深夜の公園で



 内閣官房参事官付警備員、岸和田きしわだとおるは、藤堂参事官の執務室から出てきた黒づくめの服装の若い男に目を止めた。


 ひどく整った顔立ちの男だった。

 目鼻などのパーツが鋭角的で均整がとれている。その上、配置が完璧なのだ。

 岸和田が女だったら、ひと目ぼれをしたかもしれない。


 だが、岸和田は男だった。

 あまり、近づきたくないと思った。近づけば、よくないことになりそうな予感がした。


 なんというか、人間離れした美しさだ。

 堕落に誘われるような、そんな妖しさがある。


 闇の貴公子。

 唐突にそんな言葉が頭に浮かんだ。

 男はちらりと岸和田に目を流すと、無言で彼の前を通り過ぎた。



 勢いよく、参事官室のドアが開いた。

 「その男を捕まえろ!」


 ワイシャツ姿の部屋の主が姿を現した。

 一応ズボンも穿いていたが、なんだかひどく乱れた印象だった。


 「捕まえろ! その男を捕まえるんだ!」

 藤堂参事官は絶叫した。


 岸和田警備員は飛び上がった。

 若い男は、靴底をきゅっと鳴らして走り始めた。


 「待てっ!」

岸和田の声に応じて、廊下の各所から、警備員が飛び出してくる。


 多勢に無勢だ。

 捕まえるのは時間の問題と思われた。


 不意に、男が跳梁した、

 背中に生えた黒い羽を、確かに見た、と、後に岸和田は語った。

 黒い袖に包まれたその手の先に、地獄の業火が燃えているのも、彼は、その目でしかと見た。


 次の瞬間、天から、大量の水が落ちてきた。


 「あ、あくま……」

岸和田がそう叫んだのは、本当の悪は美しいものだ、という持論による。



**



 広大な公園の、野外音楽堂と図書館の間の遊歩道を、直緒は行きつ戻りつしていた。


 冬のこの季節、野外音楽堂は使われていない。

 図書館もすでに閉館していた。

 人通りは殆どない。


 思わず直緒はつぶやいた。

 「遅い!」

「まだ、約束の時間になってないわよ」


 藤堂参事官の秘書とは、ここで待ち合わせをしている。

 古海がどこでどうしているかも、その時、教えてもらえる筈だ。


 典子は、座っていたベンチの背を、ペンライトで照らした。

 丸い灯に、不気味な笑顔が浮かび上がった。

「ね、直緒さん、見て。このベンチ、“Masayosi とHinataの愛の記念に”、ですって! ステキ!」


「Hinata というのは女性でしょ、どーせ」

 直緒は言った。

 典子と一緒になって、ベンチの背に張られたプレートを覗き込んでいる自分に気がついて、はっとした。


 しどろもどろと彼は言った。

「男同士なんて。そうそう、典子さんに都合のいいように、世の中はできていないのです……」

「いいえっ! Hinataはかわいい男の子ですっ! なぜなら! この世界は、BのLで回っているから!」


 典子がそう宣言した時だった。

 慌ただしい足音がコンクリートの歩道に響いた。

 すらりとした背の高い男が駆けてくる。


 「古海!」

典子が叫んだ。


「お、お嬢様!」

水銀灯の下まで来た古海は、ぎょっとしたように立ち止まった。

「なぜここに! あなたも、直緒さん!」

「古海さん、無事でよかった」

「あんまり無事じゃないです。なぜなら私は今現在、逃亡中で、」

気遣わしげに後ろを振り返る。

「ここへ行けと秘書の方に言われて、鵜呑みにして来たのですが、」


「ハナちゃんのお友達の秘書さんね!」

典子が歓声をあげた。

 暗い街灯の下で、古海はじろりと典子を見すえた。

「ええ。あの、胸に大きなメロン2つを、無駄にお持ちの方です。あと、脚線美も」

「メロン? 脚線美?」

きょとんとして典子がオウム返した。

 古海が頷いた。

「腐女子には、全く無用な装備です」


「古海さん!」

「いいえ、直緒さん。これくらい言わせてもらっても構わないでしょうよ。お嬢様もそうですが、全く、あの方たちのものの見方といったら!」

「いったい、何がどうしたというのです……」


気遣う直緒を、典子が押しのけた。


「で、計画はどうだったの? まさか失敗したわけじゃないでしょうね!」

「なにをもって成功とし、なにをもって失敗とするかによります。少なくとも、私の目的は達成しましたので、後悔はありません」


にわかにそわそわと後ろを向いた。

「失礼、お嬢様と直緒さんを巻き込むわけには、」

そう言うと、今来た方へ駆け戻ろうとした。


 「古海さん!」

直緒は手を伸ばし、古海のコートをぎゅっと握った。

「追っ手はそっちから来るんでしょ? 来た方に戻ったら、駄目じゃないですか」

「ですが、直緒さん、」

「古海、ドジったわね! 藤堂参事官を落せなかったのね。だから言ったでしょ! 藤堂さんは、攻めだって!」

「お嬢様、その話はもういいです。とにかくっ!」


 あせりまくって、コートから直緒の手を離そうとする。

 直緒はますます強く、その手を握りしめた。


「ダメ。行かせませんから! 僕が、」


 そう言うと、古海の目をしっかりと見上げた。

 眼鏡を掛けていない、涼やかな瞳があった。


「古海さん、コートを脱いで。はやく! それから典子さん。僕じゃ、身長が足りない。ハイヒールを……」

典子の足元を見た。

 ピンクのスカートの下は、色あせしかけたスニーカーだった。

「……はいてるわけないか。ヒモノのあなたが」


 「何考えてるんですか、直緒さん」

古海の背後に、直緒は回った。

 羽織っただけのコートをむしり取った。

「わっ!」

素早く自分のジャケットを脱いだ。

 古海に差し出す。

「これ、僕のジャケット。ちょっときついかもしれないけど。キーホルダーを置いてった罰です。さ。これを着て、典子さんと肩を組んで歩いて下さい」

「な、」

「恋人同士の二人は、公園を南東へ散策して、日比谷駅から電車に乗って帰るんです。いいですね!」

「こ、恋人? 私とお嬢様が? それだけは、天と地が入れ替わってもあり得ない大珍事……」

「黙って言うことを聞いて下さい!」

「第一、私の恋人は、直緒さん、あなたでしょうが!」


 「パンプスなら、古海が持ってるでしょ」

のんびりした声が割り込んだ。

「えっ!?」

「モナちゃんが、古海に渡すカバンに入れるのを、わたし、見たわ」

「……あ」


 なぜそんなものをメイドが古海に渡したか謎だった。

 だが、時間がない。


「貸して!」

直緒は叫んだ。



**



 公園から大通りに出ると、古海は典子から離れ、辺りをきょろきょろし出した。


「何をしてるの、古海」

「空のタクシーを探しております」

「タクシー?」


「お嬢様」

真剣な顔をして、古海は典子を顧みた。

「タクシーにお乗せしたら、夜道でも特に危険はないと存じます。お一人でお帰りになれますね?」


「いやよ」

典子は即座に拒絶した。

「あなたはどうするのよ、古海」

「私は……」

「直緒さんの所へ戻るつもりでしょ」

「彼は、私の身代わりになるつもりです。そんなことは、させられません」

「だめ。あなたは直緒さんの言った通り、わたしと一緒に駅まで行って、電車に乗るの」

「私は直緒さんのところへ戻ります」


「……馬鹿ね」

低い声で典子は言った。

「あなた、顔を覚えられてるわよ。ここでタクシーを止めたら、運転手にも覚えられる」

「でしたら、お嬢様が……」

「いやよ。あなたも一緒に帰るの」

「いいえ! いいえ!」

「直緒さんの気持ちを無駄にする気なの? あの人ならきっと、うまくやるわ」

「しかし!」

「戻ることは許しません。わたしをエスコートし、あなたも一緒に屋敷へ帰るの」



**



 背の高い影が、夜目には白く見えるピンクの肩を抱いて、ぎこちなく歩いて行くのを見送ってから、直緒は歩き出した。

 公園の歩道を、出口に向かってできる限り足早に歩いた。

 やましい人間に見えるように、うつむき、ことさらに顔を隠すように。


 パンプスは、かなり大きなサイズだった。直緒にはぶかぶかだ。

 これは、女性のものではない。


 足をすっと入れるタイプの、つま先に向かって細くなっていくこの形の靴は、以前、一回だけ、履いたことがある。

 前に一乗寺家で催された舞踏会の時だ。

 緑のタイトドレスだけでなく、ぬかりなく典子は、直緒のサイズのパンプスまで用意していた。

 もっとも、踵はここまで高くなかった。

 履きにくいことにかわりはなかったけれども。


 でも、直緒は平気だった。

 痛む足や、靴のことは忘れて、夢中で踊った。

 なぜなら、支えてくれる優しい腕があったからだ。

 あの時……。


 直緒は慌てて頭を振った。

 ……集中しなければ。


 今履いているパンプスの踵はかなり高かった。

 さすがにここまで踵の高い靴は、履いたことがない。

 早足で歩くのは、かなり難しい。

 それでも、可能な限り早く、歩を進めた。

 一歩でも、古海と典子から遠ざかる為に。


 ダブルのズボンの裾を下ろして、ヒールは隠してある。時々、そのズボンの裾を踏みそうになる。

 大き目の靴の前部に押し込まれたつま先が、しびれるようだ。靴の踵にこすれる部分が、じくじくと痛み始めた。

 でもこれで、古海くらいの背丈にはなった筈だ。古海のコートを羽織っているのだから、夜目には、古海としか見えない筈……。


 コートが少し湿っていることに、直緒は気づいていた。

 黒だから、見た目にはわからなかった。羽織って初めて、濡れている、と感じた。


 思えば、冷静に見えたが、古海はかなりあせっていた。

 それは、いつも一緒にいる直緒にしかわからない、微かな兆候だった。

 いったい、何が、古海の身に起きたのだろう。


 冷たい風が、首元をかすめる。

 コートの襟を立て、前をきつく合わせた。

 古海の匂いがした。



 「待て!」

後ろから怒鳴り声がした。

 4~5人の男たちが走ってくる。


 典子と古海が歩いて行ったのとは反対の方向へ、直緒は走り始めた。

 10メートルも走れなかったろう。


 不意に安定を欠いて、彼はつんのめった。

 親指ほどの太さの右のヒールが、ぽきりと折れたのだ。

 無様に前のめりに倒れた。


「この野郎!」

地面の冷たさを頬に感じた途端、ぐい、と襟首をつかまれて、上半身を引き起こされた。

「お前か! このっ!」


 スーツを着用した、がっちりとした大柄な男たちに取り囲まれていた。なんともいえない、物騒な雰囲気を醸し出している。

 辺りには他に人影はない。


 強い光で顔を照らされ、直緒は、たまらず目を閉じた。

「スパイか? テロか? 国の中枢部に忍び込むとは、太ぇ野郎だ!」


 「捕まえたか!」

向こうから、もう一人、走ってきた。

 走り慣れていないせいか、ぜいぜい息を切らせている。


 懐中電灯で照らされた直緒の顔を見て、うなった。

「こいつじゃない!」

「でも、参事官、黒いコートを着たイケメンだって……」

「こんな女顔じゃないんだよ!」

男は叫んだ。


 「じゃ、なぜお前は逃げたんだ!」

一際凶暴そうな男が怒鳴って、直緒の顎をつかんで、ぐいともちあげた。


 顔を照らす光がより強度を増し、直緒の顔が苦悶に歪んだ。

 はっとしたように、息を呑む気配がした。


 「追いかけられたから」

目をつぶったまま、小さな声で直緒は答えた。

「物騒な顔つきの、大勢の男が追いかけてきたからだ」


 「深夜の公園で、お前は何をしてたんだ」

低い声が荒々しく問う。


 直緒は無言で目を伏せた。

 ごくり、と唾を呑みこむ音が聞こえた。


 「とにかく、こいつじゃないぞ!」

しんと静まりかえった男たちの中で、最後に来た男が、ヒステリックに叫んだ。

「もっとワルそうな、彫の深い顔立ちをしていた! とにかく、セクシーだった。あの目で見つめられると……」

男は言葉を切らせた。

「とにかく、こんな優男じゃなかった、あの人は!」


 「黒いコートを着た人なら、」

地面に押さえつけられたまま、直緒は言った。

「さっきすれ違った。俺と同じコートだったので、よく覚えてる」

「そいつは、どっちへ行った!」

ひときわ凶悪な顔をした男が詰め寄った。

「北の方へ走って行った」


「桜田門方面だ! 急げ!」

 後から来た男を先頭に、男たちは、いっせいに走り出した。



 「悪かったな」

 直緒を地面に押さえつけていた男が、体を助け起こした。

「あんたもこんなところで男をあさってないで、ひどい目に遭う前にとっとと帰れ」


 そう言って、仲間たちの後を追って走り出した。

 立ち止まった。

 

仲間達の背に向かって叫んだ。

「やっぱり俺は、この人を送っていく」


「必要ない」

直緒はぷいと横を向いた。

 おもねるようにその男が言う。

「まあ、遠慮するな。また、どんな奴に襲われるか、わかったもんじゃないし」

直緒は目を怒らせた。

「また、って何だよ! 一方的に人を引き倒しといて! さっき、国の中枢部って言ったよな。あんたら、役人だろ? 国民の血税使って、何やってんだよ」



 「飯島、早く来い!」

野太い声で呼ばれた。


 名残惜しそうに振り返りながら、男は立ち去って行った。

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