ストレス解消




 一乗寺別邸に戻ると、典子は居間で、ホットココアを飲んでいた。

 緑のジャージに着替え、赤い眼鏡を掛けている。


「あ、直緒さん」

直緒の姿を見ると、カップを持ったまま駆け寄ってきた。

「古海を見なかった? 一緒に帰ってきたのだけれど、あなたの所へ行くと言って、また出てっちゃったのよ」

「馬鹿なことを!」

「大丈夫、まだ出て行ったばかりだし、今、メールを……」

典子はスマホを取り出した。


 「典子さん、」

直緒は言った。

「藤堂参事官は攻めではありませんよ。そういう……人、であるかどうかは知りませんが、どちらかというと、彼は、受けです」

「え? えええーーーっ!」


典子の手から、スマホが滑り落ちた。


「じゃ、わたしは、受けの所へ古海を……?」

「そういうことになりますね。もし彼が、本当にそうだとしたら」

「あら、含みのある言い方ね。少なくとも藤堂さんは、男の人が好きなの!」

「そうでしょうか」

「そうよ! そうに決まってる! 直緒さんだって今、藤堂さんは受けだと……」


はっとしたように宙を見据えた。


「嘘よっ! 彼は攻めよ! だってハナちゃんやお友達が、わたしに嘘をつくわけはないわっ!」

「じゃ、間違えたんでしょ、単純に」

「だって、古海が直接確かめた筈よ? 色仕掛けで落として。藤堂さんの恋人の、白鳥警視を」


「誰が誰を、色仕掛けで落としたんですって?」

凍てつくような声が聞こえた。


「ふっ、古海……早っ! 戻って来るの、早すぎっ!」

「それは、走って参りましたから」


 まっすぐに直緒に歩み寄る。

 冷たい外気の匂いがした。


 古海は言った。

「直緒さん、信じて下さい。私は誰も色仕掛けで落としたりなんかしていません!」

「……」


微妙に直緒はあとずさり、古海から距離をとった。


「直緒さん……怪我、してる……」

動転した声を、古海が出した。

「頬に血がにじんでる……」

「転んだだけです」

直緒は応じた。伸ばされた手から逃れるように、さらに後ずさる。



 「それで、古海。藤堂参事官、どっちだった?」

目を輝かせて典子が割り込んできた。


 古海の震える手が、途中で止まった。

 彼は振り返った。

「どっちとは?」


 「だから、彼、攻めなんでしょ? でも直緒さんは、受けだというの!」

「ああ、藤堂参事官ね」

古海は言った。

 聞いたこともないくらい、冷酷な声だった。


 ふい、と彼は語調を和らげた。

「篠原さんの渡してくれたバックには、いろいろなモノが入っていましてね」

意味ありげに、言葉を切った。

「私は本気で、駒場君の身が心配になりましたよ」


「駒場君? ああ、立て籠もり事件の時、怪我をした篠原さんについていてくれた人ですよね。あれ以来お会いしてませんね」

直緒が反応すると、典子が小首を傾げた。

「あら、駒場さんなら、ちょくちょくここへ来てるわよ。モナちゃんと会いに」

「もなみさんと? ……ああ、そういうことか。お似合いですね、あの二人なら。今度、僕も彼に会いたいな」

「わかった。次に駒場さんが来た時……」


 「お嬢様!」

古海が鋭く制した。

「あ……」

 典子の顔に狼狽が走った。

「わたし、モナちゃんと約束したんだった。直緒さんを駒場さんに近づけないって」


「え? なんでまた、そんな約束を?」

「駒場さんが直緒さんを好きになったら困るから」

「そんなことあるわけないでしょ。いやなこと、言わないで下さい。あなたはなにをこそこそしてるんです、古海さん」

「そんなの。若くてハンサムで、感じのいい有能な男をあなたに近づけたくないからにきまってるでしょ」

「そんな。まるで僕が男好きみたいじゃないですか。……ひどい!」

「だって直緒さん、現にあなた、駒場君の名前は覚えてたじゃないですか。メイドの名前はちっとも覚えないくせに」

「もなみさんを支えてくれた人ですよ? 覚えてて当然じゃないですか」

「直緒さん! あなたまさか篠原さんのこと……」

「もう! 古海さん! なんで僕を信用してくれないんですか!」

「信用してます! 信用してるけど……」


「……どうしていつもこう、言い争いになっちゃうんでしょうね」

うつむき、直緒はつぶやいた。

「やっぱり男同士だから? 最後までしてないから?」

最後の言葉は消え入るようだった。


 「ケンカなら、後でやってよ! それで、古海。藤堂さんとはどうなったの!?」

じれったそうに典子が割り込んできた。

「モナちゃんが渡したカバンには、何が入っていたというのよ!?」

 軽く足を踏み鳴らしている。


 じっと直緒を見つめていた古海が、目を上げた。

「篠原さんの渡してくれたカバンには、ムチとローソク、それにロープも入ってましてね。あと、網タイツ」


「パンプスの他に?」

典子の目が丸くなった。


「はい。私は、あくまでも穏便に話し合うつもりで、藤堂参事官の元へ出向いたのです。ですが、せっかく篠原さんがいろいろ持たせてくれたので」

「ど、どうしたというの?」

「藤堂を縛り上げて、鞭で思いきり、打ち据えて参りました」

低く笑った。

「よいストレス解消になりました」


「……網タイツは、どっちがはいたの?」

珍しくおずおずと、典子が尋ねる。

「べ、別に答えなくてもいいのよ……答えを聞くのも怖いし」


 古海は肩を竦めた。

「網タイツは使用しませんでした。これはプレイではなく、懲罰ですので」

「懲罰ですって?!」

「そうです。なぜなら、この一乗寺邸に仕掛けられた盗聴システムは、藤堂の管理下に移行されていたからです。前に、白鳥警視が、そう言いました。……自白剤を飲ませたら」


はっとしたように、直緒を見た。


「もちろん、白鳥警視に、色仕掛けなど致しておりません。ただちょっと強引に、家までついて行っただけで」

「……」

「藤堂は何も聞いてはいませんでした。白鳥警視を始め、警察庁の連中も。直緒さん、あなたの、その……」

「……」

「取り外した盗聴器を、紅茶の缶に入れておいたのがよかったみたいです」


「……古海、」

 掠れた声で、典子が呼びかけた。

 それを古海が遮る。

「はい、私の手柄です。でもね。あいつのせいで、直緒さんは、私のことを、大っ嫌いと言いました。私のことを大嫌いだと。直緒さんにそう言わせた藤堂を、私は、どうしても許すことができなかったのです」


「じゃ、さっき言ってた古海の目的って……」

「藤堂を懲らしめることです。それは達成致しました。ですから、悔いはないと申し上げたのです」


「ちょっと待ってよ。内閣の参事官を、鞭で打ち据えた?」

「さようでございます」

「接待じゃなくて? サービスでもなく?」

「はい」


「えと……そうだ! 今日の面会の予約は、偽名をつかったのよね! 内閣府のNASシステムにハッキングして、予約登録を偽装した時」

「はい。ですが藤堂参事官には、盗聴器の件を話しました。ですから、私が誰の指図で潜入したかは、まるわかりだと存じます」

「……BL出版との関連も?」

「おそらく。あの男に頭がついているのなら」


「それじゃ、モーリスの本はどうなっちゃうのよ? “一乗寺のりこ記念BL図書館”は?」

「知ったことですか。私は私の目的をもって、あそこへ行った。それは、藤堂に罰を与えることです。それ以上でも以下でもありません」


「やってくれたわね、古海……」

典子がうめいた。



**



 駅へ向かう暗い坂を下りていくと、後ろから足音が追ってきた。


「直緒さん!」

古海が直緒に並んだ。

「怒っているんですか?」

「怒ってなんかいません」

歩く速度をゆるめずに、直緒は答えた。


「だって……」

古海はしつこく迫った。

「だって、」

「なんですか」

「あなたは少しも嫉妬してくれない。白鳥警視にも、藤堂参事官にも」

「彼らとは、なにもなかったのでしょう?」

「もちろんです!」

「じゃ、いいじゃないですか」

「お嬢様にもです!」


直緒につきまとうように身を寄せて、古海が言った。


 「なぜ僕が、典子さんに嫉妬を?」

「恋人のように歩け、なんて。直緒さん、あんまりです」

「仕方なかったじゃありませんか。あの場合は、ああするしか。典子さんには協力してもらっただけです」

「何を怒ってるんです、直緒さん!」

「だから、怒ってないって、言ったでしょ」


 直緒は立ち止まった。

 背の高い古海を見上げた。


 肩を竦め、再び歩き出した。

 古海は黙ってついてくる。


 葉をすっかり落した銀杏並木が、空高く枝を広げていた。

 空は遠く、空気は冷たかった。


 「古海さん」

前を向いて歩きながら、直緒は言った。

 両手の拳を握りしめた。

「僕は男です。それは、変えることができない」


答えは明確で、揺るぎなかった。

「変わる必要なんてありません。私は、あなたが好きなんです。まじめで誠実で、なのに喧嘩っ早くて、危険を顧みず突っ走っていくあなたが。男であることも含めて、今のままのあなたが、大好きなんです」


 直緒は立ち止まった。

 耳たぶが痛い。

 充血している。


「……もし、あなたを受け容れても、僕がぼくであることが変わるとは思えない」

「もちろんです。私を受け容れたところであなたが……え?」


 見上げる木々の梢に、星が3つ、またたいていた。


 不意に、古海が直緒の手を取った。

 冷たい左手を、自分の上着の右ポケットに入れる。

 指と指とを絡めてきた古海の右手は、とても温かかった。


 「……手が温かい人は、心が冷たいもんです」

小さな声で直緒はつぶやいた。

 古海が笑った。

「だいじょうぶ。私の心はいつもあたたかいから。あなたが一緒なら」



 駅が近づいてきた。

 終電間際の電車に乗ろうと、繁華街のあちこちから人が集まってきた。


 「このまま電車に乗って、僕の部屋に来ませんか?」

直緒は言った。


 金曜の夜の酔っぱらいたちは、きっと、幸せなのだろう。

 他人の様子など気にも留めない。


 ポケットの中で手を繋いだまま、二人は歩き続けた。

 走らなくても、終電には間に合いそうだった。

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