Yシャツを脱いでもらいましょうか
激しい怒りが、湧き上がってきた。
腹の底から噴き上がる、熱い怒りだ。
「新人賞だぁ~!」
書店員・
ロープで縛り上げられた体を、ぐいっと捻る。
縋りついていた後輩の松本佳恵が、驚いたように体を離した。
「おいおいおいおい、そんなもんの為に、私に、こんな、おい、ロープ外せや、ゴルアァ!」
香坂は、ヤンキー出身ではない。
ただひたすら、怒っていた。
「門壇社の新人賞? ンな冠ついてたって、ここ数年、ちっとも売れてなかろうが。なのに、厚かましくも平積みを要求しやがって。棚の確保だ? 売れる本、出してから言えっつーの。出版社が売れない本押しつけてくるせいで、書店がどれだけメーワクしてるか、考えたことあんのか、おんどりゃあ」
「ひっ」
南波裕文と名乗った立てこもり男が、息を呑んだ。
唖然として、香坂を見ている。
「ハードカバーの文藝書は、重いんだよっ! 送り込まれてくる新刊、箱から出すだけで腰痛じゃあ。爪は割れるし。ネールアートなんて夢のまた夢。しかも、この本、ろくに売れんわ。したら、また箱詰めよ。あ。箱から出さないでそのまま送り返すモンもあるわ」
「……え?」
小さな声は、門壇社編集の木島の声だ。
それを無視して、香坂が叫び続けた。
「そんなモンに落ちたからって、書店員を襲ってんじゃねえよっ! 出版社を襲えや、ぼけぇーっ」
「しゅ、出版社は、受付があって、一般人は入れないんだよっ」
南波が言い返す。
誰かが、くすっと笑った。
「門壇社の受付嬢は、美人だもんねえ。派遣だけど。彼女には、ちょっと、手が出せないわよね」
ピンクの影が、ふわっと近づいてくる。
「でも、書店員さんならいいってことにはならないわ。このお姉さんの言うとおり、あなたの襲うべきは、門壇社。とばっちりはだめよ。お姉さんの縄、解いていいわよね?」
そう言いつつ、なにかに躓いた。
佐々江のカバンだ。
カバンは床を滑って、縛られたままの男性3人の方へ床を滑った。
南波が慌てて、典子を牽制する。
「おい、お前、動くなっ」
「だって、そもそも、書店員さんは関係ないじゃない。あなたが新人賞落とされ続けたのに。人質の数が多いと、罪が重くなるわよ。無関係な人ならなおさら。狙撃、されちゃうかも」
典子は、香坂の後ろに回った。
しかし、
「ロープが固くてほどけなーい」
立ち上がり、呆気にとられている南波に近寄っていった。
「ナイフ、貸して」
「ふ、ふざけるなっ!」
さすがに我に返って、南波が一喝した。
「ふざけるなって言葉、あなた、これで、3度目だわ。そんな語彙力の無さだから、新人賞、落ちちゃうのよ」
「あ、あ、あ、」
「いいから、書店員さんを解放しなさいな。代わりに、なんでも言うこと、聞いてあげるから」
「ああ?」
「食べたいものとか、会いたい人とか、見たいエロビデオとか。逃走資金でもいいのよ?」
「逃走しようなんて考えてない」
南波は言った。
「俺はここで、お前らを道連れに死んでやる」
起爆スイッチを、ぐいと人質たちの方へ出す。
「あんたも死ぬんだぞ」
縄を掛けられ、転がされたまま、佐々江は叫んだ。
せいいっぱい、ドスを効かせた。
「爆発させたら、あんたも死ぬ」
「もちろん、最初からそのつもりだ。俺は、俺の小説に殉ずるんだ」
じれったげに典子が割って入った。
「だからぁ。その前にぃ。何か望みはないの?! わたしが誰だか、さっき言ったでしょ?」
「……会いたい人がいる」
震える声で、南波は言った。
**
「解放!」
「解放だっ!」
ロータリーが湧いた。
女性二人が、震える足取りで、ビルから出てきた。
抱き合うようにして、互いを支え合っている。
「……お嬢様じゃない」
警察車両から外を覗き見て、古海がつぶやいた。
「古海さん……」
古海の深い絶望が伝わってきて、直緒は声をのんだ。
「直緒さん」
古海はそう言って、両手で顔を覆った。
なす術もなく、直緒は、古海の傍らに立ち尽くした。
「ちょっと」
そう言って、バンに入ってきた人がいた。
トヨシマ署の
「あなた方、この人に見覚えありませんか」
差し出されたタブレットを見て、古海と直緒は、顔を見合わせた。
音を立てるようにして、直緒の顔に、血が上っていく。
それは、前に創に見せられた写真と、全く同一のものだった。
直緒……緑色のドレスを着用し、完璧な化粧、あのパーティーの時の……の写真だった。
「その人が、何か?」
口もきけない直緒の代わりに、古海が尋ねた。
「いや。立て籠り犯の要望なんですわ。この女性に会いたい、と」
「……」
「ネットに流れた写真なんですと」
よく見ると、それはツイッターの投稿写真だった。すぐ上に、「この方、どなた?」と書かれている。
「あちこち拡散されて、ネット上で、ちょっとした話題になってたらしいです。なにしろ、どえりゃー美人ですからなあ」
「この人に、会いたいと? 立てこもり犯が?」
「そうです」
「門壇社の新人賞を落された怨恨からの犯行と、聞いてますが?」
「ええ。この春、『末広がり
「落ちた作品を、本にしろとか、書店で売れとか、そういう要望じゃなくて?」
「違います。この女性に会いたいそうです。少なくとも今は」
「なんてこった」
古海は、頭を掻き毟った。
「なんてこと……」
轟鬼警部の目が光った。
「この女性に、お心当たりがあるんですね?」
「はい? いえ。ありません」
「古海さん!」
強い語調で、直緒は言った。
「はい。いいえ、いいえっ!」
「どっちなんですか!」
「……」
「解放された女性達を通じて、立て籠もり犯が要求してきたんです。この女性を寄越せ、さもなくば、建物を爆破する、と」
「な……」
「書店のどこかに、高性能のプラスチック爆弾が仕掛けてあるそうです」
「……」
古海は蒼白になった。
今にも倒れそうだ。
重々しい声で轟鬼警部は言った。
「現在、SAT(特殊急襲部隊)の出動を要請しています。だが、彼らは最終手段です。できることなら、彼らの出番なくして、事件を収束させたい」
「警部さん」
直緒は前に進み出た。
「警察に、
「化粧? 復顔のプロならおりますが」
「復顔ですって? そりゃ、頭蓋骨の復元のことでしょうがっ! 警部さん、あなた何てこと言うんだっ!」
古海が激昂した。
「直緒さん、駄目です! 行かせません!」
「古海さん、落ち着いて」
直緒は微笑んだ。
「僕は、僕の尊敬する人を、取り返しに行きます。僕の大切な……、あなたの大事な人を」
**
「おい、爆弾は、どこに仕掛けた」
トヨシマ区の大型書店。地下一階、成人向け図書売り場。
ロープで縛られ、床に転がされたまま、佐々江は尋ねた。
この書店は、駅のロータリーに面した大型書店で、地上9階、地下1階の、大型書店だ。爆発物は、そのどこかに仕掛けられている。
「書棚だよ」
平然と、南波はうそぶいた。
「書棚……」
書店だから、当然、あきれるほど多くの書棚がある。
女性二人が解放され、残っているのは、佐々江、木島、池谷の門壇社男性3人……、
と、一乗寺典子という女の子。
書店の女性達と一緒に、さっさと出て行けばいいものを、この子は、未だに、ここに残っている。
たとえ体の自由が利いたとしても、この人数で、書店中の書棚を探し回るのは、無理がある。
逃げ出そうとしたところで、起動ボタンは、南波の手の内にある。
滅多なことはできない。
あまつさえ、ネットで評判になったとかいう女の子を寄越せと、要求しているらしい。
……これ以上、人質を増やしてどうする。
……それも役にも立たない女なんぞ。
南波は今、ナイフを構えていない。
女性店員を解放して、その時に、机の上に置いたままだ。
まずその点を、佐々江は確認した。
かすかにみじろぐ。
木島は、何かを察したようだ。
南波に声をかけた。
「書棚だけじゃ、わからない。どこの書棚に仕掛けた?」
南波の注意を、自分にむけようとしている。
南波は目を細め、木島を見た。
「ふ、教えるかよ」
「せめて、何階か、だけでも教えてくれ」
「あんた、編集の人だって?」
せせら笑った。
「だから、俺の応募作を読んどきゃ、よかったんだよ。爆弾をどこに仕掛けたか、そのヒントは、あの作品にある」
「……」
起爆スイッチは、ポケットの中、これは肌身離さず持っている。
ポケット。
ポケットの中なら……。
次の瞬間、佐々江は、わっと飛び出した。
体から、縄がぼろりと落ちる。
南波は、何の反応も示さなかった。
固く縛られていた筈の佐々江が、いきなり、とびかかってきたのだ。
それも突然。
あまりに予想外で、頭が、認識することを拒否しているらしい。
勢いをつけて、佐々江は、南波に飛びかかった。
手をポケットへ入れさせないように、両手を抑え、床に押し付ける。
一瞬置いて、じたばた動き出した足を固定する為、腰の辺りに、しっかりとのしかかった。
「何をしている! 早くロープ、持って来い!」
典子に向けて、佐々江は叫んだ。
たったひとり、束縛されていない人間だ。
「こいつを縛りつけるんだ!」
さっき、奈良橋先生を縛ろうとしたロープが、その辺にあるはずだ……。
「す・て・き」
浮き浮きしたつぶやきが落ちてきた。
「緊縛系も、マイブームなの」
さっき、典子が、書店員の香坂に近づいた時。
典子は、佐々江のカバンに躓いた。
カバンは床を滑り、佐々江の近くまできた。
昼間、佐々江は、懇意の書店に行っていた。門壇書店の本のポップを作ってくれるというので、サイン会の前に、顔を出したのだ。
カバンの中には、ポップ作りに使用した、カッターナイフが入っていた。
それを取り出し、こっそりと、自分のロープに切れ目を入れた。
南波の隙を窺う。
カッターは、目ざとく気づいた木島に渡した。
南波が、ナイフを机の上に置いた。
爆弾の起動スイッチがすぐには押せないことも確認した。
木島が南波の注意を自分に向ける。
そこで、佐々江は、南波に飛びかかった。
なんなく抑え込みに成功し、今、南波は、自分の下でもがいている。
だが、いつまでもこうしてはいられない。
こいつを、縛り上げなくては。
起動スイッチを取り上げなくては!
「ストーーップ!」
甲高い声で、誰かが叫んだ。
「いい体勢だわ。そのままっ! そのままよ! 動かないでねっ!」
「何言ってんだ! さっさとロープを……」
佐々江の下で、南波が激しく暴れ出した。
容赦なく上から押さえつける。
圧倒的な体力差で、反撃を封じ込めることは、たやすかった。
典子が来た。
下に組み敷かれた南波を、軽く小突いた。
「ほら、あなたも。動いちゃだめ」
「ロープ! ロープは?」
「この筋肉ね」
典子が、佐々江の腕を触った。
「うーむ。筋肉かあ」
「あんた、さっきから、何……」
「肘から小指まで骨がつながってて、その上を、オモテとウラから、太い筋肉が覆ってるのね」
「ひっ、さ、触るなっ! 力が抜けるっ!」
「いいじゃない、減るもんじゃなし。でも、言葉じゃだめだわ。わかりにくいし。ちょっと、あなた!」
木島は、ようやく自分のロープをカッターで切っていた。よろめく足で、駆け寄ってくる。
その木島に、典子はカメラを渡した。
さきほど、サイン会で奈良橋先生を撮影したカメラだ。
「写真! 写真、撮って! ここの、ほら、腕。筋肉の動きがよくわかるようにね。足とか、とにかく、この体勢で見えるところ全部。」
「は……?」
木島がたじろぐ。
「写真よ。うちの絵師さんがね。骨や筋肉のつながりがわからないから、萌え絵が描けない、っていうの。だから、写真を撮って、送ってあげるの」
佐々江の下で、南波が呻いた。
「いいのよ、あなたは。動かないでいてくれたら。でも、佐々江さん、あなたは……」
つい、と身を起こした。
未だ忘れられたように転がされていた部長の池谷に寄っていく。
池谷は、木島が残したカッターナイフを拾っていた。
縛られた体で、懸命に、ロープをこすっている。
典子はひょいと、カッターナイフを、取り上げた。
満足げに頷き、振り返った。
「Yシャツを脱いでもらいましょうか、佐々江さん。もちろん、ズボンも。大事なのは、筋肉の動きよ。そう、野獣系攻め様は、それはもう、良い体をしておられるの。でも、衣服の上からじゃ、わからないから」
「気は確かか」
典子は、佐々江に近づいた。
身を屈め、その耳に何かを囁いた。
佐々江の目が、大きく見開かれた。
木島は、呆然と突っ立ったままだった。
その木島に、典子は言った。
「この彼を、社会的に抹殺されたくなければ、わたしの言うことを聞くことね」
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