三角関係の頂点は
「桂城君。そこまで言ったらいけないよ」
直緒が振り返ると、ピンクの春霞が、細身の男性の隣に立っていた。
「でも、先生……」
控室で、典子は首尾よく、画家の吉田ヒロム先生と会えたのだろう。
連れだってギャラリーへ現れたとみえる。
静かに吉田先生は言った。
「僕の絵を挿絵に欲しいということは、モーリスさんも、僕の絵を認めてくれたってことだよ?」
「許しませんっ、BLなんかっ」
益々鼻息荒く、桂城は言い募った。
「先生の絵が荒れる。先生は、しあわせ書房の絵本にお描きになるのです。たくさんの子ども達が、先生の絵を待っているのです」
「しかし……」
「ギャラのことなら、心配しないで下さい。先生の為に営業部と掛け合って、たくさんの仕事をもぎとってきます。僕と一緒に、ミリオンセラーを目指しましょう!」
桂城は、鼻を鳴らして、直緒を指さした。
「吹けば飛ぶような零細企業に、先生への謝礼なぞ、払えるわけがない」
「ふふふ」
不敵に典子は笑った。
桂城は、はっとした顔になった。
「そうだった。こいつは、一乗寺建設の……」
「黙れ! 編集長は、自力で会社を興したんだぞ! 足りない分はデイトレードで賄ってるんだ」
思わず、直緒は叫んだ。
「デイトレードだあ?」
もはや馬鹿にしきった表情を隠そうともせず、桂城は嘲った。
「言うに事欠いて、デイトレードとは。本末転倒もいいところじゃないか。それじゃ、お嬢さんのお遊びだ」
「うるさい、編集長を悪く言うなっ!」
「まだいたか、草食系のヘナヘナ男がっ!」
「どこがへなへなだ、どこがっ」
「全部だよっ!」
桂城は腕まくりをした。
「やるか」
直緒も足を踏ん張り、ネクタイを緩める。
「ステキ! ネクタイを緩める男性って、クるわ! 頑張るのよ、直緒さん」
「一乗寺さん、煽ってどうするのです、煽って!」
「こらお前、腐った妄想のエサにされてるぞ! なんとか言え!」
「お前こそ、なこと、口走ってんじゃない!」
「ああ、もう、どうしましょう! ヒロム先生と桂城さんが一緒にいただけでもご馳走だったのに、直緒さんも巻き込んで決闘なんて。これはもう、先生を頂点にした三角関係以外、あり得ないわ!」
「モーリス!」
「一乗寺さん!」
桂城とヒロム先生が、同時に叫んだ。
直緒は相手の隙を狙っていて、それどころではない。
なにしろ、桂城は、大柄だ。小柄な直緒には、隙を突く必要がある。
典子は、両手を胸の前で組んでいた。
ひとり、ぶつぶつ、つぶやいている。
「でも、おかしいわ。桂城さんと先生では、どうしたって先生が受けで、桂城さんが攻め。受けの先生を、直緒さんと桂城さんが取り合っているのよ。え? え? 直緒さんは、攻め? いいえ、違うわ。どこをどう見たって、直緒さんは受け」
直緒にはわけのわからないことをつぶやきつつ、首を捻った。
「つまり、直緒さんと先生が受けで、桂城さんは攻め。とういことは……」
典子は桂城の顔を覗きこんだ。
「あなた、まさか……直緒さんを狙ってるの?」
いや、そんなこと、聞かなくてもわかるだろうと、直緒は思った。
桂城は間違いなく、直緒を叩きのめそうとしている。
始めは言葉で。
そして今や、腕力で。
桂城の顔が、おもしろいように赤くなっていく。
ついに、理性のタガが外れたようだ。
腕を振り回し、わめいた。
「モーリス、殺す!」
「こらっ、お前の相手は俺だろうがっ!」
直緒が叫ぶ。
「違うわっ! 何ぬかすっ!」
こんなにも激昂した男を、今まで直緒は見たことがない。
こめかみに青筋が立ち、今にも切れそうだ。
自分が何発か殴られるのは構わない。こっちだって、おとなしくしているつもりはない。
だが、暴力が典子へ向けられることを、直緒は恐れた。
「まさか女性に手を出すほど卑怯じゃないよな」
「女に手を出す方が、どれだけまともか!」
「お前……許さん!」
怒りに火がついた直緒が、こぶしを固めた、
その時……。
「これは面白いものを見せてもらった。長生きはするもんだねえ」
腰を直角に折ったばあさまだった。
廊下の奥で絵を観ていた老婦人だ。
とことこと歩いてくると、直緒と桂城の間に割って入った。
「あんたは攻め確定」
桂城を指さす。
「でも、それでは、直緒さんと先生の属性が、同じになってしまう」
不服そうに典子が割って入った。
「受け属性が二人では、三角関係の頂点は、唯一の攻め、桂城さんになってしまいます。桂城さんを取り合って、直緒さんとヒロム先生がやりあうなんて。ありえません! この場合、三角関係の頂点は、ヒロム先生であるべきです! ヒロム先生を巡って、直緒さんと桂城さんが争っているのです!」
……そうだ。
直緒は頷いた。
絵本画家として求めるしあわせ書房と。
BLの絵師として求めるモーリス出版と。
会社を背負って、確かに、直緒と桂城は、争っている。
老婆は典子に向き直った。
「だれが、先生が受けだと言った。あんた、攻め×攻めの醍醐味を知らんのか?」
「あっ!」
弾かれたように典子が叫んだ。
その頬が、みるみる紅潮していく。
「その手があったか!」
老婆は、ふふん、と鼻を鳴らした。
「お互いのことを想いながらも、男のメンツにかけて、攻めの属性は譲れない。どんなに相手への思いが深まろうと、葛藤があるんだ。それが今までの、絵師と編集者の関係」
「ああっ!」
「そこへ、突如現れた受け」
老婆はぐいと顎しゃくって、直緒を示した。
「当然、アテウマじゃ。不毛な恋に疲れ果て、思わずすり寄って行く、絵師。焦る編集者。二人は思い合っていたはずなのに。なぜ、アテウマごときに……千々に乱れる編集者は、アテウマに戦いを挑み……これが、腐女子として、正しい妄想であろう」
「おっ、おみそれしましたっ!」
典子は深々と頭を下げた。
ヒロム先生と桂城は、呆然としている。
高齢の女性が、いきなり攻める、だの、男のメンツだのと言い始めたので、直緒も驚いていた。
老婦人は莞爾と笑った。
「お嬢さん。フの大先輩として言っておくが……人前で妄想を垂れ流したら、いかんぞよ」
「……はい。肝に銘じました!」
典子は再び頭を下げた。
老婦人は頷いて、エレベーターの中へ消えた。
「あれこそ、貴腐人……」
感に堪えぬという風に、典子がつぶやく。
弾かれたように、吉田先生が笑い出した。
「……先生?」
不安そうな桂城の声。
「モーリスさん、お話はお受けしますよ」
「先生!」
「桂城君、君は黙って。あのおばあさんはね。もう長いこと、僕のファンなんだ。展覧会には、毎回、来てくれる。絵を数点、買い上げてもくれた。それなのに、彼女が貴腐人だったなんて、今まで知らなかった。僕は、新たな地平に立った思いだ……」
「ふふふ」
嬉しそうに典子が笑った。
「わたしも、先生の絵が大好きです! 絶対、先生はお描きになるべきです! BLの挿絵を!」
「さ、行きましょ、直緒さん」
典子が直緒を促す。
ヒロム先生から後日の面談を取り付けることができ、ひどく得意げだ。
直緒も、せいいっぱい威厳をもって、典子に続いた。
「帰れっ、モーリス! 二度と来るなっ!」
罵声が聞こえた。
桂城が、夢から覚めたような顔で罵っていた。
恐らく、さきほど老婦人からかけられた魔法が解けたのだろうと、直緒は思った。
「この展覧会の準備は、全部、しあわせ書房がしたんだ。BL出版社の入る余地なんか、これっぽっちもありゃしないんだ」
思わず直緒は、振り返った。
「ということは、作品のタイトルも、あんたたちが書いたんだな?」
「あんたたちとはなんだ。そうだよ。先生は、ご自分の絵にタイトルをつけることはなさらないからな。あのタイトルは俺が考え、俺がタイプした。ほらみろ。しあわせ書房と先生の間には、深いつながりが……」
「ほうようりょく」
「は?」
「だから、『抱擁力』。ライオンが仔ネコを、後ろから抑え込んでる絵!」
「ま、ま、まさかあれを、腐った目で見たわけじゃないだろうなっ。あの、心洗われるファンタジックな絵をっ!」
「はあ? 腐った目? 俺の目のどこが腐ってる! そっちこそ、目薬でもさしとけ!」
「なんだと!」
「いや違う。お前の目は、フシアナだからな。フシアナに目薬をさしたら、無駄というものだ」
「俺の目がフシアナだと? 言うに事欠いて……」
「タイトル書いたの、あんたなんだろ? 『力』を入れるなら、『包容力』だよっ! 『抱擁力』じゃなくっ!」
一矢報いた、と直緒は思った。
校正で得られた、数少ない勝利だ。
一瞬遅れて、桂城の顎が、がくんと下がった。
目を剥いて、自分が書いたタイトルを見ている。
典子はすでにエレベーターに乗り込んでいた。
「開く」のボタンを押したまま、直緒を待っている。
「やりましたよ」
直緒は親指を立てた。
「腐った目で見たというのは、……その通りだと思うわ」
典子が言った。
「腐ることに、誇りを持たなきゃ」
「編集長、そこですか……」
直緒が脱力した時、頭の上から、なにかが降ってきた。
顔についたものが口の中に入る。
塩辛い。
どこに隠し持っていたものか、直緒めがけて、桂城が塩を撒いたのだ。
立ち直りが早い。
早すぎる。
「帰れっ、戻れっ! 二度と来るなっ! くたばれBLっ!」
激昂して、桂城が叫んだ。
その横で、ヒロム先生が、拝むように両手を合わせている。
ま、いっか。
当初の目的通り、ヒロム先生は、モーリス出版の為に描いてくれることになったし。
……あの絵柄は、やっぱり、ちょっと違う気がするけど。
そこだけは、桂城と同意見だ。
しかし、典子が惚れ込んだ絵師さんだから……。
軽く頭を下げて、直緒は、典子の待つエレベーターに乗り込んだ。
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