ブラック・ブラック





 遡ること、半月前。

 直緖は、勤めていた編集プロダクションの社長、臼杵うすきに呼ばれた。


「いよいよ、僕の番ですか?」

震える声で、直緖は尋ねた。屠殺場に引かれた子羊の心境だった。


「ああ。……申し訳ない」

 小太りの社長は、毛髪の減った頭を下げた。脂で汚れた半白の髪が、ここ数日、社長が家に帰っていないことを物語っていた。

 夜を徹し、金策に追われているのだ。

 あるいは、借金取りから逃げ回っているのか。


金指かねざしも、余凪よなぎも、次が決まった」

 臼杵は、辞めていった二人の先輩社員の名をあげた。


「だって、お二人は、全く違う業種じゃないですか!」

 憤懣やる方なく、直緖は叫んだ。

「今じゃ、金指さんはテレビ局でタヌキのぬいぐるみ着てるし、余凪さんなんか、外国で、機関銃作ってるんですよ?」


「社員にちゃんと、次の仕事を探してやった社長の手腕を、評価してほしい」

「僕は、出版の仕事を続けたいんだ!」


「本谷君」

臼杵社長は、居住まいを正した。

「君だって、出版不況の厳しさは、知っているだろう?」



 本が売れない。漫画も売れない。雑誌さえも……。

 1990年代から始まった出版不況は、未だ、終わりが見えない。

 否、ゲームやSNSなど、新たな娯楽の増えた今、もはや回復は絶望だとも言われている。


「特に、うちのような零細下請けは……」


 臼杵デザイン事務所は、従業員10人に満たない、零細企業だった。本や雑誌の編集業務を請け負っている。企画は任されていない。ただひたすら、ページの割付や校正など、編集実務を請け負う、地味な会社だ。


 客先の出版社が苦しくなれば、下請けは、火の車だ。

 社長の臼杵は今、人減らしに躍起になっていた。少しでも人件費を抑え、会社を存続させる為だ。



「でも、僕は、最後まで、臼杵さんと一緒にやりたい。日本の出版文化に、貢献したいんです」

 直緖は、幼い頃から、本が好きだった。

 今、本の為なら、我が身を犠牲にしても、惜しくなかった。


 臼杵は目を丸くした。

「本谷君。それは嬉しい。嬉しいのだが……」

「僕を拾ってくれたのは、臼杵さんだ。僕は、この会社に、返しきれない恩があります!」


 新卒で、直緖は、就職に失敗した。出版社ばかりを100社近く受け、玉砕した。その直緖を入れてくれたのが、臼杵デザイン事務所だった。編集経験どころか、社会人経験さえなかったにも関わらず。



 もっとも、指導や研修などは、一切なかった。

 ……「仕事は先輩から盗め」

 それが、直緖が会社に入って、一番始めに教えられたことだ。

 もちろん、初日から、深夜残業をさせられた。

 だが、直緖は、苦ではなかった。

 愛する本の世界で働けることが、誇らしかった。



「僕は、本の世界を離れたくない」

「俺だって、君を手放したくないよ。君は、俺が鍛え上げた部下だからな」

「……」



 臼杵から教わったことで、一番役に立ったのは、客先出版社から催促の電話がかかってきたら、とりあえず、「今、出ました」と言うことだ。

 それで、時間を稼ぐ。



「俺と別れたくない君の気持ちは、すごく嬉しい」

「いえ、あなたとではなく、出版の仕事と……」

「だが、喜んでくれ。君の場合は、素晴らしい好条件なんだ」

「でも!」

「なにより、その会社は、出版社なんだ! 版元なんだよ!」

「なんですって!」



 版元とは、自分の会社の名で、本を出版している会社を言う。

 臼杵デザイン事務所は、自分の会社で本を出版していない。あくまで、出版社から編集実務を請け負う、下請けだ。


 ……いつかは、企画から配本まで、まるごと一冊の出版に、携わってみたい。

 それが、直緖の希望だった。


 児童書でも学習参考書でも、なんなら、電気や水道などの、専門団体でもかまわない。いっそ、宗教関連でもいい。何にでも改宗する決意が、直緖にはあった。

 求人さえあれば。


 版元で働くことは、直緖の、長年の夢だったのだ。



 「君は、先方の条件に、ぴったりなんだ!」

臼杵社長が決めつけた。

「まじめでしっかりしていて、……色が白くて猫っ毛で……」

「え?」

「細かい作業は苦にはならない。……その上、小柄で華奢だ」

「はい?」

「誠実で信頼でき、……かつまた、妙な色気がある」

「あの、」

「君ほど、のびしろのある人材はいないということだよ、わが社にはね!」

そう言って、臼杵さんは、直緒の肩を叩いた。

「文藝専門の出版社だ。君、やりたがってたろう? いつまでも実務ばかりやってないで、思い切って、飛んでみろよ。ピンチをチャンスに! だ!」


 ピンチをチャンスに。

 それは、臼杵社長の口癖だった。


 確かに、ピンチには事欠かない会社ではあった。

 それを全部チャンスに変えることができたなら、今ごろは、一部上場も夢ではなかったろう。



 さらに臼杵は直緖の背を押した。

「文藝編集者になれるんだよ!? 君の、長年の夢だったじゃないか」



 出版不況の今の世の中で、編集者の求人、それも、版元の中途採用など、疑ってかかるべきだったのだ。

 しかし、直緖は、文藝書という言葉に、惑わされた。

 それは、愛する本の為にと、編プロという名のブラック企業で働いてきた……しかも、誇りを持って……構造と似ていた。


 直緖は、大きく頷いた。

 臼杵の好意を信じて、疑わなかった。







 「本谷直緖さん。社長室へどうぞ」

先程の黒服が迎えに来た。

 ……実務テストの挽回をしなくちゃ!

 直緖は大きく息を吸った。



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