第7章 世界へ
体だけの関係?
「素晴らしい! 素晴らしいわ、直緒さん。この、久條先生の作品」
オフィスに入ると、いきなり典子が抱き着いてきた。
「直緒さんが夏休みの間に読んだんだけど。もう、涙が止まらなかったわ」
「お嬢様が止まらなかったのは、鼻血でしょ」
傍らに控えたメイドが言った。
……篠原さん。
……篠原もなみさん。
心の中で、直緒は名前を繰り返す。
休みでしばらく見ていなかったけど、忘れていなくてほっとした。
メイドが眉を寄せる。
「それに、いくらきれいな人だからって、部下に抱きついちゃだめでしょ。良家の令嬢が。その人、男ですよ?」
「知ってるわよ、そんなこと」
つい、と典子は直緒から離れた。
「いいのよ、直緒さんは。わたしにとって、抱き枕みたいな存在だから」
「抱き枕?」
「それか、熊のぬいぐるみ。古いの、モナちゃん、捨てたでしょ」
「梅雨の間にダニが湧いたからですっ! 腐部屋に放置しとくからっ!」
「その点、直緒さんにはダニは湧かないし、昼間もいっしょにいてくれるし。ほんと、便利……いえ、ステキな人。帰って来てくれて、嬉しいわ!」
久條がモーリス出版の為に書いたBL……純文作家が初めて書いたBL……は、濃厚なラブシーンから始まる。
……もちろん、男同士の。
繊細な典子には、刺激がきつかったのだろうと、直緒は思った。
あどけない瞳を瞬かせて、典子が尋ねた。
「あれ、直緒さんでしょ? 受けの方」
「典子さん。フィクションと現実は、別のものですよ。その言い方は、久條先生への侮辱になります」
「そ、そお? わたし、そんなつもりじゃ……。だって、直緒さんは、久條先生の、恋……」
「恋人じゃ、ありません」
きっぱりと直緒は言い切った。
「えっ! じゃ、かっ、体だけの関係? ……せ、せふれ……」
「いい加減にしてください」
一週間ぶりの出社だ。デスクに積もった埃を拭いながら、直緒は言った。
「それは、セクハラですよ。上司のあなたが言ったら、パワハラに……あっ、典子さん、鼻血っ!」
直緒が叫ぶより早く、メイドが、猛禽の如く典子に飛びかかった。
間髪入れず、持っていた雑巾を、典子の鼻の下にあてがう。
「モナぢゃん、ごれ、ぐざい……」
「あっ、すみません、雑巾でした。本谷さんのデスクを拭こうと思って、」
「び、びどい……」
「お洋服を汚すよりマシでしょ。今、古海さん、いないんだから。ほんと、お嬢様に着替えさせるのも、ひと苦労……」
「古海さん、いないんですか?」
直緒は言った。
典子とメイドは、顔を見合わせた。
「古海なら、ニューヨークへ行ったわ」
まるで隣町へ行ったとでもいうような気軽な口調で、典子は言った。
「ニューヨーク?」
とりあえず、紛争地帯ではない。
直緒はそう自分に言い聞かせたが、心がざわめいた。
鷹揚に、典子は頷いた。
「そう。マンハッタンに、ウサギ小屋を売りに行ったの」
「マンハッタン? ウサギ小屋?」
「なんかね。地価が高騰してるらしいわよ」
「はあ」
「家賃がね、たった7平方メートル、風呂共同で6万3000円とか?」
「僕の部屋より、狭いですね。風呂が共同でその家賃は、高いです」
「ほんと。息が詰まりそうよね。庶民は大変ね」
「……」
ニューヨーク市マンハッタン、ミッドタウン、サウス地区。
もともとこの地区は、「TAMI(テクノロジー、advertising・広告、メディア、information・情報)」業界の企業がひしめいている。
それが近年、元は倉庫街だったところに、IT企業が進出してきて、地価が上昇している。
シリコンバレー辺りからも人材が流入し、住宅家賃も、うなぎのぼりである。結果、もとはウォークインクローゼットだったところに住んだり、棚をひたすら上へ伸ばし、自分はそのてっぺん、天井との間に寝たり……といった涙ぐましい工夫を余儀なくされている。
これに目をつけたのが、一乗寺建設である。
ウサギ小屋、狭小住宅をマンハッタンへ輸出せよ!
わが国固有の文化を、アメリカへ!
マンガに続け! クールジャパンを、建設業にも!
というわけで、マンハッタンのリフォーム事業に乗り出したのだという。
「えと。それじゃ、古海さんは左遷じゃなくて……」
「栄転ですよ」
メイドが言った。
「お嬢様の悪行の数々も、実らなかった……古海さんを、左遷させることは、できなかったわけです」
意味ありげに直緒を見た。
「本谷さんと……久條先生のお陰です。すんでのところで、腐部屋拝見を阻止して下さって、」
「ナニ言ってるの、モナちゃん!」
憤然と典子が遮った。
「古海は、ネコの手部隊として、アメリカへ行ったの! 人手不足の数合わせなの! 栄転なんかじゃないんだからっ!」
……「魔性の美女」は、作家久條泰成の恋人で、N・Mの頭文字をもつ一般女性……。
久條自身が「激白」した。
ネットで評判の「魔性の美女」が、一乗寺家令嬢でないとわかった途端、潮が引くように、典子へのインタビュー依頼は消えていった。
一乗寺家の前で張り込む記者もいなくなり、女性誌の「お部屋拝見」の企画も立ち消えた。
考えてみれば、ひどい話ではあった。
典子は、地団太踏んで、悔しがった。
しかし、典子の部屋は、BL本が転がる腐部屋である。典子はそこで、BL談議に花を咲かせるつもりだったらしいが、とんでもない話である。
日本に冠たる大財閥一乗寺家。その令嬢は、ヒモノで腐女子……。
そんなことがバレたら、大変である。
一乗寺家の名声が地に堕ちることはもとより、それにより、日本経済そのものが、大打撃を被ることであろう。
典子の目付け役、家令の古海の責任が、厳しく追及されたであろうことも、また、事実である。
しかし。
「あのう。古海さんは、いつまでニューヨークに?」
おずおずと直緒は尋ねた。
彼には解せなかった。
そもそも古海の仕事は、暴走する腐女子、典子のお守りではなかったか。
だから、いつもいつでも、ここに、モーリス出版のある屋敷にいるべきではないのか。
栄転でも、猫の手でも……、
……自分は体を張って、典子の評判を守ったのに、
……あの日、久條に、
……なのになぜ、古海はここにいないのか。
「知るもんですか」
典子はそっぽをむいた。
「本谷さん、」
直緒がオフィスを出ると、メイドが追ってきた。
「……し、篠原さん」
「合格」
メイドは言った。
「やっと名前、憶えてくれましたね。名字だけど。次は名前で呼んで下さいね」
直緒は薄くほほ笑んだ。
もなみも微笑み返した。
「だから、ご褒美に教えて上げますね。古海さんのアレ、自分から希望を出したんですよ」
「え?」
「古海さんは、自ら希望して、アメリカへ行ったんです。左遷じゃありません」
「それは、どういう……」
「お嬢様のお世話に、うんざりしたんじゃないですかね」
メイドはずばりと言った。
「その気持ち、よくわかります。わたしも、うんざりです」
「……あの、古海さんは、帰っていらっしゃるんですか?」
「もともと本社採用の人でしたし。仕事のできる人ですからね。本人が希望しない限り、会社も手放さないんじゃないかな」
「……」
「メアド、教えましょうか? 一乗寺家のライン……」
「いえ、けっこうです」
きっぱりと直緒は言った。
「古海さんは、僕には何も言わなかった。それはつまり、そういうことです」
「は? どゆこと?」
直緒はうつむいた。
メイドに軽く一礼し、足早に立ち去った。
**
……言うべきだったかな。
立ち去って行くほっそりとした背中を見ながら、もなみは考えた。
直緒が実家に帰った、あの日。
暗いオフィスの、そこだけ、デスクライトが灯っていた。
……消し忘れ?
そう思って覗きこんだもなみは、ぎょっとした。
黒い大きな鳥が舞い降りたのかと思った。
作業用の長テーブルに覆いかぶさるようにしていたのは、古海だった。
古海は、何かを読んでいた。
久條の原稿だ。
典子が、デスクに置きっぱなしにしていたものだ。
それを、むさぼるように読んでいた。
「古海さん……」
一応、もなみは声をかけてみた。が、古海には聞こえなかったようだ。
原稿に没頭していた。
ライトに浮かび上がった古海の横顔は、鬼気迫るものがあった。
……普段小説を読まない古海さんが、あんなに夢中になって。
……さすが久條先生、純文作家。これはきっと大傑作なんだわ。
……モーリス出版の本が売れても、私のお給料には関係ないけど。
男同士のラブロマンスなのは、もなみにもわかっていた。
なんといっても、
しかし、まさか、そういう小説だとは思わなかった。
典子が鼻血を出すほどのR18、エロ全開のベッドシーンで始まっていたとは。
それも、関係者なら、一発でモデルが誰だかわかる、素晴らしい描写力で。
古海がアメリカ出向の希望を出したのは、その翌日だと、聞いている。
**
「お嬢様」
その夜、典子の夕食の給仕をしながら、もなみは言った。
「本谷さんに、休暇を差し上げるべきでは」
「え? やっと夏休みが終わって帰ってきてくれたのに?」
「本谷さんは、アメリカへ行かなければならないんでしょ? ニューヨーク、マンハッタンへ」
「なーーーぜーーー?」
「だって、
もなみが、典子の部屋に落ちている本を、ちらちらと流し見した限りでは、そうだった。
行き違いから(ここが大事)、失意のどん底に落ち込んだ攻めか受けは、大抵、海外へ渡ってしまう。
行く先は、アメリカかフランスが多い。
それを、残された方が追いかけて、二人は再会する。
そして誤解が解けて、ハッピーエンド。
「それが、王道というものでは? 現実ではストーカーといいますけど」
「だからなぜ、直緒さんが、アメリカへ行かなきゃならないの?」
「もちろん、古海さんの後を追ってです」
「直緒さんが? 古海の? 後を追って? い・み・ふ~~~」
「だから、BL的にですね、お嬢様のお仕事の……」
「古海と直緒さんは、ちっともラブじゃないからっ!」
「そこはどうでもいいんです」
ついにもなみは本音を吐いた。
「正直、古海さんがいないと、私……」
「えっ、ええーーーっ!」
「お嬢様のお世話が……。髪を洗うのに、毎晩バトルというこの状況は……、お食事は、立ったまま鍋からじゃなくて、きちんと座って、皿から摂って頂きたいし」
「そこ」
「そこです。他に何があります? 古海さんの使い道として」
……女に興味のない男なんて。
は、口の中で言った。
典子が頷く。
「使い道がないという点では、同意だわ。むしろ天敵、お邪魔虫。でもね。ほら、今わたし、ちゃんとテーブルについて、お皿から食べてるじゃない」
「それは、私が給仕当番だからでしょ。他の人が担当の日は、めんどうだからって、キッチンで立ったまま、鍋から直で食べてるって聞きましたよ」
「……」
「三食毎日給仕してたら、私、休めません! 一刻も早く、古海さんに帰ってきてもらわなくては……」
「いいのよ、古海なんか帰って来なくても。第一、直緒さんは今、久條先生とラブラブなんだから!」
「聞きたくないんですけど、お嬢様。あの日、事務所のデスクに、久條先生の原稿を出しっぱなしにしていらっしゃったのは、偶然じゃありませんね?」
「古海に読ませる為よ、もちろん」
きっぱりと典子は答えた。
「いつまでも未練がましく、直緒さんにつきまとったりしないようにね!」
「オニですね……」
「古海も、意外とあっさり姿を消して、そこは、評価してあげる。少しでも長く、ウサギ小屋販売に没頭して、アメリカにいるといいわ」
「そしたら誰が、お嬢様のお世話をするんです?」
「あなたがいるじゃない、モナちゃん」
「いやでございますよ」
寿退職!
思わずもなみは思った。
仕事を辞めるのには、これに限る。
結婚生活が性に合わなければ、退職してから、離婚すればいいだけの話なんだから。
でも、仕事はそうはいかない。
よほどのことがない限り、一乗寺家が自分を手放すことはなさそうだと、もなみは感じていた。
そして、それは正しかった。
退職後も、一乗寺家が自分に魔の手を伸ばさないようにするには……、
典子の世話役として、再雇用されないようにする為には……、
手早く子どもを、5人くらい産むしかない。
ぎゃあぎゃあ泣きわめく、新生児・乳児・幼児、取り混ぜて5人も抱えていたら、さすがに典子どころではないことが、わかってもらえるだろう。
そうするしかない!!
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