913は、くさった ひもの さん
衣服は、近くの量販店で調達した。前回の失敗をふまえ、ユニセックスのカットソーとパンツにしてもらった。ただし、カットソーは、タートルネックだ。
トヨシマ区は、巨大な繁華街を擁していた。その中に、コスプレ専門の写真スタジオが何軒かあった。メイクは、その中の一軒から、スタッフを連れてきた。
鏡の中には、パーティーの時の、あの女性が映っていた。
「直緒さん」
後ろから古海が覗きこんだ。
鏡の中の直緒の目を捕える。
「直緒さん」
「わかってます、古海さん」
直緒は頷いた。
「僕に、任せてください」
古海の瞳が揺らいだ。
「いいえ、わかっていません。あなたは、ちっともわかっていない」
「時間です」
制服警官が入ってきた。
はっとしたように、立ち止まった。
眩しそうに直緒を見る。
「用意はできてます」
直緒は言った。
**
「ええと。これは。ええと」
もちろん、声に出すわけにはいかない。
男の声だからだ。
しかし、直緒の心の中で、当惑のつぶやきが止まらない。
「ええと。ええと、ええーーー、とぉーーー!」
それほどショッキングな光景が、目の前に繰り広げられていた。
床に仰向けに横たわった男。
この男はいい。
よくはないけど、まあ、いい。
問題は、その上の……。
上半身裸、ズボンもはかず、パンツ一丁なのに、なぜかビジネスソックス着用の……。
背中の筋肉が、盛り上がって見える。
裸男は、着衣の男にのしかかっていた。
両手を頭の横に、まさに床に縫い付けるように押さえつけている。
鍛えられたずっしり重そうな体が、それより小さいとはいえ、やはり男の体を組み敷いている。
閃光が走った。
続けざまに2度3度、違った向きから。
間の抜けたシャッター音が、それに続く。
クールビズスタイルの痩せた男が、カメラを構えていた。
「典子さん……」
尊敬する上司は、そこにいた。
腕を組み、満足そうに頷いていた。
「典子さん!」
直緒は、声なき叫びをあげた。
典子が目を上げた。
「直緒さん!」
本当に嬉しそうに笑った。
ぱんぱん、と、典子が両手を鳴らした。
「もういいわよ。写真はたくさん、撮れたから」
上に乗っかっていた筋肉の塊が立ち上がった。
憮然として、ズボンに足を通し始める。
カメラの男が、黙って、Yシャツを拾って渡してやる。
「あ、撮った写真、さっき言ったアドレスに送っといてね」
典子は、カメラの男にそう言った。
下になっていた男を助け起こす。
「ご協力を感謝するわ。これで絵師の先生もきっと素敵な萌え絵を描いて下さるでしょう。あ。待ち人、来たわよ。ほら、この人でしょ、あなたが探してたの」
そう言って、直緒をさし示した。
その瞬間、奇妙な声を、男があげた。
泣き声とも。
喚き声とも。
苦痛の叫びとも。
なんともいえぬ、雄叫びだった。
男は、入り口で立ちすくんでいた直緒に、猛然とタックルしてきた。
反撃する暇など、なかった。
信じられない馬鹿力だった。
腰の辺りをがっしりと掴まれ、直緒は、男にひきずられていった。
**
「がぁああーっ、何言ってるんですかぁーーーっ! もっとよくわかるように、ですねえぇぇーー……」
喚く轟鬼警部の手から、受話器が取り上げられた。
黒服の青年……人質の関係者……が、受話器をひったくったのだ。
電話の向こうの人質……唯一の女の子だ……と、青年は話し始めた。
「お嬢様、古海でございます。ご無事でいらっしゃいますね?」
「無事よ」
スピーカーから、女の子の声が流れてきた。
たった一人の女性の人質の声だ。
……無事だった。
書店人質籠城事件対策本部代わりのバンに、安堵のどよめきが湧く。
「無事に決まってるでしょ。わたしに何かあったら、このクニは、滅びるから。わたしには、八百万の神の守護が……」
「それは悪魔でございますね、神ではなく」
青年は言った。
「それより直緒さんは? 立て籠もり犯の要望通り、単身、そちらへ向かった筈ですが」
「さらわれちゃったの」
「え?」
「さらわれちゃったのよ」
典子は、ひとしきり状況を説明した。
自分の機転で、男性人質の縄を解いたこと、
……ここでまた、バンの中に、どよめきが流れた……。
人質男性の一人が、犯人を組み敷くところまでは成功した、
……また、どよめき……、
ものの、ほんのわずかな隙をつかれたこと。
……ざわめき。悲憤慷慨。
籠城犯は、新たに現場へ向かった本谷直緒を、連れ去ったこと。
未だに爆弾は仕掛けられたままでいること。
そして、その起爆スイッチは、犯人の手の中にあること。
……。
「悪くなってるじゃないですか!」
古海は叫んだ。
「状況は、悪くなるばかりだ!」
「まあまあ、古海君」
轟鬼警部は、古海の肩を叩いた。
「少なくとも、最初の人質たちにすぐに危険が迫る心配はありません。すぐに脱出してもらいましょう。機動班を突入させます」
「馬鹿な!」
古海は叫んだ。
「起爆スイッチは、犯人の手にあるんですよ? 高性能だと聞きました。直緒さんは犯人と一緒です。脱出できません! 直緒さんはどうなるんです?」
「いや、まあ、とりあえず、女性の人質だけでも救出しなければ」
轟鬼警部は言葉を濁した。
ついさっき、上から指令があったばかりなのだ。
一乗寺典子の安全の確保を第一に考えよ、と。
「だめです」
古海は、きっと、轟鬼警部を睨んだ。
「なんだかよくわかりませんが、直緒さんがさらわれた元凶は、お嬢様であることに間違いありません。他の人質の方々と一緒に、お嬢様にも、もう少し、建物の中に留まってもらいます」
「あんた、そんなこと……」
「下手に警察が入ったら、犯人を刺激することになりますよ!?」
それは、轟鬼警部も心配していたことだ。
機動隊が近づいたところで爆破でもされたら、警察にも被害が出る。
いくら上からの命令だと言っても。
仲間の命を、無碍にはできない。
「爆弾……」
受話器を持ったまま、古海がつぶやく。
「犯人は爆弾を、書棚に仕掛けた。その場所さえわかれば。ああっ!」
両手で頭を掻き毟った。
「よもや直緒さんを連れて、爆弾のあるところへ!?」
「古海君、落ち着いて」
轟鬼警部が制する。
「南波は、起爆スイッチを持っているんだ。わざわざ爆弾の側へ行く意味はない」
「心中するつもりなのかもっ!」
電話の向こうから、不吉な声が聞こえた。
通話はまだ、続いている。
「お嬢様っ! 言っていいことと悪いことがっ!」
「高性能爆弾なんですって。爆発させれば、建物のどこにいても、木っ端みじんなんだから」
「お嬢様、あなたもなんですよっ!」
「わたしは大丈夫。なにがあっても、わたしだけは大丈夫」
「どこからくるんですか、その、根拠のない自信はっ!」
受話器を両手でつかんで怒鳴りつけている古海の手から、警部は受話器を取り上げた。
「とにかく、落ち着いて。一乗寺さん、他の人質の方は?」
「元気よ。代わる?」
人質の、木島という男性がでた。
木島も、同僚の佐々江も無事だという。
「あっ! 池谷部長のロープを解くの忘れてた! 猿ぐつわをはめられたままだったんで、存在感がなくて……」
3人はこれから、手分けして、爆弾を探しに行くという。
「いや、だめです、民間人の方に、そのような危険を冒させるわけにはいきません」
ハンドフリーのマイクに向かって、轟鬼警部が叫ぶ。
木島の声が返ってきた。
「女性が一人、連れ去られています。犯人を刺激させないために、まだ機動隊の突入はないのでしょう? だったら……」
「警部さん」
古海が顔を上げた。
憔悴しきった顔に、目だけが、異様な光を放っている。
「門壇社の新人賞に落とされた作品が、ヒントだって、言ってたんですよね? 犯人の男が」
「ああ、さっき解放された書店員の女の子たちが、そう教えてくれた。でも、100万語もある長大な作品だから……」
「ジャンルは?」
「え?」
「……門壇社の新人賞は、エンタメです」
電話の向こうで、木島が言った。
「エンターテインメント……」
「私達は、エンタメの棚が怪しいと考えています」
木島が言った。
古海が首を傾げる。
「しかし、エンターテインメントといったら、書店で、最もお客の多い所ですよね。そんなところに、人目を忍んで爆弾を仕掛けるのは、難しいと思いますが」
「棚数も多いです。こちらは、池谷と佐々江と僕で3人。3人で探せば……」
「うちのお嬢様を抜かしてね。お嬢様と……、だめだ、考えなくては!」
「あの女性は……? 後から人質に召喚された、あの……」
「大事な人です。たとえようもなく。だから……、冷静に考えなければ」
「私達は、とにかく、エンタメ売り場へ移動します」
「木島さん。私は、分類番号を考えたのです。図書の十進分類法を」
「ああ、書籍を内容によって分類するアレですね。図書館で使ってる。ええと、エンタメは文学ですから、9、ですね。日本の小説は、913です」
古海がうなった。
「913……、
電話の向こうから、くしゃみが聞こえた。
「何だか悪口言われてるような気がするけど」
典子が言うのに、木島が何か、答えている。
「くそっ、わからない」
古海は歯ぎしりした。
「それにしても、南波は、なんだってまた、本谷さんを連れ去ったんだろう?」
傍らで、轟鬼警部がつぶやいた。
古海が、きっと目を上げた。
「警部さん。直緒さんは、今、女性の格好をしているんですよ? それも、南波が憧れていた……」
がたんと立ち上がった。
「大変だ!」
「お、落ち着いて、古海君。君のカノジョの典子さんなら無事だ。今も、電話で話したばかりじゃないか」
「のりこ? お嬢様のことですか? 腐ったヒモノの? あなたね、何言ってるんですか!」
轟鬼警部に詰め寄った。
古海の方が、頭一つ分、背が高い。
轟鬼警部の喉元を掴み、ぐいと引き上げた。
「爆弾立て籠もり犯なんかに、渡すもんですか。友達以上、恋人未満の……、やっとちょっとだけ、こっちを見てくれたのに」
ぱっと手を放した。
警部はよろめいた。
「絶対、誰にも渡さない!」
そう言うと、体当たりするようにバンのドアを開けた。
警邏中の巡査が止める暇もなく、走り出し、黄色いテープを飛び越えた。
「撃つなっ、あれは南波の仲間じゃない。SATの隊長に連絡しろ! 撃つな、撃つなと言えっ!」
立ち上がり、警部は絶叫した。
書店の入口は閉まっていた。
黒服の青年の姿は、ビルの裏手へと消えた。
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