第2話 変化

前世の記憶が残ったことで、私は平然と今までのような生活を続けることはできなくなっていた。


社会科目の成績が良くなったことについては、職員室に呼び出されはしたものの特にカンニングなどを疑われることもなく、褒められるだけ褒められたのちに自然と穏やかに先生方の話題にも現れなくなった。社会科目だけじゃない。英語も論文をすらすら読める程度に上達(回復と言うべきだろうか)したし、もちろん数学や理科に関しても今まで得意であったとはいえ大学での教養レベルは前世でそれなりに習得していた。明らかに18歳という歳では身につかない知識と学力が備わった私は、いつどんなときでも誰かに怪しまれないかを気にしながら行動するようになった。この異常なまでに賢くなった頭脳を活かせば一躍有名人になれることは間違いないのだが、それでも私は、藍莉をはじめとする何人かの友達と、この残りわずかの平和な女子高生としての生活を、穏やかに楽しみたいのだった。


「最近の詩織、なんか大人っぽくなったよね」

この一言は、ナレーションではない。真実を知っているわけもないのだが、まるでナレーションか私の人生の作者であるかのごとく察しのよい友人Aによるものである。

「いま、私のことめんどくさい奴だな、って思ったでしょ?」

「え、え!?思ってない思ってない!藍莉は友達を観察するのが生きがいの悪趣味な人種なのかなと思っただけ」

我ながら、なんて失礼な返答だろう。藍莉以外に言ったら確実に嫌われるだと自信を持っておすすめできる一言だと思う。

「ちょっと、そっちのほうがわりと酷な印象だとおもうんだけど。まぁ、観察するのは確かに好きだけれどもね?」

だけれども…?

「藍莉は、何て言うか…観察せずとも顔に書いてあるから分かりやすいかなぁ」

「な、なんてこった!」

「ふふ、なんてこったって、何それ」

お、藍莉が笑った。やっぱり笑顔の藍莉は天使だと思う。見る者の心を豊かにし、災いなるときも健やかなるときも我らに安らぎを与えたもう。

「で、その反応だとやっぱりなんかあった感じ?」

否、今の私に関しては例外だった。安らぎなど与えてはくれない。前言撤回だ。この天使に問い詰められては、私のような人間風情ではどう足掻いても真実を隠し通せるわけがなかった。どうするべきか…。

「ん、まぁ…ねぇ。ちょっと、ねぇ。」

あーーー。どうしてこんなに私は話すのが下手なのだろうか。相手が藍莉だから緊張している、というのもあるが、どうにも嘘というのはつけなかった。こんな曖昧な返事しかできないようでは、きっと将来、秘書や幹部などの冷静沈着・秘密守りますマンにはなれないことだろう。

「あ、もしかして美作みまさか?こないだのテスト勉強のついでに付き合ったとか?」

美作。美作弥生。女の子のような名前でありながら、私の幼馴染であり、最近ちょっと気になっている男の子である。

「つ、付き合ってなんかないよ!そもそも好きですらないし」

「え、そうなの?詩織は小学生のときから美作一筋だと思ってたけど」

藍莉は、ほんとうに察しがいい。いや、もちろん美作のことが好きなわけではないし、そのことについて察しがいいと思ったわけでもない。おそらくマイエンジェルが美作のことを聞いてきたのは、最近の異変について私が本当のことを言いたくないかのように苦しんでいると見透かしたからだろう。本当は美作などという脳内お花畑には、マイエンジェルは興味も示していないのだ(。たぶん)。天使はあくまで天使だから、どれだけ勘が鋭くても友達が苦しむ姿を見たいだなどと思ってないのであろう。そんなこと、思って、ないのであろう。きっとそうだ。そうであると、願いたい。

「あ」

「え」

タイミングの悪いことに、藍莉が言葉を失いながらも視線を送るその先には、弥生がいた。

「美作」

「あ、藍莉ちゃんと詩織じゃん」

ちゃん付け!

「何してんのこんなところで」

「なんだよ、本屋で本買う以外にすることあんの」

帰り道、歩きながら考え事をしていると、どうにも時間が進むのが早い。もう佐々木書店のところまで来てしまったのか。

「弥生なら、かわいい女の子探してどこほっつき歩いてても違和感ないよね」

「ちょ、それはさすがにひどくねえ?」

気になる子にはちょっかいをかけてしまう、という男子小学生のような愚行は、私にとっては治したくてもなかなか治らない悪い癖だと思う。

「あ。詩織、わたし用事思い出しちゃったから帰るね。ちょうど分かれ道だし」

「え、あ、うん。わかった、またあしたね」

お邪魔みたいだから、みたいに小悪魔的な笑みを浮かべながら手を振る藍莉を見て、苦笑い以外にどう返せばよいのかわからず、わたしはただ曖昧な表情を浮かべて手を振った。

「不知火ってさ、なんか不思議な感じの女子だよな」

美作が藍莉の後ろ姿を遠目に眺めながら、ぼそっ、と呟く。

「あ、もしかして弥生って藍莉のこと好きなの?」

にやにや笑いながらそう指摘すると、弥生は照れ隠しでもするかのようにそっぽを向いて答えた。

「い…いや、そんなんじゃないって。ただ可愛いよなぁって思っただけ」

うわあ、さすがは幼馴染。きっと私のことは本当に友達以上には思ってくれていないのだろう。だって、ふつう、女の子の前で他の女の子が可愛いだのなんだのと評価するものだろうか。

「うわ…いちいち顔赤らめないでよ気持ち悪い」

「赤くなってねえし!てかお前のほう向いてないんだから顔の色なんてわかんないだろ」

あ、こっち向いた。なんだ、やっぱり赤くなってんじゃん。

「へへ、ごめんごめん」

昔からそう。弥生は私じゃなく、私以外の女の子を見て顔を赤らめる。今回は藍莉のことが好きなんだろうな。本当に、わかりやすい。

「で、お前はなんか見たい本でもあんの?」

「ん、特にないよ。」

とはいえ、告白する勇気などないのだから、また自然と冷めるに違いないだろうけど。

「そっか、じゃあ帰ろうぜ」

幼馴染は漫画などでは、隣の家というのがベタなのだが、私と弥生はそこまで家が近いわけでもなかった。

「今日は家くんの?」

おっ。

「あ、じゃあ行こうかな」

「そっか」

よっしゃ、と内心ガッツポーズを決める。これぞ幼馴染の特権である。異性として見られる可能性は低くとも、一緒に遊べるし、家にだって遠慮なくお邪魔できる。

異性として見られる可能性。正直、これほど犠牲にしたくないものもないのだが、あまり贅沢を言える身分ではない。それに、実際のところ、気になっているだけでほんとうに好きかどうかはわからないのだ。理系な私としては、「好き」とは何なのかが理解できず、今まで苦しんできたのだから。

「入んねえの」

はっ。もう着いていたか。

「あ、ごめんごめん」

さんざん遊びに来た、弥生の家。男の子の家。でも今日だけは、いや、たぶん今日以降は、今までのように純粋な気持ちで家に入ることができなかった。

「お邪魔します」

「なんだよ、改まったように」

不思議そうにこちらを見つめる弥生を、疑わしそうに見返す。

「別に」

今までは、そう、少女漫画の主人公視点だった。男の子の家というのはおそらく緊張するもので、私は幼馴染だったからそこまで緊張した記憶はないものの、それでも女の子の家に遊びに行くのとはわけが違うのだった。でも、今は違う。私は男の子の視点を知った。前世の記憶は、もちろん具体的な感情…そのときそのときの場面でどういう感情だったかは思い出せないにしても基本的に「男の子の視点」で世界がどう見えるのかは、少なくとも覚えてはいた。

「ねえ弥生、本当に藍莉のことが好きなの?」

「は、はあ!?好きじゃないって言ってるだろ」

唐突すぎたか…あまりの動揺に弥生が慌てふためいている。

「…なんだよ、そんな真面目な顔して」

冷静を取り戻しつつ、私が真顔で弥生のことを見ていることに気づき、弥生も真顔で聞き返す。

「…ううん。なんでもない。」

男と女とでは、考え方が違う。それは聞く人が聞くと、あるいは性差別と非難したくなるようなフレーズかも知れない。でもこれは感情論でもなく通説でもないのだ。男と女とでは、生物学的な役割も、医学的な内部構造も、何もかもが違うのだ。どれだけ理性が強くとも、それによってわたしたちの思考や感情は支配されていて、生物学的な本能に従って理性が与えられている…条件に見合う感情だけがわたしたちには許されているのだと思う。

そして実際に、私は今、女性という生物の中にいる。このことは、たとえ私が男性の中にいた頃の記憶を以ってしても変わらない事実なのだ。頭ではこんなことは理解できないが、依然として弥生に好意を抱いてることは変わらないのだった。

「私ってさ、女としての魅力ってものが足りないのかな」

うっ。言っておいて我ながら恥ずかしい。こんなことを男の子に相談するなど、女子力の欠片もない証拠である。

「なんだよ、藪から棒に」

確かに藪から棒だった。でも、大事なこと。いつまでも片想い気味にうだうだしていたら、せっかくの私の青春が終わってしまう。

「これだけははっきり言っておくけど、僕が好きなのは…その、藍莉じゃないから」

ほう。好きな人がおるのか。

「だから、その、変にからかうのはやめ、て?」

「…そっか。わかった。」

相変わらず女の子みたいな口調だなぁと思う。名前だけじゃなく、弥生はわりと女の子らしい。そんなところがまた話しやすいのだが、それでいてたまに、頼りになるのがずるいと思う。もう暗くなったからと、自分も早く帰らなくてはいけないのに遠回りしてまで家に送り届けてくれたり、いろいろと、ちゃんと女の子扱いしてくれるのだ。

「ごめん、やっぱり今日は帰ろうかな。明日までのレポート終わってないし。」

もちろんレポートなんてのは出された日に終えたが、正直、弥生の家に居続けるのはなんだか落ち着かなかった。

「ん。わかった。また明日な」

「うん、また明日。」

確かに私は女の子だ。でも、いまは男の子の視点を知っている。男の子にとって、部屋に女の子と2人きりというのがどれほど邪心との戦いなのかも、知っている。私は前世では、わりとちゃんと理性を持った男性であったようだ。でも、それだけにいろいろつらいことはあったし、大変だった記憶もある。男性には純粋な恋というものがなかなかできない。女性とのすれ違いというのは、だいたいがこの食い違いによるものなのだなと、妙に納得してしまった。


***


あれから数日が経った。あの日以来、私は弥生の家に行っていない。

「詩織、もう帰るところ?」

「うん、そうだけど?」

ここ数日頭の中で気持ちを整理してみて、弥生に関することは自分の中でわりと落ち着いたほうだった。もちろん気持ちに変化があったにせよ、おそらく私は生物としてこの男性に惹かれているのだろうな、という確証はわりとあった。そういうわけで、この数週間で自分の周りの変化も落ち着いてきたのだが、この日、私の人生で最大とも言えるほどの天変地異が起こった。

「じゃあ、ちょっと喫茶店でも寄ってこ」

藍莉は、何というか、やっぱり天使だった。でも、天使というものは時と場合により如何様にも牙を剥く。受胎告知をされたマリヤは、よくもまあそんな天使の無茶振りに素直に従ったものだと感心する。

喫茶店に着いて、席についてから数分、藍莉は口を閉じたままだった。しばらくして、注文したエスプレッソとカプチーノが運ばれると、席から立ち去る店員を一瞥して、やっとその天使は口を開いた。


「詩織はなかなかに冷静だから、このまま経過観察を続けても何も打ち明けてくれなさそうだから」

唐突だった。経過観察?打ち明ける?まさか、私の記憶のことがばれたのだろうか。もしそうだとしたら、どうごまかそう。この察しのいい天使が納得してくれるようなうまい言い訳は、どうもすぐには思いつきそうにない。

「単刀直入に質問するけれど」

単刀直入にも程があると思った。このひとは、いったい、何を言おうとしているのだろうか。

「悠里くん、女子高生として生活してみて、感想は?」

「…え?」

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