古海の苦悩



 「あっ」

 直緒の前に置こうとしたアールグレーのカップを、古海は取り落とした。


 薄いカップは床に落ち、割れた。

 慌てて、ダスターを手に、テーブルを拭こうとする。

 香り高い紅茶は、丸いテーブルに広がるばかりだ。


「だ、大丈夫ですか、直緒さん? 火傷、しませんでしたか?」

「平気ですから」


 直緒は、事務所備え付けのタオルを持ってきた。

 吸水力のよい古いタオルは、みるみるうちに琥珀色の液体を吸い取っていく。


 「つっ」

 床に屈んだ古海がつぶやいた。

 割れた陶器を拾おうとして、手を切ったのだ。


「血が」

 直緒は古海の手を取った。

 傷ついた指先を陽にかざす。

 傷はかなり深いようだ。

 ティッシュで強く抑えた。


「……直緒さん」

 古海がじっと自分を見つめている。

 直緒は、ぱっと手を離した。

「清潔なガーゼがなかったもので。痛みますか?」

「いいえ、こんなもの」

ささやくような力のない声で、古海が言った。

「篠原さんの傷に比べたら」


 篠原もなみは、1週間ほど入院するということだった。

 傷はたいしたことないが、何分、住みこみなので、しっかり休ませるための措置だということだった。

 典子は、もなみの見舞いに行っている。


 古海がつぶやく。

「あの日、私が、お嬢様についていけばよかったのです。それなのに……私は、お嬢様をも、危険な目に遭わせてしまった」

「あなたのせいじゃ、ありません。書店が占拠されるなんて、普通、誰も、思いません。それにあなたは、無事に典子さんを救い出したじゃないですか。危険な場所に乗り込んで。そして僕を……」

少しためらった。

「僕を、助けてくれたじゃありませんか」


「お嬢様でしたら、そのうち、自力で脱出しましたよ。むしろあなたでしょ、直緒さん。真っ先にお嬢様の元へ向かったのは」

「それは、犯人が要求したからです。それに、篠原さんを切り付けたのは、あの男じゃない。全くの通り魔の犯行です。犯人は、まだ捕まっていない。だから、あなたが一緒でも、どうしようもなかったことです」


 腐女子狩りの犯人を追って書店に入ったのだが、見失ってしまったと、典子は言った。

 ものすごい人波が、次々と書店の外へと流れて来た。

 だから、仕方がなかったそうだ。

 あきらめて戻ろうとした矢先、人質に取られてしまったのだと、あっけらかんとしていた。


 門壇社の社員や書店員の話とは、若干、いやかなり違うようだが、そこを追求する人間はいなかった。


 一乗寺家の財力が、ものをいった結果である。



 古海はうつむいた。

「私なら、切りつけられることはなかった。男の私なら。そう、思いますよ」

「古海さん……」

「そして何より、お嬢様のお目付け役という使命を放棄していた。それが、私には、辛く苦しい」


「でもそれは、古海さんのせいじゃない」

直緒は言った。

「不幸な偶然が重なった結果です。もしどうしても、誰かのせいであるのとしたら……それは、僕のせいです」

「直緒さんの? 何を言うのです」

「古海さんは、僕の仕事を手伝ってくれていた。大河内先生の御本のカバーの付け替えを。あれは、僕の仕事でした」

「いいえ、いいえ、直緒さん」

「僕の仕事です。だって、本の仕事ですもん」


「私は……」

 古海はしばらく沈黙した。

 ややあって、消え入りそうな声で続けた。

「私は、直緒さんと一緒にいたかった。お嬢様に同行するより。それが、私の犯した罪なのです」


 俯いた顔に陰が落ち、頬がげっそりこけている。

 こんな苦しそうな古海の顔は、初めて見た。


 ……ああ、逆効果だ。

 直緒は思った。

 ……自分がそばにいると、この人を、こんなにも苦しめてしまう……。


 古海が顔をあげた。

「私は、そんな風に……、そんな理由で、お嬢様をほったらかしにしてしまった……」


 ……そんな理由で。

 その言葉が、直緒の胸を刺した。


 「いいえ」

 負けまいと、直緒は思った。


 負けまい。

 でも、何に?


「古海さんは、誰よりも、典子さんのことを大切にしてるでしょう? そんなこと、典子さんだってわかっているはず。典子さんだけじゃない。あなたは、典子さんの為には、自分の命だって惜しまない。その気持ちは、僕にも痛いほど伝わってきました。だから僕は、あそこへ乗り込んだのです。あなたの代わりに」


 古海は、典子の婚約者。

 直緒の中でそれは、すでに既製の事実となっていた。

 その思い込みが、自分を苦しめていることに、直緒は気づいていない。


 直緒は言った。

「自分を責めるのは、偽善です。だって、あなたは、典子さんを、それはそれは大切にしていらっしゃる」

「いつの日も、お嬢様が健やかであられますように。お嬢様の将来が、幸せに光り輝くものでありますように。それが、それだけが、私の願いであり、私の存在意義なのです」

打って変って、静かな声で、古海は言った。


 やっぱり。

 直緒は思った。

 ……やっぱり古海さんは、典子さんの婚約者なんだ。


 最後の希望が、壊れた音がした。



**



 ぱたぱたと廊下を走る音がした。


「ふるみ~」

開け放たれた事務所の入り口から、創が飛び込んできた。

「ああ、いた、古海」

弾丸のように、古海めがけて突っ込んできた。


 古海は立ち上がり、足を踏ん張った。

 飛んできた創を、しっかりと抱きとめた。

「いったい、どうなされたというのですか、創さま?」

「僕が、僕が、お姫様の写真をあちこちのソーシャルメディアにアップしたから……お姫様が爆弾男の人質に~っ!」

古海の胸に顔を埋め、くぐもった声で、創が言った。


 やっぱり創だったか、と、直緒は思った。

 轟鬼警部に見せられた写真のアングルに、見覚えがあったのだ。


 「ああいうが、創さまのお好みですか」

そう言う古海は、もうすっかり、いつもの皮肉屋に戻っていた。

 少なくとも、表面上は。


「うん。でも、ファンは、僕だけじゃないよ?」

「そりゃ、あれだけのでございますからね」

「彼女、大丈夫だったろうか」

「大丈夫ですよ。あの方は、ご無事です」

「古海、居所を知ってるの? 教えて!」


古海は肩を竦めた。

「さあ。私もすれ違っただけなので。お姫様なんでございましょ、外国の。もう、帰国なさったのでは」

「困ったな」

創は言った。

「写真なんかアップしちゃって、僕、謝らなくちゃいけないのに。どうしても、会いたかったんだ。それだけなんだよ。あんなに拡がっちゃうなんて、思ってもみなかったんだ」

創は、古海を見上げた。

「古海。彼女は、怒っているだろうか?」

「あの方は、ちっとも怒ってなんかいらっしゃいませんよ。……ねえ、直緒さん」


 創は、びっくりしたように、古海の胸から顔を離した。

 初めて、直緒の存在に気がついたようだった。

「……」

奇妙なものを見るように、直緒を見た。


 いきなりふられて、直緒は戸惑った。

「え? ええ、きっと」

「なんであなたが言うの?」

不満そうに創は口を尖らせた。

 親鳥の羽の下にいる雛のように、古海の胸にぴったりと右の頬を押しつけたままだ。


 「それは……」

自分の女装だから、とは、さすがに言えない。

 直緒は俯き、言葉を濁した。


「とても素敵な人だから。心もおおらかできれいな人だから」

あやすように、古海が言った。


「違います……」

掠れて小さな直緒の声は、創の耳には入らなかったようだ。

 輝くような笑みを、創は浮かべた。

「そうだね。ほんとにね。会いたいな、僕」

「もう、勝手にお写真を撮ったり、ネットにあげたりしてはダメですよ、創さま」

優しい声で古海が言った。

「うん」

素直に創は頷いた。


 ……なぜ自分は、創を、古海の胸から引き離したいと思っているのだろう。

 直緒は、いぶかしく思った。

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