいにしとけ、エン」

 「へいへい」

 ドクの言うことには素直に従うエンであった。そのまま場を繋ぐようにドクはアリサに話しかけた。

 「それより、アリサ嬢ちゃん。ずいぶんと機嫌が悪いようじゃねぇか」

 「……ま、ね」

 否定もせず、両腕を頭の後ろに組んだまま答えるアリサ。

 「まーったく、ミウもつまらないペナルティ思いついたわよね」

 「えー、ダメかな?」

 「アンタが言ったんだから構わないけどさ。

 それよりさ、リキ。アンタよくそんな条件出されて逃げなかったわね?」

 嫌らしい笑いを浮かべ、リキに言い放つアリサ。

 「ギクっ」と、動きを止めるリキ。

 「図星か。なんでアンタが考えを変えたのか聞かないけど、やるなら最後までキチンとやりなさいよ」

 直立不動になってリキは答える。

 「そりゃ当然ですぜ、あねさん」

 「だーかーら、その“あねさん”ってやめてよ、もう」

 横からミウが自分を指さし、「私が“白のあねさん”で、アリサが“黒のあねさん”だって」

 「なんでアンタは嬉しそうなのよ。まーったく、信じられない」

 アリサが叫ぶ中、そそくさと逃げ出すリキ。

 カウンターから一連の騒動を見つめため息をつくマスター。

 アルバは、以前と同じような緩い空気を取り戻しつつあった。


 「ねえねえ、アリサ。

 もしかして、不機嫌な理由ってこれ?」

 ミウはサイズの合った制服のポケットから一枚の写真を取り出した。

 「あ、それ! アンタ、どっから持ってきたのよ」

 アリサは手を伸ばし写真を奪おうとするが、ミウは素早く避ける。

 「隠したって無駄だもんね。

 私にだって、それなりのルートってのがあるの」

 そしてミウは写真をアリサに見せ、語気を強めた。

 「こういうの出回ってるなら相談してよ。

 ひどいことする連中もいるね」

 そこにはアリサが<エル・ドラド>で磔になっている姿が写っていた。

 「あー、呪いの写真だぁ」

 ミウの持つ写真をのぞき込むフタバ。

 ちょうど、ハムイチとふたりで外から戻ってきたところだ。

 「あっ、お帰り、フタバ、こーちゃん。呪いの写真って?」

 「うん、それ持ってると不幸になるって評判だよ」

 外から戻ってきたふたりは、シートに座った。

 「へえ? 初めて聞いた。

 何枚か回収したけど、誰もそんなこと言ってなかったよ」

 ミウはトランプのように写真を広げた。

 「へぇ、そんなに出回ってるんだ。……確かに悪趣味だな」

 これまであまり興味を示さなかったドクが一枚写真を引いてまじまじと見つめた。

 「ふーん。写真のIDは削ってあるのか。足が着かないようにしてるんだろうな」

 「まあね。いずれにせよ、あんまり気持ちの良いもんじゃないわよ」

 憮然とアリサは答える。

 「作った奴はともかく、持ってた連中は単に面白がってるだけなんだろうな」

 「なぜそう思うの?」

 「直感だよ。何だっけ“ノイマン”とかいう連中の嫌がらせじゃねぇのかな?」

 突然、エンが立ち上がり抗議する。

 「“エマノン”ですよ、“エマノン”。

 よりによって、そんな名前と間違わんでください!

 何でもその写真持ってると、やたら運が悪くなるって評判ですよ。

 ま、管理者なら乱数の出を悪くするなんて朝飯前ですからね。

 まったくガキっぽい奴がいたもんですよ。はっはっは」

 笑いながら席に座るエンを見ながら、フタバはつぶやく。

 「へぇ、これってそんなことしてるんだぁ」

 「おいおい、フタバ嬢ちゃん。

 あんた、“呪いの写真”って呪いの内容知らなかったのかい?」

 「え、あ、う、うん。あたしも小耳に挟んだだけだからさぁ」

 驚くドクに両手を大きく振りながら答えるフタバ。

 そんな彼らの様子をハムイチはニヤニヤしながら見ている。

 「じゃあ、もしかして私って今とてつもなく不幸モードなの?」

 「おお! そうだぜ、ミウちゃん。

 あんた、今おみくじ引いたら間違いなく【大凶】を引くぞ」

 「げぇ! アリサ、これあげる!」

 写真をまとめてアリサに押しつけるミウ。

 「いらないわよ! ってアンタ、ポケットに何枚隠しもってんのよ」

 アリサが両手いっぱいに持たされた写真を、上から手が伸びて全て奪っていった。

 「これは、こっちで処分しとくぞ。他にあれば出せ」

 「あ、ありがと、リキさん。これで全部」と、言いながらミウは残り数枚の写真をリキに渡した。

 「お、おう。まだあったのか」と言うと、リキはきびすを返した。

 「……リ、リキ」

 アリサは呼び止めると、リキは無言で振り返る。

 「あ、ありがとう」

 「ん」

 不器用なふたりのやりとりを見ながら、エンがからかうように言う。

 「なかなか良い男じゃないか。なあ、アリサちゃん」

 「し、知らないわよ」

 アリサがプイと横を向くと、ゴンッ!と大きな音がアルバ内に響いた。

 「いたたたた……」

 アリサが振り返ると頭を抱えしゃがみ込むリキと、その側に顔型に凹んだ柱があった。

 それを見て、エンが手を叩いて喜ぶ。

 「ぶっわぁはっっはっはぁ! ほれ! 不幸モードじゃねーか」

 「ぷっ……。あ、ごめん、リキ」とアリサ。

 「いやいやいやいや、そんな非科学的なことが起きる訳ないですよ」とハムイチ。

 「本当に不幸が訪れるんだぁ」とフタバ。

 「私、よく無事だったなぁ……」とミウ。

 「う、うるせえ!」と言い残し、とっととカウンターに戻っていくリキ。

 「やれやれ。一番不幸なのは私かもしれませんよ」

 メンバーのドリンクをテーブルに置きながらマスターが嘆く。

 「ありがと、マスター。

 そういえば、結局リキさん、注文とってないよね」

 「ええ、ですから、いつものをお持ちしました」

 ドリンクを口に加えながらハムイチが言う。

 「もしかして、ここだけ人が少ないのは……」

 「ええ」と苦笑いするマスター。

 入り口付近を見ると、「へい! らっしゃい!」と呼び込むリキと、その姿に脅え逃げる通行人の姿が見えた。

 「うーん、無理はないか。

 この前まで暴れ回っていた恐怖の対象だからなぁ」

 「別に趣味でやってることですから、構わないと言えば構わないんですが。

 よろしいんですか? オーナー」

 「うん、済まないけど頼むよ、マスター。

 幸い<楽園>には人が戻っているし、他のテナントを利用してくれれば、こちらとしては問題ないし」

 その言葉を聞くと、マスターはにっこりと笑い、カウンターに戻っていった。

 「ところで、こーちゃん。<ヘヴン>の方はどうだった?」

 「中継もされてたしね。事情はあちらも分かってたよ。

 こちらでサンセットを復旧させることでテンさんも納得してくれた」

 「完全に巻き込まれただけだったからね」

 「まあね。とはいえ、考え方によっては、俺が<楽園>のことしか頭になかったことが問題だとも言える。

 もっと早くにテンさんとかに協力を頼めばよかった」

 「でも、仕方ない面もあるよ。黒幕が誰だか分かんなかったんだから。

 一瞬だけど、ドクさんやエンさんも疑ったもん」

 「ええ! ミウちゃん、それはないよ」

 「うん。でもエンさんだったら、もっと上手くやるってこーちゃんに指摘された。

 あと、ドクさんは……やるならもっと悪いことだってアリサに」

 「酷いなあ、アリサ嬢ちゃん」

 「ははは、いや当たってますよ」とツボにはまったように笑っているのはエンで、当のアリサは黙ったままだ。

 笑いの波が過ぎたところで、ハムイチがアリサ、ミウ、フタバの3人にアイコンタクトを送り、それぞれがコクンと頷いた。

 眼を閉じ、考えをまとめるハムイチ。

 何かを察したエンとドク。

 全員が、ハムイチの次の言葉を待っていた。

 やがて眼をゆっくりとあき、彼は決意を口にした。

 「エンさん。……俺、第2世代のコードを公開しようと思うんだ」

 「……ほう。坊主は『苦労して作ったコードだから、誰にも見せたくない』と言いそうなタイプだけどな。正直、アリサちゃんと組んでいるのが不思議な位だ」

 「はは、厳しいなぁ。……うん、確かに俺は、俺のコードを理解できる者にしか公開したくない。それは今だって変わらない。

 でも、それじゃダメなんだ。人は最初の一歩を踏み出すのがとても大変じゃないですか。

 バーチャル・スピリッツは、スピリッツを創ることが面白いと思うんだけど、そのハードルって高い。

 でも、コードを公開することで、その後押しができるのなら、それは意味があることなんじゃないかな、って思えてきたんですよ」

 「ほう、順序が逆になったんだな。

 価値がある人に見せるのではなく、見せることによって価値がある人を創り出す、と。

 でも、いいのか? そんな人は出てこないかもしれないぞ」

 「それなら、それまでですよ。それでも、俺が公開することでそういう人が減ることはない。

 もし100人にひとり、いや1000人にひとりでも興味を持ってくれる人が出てきたなら、成功なんだと思います」

 「本当にいいのか? お前さんが寝ずに考えた数々のアイディアが、労せず他の人に渡っちまうんだぞ」

 「長い目で見たら、俺にも必ずメリットが生まれる話だと思いますから。

 それに……」

 「エマノンか?」

 「はい。あいつに第2世代コードが渡ってしまったことも、公開することの理由のひとつです。

 あいつだけに強力な武器を持たせるのは危険です。

 だから、第2世代コードを理解してくれなくても、全員が搭載してくれれば、とも考えています。

 これで、エマノンの優位性が薄れ、将来起こりうる事件を未然に防げるかもしれない」

 「ナルホドね。

 でも、全員がミウちゃんみたいなパワーを持ったら、街が大変なことにならないか?」

 「ええ。だから<ヘヴン>のテンさんとも相談して、“街のレベルアップ”をしようと思います。

 バーチャル・スピリッツは、フィールドの設定を丸々変えることができますから、第2世代コードに合わせた強度や重力を持つようにします。

 テンさんと協力して、他のフィールドオーナーとタイミングを合わせて実施したいな、と。

 もちろん、そのタイミングでスピリッツのコード書き換えを行う形で」

 「……もう一度考えろ、坊主。

 お前が言っていることは、このバーチャル・スピリッツの法則を根底から変えるということだぞ。

 言ってみれば、世界を書き換えるってことだ。

 本当にそれで良いのか?」

 「はい。俺たちは、俺たちの手で前に進む必要があると思うんです」

 「……本気なんだな。まあ、……システム管理者に話を通さなくてもできなくはない、か」

 「ぜひシステム管理者にもご協力いただきたいです。

 きっと、その方がスムースに移行できる。

 連絡とってもらえますか?」

 「でもフタバちゃんはノーマルだから良いとして、アリサちゃんやミウちゃんはそれでいいのかい?」

 エンは上位世代のコードを搭載しているふたりに問いかけた。

 「ええ。アタシは消極的な賛成なんですけどね。

 興味を持ってくれるよう、いろいろな人にアプローチをかけたことがあったけど、無駄に終わったから。

 でもエマノンの脅威を防げるのであれば」と、アリサ。

 「私は……その件について口を出せる立場じゃないから。

 ただ圧倒的トップだったアクアが、半年後に平均的な性能になっちゃうのは、ちょっと悔しいですね」と、ミウ。

 「はは、技術ってのはそんなモンだ。

 そういえば今日もアクアなんだな。ルナはどうしたんだ?」

 「こーちゃんが、また手を加えてますよ、あはは」

 「絶賛パワーアップ中です。もし台頭してくる奴がいたら、叩きのめしてやりますよ!」と、ハムイチは胸を張って答える。

 「おいおい、それじゃ新しい世代が来ても育たないぞ」

 「はい! 俺は新しい世代以上に頑張りますから。

 負けませんよ!」

 「……いい表情だ。

 ちょっとだけ、オヤジの小言を聞いてくれるか」

 エンは軽く咳払いをして姿勢を正すと、ゆっくりと語り始めた。

 「バーチャル・スピリッツは仮想の世界だ。

 限りなくリアルだけれど、偽物の世界だ。

 しかし、偽物だけどその体験は本物だ。

 なぜか? そこに人間がいるからだよ。

 バーチャルスピリッツにおいて、人は人であり、神でもある。

 全てのものが自由だ。何でもできる。

 ただし、まだまだ未完成だけどな。

 でもな。

 もし将来、バーチャル・スピリッツが完成したとしても、ひとつだけ創れない物がある。

 心だ。スピリッツだよ。

 俺はな、本当に優れた技術ってのは、人の心に触れることができる物だと思うんだ。

 心のない技術ほど悲しい物はない。

 ……将来的には心があるように見える物が創られるかもしれない。

 それと、人の心の一番大きな違いは“夢”だ。

 夢があるから人は未来に向かって歩いて行ける。

 よく『若者よ!夢を抱け!!』みたいな説教があるだろ?

 あんなモン、間違ってる。

 『若者夢を抱け!』が正解だ。

 上から目線じゃねぇぞ。オヤジだって夢を追ってるんだ。若者の特権じゃない。

 見たことあるだろう? ノーベル賞とか取ったじーさまたちを。

 あいつら、すげえガキみたいな顔で喜んでるんだよな。

 あれは賞を取ったことが嬉しいんじゃなくて、自分がやってきたことが認められたのが嬉しいんだぜ、きっと。だから、俺は一生ガキでいられる奴ってのは尊敬できるんだ。

 坊主、お前が世界のバージョンアップをしたいと言うのなら、俺は全力で協力してやる。

 ただし、そこに心があれば、だ。それだけは、絶対に忘れないでくれ。

 ……よし! すぐに連絡とってやるから、簡単に提案書をまとめとけ」

 「はい!」

 エンが握手を求めると、ハムイチは力強く握りかえした。


 「へい、らっしゃい!」

 アルバ店内にリキの景気の良い声が響く。

 カウンターには何かをあきらめた表情のマスターがいた。

 それでも、アルバにとって久々の来客だ。

 三人組の彼らは、リキに驚きながらも店内をキョロキョロと見回しはじめた。

 「あ、あそこだ!」

 「いた、いた、いた。よかったぁ」

 「アリサさん、探したんすよ」

 三人組はドタドタとアリサの元に近寄り、次々に整列し、直立不動の姿勢をとった。

 そして肘で互いに突きあい、結局真ん中の彼が甲高い声でアリサに問いかけた。

 「す、す、すいませーん。

 覚えておいででしょうか?

 ぼ、ぼ、僕たちは<バトル・シティ>のイベントでアリサさんに声を掛けたもらった者でーす」

 「……あっ。あの時の」

 彼らは<バトル・シティ>でのイベント時、三人がかりでコンクリート片を持ち上げようとしていた連中だった。

 その時は、アリサがそれ以上のコンクリート片を片手で持ち上げて見せて驚かせたのだったが。

 「あ、あ、あの時に教えてもらった本を読んでみたんですが、難しいところがあって。

 よかったら、教えていただけませんか?」

 そして、声を揃えて「お願いします!」と頭を下げた。

 真剣そのものの彼らの訴えにどう答えるか、エンの表情は興味津々であった。

 「……馬鹿ね。そんなのも分からないの?

 そっちの席でみっちりと教えてあげるわ。覚悟しなさい」

 「はい!」

 アリサが席を立つと、フタバも「面白そうだから、あたしもあっちに行くねぇ」とついていった。

 一連の話を見ていたエンは、「……驚いたなぁ」と、呆然と呟いた。

 「??? どうしたのエンさん」

 「いやね、アリサちゃんって、あんなに良い表情で笑うんだなぁ。驚いたよ」

 「へぇ、俺の席からは見えなかったよ。残念だな」とドク。

 つられるようにハムイチが言う。

 「確かに。よく笑うけど、なんか不器用な感じがするんだよな、あいつ」

 すると、満面の笑みを浮かべたミウが言う。

 「あれ、知らなかったの?

 あの娘は人が前に進もうとする時にとっても嬉しそうな顔をするんだよ。

 口は悪いけどね。

 私も本当に助けられた。

 ホント、不器用なんだから」

 「なんだか、お前の方が嬉しそうな顔をしてるぞ、ミウ」

 「えへへ。いーだろ」

 天真爛漫なミウの笑顔が伝染したらしい。

 ハムイチ、エン、ドクの男衆も、自然に笑顔になっていた。

 「すみませーん、オーナー。

 中央公園でトラブルが発生したようです」

 カウンターから、マスターの叫ぶ声が届く。

 ハムイチとミウは同時に立ち上がる。

 「よし。ミウ、行くぞ」

 「はい! じゃあ、すみません。失礼します」

 ミウがぺこりと頭を下げると、エンが軽く手を振る。

 「ほいほい、いっといで」


 いつの間にか賑やかだったテーブルは、中年男ふたりだけになっていた。

 祭りの後のような寂しさが、そこにあった。

 「エンよ、どうした。さっきはやけに饒舌だったじゃねぇか」

 「……うん。……なあ、ドクさん」

 「なんだい?」

 「俺さ、昔失敗しちまって。

 自分の理想と思える物を作ったんだけどね、全く世間に受け入れてもらえなくてさ。

 やれ、できることが多すぎるだの、難しすぎるだの、反応がピーキー過ぎるだのと文句言われまくり」

 「知ってるよ。

 だいたいお前さんの創る物は、今も似たようなものじゃないか」

 「だから俺、その失敗作を心の中に封印してたんですよね。

 でも、新しい物を作っても結局似たような物になっちまう」

 「うん」

 「坊主の言葉じゃないですけど、100人にひとりでも受け入れてくれた人がいたってのは嬉しいモンですね。

 あのふたりを見てると本当にそう思いますよ」

 「あのふたりからアリサ嬢ちゃんに繋がり、そしてフタバ嬢ちゃんやあの3人組に。

 お前さんの撒いた種は時間は掛かったけれど、しっかりとした花を咲かせそうじゃないか」

 「失敗作だと、さんざん言われてきました。

 俺の理想をつぎ込んだのに世間は全否定でした。

 ……でも俺のゲームを愛してくれたあのふたりは、立派に成長してくれた。

 むしろ、俺があいつらに救われたんだと思うんですよ」

 「ああ、そうだな」

 「俺のやったことは無駄じゃなかった」



 *



 「そうですか。

 水月くんと理沙くんがカウンセリングに来ましたか。

 ……いいえ、まだ考えがまとまっていないので。

 ええ、そうしてください」

 すっかり春めいた今日この頃。

 内線を切ると、私はタバコに火を着け封筒に入ったままの書類に眼を向ける。

 準備はできた。

 後は、どうやって本人を説得するか、だ。

 もう、あまり時間は残されていない。

 そもそも、これを正当化する理由が私にはないのだから頭が痛い。

 天井に向け煙をくゆらせた時、トントンと扉をノックする音が聞こえる。。

 「開いてます、どうぞ」

 言いながら、慌ててタバコをもみ消した。

 「へぇ、ずいぶん良いところで仕事してらっしゃるのね、櫻井先生」

 「おや、理沙くん。

 珍しいじゃないですか、院長室なんかに来るのは。

 今日は、カウンセリングじゃなかったですか?」

 「よくご存じで。

 水月が今、看てもらってるわ。

 一連の騒動で、ドクにも見てもらえと言われたしね。

 それに折角、顔パスにしてもらったんだし、一度はここに来ないと損だもの」

 「君なら大歓迎だよ。それに病院の中にも君のファンは多いしね」

 ゴスロリ服を着た少女はあらゆる物を観察するように見て回った後、接客用のソファに身体を落とした。

 「……そんなに水月は問題児だったの?」

 「ははは、ノーコメント。それより、お茶でもどうかね?」

 「結構……。いいえ、いただくわ。最後だから……」

 「……」

 私は席を立ち、紅茶を入れる準備に入った。


 「へぇ、先にミルクを入れるのね」

 「先にミルクを入れるか、後から入れるかでミルクティーは味が変わるんですよ。

 私は先に入れる方が美味しいと思います」

 「はい、どうぞ」

 「いただきます」

 「どうですか? 先にミルクを入れる方がまろやかでしょう?」

 「……それは分からないわ。両方、試してみないと。でも、美味しい」

 「ははは、君は正直ですね」

 私はティーセットを定位置に戻してから、机に戻り、ファイルを手にしてソファに移動した。

 「何か話があるんじゃないですか?」

 ティーカップをテーブルに戻した少女は、じっと私の眼を見てこう言った。

 「……単刀直入に言うわ。あなた、ドクよね」

 気のせいか、口調がきつく感じられる。

 「うん、まぁ。それはそうだが……。

 やっぱり、分かるか?」

 「いいえ、ずいぶん長いこと気付かなかったわ。

 リキもそうだけど、男の人って髪型あまり変えないからあまりピンと来ないのよね。

 それに、ドクとあなたでは、瞳の色や肌の色が全然違う。うかつだったわ。

 フェイスシンクは顔の形はトレースするけど、色は関係無いものね」

 「ははは。別に騙す気もなかったし、別人格を演じるのもゲームの楽しみのひとつさ。

 参考までに、いつ確信を持ったんだい?」

 「……。アリサが<エル・ドラド>に磔になっていた時よ。

 アタシは音声チャットだけで、アンタやミウたちと会話した。

 その時のアンタの声、演じてはいるけれど、どこかで聞いた声だった。

 皮肉なものよね。視覚という情報がなくなったから、ドクがアンタだと気付けた」

 「ナルホドねぇ。私もなりきっていたつもりなんだが。

 あ、ドクというのは古い映画に出てくる……」

 私がたわいない昔話に入ろうとした途端、彼女はピシャリと話を断ち切った。

 「そんなことどうでもいいわ! アンタが黒幕だったのね!!」

 「……えっ? 何のことですか」

 いつも理詰めで話す彼女とは思えない感情的な言いぶりだ。

 恐らく何らかの誤解が生じているのだろう、まずは冷静にさせないと。

 「おかしいと思ったのよね。

 あの馬鹿にこんなことが思いつくはずないもの。

 水月にスピリッツを始めさせるように、公一に命じたのはアンタね、櫻井先生。

 公一はその命を受けてアタシを巻き込んだ。ちがう?」

 私は大きく息を吐いた。

 「なんだ、そういうことか。脅かさないでくれないか」

 「冗談じゃないわよ!

 アタシがこんな格好して行動するハメになったのはアンタのせいってことじゃない!」

 「なんだ、似合ってるのに。それに充分な報酬は払っているはずだが」

 「公一からね、アンタからじゃないわ。

 でも、あれは学生の払える金額ではない」

 「おっと、失言。困ったな」

 すると彼女はニヤリと笑い「全部話してくれたら考え直しても良いわよ」

 「長くなるけどいいかな?」

 「仕方ないわね」

 私は二杯目の紅茶をいれようとしたが、彼女は断った。

 「さてと。どこから話そうか。

 まず、バーチャル・スピリッツを水月さんに使ったのは、あくまでレクリエーションだ。

 治療行為ではない」

 「……」

 「困ったことにあれは医療に使う為の許諾が降りていないからね。

 あくまでテレビゲームなどの一環として導入されている。

 病室においてあるテレビと立場的には変わらない。

 あれが治療だとみなされると、色々と面倒が発生するんでね」

 「大変なのね」

 「たまたま暇そうにしている入院患者さんと、そのお友達の女の子がテレビゲームで遊んでいた。

 ただ、それだけのことだよ」

 「別にアタシでなくても良かったんじゃ?」

 「いや。理沙くんでないとダメだったよ。それに君に眼を付けたのは私だ」

 「うっ、何か変なこと考えてないでしょうね?」

 「……“ドク”って言うのはね、昔の映画に出てくるタイムマシーンを発明した天才なんだ。

 あこがれたよ。

 ああいう人間になりたかった。でも、なれなかった。

 良くある話さ」

 少女は黙って話を聞いている。

 「まあ、私も新しい物好きだからね。

 バーチャル・スピリッツなんて物があればいち早く試してみる。

 そして、可能性を感じたから最新のシステムを導入した。

 才能はないが金はある。

 どう思われるか分からないが、私はそういう人間だ。

 世間からは成功者と思われているかもしれないが、実態は単に親の基盤を継いだだけだよ。

 そこで出会ったのが公一くんと君だ。

 若い君たちは、見ているだけで実にワクワクさせてくれた。

 ただ、見ているうちにあることに気付いた。

 このふたりは争うよりも、手を組む方が凄いことになると。まぁ、単なる直感だけどな。

 ただ、君たちに面識のない私には、ふたりを結びつける方法が分からなかった。

 そして水月さんが事故で、たまたま私の病院に入院してきた。

 遠くに引っ越した彼女が、たまたまこちらにきた時に事故に遭う。

 そこで初めてリアルの公一くんと出逢った。

 その頃、彼は青年のスピリッツを使っていたからすぐに分かったよ。

 家族同様の彼女を救って欲しいと彼が相談してきたんで、君を巻き込ませてもらった」

 「……そういうこと」

 「ああ。

 最初は公一くんも嫌がってたけれどね。『土下座してでも連れてきなさい』と言ったら本当に土下座したそうだね。

 素直な青年だよ」

 「馬鹿なのよ」

 「いや、それだけ必死だったんだろう。

 笑うものではないよ」

 「……」

 「実際、君たちがコンビを組むようになってから、飛躍的にスピリッツの性能が上がったじゃないですか」

 「違うわ」

 「そんなことはないだろう。

 ルナの性能は他のスピリッツを周回遅れにしていると言ってもおかしくない」

 「トリオよ。水月がいなかったら、ルナはもっと押さえた性能になったはず」

 「……確かに。これは訂正しよう。それはその通りだ。

 私は水月くんを利用した、と言えるからね。

 正直、後ろめたい気持ちがあるのも本音だ。

 水月くんがあそこまで素晴らしい才能を持ってるとは思わなかった。

 おかげで素晴らしいシナジー効果が生まれたようだね。

 正直、これは計算外だったよ」

 「まったく何なのよ、あの娘。

 ちょっと前までスピリッツに触ったこともないド素人だったのよ。

 それが、あっという間に上達して。

 なんだか、赤ん坊が半年ちょっとで大人に成長する過程を見ているみたいだったわ」

 最初、硬い表情だった理沙くんも、水月くんの話になると穏やかな表情に変わっていく。

 この場にいないのに、一番存在感があるのはあの娘かもしれない。

 「まったく水月くんには驚かされてばかりだよ。

 ルナもお披露目の時と、リキくんのと再戦の時ではずいぶん性能に違いがあるようだが」

 「最初は未完成状態だったし。でも、水月が簡単に乗りこなしちゃうものだから、公一も予定よりも性能を上げちゃって。本当はサポートプログラムがないとまともに動かせないはずなのに。普通なら、お披露目の時でお手上げよ。

 馬鹿と馬鹿がコンビを組むと、とんでもないことができるって見本よね」

 「おや、トリオじゃないのかね?」

 「……。そうありたかったけど、無理かも。

 アタシは、もう、ついて行けない気がしてきた」

 「君らしくないね。私は君たち3人に期待をしているんだよ」

 「期待?」

 「そう、君たちなら未来を創る天才になれるんじゃないかと思っているんだ」

 「買いかぶり過ぎだわ」

 「いや、タイムマシーン程度なら私にも創れたからね」

 「……何を言ってるの?」

 「バーチャル・スピリッツでね。

 水月くんが幼い頃、親御さんと喧嘩して家出したことがあったそうだ。

 そこで夕暮れの河原をひとり歩いていた所に迎えに来たのが……」

 「公一なのね」

 私は頷いた。

 「見当は付くわ。

 きっとあの娘は泣いたのね、公一の胸で。幼い時も、あの時も。

 ふふ……確かにタイムマシンかもね。

 なるほど。

 あの娘に“ミウ”を名乗らせようとしたのも、その一環だったのね。

 あの頃を想い出すように。

 でも、あの娘は自分で“ミウ”を名乗った。

 きっと……それでタイムマシーンは完成したんだわ」

 「……そうかもしれないね」

 「アタシにアリサと同じ格好させたのは、リアルとバーチャルを混同させるため?」

 「ああ」

 私が応えると、彼女は何か考えごとを巡らせる。

 紅茶のおかわりを尋ねると、今度はコクリと頷いた。

 彼女の要望で同じようにミルクを先に入れた紅茶を手にすると、両手で包み込むようにカップを持ち、じっくりと味わってくれた。

 「……知ってる?

 アタシはあの娘の前で泣いたの。

 何回も、何回も。

 あの娘は知らないかもしれないけれどね。

 アタシ、あの娘に会ってから泣き虫になった。

 でも、あの娘はアタシの前で涙を見せたことがない。

 公一や“アタシではないアタシ”の前では泣くのに」

 それは君と水月くんの関係が特別だからだよ。

 君は彼女のために泣くだろうが、彼女は君の前では泣くのをこらえるだろう。

 それは同じ理由だからなんだよ。

 でも、それが苦しいのなら……。

 喉まで出かかったそのセリフを、私は飲み込んだ。

 その原因を作ったのは……私だ。

 「もうこれ、脱いでいいよね?」

 理沙くんは、自分のゴスロリ服をつまんで言った。

 それはすなわち、水月くんとの別れを意味する。

 それを否定する権利は私にはない。

 私は黙って頷いた。

 「まーったく、この服すっかり身体に馴染んじゃったわ。

 変なオヤジに騙されちゃってさ」と言うと、理沙くんはスッと立ち上がった。

 「さようなら、“ドク”。最後にあなたの本音が聞けて嬉しかった」

 きびすを返すと、彼女は入り口の方向にすたすたと歩いて行った。

 まるで一切のしがらみを断ち切るかのように。

 ドアのノブに手が掛かったところで、私はどうしても聞きたかったことを尋ねてみた。

 「最後にひとつだけ聞かせてくれ。

 本当に“騙された”と思っているのかい?」

 理沙くんの動きが止まった。

 そして数秒考え込み、そのままドアのノブをカチャリと捻った。

 「……当然でしょ」

 彼女がドアを開くにつれ、徐々に外の光が入ってくる。

 そして、開ききった後に振り返り言った。

 「でもね、……いいものに騙されたと思うわ。

 この1年は私の宝物だった」

 ……ああ、なるほど。

 これがエンの言ってた彼女の微笑みか。

 そして、私は理解した。

 彼女は本当に正直だ。しかし、彼女は自分に嘘をつく。

 優しいひねくれ者め。なぜ、あのひと言が言えないんだ。

 だったら……。

 私は、先ほどの書類を手に立ち上がった。

 「理沙くん。この際だから、もう一度このオヤジに騙されてみる気はないかね?」



 *



 今年も四月になった。

 昨年は、本当に色々なことがあった一年だった。

 結局、私の人生は大回りすることになってしまったけれど、同時にかけがえのない大切なものを得たとも思う。

 私のことを、母さんは「変わった」と言い、こーちゃんは「変わらない」と言う。

 どちらが正解なのだろう。

 何はともあれ、今日から二度目の高校一年生だ。

 新しい高校は、櫻井先生の病院が運営する近所の学校に決まった。

 入院中に試験を受けられるのが、ここくらいしかなかったというのも理由のひとつ。

 本来なら私なんかが入れるレベルの学校じゃないんだけど、櫻井先生の強い推薦が後押ししてくれたのだと思う。

 普通高校だから、櫻井先生の病院が運営しているなんて思いもしなかった。

 あの先生、いろんな事やってるんだなぁ。

 本当、先生にはお世話になりっぱなし。

 昨年、少しだけ通った学校の寮から荷物が戻ってきて、寂しかった部屋も少しは賑やかになった。

 まだまだ段ボールは山積みだけど、少しずつ整理していけば良いのだ。


 姿見の鏡には、1年ぶりに高校生となった私がいた。

 「うん、思ったよりイケるじゃないですか、水月さん」

 ひらりと回るとスカートが翻る。

 真新しい制服というのは、なかなか気恥ずかしい。

 というか私にとって“この右足”が露出する服を着るのは初めて。

 たぶん、一月前の私だったら嫌がっただろうな。

 そういえば、櫻井病院でのカウンセリングを最後に理沙と会っていない。

 こーちゃんも私も、彼女と連絡が取れない状態になっている。

 そんなことは今までなかったのに……。

 ちょうど準備が終わった時、階下から母さんの呼ぶ声が聞こえてきた。

 「水月、こーちゃんが写真撮ってくれるって」

 「はーい」


 「おい、大丈夫か?」

 玄関に降りると母さんと、高そうなカメラを持ったこーちゃんが並んでる。

 「お待たせ」

 「あら、なかなか似合うじゃない。馬子にも衣装ね」

 「なによ、実の娘にそれ?」

 「じゃあ、写真撮るから、ふたりとも並んでください」

 なんだか、親子で並ぶのってやたら気恥ずかしい。

 普段、顔をつきあわせている者同士だから、形式張った状態が合わないのかな?

 「じゃあ、撮りますよー」

 「あっ、こーちゃん。ちゃんと足まで入れてね」

 こーちゃんは、カメラから顔を上げて「いいのか?」と言った。

 「うん。私が私である記録だもの」

 「よし、分かった」

 そう言うと彼は2、3歩後ろに下がり、ファインダーを再び覗いた。

 「はい、チーズ!」

 カシャ!


 母さんは、自分の仕事があるので早々に家に戻っていった。

 「じゃあ、行ってくるね」

 「車出さなくて良いのか?」

 「これから、毎日通うんだもの。

 それに彼氏付きの送迎があると、学校でモテなくなっちゃう」

 「アホか。

 じゃあ、いってらっしゃい」

 こーちゃんは、そう言って手を振った。


 だいぶ杖なしで歩けるようになったけれど、まだ少し不安が残るので手放せない状態だ。

 そのため、当面は両手が自由になるリュックを背負っての通学になる。

 この角を曲がると、学校までは長い一本道。

 真正面の、まだ小さく見える建物が私の新しい学校だ。

 道の両端は、桜で埋め尽くされている。

 「綺麗……」

 毎年見ている桜なのに、今年はなんだか一層美しく見える。

 道は多少の上り坂になっているので慣れない足に負担が掛かるため、意外に辛い。

 途中、何人もの同級生に出逢った。

 彼らは明るく笑いながら、必死で歩く私を楽々と追い抜いていく。

 足を止め顔を上げると、大きな人の流れは目的の学校まで続いていた。

 しかし、その流れに逆らう人影があった。

 まだ遠くて形もハッキリしていないけれど、それは流れを左右に分けるようにしてその場から動かなかった。

 坂道だから、坂道だからこそ気付くことができたのかもしれない。

 「……そうか、そうなんだね」

 私は再び歩きはじめた。

 相変わらず人に追い越されていくけれど、もう辛くはなかった。

 足取りは重いけれど、一歩一歩確実に近づいていることが分かったから。

 まだまだ遠くにいる彼女が段々と形になっていった。

 口に出すのは気恥ずかしいけれど、私もあなたと一緒に歩んでいきたい。

 ひときわ大きく、美しい花を咲かせている桜の木の前にいる彼女のシルエットはいつもと全く違ったけれど、私が見間違えるはずがなかった。

 彼女はいつも私を待っていてくれる。

 そして、より良い未来へと導いてくれる。

 その娘の名は……。


 「理沙、おはよう!」

 「おはよう。遅いじゃないの」

 「待っててくれなんて言ってないもん。

 それより、どうしたの? 連絡とれなくて。心配したんだぞ」

 「……色々とね。編入試験とか、手続きとかで忙しかったのよ」

 「??? どういうこと?」

 「要するに、またあのオヤジに騙されたのよ」

 うっすらと赤く染まる理沙の頬を、桜の花びらが撫でていく。

 「どうでもいいでしょ、早く行きましょう。

 アンタは今日、入学式なんでしょ?」と言うと、理沙はさっさと歩き始めた。

 「うん、待ってよ。そうそう、理沙」

 「何よ」

 「制服、似合うよ」

 「……馬鹿」

 彼女の制服もまた、おろしたてのようだった。

 長い、長い桜並木を抜けると、そこは春の日差しの中。

 もう、学校に手が届きそうな距離になってきた。

 私の、いや私たちの新しい生活が、これから始まるのだ。



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ハイスピリッツ・ガールズ えまのん @emanon

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