第2章 攻め × 攻め + 当て馬

盆栽乱舞



 「今日はいいお天気ねえ」

デスクの上のパソコンを、ぱたんと閉じて、典子が言った。


 古海にきっぱりと言い渡されて、オフィスでは典子のジャージ姿を見ることはなくなった。

 しかし、廊下などでジャージ姿を見かけることがよくある。

 目を疑うような、鮮やかな緑色だ。

 どうやら典子は、家の中では、ジャージ姿がデフォルトらしい。


 それにしても、未だに中学時代のジャージが着れるということは……中学時代から進化していないということか。

 バストもヒップも。


 ……確かに。


 ……いかんいかん。

 直緒は首を横に振る。

 かりにも上司のバストとヒップについて考察するなんて。

 人倫に悖る。


 逆に、ピンクのゆるふわ系衣装は、典子にとって、会社着のようだった。どこをどう誤解しているのかわからないが、制服と勘違いしている節もある。

 その日も、桜の刺繍のたっぷり入ったシャツブラウスに淡いピンクのフレアースカートといういでたちだった。



 ふわふわした春霞のような典子は、ぐんと伸びをした。

 椅子に背をもたせ掛けて、大きくのけ反る。

「こんな日にオフィスワークなんかしてられないわ。ねえ直緒さん、外に出ましょ。新しい絵師さんを探しにいくの」

「新しい絵師さん?」

「新シリーズの表紙絵を頼みたい人がいるの。今、個展をやっていらっしゃるわ。観に行きましょう」


 言い終わるなり、典子は立ち上がった。

「さ、でかけましょ」

 スカートの裾を翻し、さっさとオフィスから出て行く。

「ま、待って下さい」

 典子は手ぶらだ。

 財布の入った上着を片手に、直緒は慌てて後を追った。



**



 玄関ホールでは、古海が、盆栽に水をやっていた。

「おや、おでかけですか?」

「ちょっとそこまで」

典子はつい、と顎をそらせた。


「わたくしも、ご一緒します」

「直緒さんが一緒だからいい」

「いえ、そういうわけには」

「あなたは、盆栽コレクションのお世話をしていればいいでしょ」

「いいえ。盆栽乱舞でございます」


うやうやしく古海が答えた。


「なんといっても、ここは、モーリス出版社でございますから」

「まっ! 盆栽美少年を囲い込んで、縄や針金を巻いて、自分好みに育ててるのねっ! 自分が世話をしなくちゃ、生きていけなくするんだわっ! 布を解いた時の松脂の匂いが、青臭くてすてき……」


典子は、はっとしたように、目を見開いた。


「古海の手にはひっかからないんだからっ! 今日はあなたなしで出かけるのっ! 行くわよ、直緒さん!」


 ピンクの風のように玄関ホールを駆け抜けていく。

 古海に、行き先を告げる気がないんだ、と、直緒は気がついた。

 なんだか彼を出しぬいたようで、いい気分だった。


 「あ、直緒さん」

古海が呼び止めた。

 「ちょっと」


 持っていた霧吹きを脇に置いて、つかつかと近づいてくる。

 いつもながら、背の高い彼がそばに来ると、威圧感を感じる。

 直緒のそばまで来ると、つ、と、胸元に手を伸ばした。


「ネクタイが曲がっています」

「あ、ありがとうございます……」


 ……家令というのは、人の服装にまで口うるさいものなんだな……。

 そう思いつつ、直緒は、一応、礼を言った。



**



 「あったあった。ここよ」

細いビルの入口に、典子は、喜々として入っていく。


 「吉田ヒロム作品展」と、小さな看板が出ている。

 ビルの4階で降りると、いきなり、展覧会が始まっていた。

 廊下に作品が展示されている。

 たとえうっかり間違えてでも、4階で降りたなら、問答無用で作品を鑑賞しなければならないわけだ。


 受付にはだれもいなかった。

 机の上には、和紙風の紙を閉じたものがおいてある。

 「ささ、記帳しましょ」

典子が喜々として、筆ペンを取り上げる。

「これでわたしたちが来たって、わかるわ。モーリス出版が来たってね」


自分で書くと思いきや、直緒にペンを押し付けてきた。

「僕が書くんですか?」

「わたし、字が下手だから」

「僕も下手ですよ」

「校正者でしょ?」

「校正の仕事は毛筆書きではありません」

「上司命令よ」


 典子には、意外と横暴なところがあるのだ。

 直緒はしぶしぶと、下手な字で、記帳した。


 作品は、受付から右へ10メートルほどの壁に、点々と貼られていた。壁の向こうにはドアがあり、どこかの会社の事務所のようだ。受付から左側にも廊下は延びていたが、こちらの壁には何も展示されていない。

 廊下に観覧客はほとんどいなかった。

 直緒たちの他には、年配のご婦人が、曲がった腰で、絵……の下の壁?……を見て回っているだけだ。



 「ねね、素敵な絵でしょ?」

息を弾ませ、典子が言う。

 「ええ、まあ」

文字ばかり相手にしてきた直緒には、絵は、よくわからない。


 「ほら、この優しい色使い」

典子は、一枚一枚、丁寧にみていく。

 ウサギやクマ、ライオンなどが、ほんわりした輪郭で描かれていた。どのキャラクターも三頭身くらいで丸っこい。

 確かに、優しく淡い色合いだ。

 この絵師さんに、BLの挿絵を?

 なんだかちょっと、違う気がする。


 「ああ、あった! わたしの好きな絵はね、この……」

典子が指さした。


 ライオンが、後ろから仔ネコを抑え込んでいる絵だった。大きく開けたライオンの口が、今にも、振り返った仔ネコの喉を咬み破りそうだ。

 自然界にあっては、仔ネコがライオンに食われる寸前の図なのだが、優しい絵柄のせいで、両者、じゃれあっているようにしか見えない。

 というか、ライオンもネコも笑っている。


「大きなライオンが、小さな仔ネコに、後ろからむぎゅっとのしかかる様子が、すごくいいでしょ? 仔ネコの甘えた、でもちょっと迷惑そうな表情がまた、カワイイわ!」

「はあ」

「肉食と草食の組み合わせが、すごく萌えるの!」

「……ライオンもネコも肉食ですが」

「あら、そう?」

「編集長、常識です」

「吉田先生は、明らかBL的な素質を隠し持っているわよね」

「そうでしょうか……」

「先生、どこかしら。あ、きっと控室ね。あたし、ちょっとご挨拶してくるわ。直緒さんは絵を観てていいわよ」


 そう言うと、典子はそわそわと、廊下の角を曲がり、姿を消した。

 今までに何度か、このビルへ足を運んでいるのだろう。

 しかし、このファンシーな絵と、仕事で読んでいるいろいろなシーンが、どうしても結びつかない。

 何気なく直緒は、絵の下に描かれたタイトルを見た。


「抱擁力」


 ……え? ほうようりょく?


 その時、受付の前で、人の声がした。

 そういえば、その少し前にエレベーターのドアが開いたのだが、新しいお客でも入ったのだろうか。


 ばたばたと慌ただしい靴音が近づいてきた。アートを鑑賞する態度じゃないなと眉を顰めていると、肩をぎゅっと掴まれた。

 驚いて振り返ると、眉間に青筋を立てた男が立っていた。

「あんた! モーリス出版だな! ぬけぬけと芳名帳に記帳しやがって」

「ちょっと。なんだよ、いきなり。失礼だろ」

直緒は、肩をがっちり掴んだ桂城の手を振り外した。


 男は舌打ちした。

「失礼はどっちだ。こんなところでちょろちょろするな」

「はあ? ただ絵を鑑賞していただけじゃないか」

「ここにはお前のような者が鑑賞する絵は、一枚もないわ!」

足を踏み鳴らし、威嚇してきた。

「モーリス出版の出番はない。帰れ!」


 強い命令口調で言われて、直緒はむっとした。

 一方的に攻撃されて、黙っていることはできない。


「そもそもあんたは誰だ。何の権限で、そんなことを言う」

「いいだろう。俺は、桂城圭。しあわせ書房編集者だ。吉田先生は、しあわせ書房のもんだ」


 ……しあわせ書房?

 それは、絵本や児童書専門の出版社だ。

 なんだかひどく納得してしまった直緒だった。

 桂城は直緒の方に一歩踏み出し、鼻の穴を膨らませた。


「吉田先生は、しあわせ書房が目をつけた絵描きさんだ。先生の絵は、純真な子どもたちのためにこそ、あるんだ。モーリスなんかに渡さないぞっ!」

「あんたにそんなことを言う権限は……」

直緒が言いかけたのに、被せるように、桂城がせせら笑った。

「BL? ヒロム先生の絵が汚れるというものだ。こんなファンシーな絵で、男同士のあんなことやこんなことを描かせていいと思うのかね?」

「いや……」


 あんなことやこんなこと?

 キスのことか?

 キスなんてフツーだろ。

 直緒は思った。

 原稿から読み取れる具体的行為は、キス止まりだった。


 だが、直緒自身、吉田先生のメルヘンチックな画風は、BLには合わないんじゃないかと思わないでもない。

 いや、思いっきり、思う。

 男同士というのは、どうしても、ごついイメージがある。BLというからには、かわいらしさは似つかわしくないように思う。

 勢い、言葉が弱くなる。


 桂城が、馬鹿にしたように口を歪めた。

「あんた、新入社員だな。前の女の子の代わりか。あんたは、男だろ? なんだ、そういう趣味でもあるのか。どうもあの女社長の回りは、あの古海といいあんたといい……」

「イケメンぞろいでしょ」

涼やかな声が聞こえ、桂城は凍りついた。

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