深く結ばれてるんです……心が。
「げえっ! あんた、帰ってきたのか!」
数日後、玄関を入るなり、今河義元は叫んだ。
「ナオに失恋して、アメリカに行ったんじゃなかったのか?」
一階の長い廊下で、窓枠の埃をチェックしていた古海は、曲げていた腰を伸ばした。
「アメリカへは仕事で行っていました。誰が直緒さんに失恋……ちょっと、『ナオ』ってなんです、『ナオ』って!」
「今日は、俺、デートしに来たんだ。ナオと」
「だから、『ナオ』はおやめなさい」
「いいだろ。別に」
「今日からやめなさい、今から、いますぐ、おやめなさい。それから、デートなんか、とんでもない!」
「なんだよ、えらそーに。ナオから逃げたくせに」
「いろいろあるんです、大人には」
ふ、と古海は笑った。
「お子ちゃまには、わからないことです」
「誰がお子ちゃまだっ!」
「ほっぺにチュッ」
「う……」
義元は言葉に詰まった。
だがすぐに気を持ち直して、意味ありげに笑った。
「俺は、ずっとナオと一緒にいたんだ。あんたの留守中、ずっと」
古海は動じなかった。
にたりと口の端を上げて応じた。
「でも、君は、何もさせてもらえなかった」
「なにを! 何を根拠にそんなこと……」
「わかりますとも」
余裕をもって古海は答えた。
「私にはわかります。なぜって、これだけ愛し合っていても、未だ、最後まで……」
慌てて口をつぐんだ。
「とにかく、そういうことです」
「は? さっぱりわかんないんですけど」
素早く体勢を立て直し、古海は言った。
「直緒さんは私にキスしてしてくれましたよ? 直緒さんの方からです。フランクフルトで。二重に架かった虹の下で」
「嘘だ」
「嘘じゃありません」
「あんたが行ったのは、アメリカだろ? そりゃ、確かにナオはフランクフルトへ行ってたけど」
「私も、ドイツへ行きました?」
「は? 何しに?」
「もちろん、直緒さんに会いに」
「あんた、バカじゃないの?」
呆れたように義元は言った。
「日本に帰ってくれば、いくらでもナオに会えるじゃないか。それをわざわざ、アメリカからドイツへ渡っていくなんて」
「恋は人を馬鹿にするものです。甘やかされたお子ちゃまにはピンとこないかもしれないけど」
落ち着き払って古海が応じた。
「それ以上、人を子ども扱いするなっ!」
義元は、激高した。
「俺だって、恋をしてるんだ! ナオの為なら、どこへだって行く。いくらでもバカになってやる。……って、俺はあんたと、バカ比べをするつもりはない!」
義元の言うことを、古海はまるで取り合おうとしなかった。
うっとりとした目になった。
「はるばるドイツまで行ったかいがありました。キスの話は、嘘じゃありません。まさか、あの人の方から、キスしてくるなんて。すごく嬉しかった。それから……まあ、そういうことです」
義元は、はっとしたように、古海を見た。
「おい」
「日本に帰ってからも、もちろん」
「あり得ない」
「私は、おじい様にもお会いしました。直緒さんのたった一人の肉親です。詳しいことは話せませんが。あ。話す気がないってことですよ? 話すことができないわけじゃありませんから」
「……そんな、馬鹿な」
「直緒さんは、もう私のもの……というと、怒るんだった……深く結ばれてるんです。心が」
嬉しそうに、でもちょっぴり物足りなそうに、古海は、最後の一言を突け加えた。
閉じた唇の端から絞り出すように、義元がうなった。
「許さない、そんなこと、絶対に」
「許さない? 君の許可なんか必要ありませんね」
「どうせ、無理強いなんだろ」
「私は、そんな無粋な真似はしませんよ?」
「じゃ、遠いドイツで、心細くなっていた所を、無理やり口説いたんだ。ナオは、日本語しか話せないから。卑怯だ、そんなの」
「違います。日本語を話せる人は、他にもいました。第一、直緒さんは、人気者でしたし」
誇らしげに古海は言った。
すぐに、悔しそうに付け加えた。
「その人気の取らせ方は、どうかと思いましたが。いえ、今でも思っていますが」
きっ、と義元は古海に目を据えた。
思い切ったように、一言一言、はっきりと言う。
「たとえあんたがナオに何をしても、俺には関係ない。俺は、ナオを好きだから。俺は、ナオを、決して諦めない」
「……」
古海の顔を、狼狽が過った。
だが、一瞬のことだった。
彫の深い、浅黒い顔に、笑みが走った。
悪魔のような狡猾な笑みだった。
古海は義元の方へ踏み寄った。
「ちょ、なにすんだよっ」
あとじさる義元の手を掴み、自分の方へ引き寄せた。
**
「え? 大河内先生の新刊、再版なしなの? あんなに売れてるのに?」
典子が驚いたような声を上げた。
「出版社は、
「典子さん、ケチとかそんな問題じゃあ」
直緒が口を出す。
元気のない声で、義元が続けた。
「新糖社だけじゃないんだ。叡智出版も重版を取りやめたし、電文社も品切ればかりだ。読者さんがツイッターでつぶやいていて、わかった」
「どういうことかしら」
「……BLを書いたから」
ぽつんと、義元が言った。
「新糖社の、親しい編集者が教えてくれた。古くからの付き合いがある人で、今は他の部署にいる人だ」
今河義元の父、大河内要は、時代小説の大家だ。
この夏、彼は、典子に依頼されてモーリス出版社に小説を書いた。
BL時代小説だ。
モーリス出版社として、初の紙の本4冊のうち、1冊だった。
フランクフルトのブックフェアに持ち込むと、大変な評判だった。
どうやらそのことが、他の老舗出版社の不興を招いたらしい。
BL作家としてのデビューが、今まで培ってきた大河内の評判を貶めるというわけだ。
直緒には心当たりがあった。
「前にしあわせ書房の桂城さんが言っていました。時代小説家として、BLの色がついたらおしまいだって。そういう見方をされるからって」
「でも、大河内先生のBL時代小説、すごく評判いいじゃない。電子でも紙でも、よく売れてるわ」
不満げに典子が言う。
義元が頷いた。
「うん、僕もおかしいと思う。でも、気にすることないさ。おやじのファンは、熱心な人ばかりだから。こんなことで、おやじを見限ったりしない」
「いくら読者がついていてくれたって、肝心の本がないんじゃ……。先生だって、生活が、」
直緒が呻いた。
「いいわ。モーリス出版社が、先生の印税を増やします」
典子が宣言した。
「とりあえずそれで、この場をしのいでください」
「編集長……」
義元は言葉を詰まらせながら続けた。
「あなた、ただの腐ったヒモノじゃなかったんだね……」
「義元君!」
「いいのよ、直緒さん。腐った、は褒め言葉だから。ヒモノ、は……なんのことかしら?」
「お嬢様のような人を指す言葉です」
不意にドア近くから声が聞こえた。
典子が飛び上がった。
「古海……。いつのまに」
「さっきからここにいました。義元君、お父様のこと、励ましてあげて下さいね」
「う、うん、そうする……」
そわそわと、義元は答えた。
「古海、あなたも前に言っていたわね。ヒモノって……」
言いかけた典子を、義元が遮った。
「ね、ナオ。そろそろ行こうよ。いっしょに映画を観る約束だろ?」
「あ、ちょっと待って。まだ仕事が……」
「いいじゃん、仕事なんて! 早く……」
「義元君!」
冷徹な声で、古海が名を呼んだ。
義元は、明らかにどぎまぎしている。
「どうしたの、義元君」
不審そうに典子が問う。
「な、なんでもない……」
「お嬢様、義元君はもう、お帰りになります」
「いや、僕はナオと映画を……」
「あなたはそんな約束を、彼と? 直緒さん」
「ええ、仕事が早く終わるようなら、と……」
「私というものがありながら。直緒さん!」
「いいでしょ、映画くらい。男同士だし」
「男同士だからです! 直緒さん、全くあなたは、自覚が足りません!」
「自覚って……。なら、女性と行けっていうんですか?」
「そ、それもダメです、もちろん! 映画なら、私がご一緒に!」
「だって古海さんは、なかなかお屋敷から離れられないじゃないですか。僕も、あなたが、典子さんのそばにいてくれたら安心だし」
「う……。い、いいですよ。映画くらい。誰と行っても。でも、直緒さんのお仕事、まだ終わってませんよね?」
「ナオ、仕事なんていいから……」
「あなたは帰りますね、義元君」
「え?」
「映画は諦めて、お帰りなさい」
「だって、」
「帰りなさい」
「……あなたがそう言うなら」
「ちょっと待ってよ!」
典子が叫んだ。
「なにその豹変ぶり。そんなに簡単に直緒さんを諦めていいの? 義元君、あなたらしくないわ。
**
「キスしたですって?!」
古海に向かって、直緒が叫んだ。
「義元君に、あなたの、あのキスをですか!?」
「私はただ、直緒さんを諦めさせようと……」
「なんてことを、古海さん!」
「ええと、直緒さんに向いている彼の気持ちを、ですね、少しでもそらすため……」
「そらす? どこに! 全くあなたって人はっ!」
「だってこのままじゃ、彼、直緒さんを諦めそうもないから」
「だからって!」
「ね、直緒さん。そんなに怒らないで」
「無理です!」
「お願いだから」
「そんな目をしても無駄です。もうっ! よりによって、大事な作家さんの息子さんにっ!」
「そ、そこですか? 嫉妬、してくれないんですか?」
「誰がっ!」
直緒は大きく息を吸い込んだ。
「週末のお泊りはなしです!」
「えっ! それはひどい。ひどすぎる!」
「だれのせいですか!」
「だって」
「いいですか。これは、嫉妬なんかじゃありませんからね!」
「……いったい、いつまで待てば、あなたはちゃんとさせてくれるんですか?」
「永遠になしです! なしになりました!」
「直緒さん……。あんまりだ……」
「ねえ、義元君」
部屋の真ん中の騒ぎをまるで気にせず、典子が義元を引き留めている。
「あなたは確か、攻めよね、直緒さん相手だと。それなのに、どうなっちゃってるの?」
「え?」
ややうろたえ気味に、義元は答えた。
「古海さんにキスされたら、急に体が、とろけちゃって」
「キスされて、とろけたぁ~? 古海にぃ? ありえないでしょ、それだけは」
頭を振った。
自分に言い聞かせるように、ぶつぶつとつぶやく。
「……古海はわたしのママじゃない。ママじゃない、っと」
「なに?」
「こっちの話。で、とろけたって、どゆこと? 具体的に! もっと詳しく!」
「具体的って……、もともと僕は、受けの方が多かったし……、もういいだろ、そんなこと。僕、帰る」
「ちょっと待って。まだ帰らないで!」
典子は右手でがっちりと義元の服を掴んだ。
左手でスマホを操作する。
「あ、
逃げようとする義元のシャツの裾を、ぐいと引く。
「あの、すぐに書いてほしいお話が……いえ、胸毛の話は後でいいです。それよりずっと、萌える素材がたった今……こらっ、義元君、逃げちゃダメ!」
芹香ももな先生は、筆が早く、頼めばなんでも書いてくれる先生だ。
今は、カナダのハーレキング社の依頼で、胸毛BLを執筆している。
「ええ、先だって拝領しました胸毛攻めのお話、先方にも大変好評でした。続けて是非、胸毛受けの話も、欲しいと」
芹香先生は、執筆の前に、徹底的な取材を必要とする。
胸毛攻めの取材は、直緒がフランクフルトでしてきた。だが、胸毛受けの方は、取材対象がなかなか見つからなかったのだ。
ようやくのことで、フランクフルト在住の村岡が、一人、みつけてきたところだった。
「ええ、それはわかってます。鮮度はもちろん大切……はい。ですが、こちらの方がより新鮮で、萌え萌えなのです!」
義元が怯えた目で典子を見た。
典子は電話に夢中だ。
「……ええ、元は受けなんです。それが、美人相手では攻めになって、キスされると元に戻るんです。先生、魔法ものをやりたいっておっしゃってたでしょ? どうです、キスの呪文。素敵だと思いません?」
義元を掴んだまま立ち上がる。
「わかりました! 今からすぐにそちらへ伺います!」
通話を終えると、目を輝かせて義元を見た。
「先生自ら取材をされるって。さあ、行くわよ、義元君!」
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