入れるところがない
モーリス出版社は、一乗寺家の屋敷の中にあった。
閑静な住宅街のその屋敷には、塀がぐるりと張り巡らされていて、高い庭木がこれ見よがしに上から見下ろしている。
ドーベルマンの2~3匹は飼っていそうで、うっかり中へ入れない雰囲気がしていた。
館自体も、大正浪漫の香り漂う古い洋館で、玄関のエントランスには、狭小住宅ならすっぽりと入ってしまうくらいの広さの、吹き抜けがあった。
「わたしは、夢のようにうつくしい恋の物語を読みたいのです! それには、障害が必須なのです! 結ばれるためには、障害を乗り越えなくちゃ、ならないのです!」
典子は言った。
なぜBLなのか。
そう尋ねた直緒への答えである。
「もはや、うつくしい恋は、普通の男女間では、あり得ません! だって、どこに障害があるというのでしょう? さっさとやってしまえばいいだけなのですから!」
「!」
「男女間の恋、それは、打算の産物です!」
「はぁ」
「でも、男同士は違うのです! そこに、ためらいと葛藤があるのです! 文学です! BLは、軽佻浮薄なこの現代日本に残された、最後の文学なんです!」
「文学……」
「わたしたちが、世界を変えるのです! わたしと直緒さん、あなたで! BLを、文学の一ジャンルとして定着させるのです!」
きっぱりと典子は言い切った。
「書店や図書館の文学の棚に、BLを! 夏目漱石や森鷗外と同じように、気軽に、BL本を手に取ってもらうのです! BL作家を、文豪と呼ばせるのです!」
「……漱石や鷗外を気軽に読む人はいないと思いますが」
「それがわたしの夢なのです! 文芸書のコーナーに、モーリス出版の本を置かせるのです! その為の努力は惜しみません!」
BLを、文学の一ジャンルとして定着させる。
それが、「モーリス出版」設立理念だった。
そして、モーリス出版社に雇われた直緒の、使命ともなったのだ。
ここは、屋敷一階の奥まった部屋だ。
頑丈な樫でできたドアを開けると、中は、機能一点張りのオフィスだった。
つるつるに磨き上げられたフローリングと二面採光の大きな窓が明るい印象を醸している。白のデスクが三つあり、それぞれ、パソコンが置かれていた。壁際の棚には、広辞苑をはじめ、各種辞典類が、ぎっしり詰め込まれている。
初めは、男同士のエロシーンが出てきたらどうしようと、どぎまぎしていた直緒だったが、どうやら、心配しすぎのようだった。
全くないわけではない。
しかし、言葉が選ばれ、美しく表現されているので、読んでいて、全く、ストレスは感じない。
男同士ではあるが、恋愛の心の動きが丁寧に掬われているので、盛り上がりに官能シーンがくると、感動で胸が熱くなる。
ちょっと涙腺が緩むこともあって、困ると言えば、そこが困る。
かえって、純文学の男女間の性描写の方が、よっぽどいやらしく、汚らしく感じられる。
直緒は、BL作家の研ぎ澄まされた文章力に、舌を巻く思いだった。
……それにしても。
……男には、ある。
……そして、男には、ない。
あの美しい言葉の流れの奥で、いったいどうやって、彼らは愛を確かめ合っているのだろう。
……入れるとこがないじゃん。
実に疑問であった。
だが、あまり深入りしない方がいい。直緒の本能はそう告げていた。
始めたばかりのこの仕事を辞めるわけにはいかないんだし。
今まで携わってきた書籍と、まったく同じ気持ちで、BLに向かっている自分に気がつき、直緒は、安心した。
典子が主張するように、BLは、文学なのかもしれない。
そんな風にさえ、思えるくらいだ。
モーリス出版は、それなりの数の作家や絵師を抱えていた。
どの人も、典子が自ら発掘し、あるいは、他社から引き抜いてきたという。
作家からの原稿を、直緒が素読み後、データを編集、レイアウトする。イラストの指定もする。
直緒が手を加えたデータを、典子がPDFやepub、mobiに変換する。
試行錯誤の末、その割り振りで、作業は勧められた。
編集実務は、黙々と作業をすることが多い。
広いオフィスの端と端で、二人、黙って仕事に向かう。
この仕事配分では、どちらかというと、典子の手が空きがちだ。
そういう時、彼女は、積み重ねた書類の陰で、おとなしくしていた。
何かを読んでいるようだ。紙の本のこともあるし、タブレット端末を覗きこんでいることもある。
直緒が目をやると、慌てて隠そうとする。
「し、新規の作家さんの発掘です。本当です」
赤い顔をして、そう言う。
本当です、というところが既に怪しいが、直緒は、深く追及はしない。
BL小説は、恋愛小説だ。
女性には、恋愛小説が好きな人が多いから、典子が夢中になるのも無理はない。
それにしては、顔が赤くなり過ぎだ。
きっと、執務時間中に楽しい思いをしていることへの疾しさだろうと、直緒は思っている。
**
その日、典子は、昼前からの出勤となっていた。
月に数日、こういう日がある。
一応女性なので、直緒は、理由等は聞いていない。
今日は、原稿データに、ルビや書体、イラストの指定を入れる日だ。
この作業が終わらないと、ファイル変換はできないから、典子の仕事はない。
典子がいても、どうせBL本……とっくに直緒は知っている……を読んでいるだけだから、別にいなくてもかまわない。
オフィスの窓からは、庭の緑が見える。一人きりなので、仕事がはかどる。
午前十一時きっかりに、オフィスのドアが開いた。
より鋭角に髪を逆立てた古海が立っていた。
アフターシェイブローションの香りが強く鼻を打つ。
「お嬢様は少し遅く……」
言いかけた彼を、後ろから突き飛ばすようにして、緑色の塊が突進してきた。
「ま、まだお昼前です! 遅刻ではありません。ぎりぎりセーフです!」
「え?」
直緒は思わず二度見してしまった。
緑色のスクールジャージの上下、根元の緩んだ三つ編みふたつ、それに縁の赤い、大きな丸い眼鏡……。
だれ、これ?
「お嬢様。中学時代のジャージはお捨て下さるよう、あれほど申しましたのに」
「だってこれ、着心地がいいんですもん」
「朝食を抜かれましたね。それだけはだめだと、亡くなられた母上と約束されたのでは?」
「牛乳は飲んだわ。本当よ」
「信じます。口の回りが白くなっています。せめて顔を洗い、髪を梳いてからいらっしゃいませ」
「じ、時間がなかったのよ」
「ほら、直緒さんがこちらをご覧になっておりますよ」
「本谷さん」ではなく「直緒さん」と、古海は言った。
驚くべきことだった。が、直緒は、それどころではない。
起き抜けに牛乳を……恐らく立ったまま一気飲み……し、中学時代から着続けているジャージ姿で家の中を歩き回る少女……。
それは……。
一乗寺典子だった。
「う……そ……」
これが、あの……。
ふわふわしたピンクの服の似合う……。
年下だけど、しっかり者の……。
モーリス出版社社長、兼、編集長の、
……典子さん?
「あ、直緒さん、おはよう」
縁の赤い眼鏡の奥で、典子は、目をぱちぱちさせた。
彼女は、他人の直緒に姿を見られても平然としている。
「ごめんね。ちょっと波に乗っちゃったものだから。安心して。今月も大丈夫よ。朝からがっつりだわ」
「お嬢様」
控えめな咳ばらいが聞こえた。
「キャリアウーマンは、そのようなお姿で、部下の前に姿を現さないものでございます」
「そうかしら。遅くなるよりましだと思ったんだけど」
「お嬢様はお仕事をなさるのですよ。ちゃんとした大人なら、お仕事は、きちんとした格好でするものです」
「そうよね。わたしは、ちゃんとしたおとなだもん。直緒さんちょっと待っててね。着替えて来るわね」
「顔も洗って、化粧水をつけるのですよ。お肌が角を曲がるのも、もうすぐですからね」
「もうっ! わかってるわよ!」
「ふぅぅぅぅー」
典子がオフィスから出て行くと、この人物には珍しく、古海がため息をついた。
額を抑え、手近な椅子に座りこむ。
「まったく、お嬢様にも困ったものです」
「……いったいなにが、どうして……」
「デイトレードです」
「デイトレード?」
古海は顔を上げた。
疲れ切った顔をしている。
「ええ。そもそもの始めは、典子さま御年10歳のみぎり、お誕生日プレゼントとして、旦那様が100万円を渡されたのが、運のつきでした。小学生だったお嬢様は、それを元手に株取引を始め、巨額の利益を稼いだのです」
「はい?」
「そのお金の一部は、モーリス出版設立の原資となりました。会社設立が、お嬢様17歳の時です」
「17歳? 高校生じゃないですか!」
「まあ、そういうことになりますね。かれこれ5年ですか。全く、よく続くものです。お嬢様の執念には、根負け致します。ああ、13年前、気前よくぽんと100万円を渡したことを、社長は、今、どんなに後悔なさっていることでしょう! 後悔なさっているはずです!」
古海は、微妙に言葉を切った。
……小学生の娘に100万円をぽんと手渡すなんて、
……どんな親だ?
直緒は心の中で思いっきり突っ込んだ。
一乗寺建設といったら、押しも押されぬ大企業である。やはり、庶民とは、感覚が違うのであろう。
古海はなおも続ける。
「お嬢様には、株取引の才能があるらしく、今でも、モーリスの資金繰りが苦しくなると、小口取引をして、小金を稼いでいらっしゃるのです」
「……それって」
……本が売れているのではなく、オーナー社長がデイトレードで儲けてるだけなのか。
やっぱり、出版不況はこのBLの世界にも浸食しているのだ。
直緒は、がっくりくる思いだった。
「だからご安心ください。今月も、直緒さんの給料も安泰。とまあ、お嬢様はこのようにおっしゃったわけです」
「あ、だから安心して、今月も大丈夫だと……」
「そういうことです」
古海はためいきをついた。
「お嬢様のデイトレードの才能のせいで、いつまで経ってもモーリスは潰れず、私の仕事も終わらず。そして、社長の御心労は増すばかり……というか、少しは心労すべきです、あの親馬鹿社長も……、あ、いや、これはこっちの話」
話を強制終了させると、古海は立ち上がった。
「それより、直緒さん」
真剣な目をして、直緒を見下ろす。
「あれが、女性の正体です。どんなに美しい女性でも、家の中ではあんなものです。あなたは女性に免疫がないから、この際、しっかりと、覚えておくとよろしい」
「えと、なぜ、僕に女性の免疫がないと?」
「あなたの履歴書を拝見しました」
当然と言う風に、古海は言った。
「あなたには早くに両親を亡くされ、おじい様に育てられました。姉妹はおらず、仕事関係も周りは男ばかりでしたね」
……そこまで調べたのか。
直緒はちょっと、いやな気がした。
古海は全く罪悪感を持っていないようだ。けろりとして続けた。
「そういう人が、お嬢様の周りにいると、危険ですから。私も、いつもおそばにいられるわけではありませんし」
「は? 僕は危険な男じゃありませんよ?」
少なくとも中学時代のジャージ姿を見て、発情する男ではない。
やれやれという風に、古海は首を振った。
「わかっておられませんね。私が心配しているのは、お嬢様じゃありませんよ。直緒さん、あなたです。あなたがそんなに安呑としていられるのは、女性の実態を知らないからで……」
「僕の心配なんか、無用です」
古海を遮り、直緒は言った。
少し誇らしい気持ちで続けた。
「僕には恋人がいます。付き合い始めて、もう3年になります。そういう意味でも、典子さんにとって、僕は安全なんです」
「なんですって!」
古海が初めて見せた素の顔だった。
驚愕。
そして、……なんだろう、この表情は。
悲哀? まさか。
その時、タオルを片手に、典子がさわやかな顔で帰ってきた。
ジャージ姿は相変わらずだが、赤い眼鏡はどこかに置いてきたようだ。
「動きやすくていいわ。これからは、ジャージで仕事をしようかしら」
「お嬢様、けじめは大切でございます」
こう諭した古海は、いつもの顔に戻っていた。
沈着冷静な皮肉屋。
「お嬢様は、一応は、女性であられるのです」
「一応で悪かったわね。ジャージは楽だし、きっと仕事に集中できるわ」
「駄目でございます。オフィスでのジャージ着用は許しません」
きっぱりと古海が言い渡した。
典子は不服気に、眉間に皺を寄せた。
「ところで、二人でくっついて、何を楽しそうにおしゃべりしていたの?」
「なんでもございません。くっついてなぞおりませんし、楽しそうでもありません。ですからお嬢様、腐った妄想は、どうかご遠慮下さいませ」
「してないわよ、なにもっ! 残念ながら古海については、全く妄想が湧かないのよ。直緒さんなら、ま、いろいろね……」
顎を上げ、僅かにしまりのない顔になって、典子が破顔した。
古海がしきりと目配せをしてきているのに、直緒は気がついた。
さっぱり意味がわからなかった。
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