何万回フられても、大丈夫



 「ったく、同人誌を読みふけっていて、時間を忘れた、ですって?」

ドライヤーの音の合間に、古海がぼやく。

「一週間、風呂にも入らず、着替えもせずに、ですかっ!」

「し、仕事よ、仕事っ! わたしは常に新しい書き手の先生を求めているのっ!」

椅子に座った典子が言う。


 モーリス出版オフィス。

 パソコンに向かった典子の髪を、古海がドライヤーで乾かしている。


 あの後、部屋から這い出た典子を、古海が風呂場に連行した。

 一週間着っぱなしだったジャージは、洗濯機に投げ込まれたらしい。

 風呂から出た典子は、説教しようと待ち構えていた古海を出しぬき、モーリス出版のオフィスに駆け込んだ。

 典子は風呂が、大嫌いなのだ。

 それを古海が捕獲して、有無を言わさず、髪にドライヤーを当てている。


 さすがに風呂上りなので、いつもの女子力の高い服装ではない。

 柔らかい素材のトレーナーにチノパン姿だ。


「熱っ! 古海、ドライヤー、熱過ぎっ!」

「だめです、逃げようったって。ちゃんと髪を乾かさなければ、頭に虫が湧きます」

「一週間、髪を洗わなかったくらいで、虫なんて湧くものですか! ちょっと、髪が目に……、前が見えない……」

「自業自得です!」

古海が乱暴に、典子の髪をかき回した。


 直緒は二人に背を向け、電子書籍の検品をしていた。

 私事を忘れ、仕事に集中しようと、必死になっていた。


 古海の皮肉っぽい声が聞こえた。

 「仕事ねえ。社会人なら、きちんと着替えてからオフィスで仕事をするものです。プライベート空間にもちこむなんぞ、プロのすることではありません!」

「そ、そんなことないわよ」

「あります! 第一、あの部屋、どうするんですか。このままだと、雪崩起こしますよ。夜中に雪崩れたら、お嬢様、寝ている間にぺっちゃんこですよ」

「好きなものに埋もれて死ねるのなら、本望だわっ!」

「この地震の国で、冗談でもそんなことを言ってはいけません」

「古海なんか、キライよっ!」

「お嬢様は、極端なんです。ベッドがあるのに、床に布団を敷く時点で、いかがなものかと思いますよ。もはや、ベッドが機能してないじゃないですか」

「ベッドなら、本棚として機能してるわ。それに、わたしは床に布団派なの!」

「床? 畳じゃなくて? 冬は寒いでしょ?」

「萌えがあるから、寒くないっ」


「……。お嬢様。そろそろ美容院に行かれるべきです」

「いやよ。そんな時間はないわ」

「さっそく予約を入れなければ」

「いやだったら、いや」

「だめです。せっかくのパーマが、とれかかってます。なにはおいても、美容院。ねえ、直緒さん。直緒さんもそう思いますよね?」


「え?」

いきなりふられて、直緒は戸惑った。

 紹介文の原稿に、誤字をみつけたところだったのだ。


 決めつけるように、古海が言った。

「直緒さんは、お嬢様のあの部屋の惨状をご覧になりました。ね、直緒さんっ」

古海の肘の辺りで、金切り声が上がった。

「見たのーっ!? 見たのねーっ!?」

「お嬢様、私と直緒さんの間に、割り込まないで下さい」

「古海は黙ってて! 直緒さん、見たの?」


「何をですか」

「わたしの……蔵書。CDとか、DVDとか?」

「何か踏んづけました」

「タイトルはっ!?」

勢い込んで典子が尋ねる。

「タイトルは見たのっ?」

「……いいえ」


 部屋は暗かった。

 さすがに、文字は読めない。


 典子が、ほっと安堵の息を漏らすのが聞こえた。

 古海が鼻を鳴らした。


「問題はソコじゃないでしょ。ねえ、直緒さん。あの散らかりようでは、まっすぐに歩くことさえ難しかったでしょ? いろいろ捨てるべきだと、思われましたよね?」

「す、捨てるですってぇえーっ!」

先ほどにも増して甲高い声で、典子が叫ぶ。

「わ、わたしの大事な、大事な宝物に、なんてことをっ!」


「もちろん、お捨てになるのが一番ですが、それができないのなら、せめてスキャンして、データにするべきです。それが、同居する他者への思いやりというものです」

「いやよ! わたしは、紙の質感が好きなのっ!」

「電子書籍の出版をしているくせに、それを言いますか」

「それとこれとは別! スキャンするには、本を解体しなきゃならないのよ。そんな恐ろしいこと、できるわけないでしょ!」


 両者、睨み合っている。

 古海が低く唸った。


「では、ハードルを下げましょう。中学時代のジャージ、まず、あれから捨てるべきです! あんなもんで、屋敷の中をあちこち歩き回られたら、メイドたちにしめしがつきません。そのうち、あれを着たまま外出しちゃうんじゃないかと思うと、心配で心配で、夜も眠れません!」

「古い布は、肌になじんで気持ちいいのよ。第二の皮膚よ!」

「着心地だけで、服を選んではいけません。女の子でしょ!」

「わたしは、仕事以外に、余計なストレスを感じたくないのっ!」

「それは、女性としてどうなのか。直緒さん、言ってやってください」


 「……僕は今、仕事に埋もれていたい」

ぼそっと直緒は言った。

 典子と古海は、顔を見合わせた。



**



 休日だったが、直緒は、居残って残業をした。

 一人の部屋に帰りたくないだけの残業だから、タイムカードを押してから、机に向かった。


 九時を過ぎた時、そっとドアが開けられ、古海が入ってきた。

 「お夜食をお持ちしました」

「いりません」

直緒は言ったが、古海は知らん顔をして、簡易テーブルを広げ、その上に湯気の立つ器を並べ始めた。

「いりませんったら」

そういうそばから、お腹が、ぐうーっと鳴った。


 テーブルの上には、アツアツのドリアの他に、緑鮮やかなサラダと、コーヒー、それに、生クリームの上にチェリーをあしらった、小さなプリンも並べられた。

 「なんですねえ、女にふられたくらいで、だらしがない」

それらの並び具合をチェックしながら、下をむいたまま、古海がつぶやいた。

 直緒に聞こえるように。


 直緒は慌てた。

 みなみにふられたことは、職場では話していない筈だ。

 「なんで……?」


「ここ」

古海は、黒いスーツの上から、自分の胸を指さした。

「指輪のケース、入れてましたね」


 典子の部屋へ案内する前、古海が自分の胸をなぞったことを、直緒は思い出した。

 あの時、指輪のケースのふくらみに気がついたのだろう。

 本当に油断のならない男だ。


 「その落ち込みようから見て、指輪を渡す前に振られましたか」

「よ、余計なお世話です!」

「男好きな女なんて、わんさといるでしょうに。わざわざ、あなたを捨てるような女を選ばなくても」


「男好き?」

直緒は思わず聞き咎めた。

 たとえどんな仕打ちを受けようとも、結婚まで考えた相手だ。

「みなみちゃんは、そんなひとじゃない」

「おや、みなみさんというんですか。みなみちゃん? ふうん。じゃ、言い直しましょ。男をパートナーに選ぶ女はたくさんいる。」

「でも、女なら誰でもいいわけじゃない!」


「プロポーズするつもりだったでしょ? 危ない所でした。そんな女と結婚なんてしちまったら、人生台無しです」

「僕とみなみちゃんは……」

「心のどこかで気がついていたのでしょ? 彼女の心が離れていくことに。確かに直緒さんは鈍い人だ。でも、とても繊細で優しい人でもある」

「僕は、繊細でも、優しくもないです」

「じゃ、本当のことを言いましょうか? あなたがそんなにも落ち込んでいるのは」

机から2~3歩下がり、最後の点検をしながら、古海が言った。

「自分を否定されたからですよ。彼女を失ったからではない」

「……!」


 息が詰まる気がした。

 直緒は、過呼吸のように浅い呼吸を繰り返した。


「ほら、否定しない。あなたは彼女を愛してなんかいなかった。でもまじめなあなたは、自分がつきあった女性を尊重し、だから、結婚を申し込むべきだと、一途に考えていた。……もういいんですよ。そこまで思いつめなくても」

「別に思いつめてなんか、」

「でも、相手はあなたのことを、そこまで大切に思っていなかった。その事実が、あなたを傷つけたのです。別の言い方をすれば、」

古海はゆっくり顔を上げた。

「あなたにとって大切なのは、彼女じゃない。あなた自身のプライドです」



 怒るべきなのだろうか、と直緒は思った。

 自分は、侮辱されているのだろうか。

 しかし、一方で、古海の言うことは正しいと、心の一部が告げていた。


 みなみに捨てられたことは、もちろんショックだった。

 しかし、より打撃が大きかったのは、別れを、一方的にラインで告げられたことだった。

 会って告げられたわけでも。

 電話でもメールでさえない。


 ラインだったこと。


 かすれた声で、直緒はつぶやいた。

「僕は……僕はそんなに冷たい人間なんでしょうか? 恋人……だと思っていた女性よりも、自分のプライドの方が大切だと思うような」


「冷たいのとは違います。プライドとは、自分を守る為の鎧。プライドがあるうちは、何万回ふられても大丈夫です」

「何万回もふられる? 冗談じゃない!」

「だから、たとえですってば。自分を大切にして、何が悪いか。自分を粗末にする人間に、人を愛することなんかできません」


 古海は、ふっと笑った。

 「女はたくさんいます。だいじょうぶです、直緒さん。女相手の恋愛に、傷つく必要などない」

「極論ですね」

「そうですか? ざっくりばっさり言いますとね。人は、本能DNAに命じられて恋愛をするんですよ。本能DNAは、自分を保存し、子孫を作ることしか考えていない。人によっていろいろあるでしょうが、男女の恋愛の根底には、子孫繁栄の本能があるのです。本能DNAが支持する恋愛は、だから、何度失敗しても、大丈夫なんです。次がある」


本能DNAに支持される恋愛?」


「本当に辛い恋は、」

古海がゆっくり顔を上げた。

 眼鏡の奥には、疲れたような色があった。

本能DNAにさえ拒否される恋愛。そもそも対象として見てさえもらえない……。告白したら、友情も信頼も、人としての尊厳さえ、失ってしまう。だから、」

 さらに何かを言おうと、古海が息を吸い込んだとき……。


 派手な音を立ててドアが開けられ、典子が飛び込んできた。

 すっかり見慣れた、緑のジャージ姿だ。

 水色の薄い本を、頭の上に掲げている。

 「直緒さん、これ、この本……」


 典子はそこで、古海に気がついた。

 本を抱えた手を下ろした。


「あれ、古海。なんで会社ここに?」

「直緒さんにお夜食をお持ちしました。今日は、お嬢様の腐部屋にお入り頂いて、私としては、いわば、借りができたわけですから」

「借りなんかなくても、お夜食をお持ちするのはいいことだわ。……って、人の部屋のことを、まるで魔窟のように言わないでよ!」

「違いますか」

「違うに決まってますっ!」


 典子は、どん、と足を踏み鳴らした。

 古海はため息をついた。


「もう乾いたんですね。まったく、ジャージというのは乾くのが早くて。メイドも、もう少し気を使えばいいのに」

「あら。彼女は、気を利かせて、早く乾かしてくれたのよ。それより、直緒さん!」


 典子は直緒に、うすっぺらな本を差し出した。

 仮綴じの、本というより、冊子という方がふさわしい。


「これ。是非読んでください! 心の憂さが取れます!」

「心の憂さ?」

「あら、違ったかしら? 古海が言ってました。直緒さんは、法事の席でお辛いことがあったんです、って」


 直緒は思わず古海を見た。

 古海は知らん顔をして、カップにコーヒーを注いでいた。


「全く、親戚というのは、余計なことばかり言うものです。わたしにも、心当たりがあるのです」


処置なし、という風に、典子は頷いた。


「でも、気にしないことです。基本的に、あの人たちは、鈍感ですから。年はとりたくないものです、あ。若くても嫌なやつはいますけど。……あら、ドリア。おいしそうね。わたしも頂こうかしら。古海、私の分も持って来て」

「若い女性が、夜遅くに、こんなカロリーの高いものを召し上がってはいけません。少しはスタイルのことを、お気になさるべきです」

「スタイルなんて」

典子は鼻を鳴らした。


 コートを掴み、直緒は立ち上がった。

「それ、召し上がってください。僕はもう、帰りますから」

「あら、そお? じゃ、プリンも……」

「お嬢様! 脂肪は腹からつくんですよ? 胸より腹がつき出たら、どうします?」

「あああっ、言ってはいけないことを。お父様にいいつけてやるっ!」

「お嬢様だって、先週のコミケで私立探偵を雇ったこと、社長の耳に入ったら……」


 私立探偵?

 確かにそう聞こえた。


 だが、直緒の疲れ切った心は、もう、何に対しても興味を持てなかった。

 言い争う声を背に、彼は、重い樫材のドアを閉めた。

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