第3章 腐女子が嫁ぐとき
腐部屋の妖怪
深夜のライン。
「ただいま」(既読)
「おかえり」
「明日まで休みだよ。どこ行こうか?」(既読)
「どこへも行かない」
「でも、すごくいい天気だってよ?」(既読)
「私達、別れよう」
「え?」(既読)
「もう、会わない」
「待って。冗談? わけわからんない」(既読)
「そっちからも連絡してこないでね。じゃ」
「ちょっとまって、せっかく就職できたのに、仕事、慣れてきたのに、まtて、まだ、だいjなはなししてない」(未読)
**
「おお、直緒さん。お休みの所、申し訳ありません。法事はいかがでしたか。昨日お帰りだと聞いていたもので。何も予定がなかったのなら、よろしいのですが」
田舎で法事があり、直緒は、1週間ほど、留守をしていた。
その最後の休日のことである。
「予定はありましたけど、キャンセルになりました」
「それはよかった」
「よくありません!」
「?」
古海は、怪訝そうに眉を上げた。
天気のいい日曜日だというのに、黒いスーツで身を固めている。まるで、異界からの使者のように見える。
「どうかされましたか、直緒さん。なんだかやつれて見えるというか、全体的に水気が少ないというか……」
細長い指が、すっと伸びてきた。
「ほら。お肌がかさかさしている」
「なにするんです。また、盗聴器を取り付けようとしてるんじゃないでしょうねっ」
「まさか。顔につけるわけないじゃないですか」
「あなたには、前科がありますからねっ」
「疑い深い人だな。久しぶりだし、ちょっと、直緒さんに触ってみたかっただけです」
「あなたが触りたいのは、典子さんでしょ。盗聴器だって、ほんとは、典子さんにつけたかったくせに」
「……そうだ! お嬢様だ! こんなことをしている場合じゃない!」
慌てたように、古海が叫んだ。
「来てください! お嬢様が大変なんです!」
一乗寺家所有の、広大な邸宅の一階に、モーリス出版はある。
オフィスへは、玄関から直通で行けるので、直緒は、それ以外の場所へと足を踏み入れたことはなかった。
古海は、ためらうことなく、玄関ホールから続く広い階段を上っていく。
ホールは吹き抜けになっており、豪華なシャンデリアが、重そうに垂れ下がっている。
階段は途中で二つに分かれ、古海は左側を先に立って上って行った。
「エレベーターもあるんですがね。普段はなるべく、階段を使うようにしております」
背を向けたまま言う。
「お嬢様の私室は2階の奥です」
「こんなに広かったんですね」
直緒はため息をついた。
階段を上り切り、長い廊下を歩いていく。
その廊下も、階段で二分されている片方に過ぎない。
ぴかぴかに磨きたてられ、窓からはふんだんに日の光が射しこんでいた。
古海が、ふっと笑った。
「この屋敷は、別宅です。本来、お嬢さまの弟さんがお母様と使っておられたのですが、今では、お嬢さまがこちらに移られて、入れ替わりに、お母様と創さまが、旦那様のいらっしゃる本宅で暮らしておいでです」
「あれ? 典子さんのお母さんは、亡くなられたんじゃ……」
「ですから、創さまのお母様です」
なんだか、複雑な事情がありそうだった。
「じゃ、この広いお屋敷に、あ、別宅か、典子さんは一人で住んでいるんですか?」
「わたくしがご一緒に」
「えっ?」
「あと、メイドとコックと」
「ああ、そうか」
「わたくしたちの部屋は、一階にあります。地下は収納室になっていて……ここが、典子さんのお部屋です」
廊下の突き当たりは、無垢材のドアだった。
温かみのある木のドアに、無造作にプレートが垂れ下がっている。
プレートには、丸い字で、
「のりこのへや」
と書かれていた。
古海の話では、先週の金曜日から、典子が部屋から出てこない、ということだった。
食事にも出てこないし、風呂にも入らない。
トイレには行っているらしいし、部屋の前に置かれた食事は食べている。
しかし、誰も、その姿を見かけたものはいない。
「1週間ですよ? 1週間」
古海がため息をつく。
「直緒さんがいなくなった途端、着替えもせず、叱ったら、オフィスへ顔を出すこともなくなって」
直緒が法事に出かけると、典子は、普段着のジャージ姿で、モーリスのオフィスへ出てくるようになったという。
古海が言うには、前の社員が辞めて直緒が就職するまでの間、典子は、ジャージで仕事をしていた。
しかし、直緒を雇ったのを機に、そういうことは止めたのだという。
「あの、ピンクのぴらぴらした服もどうかと思いますがね。でも、中学時代から着続けているジャージよりはましなわけで」
どこをどう間違えたのか、典子は、ゆるふわファッションを労働着だと思っているらしい。
直緒を採用し、典子は、きちんと……彼女なりのポリシーで……服装を整えて、会社に出るようになった。
それが、直緒が法事でいなくなったとたん、また、だらけだした。
見かねた古海が、少しきつめに注意したところ、部屋から出てこなくなったというのだ。
実の所、引きこもりたいのは、直緒の方だった。
ゆうべ、3年もつきあっていた小島みなみに、別れを告げられた。
深夜のラインで。
全く突然のことだった。
わけがわからなかった。
いったいなにが、自分の身に起きたのか。
そして、なぜ。
理由が知りたかった。
直緒は、共通の友達に聞きまくった。
「突然? そりゃ、ひどいなあ」
大学時代の友人は、同情してくれた。
「兆候はなかったのか?」
「全く。俺が法事に行くときだって、いってらっしゃい、気をつけていってきてねって」
「あー、ラインで絵文字やスタンプを使わなくなったとか、最近、返信を送ってくる間隔が長くなったとか、彼女から新しい話題を話さなくなったとか?」
「……全部あてはまってる」
なんてことだ。
知らず知らずのうちに、みなみの心は、自分から離れていたというのか。
別の友人は、よりショッキングな話をしてくれた。
既にみなみは、別の男と暮らしているという。
取引先の会社の、重役の息子だという。
「ひょっとして、俺と、フタマタかけてた、とか?」
「そうよ。知らなかった?」
友人は、あっさりと肯定した。
知るわけなかった。
だって。
だって直緒は、
……プロポーズするつもりだったのだ。
翌日のデートで。
やっと正社員になれたから。
指輪も買ってあった。
「みなみね。BL作ってる会社の社員はキツイわー、って言ってた。将来、子どもにどう説明するのよって。あたし、どうせブラックだろうし、そんな会社、きっと長く勤められないから大丈夫よって言ったんだけど」
全ては、始まっていたのだ。
ただ、直緒が知らなかっただけ。
……。
「直緒さん? 直緒さん?」
「わっ!」
古海が直緒の両肩に手をかけ、顔を覗きこんでいた。
身長の高い彼は、背を丸め、直緒の体を包み込むようにしている。
「なんですっ、古海さん!」
「だって、急にぼーっとしちゃったから。大丈夫ですか?」
「大丈夫ですっ。むやみやたらと人の体に触るのは、止めて下さいってばっ」
「だから私が触るのは……」
「もう、いいですっ!」
いらいらと直緒は言った。
「ほんとうにもう、大丈夫ですからっ!」
「それじゃ、お願いしますよ。お嬢様をお部屋から連れ出せるのは、直緒さんしかいないんですから」
「でも、僕にどうやって?」
一介の部下ごときに、そんなことができるのだろうか。
「まさか僕に、部屋の前で裸踊りをしろというわけじゃないでしょうね?」
「いいですね、それ。日本神話の定石です。日本人としてあるべき姿です」
なぜかうきうきと古海は答えた。
「さっそく楽団を呼んで音楽を。服は、一枚ずつ脱ぐのが好みです」
「誰の好みですかっ! しませんよ、裸踊りなんて」
「なんだ。期待してたのに」
「……ドアを蹴破りますか?」
「相当、いらいらしてますね。でも、鍵なら、ほら、ここに」
ちゃりん、と、リングに通したキーを渡される。
「鍵、あるんですか? じゃ、何の問題もないじゃないですか」
「男の私が、お嬢様の部屋に入るわけにはいかんのです」
「僕だって男です!」
「直緒さんはいいのです」
「古海さんはダメで、僕はいいって……どういうことですか?」
「それは、直緒さんは受けですから。お嬢様が、そうおっしゃってました」
そしてきっぱりと言った。
「でも、私は違う」
眼鏡がきらりと輝く。
思わず直緒は、頭を掻き毟った。
「ああっ! もうっ! わけがわからないですっ!」
古海は、冷たい目で直緒を見すえた。
「あんなに言ったのに、まだ、覚悟ができてませんね」
「なんの覚悟です、なんのっ!」
「BL編集者としての、です」
「そのBLのせいで……」
思わず胸の内ポケットに手をやった。
今日、みなみに渡すつもりだった指輪を入れっぱなしだったことを思い出したのだ。
「BLのせいでどうしたというのです?」
打って変った優しい声で、古海が尋ねた。
「……」
言えるわけがなかった。
典子の部屋の前で。
BLの編集者になったから恋人にふられた、などと。
それは、自分の仕事だけでなく、典子をも、否定することになる。
「直緒さん」
古海が言って、一歩踏み出した。
じっと直緒の目を見つめている。
圧倒的な熱量を感じ、直緒は思わず後ずさろうとした。
しかし、体が動かない。
ヘビに睨まれたカエル状態だ。
「直緒さんは……」
長い腕が伸びてきて、直緒の胸を、すっと撫でた。
「ココが痛い」
「痛くなんかありません!」
直緒は叫んだ。
「僕は、どこも痛くなんかありません!」
「なら、いいでしょう。鍵、開けますよ」
あっさりと、あまりにあっさりと古海は、直緒に背を向けた。
鍵穴に鍵をいれ、かちゃりと回す。
「このミッションを遂行できるのは、直緒さんしかいません」
「だから、なぜ僕なんです? 僕も男ですよ? この屋敷には、メイドさんもいるんでしょ? メイドさんに部屋に入ってもらえばいいじゃないですか」
「そんなこと、駄目に決まってます!」
振り返って、鼻息荒く古海が叫んだ。
「この部屋には、断固として、メイドを入れることはできませんっ!」
「でも、メイドさんは女子だし、」
「女性だからですっ!」
「典子さんも女子……」
「メイドが腐ったら、どうしますかっ?」
「は?」
「駄目といったら、駄目ですっ! 家令の私が禁じます! 私には、一乗寺家の使用人を守る義務があるのですっ!」
わけがわからなかった。
古海が大きく息を吸い込んだ。
「一人だけ、この部屋に入れるメイドがいるのですが。生憎彼女は、休暇中で」
やや落ち着きを取り戻したようだ。
噛んで含めるように言う。
「でも、あなたなら大丈夫。直緒さん。あなたのようなトーヘンボクなら、さしもの腐敗菌も、パワーを発揮できんでしょう」
思わず直緒はつぶやいた。
「とうへんぼく。唐変木。中国の唐に由来する。同じ範疇の言葉に、唐辛子。確かに、唐辛子は腐りにくい……」
「やっといつもの直緒さんに戻った!」
古海が嬉しそうに笑った。
「あなたはそうでなくっちゃ。さあ、頼みますよ。腐部屋から、お嬢様を連れ出して下さい」
部屋の中は薄暗かった。
古海が腐る腐ると言うせいか、妙な匂いがするような気がする。
動物性の、甘ったるい、でも、なんだかとても親しみのある匂いだ。
「典子さん……」
ささやくように直緒は言った。
「いてっ」
躓いた。
ずさ、っと、何かが崩れる。
スマホの灯を頼りに見ると、本の山だった。
よく見ると、あちこちに、本やらCDケースやらが、積み上げてある。
足の踏み場もないとは、このことだ。
崩れた山の向こうから、光が漏れて来るのに、直緒は気がついた。
低い位置から、赤っぽい光が発せられている。
明かりの上に、布団が被せられているようだ。
布団のふくらみから、誰かいるのだろう。
「典子さん?」
恐る恐る直緒が呼ぶと、もそもそと布団が持ち上がった。
ゆっくりと、顔をこちらに向ける。
「……」
顎の下から照らす角度で、明かりが揺れる。
ぼんやりと顔だけ浮かび上がった。
「ぎゃっ」
「どうしましたっ!」
直緒が叫ぶと、間髪入れず、部屋の外から古海が叫び返す。
「ば、ばけ、ばけ、ばけ……」
「ばけつですか? 吐きそうなんですか?」
「ばけもの!」
「えっ! そこまで腐ってるんですかっ!」
ゆらーりと、長い髪が揺れる。
直毛だ。
髪の脂の匂いが、ぷんと鼻を刺す。
……典子さんは、ゆるふわヘアだったはず……。
下から読書灯で照らされた顔が、くしゃりと歪んだ。非日常的な影が、あちこちに投射されている。
「あなた、だれ?」
だが、まぎれもなくそれは、一乗寺典子の声だった。
直緒の上司の声だ。
「も、本谷です。本谷直緒」
「直緒さん!」
典子は飛び起きた。
布団の上に乗っていた薄い本が、ばらばらと落ちる。
「なぜここに?」
「の、典子さんが部屋から出ないから……その、古海さんが……」
自分でも要領を得ない。
「部屋から出ない? いいじゃないの、一晩くらい」
「えと。一晩ということではないはずですよ」
「それじゃ、二晩かな?」
「もっとです」
「? 直緒さん、今日、何日?」
「4月25日です」
「うそ……。18日じゃないの?」
「違います。間違えるわけない。だって……」
……今日は、プロポーズ記念日になるはずだったから。
直緒は言葉を呑みこんだ。
「大変! 仕事がっ! 直緒さんが割り付け終えた原稿がまだそのままっ。早く電子書籍に変換しなくちゃ。……あれ? 直緒さん? なぜここにいるの? 法事は?」
「だから、もう、帰ってきたんですって。1週間経ったんです」
「きゃぁああああああーっ!」
典子が悲鳴をあげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます