愛があるからヤるんです
「どうでした、あの本は」
典子がそう尋ねたのは、それから一週間後のことだった。
それまでにも、何度か、感想を求めたさそうな顔をしていた。
直緒の回りをうろうろしたり、意味もなく手元を覗きこんで来たり。
その一切を直緒は無視していた。
だって。
あの本の感想を言えば、読み終えた時の感動が、薄まってしまうように感じたから。
物語の世界が、自分ひとりのものではなくなってしまうような気がしたから。
借りたその夜のうちに、本は読み終えていた。
薄い本だからすぐ読めると開いた途端、目を離せなくなったのだ。
気がついたら、深夜を回っていた。
頬を温かい涙が流れているのに気づき、直緒はうろたえた。
前に泣いたのは、いったいいつ?
それくらい長い間、直緒は、泣いたことがなかった。
「うふふ」
不気味な声で、典子が笑った。
「うふふ」
「な、なんです?」
「お気に召しまして? 萌えましたでしょ?」
いやに気取って尋ねてくる。
そうか。この気持ちが萌え……。
少し苦しいような、でもとても甘くて優しくて……。
あの小説の主人公を想うたび、現実は遠のき、ただただ、愛おしい……。
目の前に垂れ下がっていた鱗が、切って落とされた気が、直緒はした。
今、みなみのことを思っても、心が乱されることはなかった。
忘れてしまったわけではないけど、みなみの姿ははるか遠くへ押し流されて、直緒の心を傷つけることは、もうできない。
人によって傷つけれられた心を癒す力、それが、萌え……。
典子が、にたりと笑った。
「次も貸しましょうか? もっと濃ゆいやつを。うふふ」
「次が、あるんですか?」
「シリーズじゃないですけど。くりいむ先生の作品なら、たくさん持ってます。直緒さんに貸した作品は、ほんの
なんだか、威張ってる。
笠に着ている感じだ。
直緒はちょっとためらった。
直緒は、この作品に出てきた恋人たちがよかった。
いくら同じ作者の作品でも、違うカップルが出てきたら、どうだろう。
同じように「萌える」ことができるだろうか。
「編集長、」
静かに直緒は言った。
「書いてもらいましょう。くりいむ先生に。モーリス出版で!」
「え?」
「僕、萌えという気持ちが初めてわかりました。心が癒されるということも。この思いを、たくさんの人々に、分けてあげたい」
「直緒さん」
典子が立ち上がった。
淡いピンクのスカートをはためかせて駆け寄ってくる。
「良く言ってくれました! 直緒さん!」
そして、直緒の両手を、自分の両手で握りしめた。
「わたしはいままで、誤解と偏見のまなざしで、くりいむ先生のご高著を見ていました。くりいむ先生のご本は、モーリスにはふさわしくないと思っていたのです。なぜなら、」
小首を傾げた。
非常にかわいらしいと、直緒は思った。
「なぜなら、R越えの頻度が、非常に高いからです。30ページ毎にやってますし。しかもそのうち20ページは、R描写です。やり過ぎじゃないかしら。どう思います?」
「えっ?」
「でも、今の直緒さんの言葉で、わたし、気がついたんです。愛です! 愛があるから、やるんです! ああ、こんな単純明快なことに、どうして今まで気がつかなかったんでしょう!」
典子の手のひらは、小さかった。
小さくてよく乾いていて、温かかった。
爪には、何のアートも施されていない。
きれいな桜色の爪だった。
やや、伸び過ぎの感もあるが、これは、パソコンのキーボードを叩いているからだろう。
直緒は、典子の手に気を取られていた。
「さあ、行きましょう、直緒さん」
「へ?」
握った両手をぐいぐい引かれた。
「ど、どこへ……?」
「決まってます。くりいむメロン先生のご自宅です! 原稿依頼に行くのです!」
「そうだ!」
直緒は我に返った。
「そうです! 書いてもらいましょう! あの素晴らしい萌えの世界を!」
急に実務的な常識が、直緒の頭に押し寄せてきた。
「でも、この本には奥付がないけど、先生の連絡先をご存じですか? それに、アポなしで伺うのは、ちょっと」
「アポなしは、情熱で押し切るものです!」
典子は叫んだ。
「くりいむ先生の住所なら心配しなくていいのです。すでに突き止めてありますから!」
「つ、突き止めるって……?」
「私立探偵に尾行させたのです! 直緒さん、忘れてはいけません。わたしの方が、くりいむ先生の大ファン歴が長いのです!」
「……」
「失礼します」
こほん、と咳ばらいが聞こえた。
開いたドアの向こうに、古海が立っていた。
「すっかりお忘れのようですが、お嬢様、今日の午後は、ご予定が入っております」
「予定?」
「大事な大事なご予定でございます」
「くりいむ先生に原稿を依頼する以上に大切な予定なんて、この世にはないわっ!」
「それがあるのです。お嬢様。これから美容院へ参りますよ」
「び、美容院……」
典子の顔面から、音を立てて血の気が引いていくようだった。
「美容院ですって?」
「そうです。その、パーマのとれかかった髪の毛、お見苦しうございます。すでに、直毛になりかかってます。一刻も早く、いつもの美容師に、手入れをしてもらわなくては」
「いやよ。わたしには大事な任務が……」
「その頭での外出は、許しません。この古海、家令としての名誉にかけて、人様のお前に出すわけにはまいりません」
「直緒さん、行くわよっ!」
典子がぱっと駆け出した。
古海の横をすり抜け、オフィスの外へ走り出る。
直緒は慌てて後を追った。
「二手に分かれてあのコンコンチキをまくの! 直緒さんは左」
そう言うなり、自分は右手、玄関に向けて突っ走っていく。
「こ、これはっ! こしゃくな真似をっ」
後ろで古海が歯ぎしりする音が聞こえた。
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