ブラック・ブラック
*
遡ること、半月前。
直緖は、勤めていた編集プロダクションの社長、
「いよいよ、僕の番ですか?」
震える声で、直緖は尋ねた。屠殺場に引かれた子羊の心境だった。
「ああ。……申し訳ない」
小太りの社長は、毛髪の減った頭を下げた。脂で汚れた半白の髪が、ここ数日、社長が家に帰っていないことを物語っていた。
夜を徹し、金策に追われているのだ。
あるいは、借金取りから逃げ回っているのか。
「
臼杵は、辞めていった二人の先輩社員の名をあげた。
「だって、お二人は、全く違う業種じゃないですか!」
憤懣やる方なく、直緖は叫んだ。
「今じゃ、金指さんはテレビ局でタヌキのぬいぐるみ着てるし、余凪さんなんか、外国で、機関銃作ってるんですよ?」
「社員にちゃんと、次の仕事を探してやった
「僕は、出版の仕事を続けたいんだ!」
「本谷君」
臼杵社長は、居住まいを正した。
「君だって、出版不況の厳しさは、知っているだろう?」
本が売れない。漫画も売れない。雑誌さえも……。
1990年代から始まった出版不況は、未だ、終わりが見えない。
否、ゲームやSNSなど、新たな娯楽の増えた今、もはや回復は絶望だとも言われている。
「特に、うちのような零細下請けは……」
臼杵デザイン事務所は、従業員10人に満たない、零細企業だった。本や雑誌の編集業務を請け負っている。企画は任されていない。ただひたすら、ページの割付や校正など、編集実務を請け負う、地味な会社だ。
客先の出版社が苦しくなれば、下請けは、火の車だ。
社長の臼杵は今、人減らしに躍起になっていた。少しでも人件費を抑え、会社を存続させる為だ。
「でも、僕は、最後まで、臼杵さんと一緒にやりたい。日本の出版文化に、貢献したいんです」
直緖は、幼い頃から、本が好きだった。
今、本の為なら、我が身を犠牲にしても、惜しくなかった。
臼杵は目を丸くした。
「本谷君。それは嬉しい。嬉しいのだが……」
「僕を拾ってくれたのは、臼杵さんだ。僕は、この会社に、返しきれない恩があります!」
新卒で、直緖は、就職に失敗した。出版社ばかりを100社近く受け、玉砕した。その直緖を入れてくれたのが、臼杵デザイン事務所だった。編集経験どころか、社会人経験さえなかったにも関わらず。
もっとも、指導や研修などは、一切なかった。
……「仕事は先輩から盗め」
それが、直緖が会社に入って、一番始めに教えられたことだ。
もちろん、初日から、深夜残業をさせられた。
だが、直緖は、苦ではなかった。
愛する本の世界で働けることが、誇らしかった。
「僕は、本の世界を離れたくない」
「俺だって、君を手放したくないよ。君は、俺が鍛え上げた部下だからな」
「……」
臼杵から教わったことで、一番役に立ったのは、
それで、時間を稼ぐ。
「俺と別れたくない君の気持ちは、すごく嬉しい」
「いえ、あなたとではなく、出版の仕事と……」
「だが、喜んでくれ。君の場合は、素晴らしい好条件なんだ」
「でも!」
「なにより、その会社は、出版社なんだ! 版元なんだよ!」
「なんですって!」
版元とは、自分の会社の名で、本を出版している会社を言う。
臼杵デザイン事務所は、自分の会社で本を出版していない。あくまで、出版社から編集実務を請け負う、下請けだ。
……いつかは、企画から配本まで、まるごと一冊の出版に、携わってみたい。
それが、直緖の希望だった。
児童書でも学習参考書でも、なんなら、電気や水道などの、専門団体でもかまわない。いっそ、宗教関連でもいい。何にでも改宗する決意が、直緖にはあった。
求人さえあれば。
版元で働くことは、直緖の、長年の夢だったのだ。
「君は、先方の条件に、ぴったりなんだ!」
臼杵社長が決めつけた。
「まじめでしっかりしていて、……色が白くて猫っ毛で……」
「え?」
「細かい作業は苦にはならない。……その上、小柄で華奢だ」
「はい?」
「誠実で信頼でき、……かつまた、妙な色気がある」
「あの、」
「君ほど、のびしろのある人材はいないということだよ、わが社にはね!」
そう言って、臼杵さんは、直緒の肩を叩いた。
「文藝専門の出版社だ。君、やりたがってたろう? いつまでも実務ばかりやってないで、思い切って、飛んでみろよ。ピンチをチャンスに! だ!」
ピンチをチャンスに。
それは、臼杵社長の口癖だった。
確かに、ピンチには事欠かない会社ではあった。
それを全部チャンスに変えることができたなら、今ごろは、一部上場も夢ではなかったろう。
さらに臼杵は直緖の背を押した。
「文藝編集者になれるんだよ!? 君の、長年の夢だったじゃないか」
出版不況の今の世の中で、編集者の求人、それも、版元の中途採用など、疑ってかかるべきだったのだ。
しかし、直緖は、文藝書という言葉に、惑わされた。
それは、愛する本の為にと、編プロという名のブラック企業で働いてきた……しかも、誇りを持って……構造と似ていた。
直緖は、大きく頷いた。
臼杵の好意を信じて、疑わなかった。
*
「本谷直緖さん。社長室へどうぞ」
先程の黒服が迎えに来た。
……実務テストの挽回をしなくちゃ!
直緖は大きく息を吸った。
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