ラブってるから!
「それで、あなたはいいの、モナちゃん」
病院のベッドの脇に立って、典子は尋ねた。
幸い、もなみの腕の傷は、たいしたことはなかった。
神経も腱も、無事だった。
機能においては、何の後遺症も残らない。
ただ。
皮膚に薄く痕が残るということだった。
「皮膚移植をすれば、完璧に消せますが」
医者は言った。
もちろん、典子からも古海からも、強く勧められた。
費用は一切、かからない。金は一乗寺家で出す。
だが、もなみは首を横に振った。
傷も含めて、一度ついた自分の歴史を、消したくない。
死ねば、全てなくなるのだから。
人は、いつかは、死ぬものだ。
ただ、入院は、断りきれなかった。
一乗寺家傘下の病院の、豪華な個室に入れられた。
病室とはいいながら、ちょっとしたホテルなみの部屋である。食事も豪華だ。
「労災を適用して、休暇を取って頂いてもよろしいんですが……。お休みとなると、篠原さんは、町へ出てしまいますから」
古海がもなみをじろりと睨んで言ったものだ。
「男を狩りに」
それはお互い様ではないかともなみは思った。
獲物が男である所まで、同じだ。
が、あえて反論はしなかった。
気を使っているのか、古海も本谷も、最初に顔を出したきり、見舞いには来ない。
創は、2回ほど顔を出したが、いずれも母親の監視付きだった。
鬱陶しいので、来ないでほしかった。
1週間の入院の間、毎日顔を出したのは、典子だけである。
明日は退院という日。
お持たせのクロワッサンドーナツをかじり、典子は、複雑な顔をした。
「せっかく行列して買ったのに、ありがちな食感ね」
「行列したのは、お嬢様じゃないでしょ。誰です? 小林さん?」
もなみは、新人のメイドの名をあげた。
この暑いのに、気の毒なことをさせた。
退院したら、なにかしら、お礼をしなければ。
「ううん、違う。古海」
「えっ、古海さん!?」
黒づくめの服装で背の高い古海が、おしゃれな女の子に混じって、行列に並んでいる姿が頭に浮かんだ。
もなみは、軽く眩暈を感じた。
「うん。モナちゃんがクロナッツが好きだ、って言ったら、朝から並んでくれた」
「……お嬢様。私はそんなこと、一言も言ってませんから。クロナッツを食べたがってたのは、お嬢様でしょうが」
……私が怪我をしたこと、古海さん、気にしてるんだな。
サイン会に、自分がついて行かなかったことを、古海はひどく悔やんでいた。
もなみが切り付けられたのは、古海のせいではないのに。
切りつけた犯人が悪いのは言うまでもない。
それ以外を強いて言うなら、3人分のBL本を持っていたせいだろう。
典子が爆弾犯の人質になったのだって、……これは、明らかに、典子が自分から飛び込んでいったのだ。
古海のせいではない。
「あなたもお食べなさいよ、モナちゃん」
そう言いながら、典子は、チョコレートのふくろうが乗った、かわいらしいお菓子をぺろりと平らげた。
指に残ったチョコレートを嘗め取った。
にわかに、厳粛な顔になる。
「本当にいいのね、モナちゃん。あいつを警察に突き出さなくても」
「ええ」
もなみはベッドに起き上がり、典子を見た。
典子は、真摯なまなざしをしていた。
お嬢様のこんなに真剣な顔は、初めて見た、ともなみは思った。
「じゃ、あいつは、わたしの自由にするわよ」
爆弾立て籠もり犯。
それは、門壇社の新人賞に落ち続けた、南波裕文の犯行だった。
しかし、腐女子狩りは……。
特徴ある本を持っていた、もなみの腕を傷つけたのは……。
厳かに、典子は宣言した。
「腐女子狩りの犯人、佐々江幹久は、わたしの監視下に置きます」
門壇社営業部、佐々江幹久。
典子と同じく、立て籠もり犯南波の人質だ。
縛られたままの池谷部長が、懸命にロープを切ろうとしていたカッターナイフを、典子は取り上げた。
佐々江のカッターナイフだ。彼が、自分のかばんから取り出したものだ。
そして、典子は、一条寺グループ傘下の、この病院の科学研究部門に分析を依頼した。
佐々江のカッターナイフからは、もなみの血液、その残滓が検出された。
「……お嬢様」
もなみは言った。
「聞きましたよ、お嬢様。さんざん、佐々江って人を、もてあそんだんでしょ? 立て籠もり犯の南波との絡みシーンを演出したり、同僚に写真を撮らせたり」
「あっ、違うの。これには理由が」
「理由ねえ」
「あるのよっ! 本当よっ! 絵師の吉田ヒロム先生が、言ったのよ。医学部へ行って筋肉の付き方を勉強しないと、萌え絵が描けない、って……」
「それは、ヒロム先生に、18禁のエロイラストを強要したからでしょう? 本谷さんによると、ものすごーくナイーヴな先生だっていうじゃないですか」
「うん。だからわたしは、親切心から、参考資料を……それなのに、先生ったら、ひどいのよ? 資料はもう必要ない、なんて言うの」
「それは、先生に、裸を見せてくれるひとがみつかったんでしょうよ」
「裸を見せる? え?」
「モデルさんとか」
「ああ、……ああ、そうね。でも先生、適当なモデルがいないっておっしゃったのよ? だから、そういうイラストは描けないって」
「お嬢様にそう言った後、適当な人が見つかったんでしょうよ」
「え? ああ、モデルさんね。……あのね。せっかく撮った写真だから、送信して差し上げたの。そしたら先生、筋肉のつき方が素晴らしいって。当たり前よね、だって、わたしの完璧なマネジメントで……」
典子は、途中で言葉を呑みこんだ。
もなみはじっと、典子を見つめ続けた。
ややあって、もなみは言った。
「あの男のことは、お嬢様に任せます。煮るなり焼くなり、お好きになさいませ」
……絶対、
もなみは思った。
……絶対、この人は、悪いようにしない。
……だから。
「ただ、ほかの方が心配です。お嬢様のお仲間の方々が」
「仲間? 友達も含めてわたしには、そんな人はいないけど?」
「一般の方々です。あの界隈に出没する。腐った趣味をお持ちの」
……腐った、だがきっと、愛すべきキャラクターの……。
……お嬢様と同じメンタルをお持ちの。
「その点は大丈夫よ」
典子がにかっと笑った。
「佐々江さんには、遠藤探偵事務所の人が、いつもひっついているから」
遠藤探偵事務所。
典子御用達の探偵事務所だ。
そこに所属する探偵たちのギャラは、時給制だったはずだ。
それも、かなり高額の。
時給+成功報酬+必要経費。
いったい、いくらかかるのかと、もなみは呆れた。
典子は平然としている。
「佐々江さんも、少しは懲りたと思うわ。同僚の木島さんからも、圧力はかかるだろうし」
服を脱いで南波にのしかかれと言った典子に、最初、佐々江は逆らった。
当然だ。
その彼の耳に、典子は一言、ささやいた。
……「腐女子狩り」。
その一言で、佐々江は、脱いだ。
あの日。
佐々江は焦っていた。
もともと、サイン会には遅れていくつもりだった。
……だれが、BL作家のサイン会なんかに……あ、MLか。
しかし、売れていることは事実である。営業の自分が行かないわけにはいかない。
でも、行きたくない。
だから、ぎりぎりまで郊外の書店でポップ作りを手伝っていた。
それが、今日のこのサイン会の対象本であったことは、究極の皮肉であったのだけれど。
ふと、前からくる女の子の下げている袋に目が留まった。
緑色のビニールの手提げ袋。これから行く書店の袋である。それを女の子は、3つも提げていた。
女の子は、先を行く誰かに向けて、大声で怒鳴っていた。派手な動きに合わせ、3つの袋はゆらゆら揺れる。そのどの袋からも、透けて見えたのは……。
半裸の男の子たちが抱き合う絵柄。
自分がさんざんあちこちで営業し、ポップを作り、さらに……。
頭がかっとした。
今までは、怪我をさせたことはなかった。
だが、この時の佐々江は、歯止めが効かなかった。
カバンの中にはカッターナイフが入っている。
さっきまで、まさにその絵柄を切り抜いていたカッターだ。
彼は無意識にカバンを開け……。
……。
後に佐々江が典子に告白したことによると、彼には、三人の姉がいた。
上から順に、S、コスプレイヤー、男、だった。そして、母は美魔女である。
彼女(?)らによって日々調教されていた彼は、心の中で、腐的なものに対する、深い憎悪を育んでしまった。
涙ながらに、佐々江はそう告白したという。
書店帰りの女性を襲ったことは深く後悔していると、そうも語った。
その言葉に嘘はなかろうと、典子は言っている。
突然服を脱ぎ始めた同僚に、呆気にとられていた木島には、典子はこう言った。
……「この彼を、社会的に抹殺されたくなければ、わたしの言うことを聞くことね」。
そして、カメラを渡した。
……。
もなみが尋ねた。
「なんで、同僚の人が、あの男に、圧力をかけることができるんですか?」
「木島さんはね、佐々江さんを困った立場に陥れたくないのよ」
「いくら同僚ったって、そこまでの義務は……」
「それはね、モナちゃん、」
典子は、うふふ、と笑った。
「ラブってるから!」
「はあ?」
「だ・か・らぁ~。木島さんは、佐々江さんに、ラブなのよ! 愛する佐々江さんを堕落させないために、木島さんは、しっかりと佐々江さんを見守るわ。そして、ありとあらゆる、悪の誘惑を、彼から遠ざけるのよ。だって、そう。そこに愛があるから!」
「……」
「そして、木島さんの愛に気がついた佐々江さんは次第にホダされ、ついに二人は……」
「お嬢様、もういいです……」
「ヘタレ攻め × けなげ受けなのっ!」
佐々江の処遇を典子に任せたことは、失敗だったろうか。
もなみは軽く後悔した。
だが、まあ、いい。
典子は、もなみに切り付けた男を追って、単身、書店に乗り込んだ。
……うちの大事なモナちゃんをっ! 許さないんだからっ!。
典子の声が耳に蘇り、もなみは、嬉しいような、くすぐったいような、こそばゆい思いがした。
「あ、お嬢様」
もなみは言った。
大事なことを忘れるところだった。
「ひとつだけ、お願いが」
「なあに?」
汚れなき少女のような瞳を向ける。
騙されないぞ、と、もなみは思った。
「本谷さん」
彼女は言った。
「本谷さんを、駒場さんに近づけないで下さいます?」
「駒場さん? ああ、モナちゃんにずっとついていてくれた、親切な看護師さんね」
「ええ」
本谷を、うっとりと目で追っていた駒場を、もなみは思い出した。
男だ、って、ちゃんと説明したのに!
ストライクゾーンにあろうがなかろうが、関係ない。
とりあえず、この駒場を仕留めないことには、もなみの意地が、治まらない。
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