ある意味最強のラスボス



 「……以上が本日の来客です。面談時間は予定通り。よろしいでしょうか、参事官。……参事官?」


 返事はなかった。

 内閣官房藤堂参事官付秘書、倉科久美は、読んでいたスケジュール表から目を上げた。


 はっとしたように、藤堂が目を上げる。

「あ……。変更はないのだね?」

「ありません」

「……」


 藤堂はまた、もの思いの海に沈んでいきそうになった。

 憂愁に閉ざされたようなその目が、ふと、久美が手にしたタブレット端末に止まる。


「スケジュール……」

かさかさに乾いた唇がつぶやいた。

「あの日私は、都知事と会う予定ではなかったのかね?」

「いいえ。悠里ゆうり美布留みふる氏との面談が設定されておりました」

「だが、その名に聞き覚えがない」

「わたくし、てっきり、芸能人の名前かと」

「ああ、君は、テレビを観ないのだったね」

「はい、エンターテイメントに疎いもので」


 別の方面のエンタメに造詣が深いのだが、職場で口にすべき話題ではない。



 あの夜の大騒ぎは、官房内の噂になっている。

 一般職員の退庁時間も過ぎた頃、藤堂参事官の元に、大変な美形の来客があった。

 それだけでも、残業中の女子職員の間では事件だった。


 それから一時間後。

 ビルの警報器が、けたたましい音を立てて響き渡った。

 この時点ではまだ、警報機の誤作動だろうと、書類から目も上げない者も多かった。


 まもなく、参事官室のドアが荒々しく開けられ、続いて、男の大声がした。

 藤堂参事官の声だ。

 人がもみあっているような物音もする。


 警備員が駆けつけた。


「捕まえろ。彼を、捕まえるんだ!」

悲鳴のような参事官の喚き声がする。


 曲者の姿は、既になかった。

 藤堂を参事官室に監禁し、曲者は、非道にもムチで打ち据えたらしい。


 後でわかったことだが、参事官の体には、あちこちに、真っ赤に熟したみみずばれができていた。

 こんなに打たれるまで、されるがままだったとは……。

 診療医は絶句していた。



 警備員たちは、いっせいに走り始めた。

 だが、彼らは、天井から降り注ぐ、大量の水に阻まれた。

 廊下の天井に設置されたスプリンクラーが作動したのだ。

 曲者が逃げながら、スプリンクラーの感熱部に蝋燭の火を近づけていったらしい。


 なぜ賊が、火のついた蝋燭を持っていたのかは、不明である。


 水の煙幕は、非常口まで続いた。

 警備員の一人は、怪しい男が、悪魔の起こした風に乗って走り去って行くのを見た、と言い切った。

 不吉なまでに妖艶な男だったという。


 警備員にSPも加え、少し遅れて参事官もビルの外へ走り出て行った。

 だが、彼らは、空手で戻ってきた。


 魔物のような美麗な来客は、忽然として、夜の永田町に消えてしまったのだ。




 「以前回収した盗聴器はどうしたかね? 警察庁の羽鳥警視が持ち込んだものだが」


久美があの夜のことを思い出していると、参事官が尋ねた。


「データの復元が不可能だったので、まだそのままになっておりますが」

「早急に破棄しなさい」

「は?」

「それが、彼の希望だから」

「……?」


 BLの弾圧を中止することじゃないのか、と、久美は力いっぱい思った。

 だが、今ここでそれを言うわけにはいかない。

 この件に久美が絡んでいることが一切わからぬよう、せっかく、配慮してもらったのだから。


 だから彼女は、あの男の正体を知らない。

 藤堂参事官を訪ねた……そして、内閣府庁舎を水浸しにした……あの、悪魔のように整った顔立ちの男の正体を。


 知らない方がいいと、山田ハナコ、元公安スパイは言った。

 大変残念ではあるが、腐った趣味を続けるためには、お金がいる。久美には仕事が必要だった。

 関与がバレて、失業するわけにはいかない。


 それ以上、聞くことはできなかった。

 一礼して、彼女は退室しようとした。



 あの日から、藤堂参事官は変わってしまった。

 もの思いにふけってばかりいて、仕事の効率も悪い。体はここにあるが、心はどこか遠くへ置き忘れてきたようだ。



 ……私も山田さんも、間違っていたのだわ。


 藤堂参事官が、あの、不吉なまでに美麗な男を想っているのは、一目瞭然だった。

 腐女子でなくても。

 それは……。

 つまり……、


 ……藤堂参事官は、受けだったのよ! 白鳥警視が攻めで。


 ……そして今は、参事官の心は、白鳥警視から離れて……、

 ……つまり、

 ……ビッチ受け!


 この件に関して、早急に山田と話し合う必要があると、久美は思った。


 「……白鳥警視に聞けば、わかるだろうか」

立ち去りかけた彼女の耳に、つぶやくような声が聞こえた。

「シブタニの一乗寺家に、悠里美布留という青年がいるかどうか」


 顔を上げて、彼女はきっぱりと否定した。


「一乗寺家別邸には、そのような人間はおりません。別邸には、一乗寺家令嬢が居住しています。男性の出入りは、一切禁じられているはず」

「男はいないと?」

「存在を許されているのは、番犬くらいのものでしょう」

「ふうん。そうまでして、腐った娘を守っているというのか?」

「腐ってはいても、大事な令嬢、」

「いや、むしろ守られているのは、世間一般の男の方だろう。男性が、あの娘に近づいたら危険だ。堕落への第一歩だ。そう思わないかね、倉科秘書官」

「……」


 久美が答えられずにいると、もう行けと、藤堂が手を振って示した。

 久美は、静かに退出した。



 もちろん山田ハナコは、一乗寺家別邸の家令の話もしてくれた。

 「回りが見えない皮肉屋で、超生意気」だと、山田は言っていた。

 とにかく、サイアクな男らしい。


 ただ……。

 彼には、恋人がいるそうだ。

 それも、「このうえもなく美しく、その上優しい」「男の」恋人だという。


 そういうことなら……。

 この恋を守ってやるのが、腐女子の心意気というものであろう。

 一乗寺家別邸に、政府の手を入れさせるわけにはいかない。




 その日の午後遅く、内閣官房参事官室へ、一本の電話があった。

 外務省経済局からだった。

 それは、日本の出版文化及び、少子化対策に決定的な影響を与える一報だった。



**



 バスを降り、小さな町の人通りの少ない商店街を、直緒は走った。

 降りたシャッターの目立つアーケード街を、一気に駆け抜ける。


 医院の看板を掲げた門柱が見えた。

 微かに、消毒薬の匂いがする。


 その門を潜って、黒い服を着た人影が、ふらふらと出てきた。


「古海さん!」

直緒は駆け寄った。

 左手で右腕を抑え、古海は微笑んだ。

「おじい様は、許してはくれなかったけど、……気は済んだんじゃないでしょうか」


 古海はコートを着ていなかった。

 無言で脇に回り、直緒はセーターをめくり上げた。

 息を呑んだ。

 腕から背中にかけて、赤く腫れあがっている。


「ひどい打ち身だ。あしたにはもっとすごいことになりますよ?」

声が震えた。

 平然と、古海は答えた。

「これくらい、安いものです。あなたの隣に私の存在を割り込ませる為なら」

「反撃、しなかったのですか?」

「ええ」

「古海さん……、一人で行ってはだめだって、一緒に行こうって、あれほど言ったのに」

「ふふふ」

「なんです」

「かわいかったです、あなたの寝顔。起こすのにしのびなくて」

「……、……」



 「直緒!」

がらがらと引き戸が開いて、竹刀を持った老人が現れた。

 寄り添っていた二人は、慌てて離れた。


 老人……直緒の祖父、本谷剛造は、激怒していた。

「それは男だ。お前の隣にいるのは、男だぞ。わかっているのか、直緒!」

「わかってるよ!」

「わかっ……」


 剛造は喉を詰まらせた。

 わななく声で続ける。


「わかってて……男が男と……男同士で……男、男……」

「男男、言うな!」

「だって、お前が、男……」


「二人とも、声が、」

古海が割り込んだ。

 「いいんです、古海さん。もう、どうなったって」

猛り立つ直緒に向かって、古海は小声で諭した。

「よくないです。あなたは私と一緒にいればよろしい。でも、おじい様のことを考えなさい。おじい様はこれからもここで仕事をし、生活していくんですよ?」

「……」


 二人から離れて立ち、老人は怒りに震えていた。

 直緒は無言で祖父の脇を通り、家の中に上がりこんだ。

 続けて玄関の中に入ろうとした古海の腕を、剛造が捕えた。


「あんたはだめだ。直緒はワシの孫だ。二人で話をする。それにこれ以上あんたを打ち据えたら、救急車を呼ばなくちゃならなくなるからな」




 居間に、直緒は胡坐をかいて座った。

 剛造は、続きのダイニングの椅子に腰を下ろした。


「なんだ、ジジイ。こっちへ来ないのか」

「うるさい。お前こそ、こっちへ来い」


 直緒はのそりと立ち上がり、椅子を引いた。

 対面に座ろうとして、テーブルの下に、剛造の脚があるのに気づいた。まっすぐに伸ばされている。

 膝を曲げると、痛むのだ。


 直緒の心に、細かなさざ波が、いくつもたった。


 そういえば、このダイニングセットは、直緒が東京に出てから買ったものだ。

 子どもの頃は、祖父と二人、居間のちゃぶ台で、畳に座って食事をしていた。



 「勝手に見合い話をもってきて悪かった。それは謝る」

 剛造、最大の譲歩だった。


 祖父が譲歩したことが、直緒にはわかった。

 だが……。


「ジジイが謝るのは、古海さんにだろ。あの人を、あんな目に遭わせたことだろ?」

「向かってこなかったやつが悪い。あいつは、竹刀を手に取ることさえしなかった」


 その時のことを、剛造は思い出した。

 この家の裏に、古びた御堂がある。

 そこの冷たい床の上で、あの男は、最初から最後まで、正座を崩さなかった。

 剣道三段の剛造が、激しく打ち据えている間も。



「『あいつ』はやめろ。名前がある。古海さんだ」

 剛造は鼻を鳴らした。

「古海という血筋は、あいつで終わりだ。そういうことなんだ、男同士というのは!」


「それは、あの人の選んだことだ」


「……なあ、直緒。人は、何のために生まれてくると思う? 人間の一生は、驚くほど短い。その間にできることは、限られている。だから、次の世代にバトンを渡すんだ。バトンを持って懸命に走り、次の走者に渡す。それが、人ってもんだ。この世界を少しでもよくするために、人は、何代にも亘って努力しなくちゃならないんだ」


「俺は、家や国や、まして、人類の繁栄の為に生まれてきたわけじゃない」


「違うのか!?」

「違うよ!」

「じゃ、何のために生まれてきたんだ!」

「知ったことかよ、そんなことは!」

「この考えなしがっ! だからお前は、」


「いいじゃんか。ジジイには俺の他に3人も孫がいるんだから」

「あいつらは勘定外だ! だいたい、その親も含めて、ワシのとこへなんか、ちっとも来やしない!」

「そんでもジジイの血統は残るわけだから。安心しろ。役割は充分果たしたじゃないか」


「ワシの役割じゃない! お前の役割のことを話してるんだ!」

「同じだよ。どうせ、もとをたどれば、アダムとイブだし」

「お前は……」

「それに、人類滅亡の日まで生きてた子孫がいたら、恨まれるぜ、ジジイ。人類の最期なんて、どうせ、ろくな死に方はしないんだからなっ!」

「口の減らない……」


「穏やかに減っていったほうがいいだろ。人の数は、さ」

「それは、あいつの受け売りか?」

「あいつじゃない! 古海さん、言え!」

「古海ってやつがお前にそう教えたのか!?」

「あの人が先のことなんか、考えるか! 古海さんこそ、本能の赴くままだ。何も考えてないよ!」


「お前、男という以前に、そんな男……」

「古海さん!」


「「男が相手だと、男はどれだけ残酷になるか……ワシはさんざん、診てきたんだぞ!」

「あの人は、Sじゃない!」

「はあ? Sってなんだ?」

「いや……」


「教育が足らんかった。子どもだと手加減せず、仕事で知りえたことを、お前に話すべきだった」

「さんざん話してたじゃないか!」

「足りんかった。もっともっと具体的に、赤裸々に、だ!」

「う……」

「男が男を……」

「だから、」

「許さん!」

「……だから、男男言うなっつってんだろ!」


 慈しみ、愛情込めて育ててくれた人の前で、直緒は、せいいっぱい凄んだ。


「俺は男が好きなんじゃない、古海さんが好きなんだ!」



**



 置き去りにされた黒犬のように、古海は玄関の外で待っていた。

 直緒が乱暴に引き戸を開けると、はっとしたように顔を上げた。

 喜びと申し訳なさの入り混じった、複雑な表情をしていた。


 「あの、……」

「行きますよ、古海さん!」


 古海の横を、直緒は大股で通り過ぎた。

 慌てて古海が後に続く。


 力任せに閉めた玄関の戸が、再びがらがらと乱暴に開けられた。

「直緒、お前なんか、勘当だ! もう二度と、帰って来るな!」

竹刀を振り回し、剛造が、大声で喚く。

 

体ごと祖父に向き直り、直緒は叫び返した。

「望むところだ! 誰が帰るか、このクソジジイ!」

「なんだと? その言葉、忘れるなよ!」

「それはこっちのセリフだ!」


 家と剛造に背を向け、ぐんぐんと、アーケード街を歩いて行く。


 「直緒さん、」

後ろから古海が強く呼びかけた。

「直緒さん!」


 直緒はくるりと振り返った。

 二人で話し合ったことだ。

 これを伝えなければ、古海は許してくれないだろう。


 病院の看板の下で、仁王立ちしてたままの老人に向かって、大声で叫んだ。

「だけど、介護はちゃんとするからな! ボケる前に連絡寄越せよ!」


 息を詰めていた古海が、初めてほっとしたように吐息を吐いた。



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