天下の公道の真ん中で





 ヒロム先生の展覧会場を出てから、直緒は、どうも後ろが気になる。

 視線? を感じる。

 思い切って振り向いてみた。地味な色のスーツを着た女性が、後ろにいた。

 直緒が振り向いたことで、女性は少し驚いたような顔をし、そのまま、直緒と典子を抜いて行った。


 「どうしたの、直緒さん」

のんびりと典子が尋ねる。

「誰かに見られてたような気がして」

「まあ、素敵。スパイかしら。きっと、背後にアラブの石油王がいるのよ。もちろん、男の子だけのハーレムを持っているの。日本人のかわいい子がいたら、ひっさらって……」

「誘拐の心配をするなら、内臓売買か国籍利用を心配してください。第一、あなたは女性でしょうが」

「でも直緒さんは男……いけない、つい、また。さっき、腐の大先輩から言われたばかりなのに。ごめんなさい、直緒さん」

「? 何がです?」

「なんでもない。自主規制、自主規制」

「……」


 直緒はまだ、後ろが気になる。

 しきりと振り返る。


「そうね。バックを気にするのはいいことだわ」

「護身術の基本です」


 だが、もう、人の視線は感じられなかった。

 あるいは、さきほどの女性の視線だったのかもしれない。直緒と典子は、並んで歩いていた。あの女性は、追い抜こうとして、なかなか追い抜けず、いらいらと二人の後ろ姿を見ていたのかもしれない。


 典子が立ち止まった。

 いやにそわそわしている。

「あのね、直緒さん。わたし、これからちょっと行くところがあるの。先に会社に帰っててくれない?」

「え? いいですけど」


 トイレか? 

 直緒は思った。

 トイレくらい待っててあげてもいいけど。女子というものは、どうも気にしすぎる。

 もしかしたら、駅のトイレではなく、商業施設のきれいなトイレを探しているのかもしれない。

 女性の尊厳を尊重して、直緒は頷いた。


「これだから直緒さんって好きよ!」

典子は躍り上がって喜び、直緒の両手を握りしめた。

「あ。急ぎの仕事がなかったら、直帰してもかまわないわよ。だって、こんなにいいお天気なんですもの」


 そう言い残すと、ピンクの裾を翻して、楽しそうにくるりと一回転した。

 そして、地下鉄の階段の下へ、消えて行った。



 ……手、握られちゃった。

 どうしよう。

 僕には恋人が。

 いやいや、あれは、単なる握手。

 あれ。ちょっと違うか?


 「いいように操縦されてますね」

 ほやほやした気持ちで、その場に突っ立っていいると、すぐそばで声がした。

 地獄の底から湧き出るような声だ。


「わっ」

飛び上がった直緒の目の前に、古海が立っていた。


 屋敷にいる時と同じ、黒のスーツ姿だ。

 背の高い彼は、本当に、魔物じみて見えた。


「なに、じっと手を見てるんです。にやにやしながら。変ですよ。人が見てます」

「いや、これはその……」

「それに、だめでしょ、お嬢様から目を離したら。何をなさるか、わからないんですよ?」

「いや、さすがに電車くらい、一人で乗れるでしょ?」

「さっきも、画廊で一波乱、あったばかりじゃないですか」

「あれは……」


 「ところで、直緒さん。やっとふたりきりになれた。いい機会だ」

改まった声で、古海が言った。


 直緒は思わず、あとずさった。

 背の高い古海は、それほど威圧感がある。

「な、なんです、いきなり」

かすれた声で問う。


 眼鏡の奥の瞳に、暗い炎が揺らめいているように、直緒は思った。

 怖い。

 低い声で、古海が言った。

「あなた、あれだけのBL本の校正をしているのに、何も思わないんですか?」

 行き交う人々の耳を警戒しているのか、ぐい、と近寄ってくる。


 よけい、怖い。


 「お、思うって? 何を?」

「ですから、あれだけ大量のベッドシーンを校正して、ですね、」

 仕事の話とわかって、直緒は拍子抜けした。

「ああ、むらむらするかとか、そういうこと?」


「むらむら、するんですか?」

古海の声が、わずかに震えた。

「男性同士の、その、行為を読んでいて?」


「古海さん、軽蔑しますよ。典子さんの扱うお原稿は、文学です。性行為もまた、非常に美しく、芸術的に書かれています」

「美しい……。芸術的……」

「それに、ですね。今のところ、作家さんたちの担当は典子さんです。ですから僕は、主として校正者として、玉稿を拝読しています。読者の目で読んでいたら、校正の仕事になりません」


 それは、直緒の信条でもあった。

 完成した本に誤植があったら、作家の恥になる。

 だから、校正は、必死で誤りを探す。

 大事な作家が、誰からも後ろ指をさされないよう、本になる前に、危険の芽を、摘み取ろうとする。


 それには、読者となってしまってはいけないのだ。

 どんなに好きな作家の作品であろうと、常に、疑う気持ちで読まなければならない。

 一語一語吟味し、辞書や百科事典を引きながら、読む。

 あるいは調べものをしながら。

 先生をお守りする為に。

 批判の目を持ちながら、読書を楽しむことなどできない。



 「でも、ひとつだけ、わからないことがあるんですよね……」

この仕事に就いてから、常々疑問に思っていたことを、直緒は口にした。

「BLですから、両方とも、男なわけでしょ? 二人きりの部屋で、一体、何をしているんでしょう? 先生方のお原稿は、描写が美しいんですけど、どうもあいまいで」

「それは、まあ、いろいろと」

「はあ、いろいろですか」

「興味があるなら、そのうち、実地で教えて差し上げましょうか?」

「は?」

「冗談です」

「古海さんでも、冗談を言うことがあるんですね。意外です」

「……」


「中には、どうみても、そこにいるのは男女だとしか思えない描写もあるんですよね」

「最後までいくこともありますから。入れるとこまで」

「入れる? ナニを、ドコへ」

「直緒さん。それは、天下の公道のど真ん中でする話ではありません」


 確かにその通りであった。

 夕暮れが近いせいか、人通りも増えてきた。

 春を実感させる優しい風が吹き抜ける。


 「直緒さん、私はあなたを、誤解していたかもしれません」

太陽の光が斜めに差す道を歩きながら、古海が口を開いた。


「誤解?」

「私は、あなたは、典子さん目当てでモーリス出版へ就職したのだと思っていました。一乗寺建設令嬢の典子さんを狙って」

「はあ? そりゃ、違いますよ。前にも言ったように、僕には恋人がいます」

「乗り換えればいいでしょ、恋人なんか。男と女なんて、そんなもんです。いい人がいたら、乗り換える。純粋な恋愛は、今や、お嬢様の出される本BLの中にしか、存在しないのです」

まるで典子が乗り移ったようなセリフである。


「いや、そんなものでもないようですよ」

 小さい声で直緒は言った。

 自分のことなので、ちょっと恥ずかしかったのだ。


「いいえ、そんなものです」

大きな声で古海が言い直した。

「よく覚えておおきなさい」


 口を尖らせ、直緒は反論した。

「少なくとも僕は、そんな人間じゃない。それに、モーリスに来るまで、一乗寺建設との関係は知らなかったですし。まさか会社があんな立派なお屋敷だとは、夢にも思いませんでした。でも……」

自分の心に正直になろうとした。

「BLの会社と聞いて、最初、ためらいました。それが、一流企業並みの待遇だと知らされて、踏み切ったのです。……そういう事実がありました」


 「直緒さん、あなた……」

古海は喉を詰まらせたような音を立てた。

 それから、爆発するように笑い出した。

「あなたという人は……! 本当にまっさらな方ですね。まっすぐ育った若木を見るようだ。なんというか……この手で汚したくなるような」

「えっ?」


「冗談ですってば」

「きょ、今日は、冗談が多いですね」

「ええ。あなたという人が少しわかった気がして、嬉しいのです。私はあなたを始めてみた時、てっきりあの臼杵という編プロの社長と、何か企んでいるんだと思いました。だってあなたは、こんなにきれいな……美人ですから」


 臼杵というのは、直緒にモーリス出版を紹介してくれた編プロの社長である。

 確かに何かを企んでもおかしくない雰囲気を醸し出している。


「古海さん、僕は前から思っていたのですが、男に対して美人は、おかしいです。用例がありません」

「用例なら、あなたが校正しているBLほんの中にたくさんあるじゃないですか」

「でも、それは、特殊な世界の話です。普通の一般人の会話としては、成立しません」


「あなた、まだ、覚悟ができてませんね」

まじめな顔をして、古海が言った。

「モーリス出版に就職したからには、あなた自身も腐らなければ。なんです、さっきのトンチンカンな受け答えは」


「は?」

「画廊で、ですよ。あなただけが、話の本質から外れてました」

「はあ?」

「でも、あなたは、あの桂城という編集者から、必死でお嬢様を守ろうとしました。私はそこを、高く評価します」

「それはありがとう……って、どうして知ってるんです? あなたはあそこにいなかったはずなのに」


 「それはね」

古海は立ち止まった。


 頭一つ背の高い彼が、直緒を見下ろす。

 勢い直緒も立ち止まり、古海と向かい合った。

 古海の腕が、つ、と伸びてきた。

 直緒の顎を掠め、胸の辺りでたゆたう。

 直緒の心臓が、とくんと鳴った。


 「あった」

素早い動作で、古海が、握った右手を差し出した。

 ゆるりと指を開くと、小さな丸いボタンのようなものが現れた。


「盗聴器。いつの間に……」

「さっき屋敷を出る前ですよ」


 そういえば、出がけに、古海は直緒のネクタイを直してくれた。

 服装にうるさい男だと思ったのだが……。


「なんてことを……。古海さん、あなた、」

「おっと、殴りかからないで下さいよ。綺麗な顔して、あなた、けっこう、喧嘩っぱやいんだから」

「うるさいです。人のプライバシーをなんだと思ってるんですかっ! 一発殴らせ……」


 「わっ、危ないなあ」

直緒の繰り出したパンチを、余裕をもって古海は避けた。

「だから、町中で騒いじゃ、だめですって。いいえ、ケンカじゃありません」

集まった人たちに、古海は言った。


 遠巻きに集まってきた人たちは、つまらなそうに散って行った。

 咳払いをして、古海は言った。


「いついかなる場合でも、お嬢様を見守るのが、私の使命です。その為には、手段を選びません」

「しかし、だからといって、僕に盗聴器をつけるなんて」

「ほほう。では、お嬢様におつけしろと?」


 古海が典子の胸元へ手をやるさまを、直緒は思い浮かべた。

 ぶるぶると頭を左右へ振る。


「そういうわけですよ。男のあなた相手だからこそできた荒技です。典子さまは、破天荒なお方です。常にそばにいて、見守らなければ」


 さっき、直緒に先に会社に帰ってくれと言った時の典子の顔を思い出した。

 直緒が了解すると、すごく嬉しそうに、飛び上がって喜んでた。

 直緒のことを、大好き、とまで言っていた。

 部下に「大好き」と言ってしまうほど、普段は自由がない生活をしているのだ。

 古海のような男に、いつもつきまとわれて。

 直緒は、典子を気の毒だと思った。


「典子さんだって子どもじゃない。いつも誰かにくっついてこられたんじゃ、鬱陶しいはずです」

「仕方がないでしょう。あの方は、誰かが見ていなければ、危なっかしくて。とてもじゃないけど、一人にしてはおけません」

「古海さん、あなた、束縛男ソクバッキーなのでは?」

「ソク……、なんです?」

「心配してるふりして、典子さんのこと、束縛してるんですね」


「それは、誤解というものです」

古海はじろりと流し目を寄越した

「私が心配しているのは、お嬢様ではありません。お嬢様の言動を通して落される、会社の評判です」

「モーリス出版の?」

「違います! 一乗寺建設です! 一乗寺建設は、ファミリー層向けの優良マンションを多く手掛けています。ファミリー層といったら、この世で一番、保守的な層です。彼らに支持される為には、常に中道を保たなければならないのです。私の言いたいこと、わかりますか?」

「つまり、典子さんがおかしなことをして、お父さんの会社の評判を落とさないか、心配しているわけですね」


「そういうことです」

古海は頷いた。

「お嬢様がモーリス出版を設立された折、私は、社長に進言したのです。一乗寺建設との関係は内密になさるよう。会社関係者には、モーリスの『モ』の字も言ってはなりませぬと。ところが、社長はお嬢様さんが出版する本の内容をよく理解しておられず……。とゆーか、娘に超アマくて……。得意そうにあちこちで自慢話を……。うちの娘が出版社を設立した、などと……」


 独り言のようにぶつぶつ言っている。

 その顔が、次第にどす黒くなってきた。


「ったく、親馬鹿なんだから!」


 思わず直緒は尋ねた。

「古海さんは、モーリス出版じゃなくて、一乗寺建設側の人間というわけなんですね?」

「初めからそう言ってるじゃないですか。一乗寺家の家令だって。私は、お嬢様のお目付け役です」

「じゃ、典子さんを見守るというのは……」

「だから、ヘンなことをなさらないように、見守るんですってば」


もうすでに充分、変なことをしてきた気がする。


「……古海さん、こんなところで油売ってていいんですか? 典子さんは、一人でどこかへ行っちゃいましたよ?」

「だいじょうぶ。行き先ならわかっています。この近辺で『うすい本』を扱う店は、あそこしかありませんから」

「『うすい本』?」

「同人誌ですよ、もちろん」


 言い置いて、古海は、地下鉄の階段を駆け下りて行く。

 その足取りは、ひどく軽く見える。

 直緒は、しばらく呆然と突っ立っていた。

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