腐女子の底力



 男が乗り込んできた時、周囲にはまだ、サインをもらった客が残っていた。

 辺りは騒然となった。


 近くにいたのか、店長が駆けつけてきた。

 男は、松本さんに押し付けたナイフをちらつかせた。

 顔色を変え、店長があとじさった。


「おい、入り口を閉鎖しろ」

男は店長に言った。

「さもなければ、こいつらの命はない」


 それを合図に、周囲に残った客たちが、いっせいに悲鳴を上げて、逃げ出した。

 足元にあったショッピングバックを、男は蹴倒した。

 中にはロープが入っていた。


「お前ら。互いに縛り合え!」

男は命じた。


 「……」

サイン会関係者は、互いに、蒼白になった顔を見合わせた。


 「この女がどうなってもいいのか!」

ひっ、と、松本さんが声を上げた。


 佐々江の目の端に、店長が走り去って行くのが見えた。


 「まずは、お前。こいつを縛れ!」

男は、池谷部長に命じた。顎は、佐々江をさし示している。


 屈強な自分を、真っ先に封じ込めようとする戦略だなと、佐々江は思った。

 しかし、どうしようもない。

 ロープを拾い上げ、池谷部長が、近づいてきた。


 ……ゆるく縛って。


「きっちり縛り上げろ」

男が言い、部長は、縄を締め上げた。


 ……ほんと、使えねー上司だ。



 命じられるままに、部長と香坂さんを木島が縛り、奈良橋先生が木島を縛った。

 男は、松本さんの首にナイフを押し付けたまま、奈良橋先生の足元にロープを投げた。

 絶望的な目で、松本さんが、ロープを見る。


 「お前が縛れ」

 男はそう言って、松本さんを突き飛ばした。

 そして、手足を縛られた香坂さんに近づいた。その首筋にナイフを当てる。

「逆らうと、同僚が死ぬことになる」


 「おい、こんなことして、いいと思ってるのか!」

両手両足を縛られたまま、部長が怒鳴った。

「お前の狙いは何だ!」

「うるさいっ!」

男は叫んだ。


 全員が凍りついた。


 男は、部長に近づいた。

 その顔に、自分の顔を近づけ、低い声で言う。

 「俺は、お前らに恨みがあるんだよ」

「恨み?」

「お前ら、門壇社の連中にな」

「なんだと?」

「お前らなんて、全員、死ねばいいんだ!」


 「なら、書店の人は関係ないよな」

佐々江は言った。


 ……逃げくれ。

 縛られていない女性二人に、必死で佐々江は伝えようとした。

 ……俺が、注意をそらすから。


 しかし、松本さんも奈良橋先生も、体を固くしたまま、動けないでいる。


「門壇社の連中と一緒にいるなんて、運が悪かったと思うんだな……」



 「店内のお客さま。緊急事態が発生しました。至急、建物の外へ出て下さい。繰り返します。店内のお客様……」

店長の声で、アナウンスが入った。



 「ち」

男は舌打ちした。

「派手に爆発させてやろうと思ったのに。余計なことしやがって」

「おい、爆弾って本当か!?」

池谷部長が叫んだ。

「どこに仕掛けた!?」

「うるせえ」

男は叫び、ポケットから汚れた布きれを取り出した。

 部長の口にそれを突っ込む。

「うぐぐぐ」

池谷部長が目を白黒させている。

 男は部長のネクタイを外すと、器用にその口にさるぐつわをはめた。

「黙れ、下郎が」

男はそう言うと、固まったままでいた二人の女性を振り返った。

「さあ、はやく縛れ」


 がたがた震えながら、松本さんが、ロープを拾い上げた。

 大きな目に涙をいっぱいにためて、奈良橋先生にロープをかけようとしたその時……。


 「だめよ、先生を縛るなんて。絶対、だめ!」

 制止の声が聞こえた。

 この場にそぐわぬ、おっとりした声だ。

 「奈良橋先生は、大事な人です!」

ピンクのワンピースを着た女の子は叫んだ。


 松本さんをおしのけ、奈良橋を出入り口の方へと押しやった。

「さあ、奈良橋センセ。お行きになって」

「あなたは……」

「一乗寺典子です。お見知りおきを」

「ああ、あの、真っ先にサインをもらいに来てくれた……列の一番先頭に並んでくれて……」

「覚えていて下さったんですかっ!」

目が輝いた。

「ああ、わたし、幸せ! 先生、大好きっ!」


 「おいおい、そこの」

低い声が地を這った。

 息を呑んでやり取りを見守っていた全員が、びくりと震えた。


「空気読めよ。この状況が見えてねえのか? コレはナンだ?」


 ナイフをちらつかせ、縛られた香坂の首筋に当てる。

 声にならぬ悲鳴をあげて、香坂が身を縮めた。


 「ナイフですけど」

「そうじゃねえっ! 勝手なことをすると、この女の命はねえぞ」


 その時初めて、女の子……一乗寺典子は、奈良橋と松本の女性二人を除く、全員がロープで縛られていることに気がついたようだ。

 「まあっ!」

典子の目が輝いた。

「すてき……」


「おいっ!」


「特にこの、鍛えられた筋肉質のお兄さんと、黒縁眼鏡の優しげなお兄さんが……。さるぐつわのオジサンは、イマイチだけど」


 ……まずい。

 佐々江は思った。

 ……犯人を刺激して、どうする気だ。

 ……つか、この女、頭、おかしいんじゃねえの?


 「ふざけてるのか」

案の定、低い声で、男は言った。

「なら、この起爆スイッチを押すまでだぞ」

ポケットから、ちっぽけなスイッチを取り出した。

 右手で握りしめられるほどの筒に、押しボタンがついている。



 「当店には、爆発物が仕掛けられております。至急、非難してください。繰り返します……」

もう何度目かの店内放送が流れた。



 「あらあ」

典子が言った。

「それで、みんな、ビルの外へぞろぞろ出てきたのね。人波に逆らって入ってくるのが、とても大変だったわ」

「わざわざ入って来るなっ!」

「でも、わたしが来たからには、もう、だいじょうぶ。国宝には、指一本、触れさせないんだから」

「国宝?」

「奈良橋先生のことよ。BL作家は、国の宝ですぅーっ!」

「……」


「さ、奈良橋センセ、ここはもういいですから、どうぞ、お帰りになって」

「ふ、ふざけるなっ!」

「わ、語彙力っ」

「うるさいうるさいうるさいっ!」


「もちろん、ただでとは言わないわ」

 典子は、胸をそらせた。

 薄い胸をものともせず、堂々と男と対峙する。

「このわたしが、代わりに、人質になってあげる」

「……はあ?」

「国宝級じゃないけど、身代金なら、それなりに取れると思うわ」


男は、はっとしたようだった。

「お前、一乗寺典子って言ったな。一乗寺……」

「そおよ。一乗寺建設の娘よ、わたしは」

「……」

男の頭の中で、猛烈な勢いで電卓が叩かれている音が聞こえるようだった。



 典子は、作家を振り返った。

「さ、センセ、早くお帰り下さい。そしてどうか、ケモノミミシリーズの御執筆に、専念なさって下さいね。あ。でも、完結するのは淋しい……。いいえ、待ち遠しくて死にそう……、だけどっ!」


「奈良橋先生、早くっ!」

転がされたまま、佐々江は叫んだ。


 蒼白な顔で奈良橋は、ちらと男を見た。

 ナイフは、香坂から外れていた。

 微かに頷き、作家は、その場を立ち去った。



**



 「ここは、天国ね。こんなにたくさん本が!」

一乗寺典子と名乗った女の子が、ふわふわと売り場を歩いている。

 両手を胸の前で組んでいる。

「しかも、みんなみーんな、BL!」


 それは、門壇社としては、不本意ではあった。

 奈良橋沙羅の本は、四六版で作った。

 門壇社の他の本と一緒に、一般文芸の棚に置いてもらうためだ。

 しかし、佐々江らの営業部の努力プッシュも虚しく、殆どの書店では、コミックス、それも、成人図書のコーナーに置かれている。

 奈良橋沙羅の他の著書が、そこにあるからだ。

 BLコーナーの一角に。


 って。

 今はそれどころではない。


 「おい、勝手に動き回るんじゃねえ!」

ナイフを持った男が凄んだ。

 「じっとしてろ」


 すでに男は、典子を縛ることを諦めていた。

 典子が、書棚を覗いて、夢見心地で歩き回るからだ。


 書店員の松本も、縛られていない。

 こちらは、同僚、香坂の横にへたりこんでいた。


 いずれにしろ、店内のどこかに、プラスチック爆弾が仕掛けられている。

 スイッチは男の手の中だ。

 典子も松本も、勝手に逃げ出すわけにはいかない。

 縛られている四人を残して。

 の、筈なのだが。


 ……どうもこの女の子は、勝手が違う。

 ……一乗寺財閥の令嬢らしいが、そんな子が、一人で街に出るだろうか。

 ……しかも、BL好きを堂々と公言するなんて。

 佐々江は危ぶんでいた。

 ……犯人を刺激するようなことは、どうかしないでくれよ。



 「でも、読んだことのある本ばかりだわ」

一通り書棚を見て回ると、典子は言った。

「つまんないの」


 「お前、腐女子だろ」

男が聞いた。

 「そうよ」

一瞬のためらいもなく、典子は肯定した。


 にやにやと男は笑った。


「お前、恋人いないだろ? それどころか、男友達だって、一人もいないよな?」

「恋人? 男友達? なにそれ。Bは2人以上いないとだめなの。萌えよ! 萌えの為に、どうしても、最低、2人は必要なの!」

「はあ? 腐女子のくせに、淫乱とか?」

「ねえ、あなた、カレシいる?」


男の顎が、がくんと下がった。


「カ、カレシだぁ? いるわけないだろ!」

「なあんだ。つまんないの」

「こ、この女……」


 典子は男の顔を、じっくりと眺めた。

 まっすぐ見つめたまま、目をそらさずに言う。


「いくら凄んでも無駄よ。ちっとも萌えないから」

「……っ、……っ、」

「あなた、名前は?」


 男は絶句したまま、典子を見た。

 典子は、手を後ろで組み、堂々と、男を見返す。


 ……これが、深窓の令嬢の威厳というやつか?

 佐々江は思った。

 危害も加えられず、一人、優雅に歩き回り。

 縛られることもなく。

 ナイフを構え、起爆スイッチを手にした男に、正面切って、名前を聞くなんて。

 ……それとも、腐女子の底力なのか?



 ふいに、男は、佐々江、木島、池谷の、門壇社三人の方を向いた。

「覚えているか? 俺は、南波なんば裕文ひろふみだ」

「南波……裕文?」


 佐々江には、全く聞き覚えのない名前だった。

 口に汚れた布を詰められた池谷部長も、首を横に振っている。


「お前らに、何度も、作品を否定された、南波裕文だよっ」

編集部の木島が、わずかに眉間に皺を寄せた。

「……もしかして、門壇文藝小説新人賞のことか?」


南波の目が、すっと細くなった。

「そうだ。もう十年、俺はずっと、落とされ続けている」

「……」

「今年出した作品は読んだか?」

「……」

「読んでないのか!」

「応募作は、下読みが読む。下読みを通過しなければ、我々が読むことはない」

「それは残念だったな」

不気味な声で、南波は笑った。

「非常に残念だ」



**



 「そんな、そんなことに、うちのお嬢様が巻き込まれるなんて……」

古海が、天を仰いだ。

「なんてことだ……」

「すみません、古海さん、私がついていながら」

 もなみが、悄然と頭を下げた。


 幸い、腕の傷は浅かった。

 ついさっきまで、声もろくに出ないほどショックを受けていた。それが、古海の顔を見るなり、しゃんとしたのだ。

 今は、駆けつけた救急車に乗ることさえ、拒否している。

 行きがかり上、看護師の駒場良太が、ずっとつきそっている。

 創は、ヒステリックにわめきちらす母親に引き取られて、すでに帰宅していた。


 駅のロータリーは、黄色に黒字のキープアウトのテープで、人波が遮断されていた。

 何台か停められた警察車両が、臨時の対策室になっている。



 「あなたのせいじゃありませんよ、篠原さん」

古海が言った。

「むしろ、私のせいです。大河内先生の本は直緒さんに任せて、サイン会には、私がついていけばよかったのです。それを……」


「古海さん」

直緒は言った。

「今は、自分を責めている場合じゃ、ありません。なんとかしないと。なんとか、典子さんを助けなければ。無事でいて貰わなくちゃ!」

「いや、あの女のコは、自分から進んで本屋の中に入っていったんですよ? 切り付け魔の跡を追って。爆弾が仕掛けられたと言いながら、続々と人が出てきたのは、その直後のことです」

良太が言った。


 全員が、良太の顔を見た。


 「お嬢様は、私の為に」

もなみが喉を詰まらせた。


「篠原さん」

古海がもなみに歩み寄った。

「お嬢様は、大丈夫。常に悪運が、あの方に味方してますから」


 胸ポケットからチーフを取り出し、そっと差し出した。

 もなみはそのチーフをひったくり、鼻をかんだ。


「ごめんなさい。これ、あとで洗ってお返しします」

「いえ、差し上げますから」

古海は言った。

「篠原さん、申し訳ありません。あなたにそんな、辛い目に遭わせてしまって。その腕の傷、痕が残ったら大変です。どうか、病院へ行って下さい」

目線を、良太に送る。


 良太は頷き、もなみの、怪我をしていない方の腕を取った。

 間もなく救急車両がサイレンの音を鳴らして、走り去って行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る