好き

ろか

神埼詩織という人間

第1話 異変

前世の記憶が残ってしまった。


そのことに気がついたのは、ちょうど18歳3ヶ月と12日目を迎えた日の朝のことだった。夢から醒めて、目を開けると、夢よりもずっと鮮明な遠い昔の記憶が追加されていることに気がついた。

それはあまりに突然の出来事で、どうしてこのタイミングで思い出したのかもわたしには分からない。ただ、1つだけはっきりしていたことは、少なくともわたしは1回の人生を経て再び生を受け、いまこうして2つめの身体の中で朝を迎えているということだった。わかることは、ただ、それだけだった。いったい自分の体に何が起きたのかまるで理解していないし、実際、記憶以外の点に関しては全てがいつも通りだった。


動揺して頭がうまくまわらないが、着替えて支度をして高校に行くという行動くらいは何も考えずにだってできる。否、そうしなくてはいけない。今は学校に遅刻しないよう、すなわち、周りに不審がられないよう平常運転で活動しなくてはいけないと思ったのだ。


昨日までは、なんてことのない平凡な日常だった。いつも通り部活から帰ってベッドに倒れこみ、母親に急かされて夕食を済ませたのち、パソコンやスマホと一緒にだらだら過ごしつつも時折授業の復習と予習を挟む。そうしてお風呂に入ったのち、英単語を30分ほど眺めてから眠る。これが私の日課で、昨日もその日課通りに過ごした。いつもと違うことと言えば、昨日はパソコンもスマホもろくに見ていないということだけだ。いかんせんテスト期間なのだから、そんなものに時間を費やしているほど余裕はなかったのである。うん、そんなことに思考回路を奪われているいまでさえ、やっぱり今日もお母さんの作る朝食は美味しい。このことだけはいつもと変わらない平和な日常だ、と安堵しつつも、時計を見て焦りを取り戻した。


「おはよう、詩織」

玄関を開けると、例のごとく藍莉が待っていた。

詩織。この名前で呼ばれることについては、もちろん違和感は感じていなかった。むしろ私が違和感を感じるべきだったのは、この十数年間、長いあいだ慣れ親しんでいたかつての名前で呼ばれていなかったこと、そのことに自分が順応していたことだったのではないのだろうか。

「お、おはよう。藍莉」

昨日までのわたしは、思いもしなかった。まさか藍莉に「詩織」と呼ばれることに、これほどまでに気味の悪い後ろめたさを感じることになろうとは。

「いってきます」

母の返事を遠くに聞きながら、少し急ぎめに家を出る。ああ、どうしてこう、テスト期間という忙しい時期に記憶を取り戻さなくてはいけないのか。神様には、もう少し時と場合を考えて行動してもらいたいものである。

そんなことをぼーっとしながら考えていると、いつもより口数が少ないことに違和感を覚えたのか、藍莉が訊ねてきた。

「詩織、大丈夫?元気ない?」

「ん?大丈夫だよ。いつも通り元気!」

嗚呼、どうして神はこのような勘のいい女の子をわたしにお遣わしになったのだろう。あいさつにどう返答すればよいか迷ったせいで少しばかり吃音が混じってしまったものの、なるべく異変を悟られぬようにと繕ったつもりだったのに。いったい彼女は、詩織の何を見て元気がないと察したのだろう。

「そう?ならいいけど。」

そう言いつつも、心なしか疑いの眼差しを向けられているようにも見える。まったく、どうやっても藍莉には敵わない。普段からおとなしいのは常に観察と推察が絶えないからなのだろうか。頭の回転が速い友を持つというのは、わりと考えものである。

「今日、雨降るらしいよ。今はこんなに天気が良いのに」

空を見上げながら天気予報をする藍莉を横目に、つられて私も空を見上げてしまう。否、その行動を誘引したのは、やり場のないこの感情をぶつけるには、不規則に風の舞うこの空が好都合であったからということだけなのかも知れない。


春。新しい学年、あたたかい装いに包まれた快晴の朝。それは、今まで当たり前だった日常が、突如理解の追いつかないファンタジーへと変わった忘れられない朝となった。


ふと、藍莉がこちらを見て問いかける。

「詩織はさ、いまの先輩たち、どう思う?」

唐突すぎて、何のことを話しているのか理解するのに一呼吸置いてしまった。いきなり何、今はそれどころじゃ…

「他人に厳しいくせにさ、自分たちは遊んでばっかりで。私らだってちゃんとがんばってるのに少しミスするだけで怒鳴ってくるんだもん。もう、放課後が憂鬱」

普段おとなしい藍莉は、その反動か、あるいは原因なのか、いつもわたしにだけ饒舌な気がする。いや、もしかしたらそれはわたしの傲慢であって、2人で話すときはいつだって誰とだって饒舌なのかも知れない。

しかし、まぁ、こちらが混乱状態で整理のつかないときによくもまぁのんきな…と思いかけたが、無理もないか。さすがの藍莉も他人の心が読めるわけじゃあるまいし、私だって平静を装っているのだからのんきにならざるを得ないのだ。

「んー…わたしは、まあ、部活ってこういうもんなのかな、って諦めてるかな」

「まあ、うーん…部活ねえ。在籍してるんだったらそりゃあ黙認してるよ。女社会の部活なんてこんなもんなんだろうなって、わたしも思う。だけど卒業してまでうちらでストレス発散するなんて、何考えてるんだか」

個人的にはふだん何を考えているのかわからないのは藍莉のほうが格上だと思うのだが、確かに、これほどまで老害という肩書きの似合う先輩方は初めてだ、とは思わざるを得ない。

「多々良先生に相談してみよっか?」

「タタラねぇ…」

藍莉は顧問の多々良先生を毛嫌いしているようだった。老害な先輩方をも見て見ぬふりをし、指導はもっぱら3年生に任せるという、悪い意味での放任主義な先生だったのだ。そりゃあ、真面目な藍莉嬢のお気に召すはずがなかろう。

「…ふふっ、少しは元気出たみたいね」

心理学者にそう言われて、はっ、と我に返った。そうだった、私はあんなどうでもいい老害よりも重大な問題を抱えていたのだった。

「だから、元から元気だって」

「じゃあ、恋でもしてんの?そんな強張った笑顔作っちゃってさ」

そう笑いかける藍莉の顔は、ほんとうに可愛かった。天使か。もし私が男だったら、確実に惚れているだろう…


ん?


違う、そうじゃない。「もし私が男だったら」なんて仮定じゃない。そうだった。わたしは男だったのだ。齢64を過ぎた後の記憶はないものの、ついこないだまで、れっきとした男性だったのだ。

どうして、性別が変わったことに違和感を感じていなかったのだろうか。こんな重大なことに、どうして着目しなかったのだろうか。


頭がパンクしそうだった。老害のことなどは、もう頭の隅にもなかった。藍莉も、わたしの気を和らげるために出した話題であったろうし、お互い老害などのことは気にしていなかったに違いない。それが当たり前と思えるほど、いまわたしに起きている奇怪現象は、わたしの思考回路を占拠するように忽然と居座った。

「ほら、また怖い顔して」

「え、あ、ごめん。なんでもないよ」

「なんでもないわけないじゃない。いつだって詩織のことはこの私が監視しているのですもの」

冗談でも、いまはそのようなことを言わないでほしい。心臓が止まりそうとはこういうことなのだな、と思った。まさか隣にいるのが年寄りの男性とはさすがの藍莉も思うまい。いや、実際はそういうわけではないのだが…。嗚呼、なんと難しいことであろう。自分というアイデンティティがわからなくなる。どうしてわたしばっかりこんな目に合わなければいけないのか…

できれば、この勘のいい天使には異変をあまり悟られたくはない。監視などされてはこちらの身がもたなくなりそうなのだ。

「ん、冗談だって。話したくないなら話したくなるまで待つからゆっくり悩みなよ」

なんでもないと言ってるのに、この人は友達を信じるということを知らないのだろうか。

「うん、ありがとう、藍莉」

実際、わたしも嘘をつく側なのだから、そんな文句は言えそうになかった。


学校に着くと、そうだった、今日はテスト期間最終日だったということを思い出した。科目は政治経済と日本史である。よりによってこの混乱しているときに、この苦手科目というチョイスをするということは、よほど神様は私を困らせたいらしい。


靴を替え、教室に行き、いつもと違う出席番号順の席につく。冷静になってみると、いま自分がどうこう考えることは合理的ではないと気づいた。記憶が増えたからといって、この日常に何の支障があろうか。私が幸せになるために、今は、このテストを乗り切ることが最大の課題だということに変わりはないのだ。そしてもちろん、例のごとく、試験対策は曖昧なままだ。


どう考えても赤点。試験が始まる前のこの独特の諦めと「もしかして」という謎の安心感は、他に例えようもない不思議な危機感である。毎回こうなのだ。毎度のごとくこのように後悔して、試験後に絶望するのだ。「もっとちゃんと対策すればよかった…」「次はちゃんと対策しよう」と。その繰り返しである。頭では十分に反省したつもりでいても、そのような暗い感情は、テスト後の打ち上げで食べるクレープが忘れさせてくれるのだ。本当に迷惑な話である。ちなみに今回の打ち上げでは、新作のマンゴーフレーバーを堪能する予定だ。あのクレープ屋の新作は毎度のことながら、非常に、罪深い。


そのようなことを考えている間に試験は始まってしまった。慌てて教科書をしまう生徒たちがいる中、私ほど落ち着いて準備を済ませている模範囚もいないことだろう。さて。地獄の時間の始まりである。


***


最後のテストが終わった。これほど清々しい終わりかたも初めてである。というのも、いつものように絶望に浸りながら試験を終えるはずだと思っていたのだ。しかし、今回はいつもと違った。もっと、もっと書けないはずだった。赤点を取るはずだった。それなのに、そう、私はこの18年間で覚えたはずのない知識を思い出してしまっていたのだった。前世の私は弁護士、もっぱらの文系男性。政治経済と日本史など、大の得意であったのだ。満点を、逃すことはできなかった。


私は、本当に、前世の記憶を思い出したのだ。

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