出版界に天誅を

 「採用です!」

直緒を一目見るなり、女の子は叫んだ。


 一乗寺いちじょうじ典子のりこ

 モーリス出版の社長だ。

 だが、どう見ても、高校生以上には見えない。下手をすると、中学生にも見える。

 ピンクのブラウスに、ふわっと巻いた髪。ぽちゃっとした頬が、かわいらしい。


 「あなたならできる! あなたなら……」

目を輝かせ、女の子は続けた。

「あなたなら、どんな先生からも、お原稿をとってこられる! たとえばあの、女好きの島崎しまざき藤町ふじまち先生からも……」

「ええっ! あの、恋愛小説の大家の島崎先生!?」

「子だくさんの与謝野よさの銅幹どうかん先生からもっ!」

「えっ! 青春小説家の、あの、有名な?」

「男嫌いで有名な、どう綱母つなも先生からだって!」

「エッセイストの大家ですねっ!」


「採用です! 採用です! 採用です!」

 女の子は連呼した。

 小さな口に、ふっくらした唇。やや団子っ鼻だが、それも愛嬌だ。

 大きな目が、こぼれそうに、直緒を見つめていた。


 ……なんてかわいいんだ。

 ……このゆるふわ女子が、文芸書を売りまくる、凄腕社長……。

 ……この、出版不況の時代に。

 ……こんなにかわいい女の子が。


 しかし。

 ……自分はひどく買いかぶられている。


 臼杵の会社での仕事は、校正や割り付け、レイアウトなどの実務編集ばかりだった。



 ……それをいきなり、原稿を取ってくるなんて。

 ……それも、今を時めく、流行作家ばかりじゃないか。


「あの、いきなりそんな大仕事は……」

自分には無理、と言いかけたその時だった。


 「却下」

一乗寺典子の隣に座っていた、黒服の青年が、口を開けた。

 さきほどの、試験官の青年だ。

 高い鼻にかけた銀縁の眼鏡が、酷薄そうにきらりと光った。

 「失礼。自己紹介がまだでした。古海ふるみりゅうと申します。一乗寺家、家令を務めております」

「かれい?」

「一乗寺家は、名門ですから」

古海は胸を張った。


「あの、もしかして、」

おそるおそる、直緒は尋ねた。

「一乗寺というのは……一乗寺財閥の一乗寺ですか?」


 一乗寺財閥。

 直緒でも知っているほどの、日本の大財閥だ。

 明治創業の、建築関係の財閥だ。今ではIT大手と手を組んで、セキュリティ住宅の開発に成果を上げている。

 人型ロボット「シャルト君」の見守るマンションは、子どものいるファミリー層に絶大な人気を博しているらしい。


「はい、そうです」

あっさりと古海は頷いた。

「そして典子お嬢様は、その、一乗寺財閥のご令嬢であらせられます」

いささか敬意に欠ける口調であった。


 「ちょっと、」

傍らから、典子が口を出した。

「あなたは黙っててよ、古海」

「なぜでございますか、お嬢様。私は、旦那さまから常に、お嬢様のお世話と、見守りの役を仰せつかっており、」

「モーリスは、わたしの会社よ。わたしが出資して、わたしが作った、わたしの会社なの! 誰を雇おうと、わたしの勝手でしょ!」

「お言葉ですが、お嬢様。あなたの暴走を許しておくと、大変なことになります。一乗寺財閥の評判は地に落ち、ひいては、日本経済に打撃を与えることになりかねません」

「うるさいわね。採用と言ったら、採用なの! わたしはこの人を雇うんだから!」


 打って変って愛らしい笑みを浮かべ、典子は直緒を見た。

「いいわね、直緒さん」


 ……な、直緒さん!

 年下の、美女ではないが、たいそう愛らしい女性にそう言われ、直緒はすっかりうろたえてしまった。

 ぽーっとして、頷きそうになる。


「私は、ですね」

冷たい声が響いた。

「本谷さん、あなたの為に言ってるんですよ」


「は、はい?」

思わず我に返って、直緒は古海を見た。

「僕の為ですって?」

「お嬢様の手にかかって、無事に日本社会に生還できた人はいないということですよ。あなた、道を踏み外してはいけません」

「は? おっしゃることが……」


「たとえば、あなたの前にモーリスで働いていらっしゃった、片桐薫さんですが、」

「まっ、古海。あなたがそれを言うの!?」

「あの方が辞めたおかげで、家令の私が、どれだけ、大変な思いを……、校正やら入力やら、わずらわしいことをどっさり、手伝わされて。言う権利、ありますとも」

「あなたがザルだから、優秀な人が欲しくなったんでしょっ!? ぼろぼろ誤植を出すから、読者から苦情がじゃんじゃん来てるんだからっ!」


 「……あの、僕の前任者とは?」

気になって、直緒は尋ねた。

 古海が頷いた。

「ええ、片桐薫さんとおっしゃって、ここへ来た時は、世間知らずの、それはそれは初々しい、可愛らしい方でした。それが、わずか数ヶ月、お嬢様の下で働くうちに、すっかり腐ってしまわれて……」

「く、くさった?」


 どんなショックな出来事があったのだろう、と直緒は思った。

 気持ちが腐って、落ち込んでしまうほどの、辛いこと……?


 聞いていた典子が激昂した。

「なによなによなによっ! 薫ちゃんが会社辞めたのは、わたしのせいだと言うの?」

「極めて婉曲、かつ、穏当に申し上げれば」

「薫ちゃんに手を出したのは、誰よ! だから、薫ちゃん、会社、辞めちゃったんじゃない! 初めて、わたしのお友達になってくれた人なのに。たったひとりのお友達だったのにぃっ!」


 ……えっ!

 ……会社の女性ひとに手を出したのか、この男は。

 ……つか、社員が社長のお友達って? それも、たったひとりのお友達?


 典子が目を眇めた。

 「あのね、古海。嫌がる薫ちゃんを、無理矢理追い出したのは、誰?」

「それは私ですが、」

 慇懃無礼に古海は言った。

「私とて、可能性のない人に、手を出したりは致しません。あの方を、そこまで追い込んだのは誰です、お嬢様」


 古海は直緒に目を転じた。

「ですから、あなたも考え直した方がいいですよ、本谷さん」

「い、いえ、でも、大丈夫です。メンタルはすごく丈夫だから。それに、そもそも、僕、男ですし」

直緒は言った。

 ……だからあなたも、手を出したりできないでしょ。

社会人として、それは口に出さなかった。


 典子と古海が、顔を見合わせた。

 こほん、と古海が咳払いをした。

「男だからこそですよ、本谷さん」



 「直緒さんはわたしのものよ!」

不意に典子が立ち上がった。

 淡いピンクのスカートが、ぱあーっと広がる。

「古海、あなたの思い通りになんか、させるもんですか!」

そして、直緒に飛びついてきた。

「わ、わ、わ……」


 ……嬉しいのだが。

 ……今は、就職試験。

 典子の背中に回しかけた手が、ぴくぴく震える。

 「あ、あの、あの、……」


「ったく。この人は、抱き人形じゃないんですから。ほらほら、本谷さんが困っておられますよ」

 強い腕が、二人を、ぐいと引き離した。

 残念だったが、直緒は、ちょっとほっとした。


 「きれいな男性を見ると、すぐに妄想の世界に入ってしまわれるんだから」

「だって、美人なんですもの」

「確かに彼は、まれにみる美形です。でも、男ですよ? いきなり抱きつくなんて、一乗寺家令嬢として、いかがなものでしょうか」

「だって、すごい美人さんなんですもの」


「あの……」

直緒は言った。

「男に美人は、おかしいと思います」


「ふ」

古海が笑った。

「ふふふ」


 「採用よ、直緒さん!」

歌うように典子は言う。

「モーリスは、未だ、電子書籍しか出版していない小さな出版社です。でも、いつかきっと、紙の本を出します。直緒さん。私と一緒に、戦ってくれますね」

「はい」

力強く、直緒は頷いた。


「そしてそれを、書店の、一番目立つ棚に置かせましょう。文学やエンタメの、売れ筋書籍の棚に、平積みにさせるのです。地下や最上階の、目立たない隅の棚でなく」

「はい」


「さあ。宣戦布告です。出版界に天誅を下すのです!」

「はい……え?」

「わたしの読みたい本を、ちっとも出してくれない、出版社どもを、やり込めてやるのです」

「……あなたの読みたい本って」

「もちろん、BLです」

「びいえる……」

「男同士のラブです」

「ええーーっ!」


「これが、就業規則です」

直緒の口を封じるように、典子が冊子を渡した。

 さっと目を通して、直緒は驚いた。

 一乗寺建設に準ずる、手厚い待遇である。

 有給、ボーナス、昇給。

 長く勤めればリフレッシュ休暇や、もちろん、退職金もがっちりもらえる。

 全ての不安を払拭する好条件である。


「わたしのことは、編集長と呼んでください」

横から覗き込むようにして、典子が言った。

「社長だと、なんだかエラそうでいやです。それに、お父様と同じ呼び方では、紛らわしいですから」

「はい」

直緒は素直に頷いた。


 かわいらしい上司。

 素晴らしい福利厚生。

 イエスマンにだってなんだって、なってやる、と思った。

「詳しいことは、古海から聞いて下さい。では、明日からよろしくお願いしますよ、直緒さん」

末尾にハートマークがついていそうな、甘い声だった。



**



 「馬鹿ですね」

大満足で典子が出て行くと、古海が言った。

「あなたは、大馬鹿です」

「なぜですか」

直緒はむっとした。


 仕事がなければ、生きていけない。

 少しでも、臼杵社長の負担を減らしてやりたかった。

 それに。

 BLであろうと、小説であることに変わりはない。

 少なくとも直緒は、実務一辺倒の編プロから、エンタメ系の版元へ移れるのだ。


「あなたにそんなことを言われる筋合いはない筈です」

「ふん。お嬢様に抱き着かれて、へらへらしていたくせに」

吐き出すように、古海が言った。

「いいですか、本谷さん。これだけは言っておきます。お嬢様は、あなたの手に負えるような方ではありません」


 頭一つ高い位置から直緒の顔を見下ろしている。

 眼鏡のレンズが反射し、目の表情が読み取れない。

 ひどく威圧的だった。


 「それは、どういう……」

「確かに、典子お嬢様は、一乗寺建設の令嬢です。しかし、モーリス出版は、お嬢様ご自身で設立された会社です。資本金始め家具調度に至るまで、一乗寺建設は一切、手を出してはおりません。ご実家にもかかわらず、オフィスの家賃も、お嬢様自らが支払っていらっしゃるほどです。生半可な気持ちで、ご就業いただくわけにはまいりません」

「僕は、そんな気持ちは全くありません。BLが文学か否かはさておき、言葉を使った作品である以上、僕は僕の職分において、最善を尽くすのみです」

「……よろしい」


 古海の目の色が、わずかに光ったように、直緒は感じた。

 ……自分の仕事について、ああだこうだ、言われたくない。

 直緒は思った。

 ……こんな。

 ……古海のような。

 はっきりと直緒は言った。


 「僕は、(会社の)女性に手を出すような男ではありませんから」


「ほう」

能面のような顔に、初めて表情が宿った。

「そうなんですか。それはそれは」

「僕は、女性よりも仕事に興味があるんです」

「女性よりもBLしごとに……」

「そうです、僕は、編集このしごとを愛しています」


BLしごとを愛している……?」

古海は、いたく感銘を受けたようだった。震える声で後を続けた。

「では私は……私はあなたに、期待してもいいのでしょうか」

「ええ、もちろん。僕は、自分の仕事に誇りを持っていますので」


 赤ペン一本で生きてきたこれまでの人生。

 今まで関わってきたあまたの仕事を思い浮かべ、直緒は傲然と頭を上げた。


 しばらくして、古海は言った。

「あなたのお考えはよくわかりました。しかし、大切なことは……」


 依然として古海からは見下ろされている。

 編集実務における自分の能力には自信があった。

 直緒は、しっかりと、下から見返してやった。


 思いがけず、にっこりと古海が微笑んだ。

 今までの渋面が嘘のように、優しい顔が現れた。

 古海が、驚くほど、整った顔立ちをしていたことに、今さらながらに気がついた。

 思わず、ぽーっと見惚れている自分に気がついて、直緒ははっとした。


 直緒を優しく見つめ、古海が言った。

「もっとよく知り合うことです。性急にことを進めては、お互い、後悔しますからね。まして、あなたは、」

 意味ありげに言葉を切った。


 それは、職場の仲間としての忠告だと、直緒は受け取った。

「よろしくお願いします」

だから、そう言って、頭を下げた。


 古海が嬉しそうな顔をした。

「なにせ、あなたは、『歩』を、アユミと読むほどのお人ですから」

「だって、ルビがふってなかったから。途中から読まされたから、人名は、初出のページにルビをふるから……」

「啓介の相手は、男です。まさかそれに気がついていなかったとか?」

「気、気、気がついていましたとも!」

直緒はどもった。

「よろしい。なにしろあなたが就職したのは、モーリス出版社ですからね。そして、お嬢様の部下になられたわけですから。わたしはあなたに、期待していますよ」

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