蟷螂

qílín

蟷螂


 蝶々を喰った。


 翅のない蝶々を喰った。


 翅のない蝶々、それはおれだ。

 

 おれは自分自身を喰ったのだ。



 おれがガキの頃の話だ。

 まだ孵化して間もない頃で、体が頼りなく生っ白かった。周りの一緒に生まれた兄弟姉妹も、生っ白く頼りなく、眼が真っ黒だった。皆一様に真っ黒な眼をしていたので、おれはどこか不気味なものを感じた。

 これから独り立ちして、自力で獲物を捕らえ、喰っていかなくてはならぬと頭の中で誰かが囁いた。おれは兄弟達にろくな挨拶もせずに立ち去った。

 ……ふと草むらにうごめくものがあった。ぎょっとして草陰に隠れ、息を殺した。そうっと覗いてみると、鮮やかな緑色の、大人のカマキリの女が空を見上げているのだ。幼くして、初めてメスというものをおれは見た。でかい、というのが第一印象だった。やけに図体がでかい。毅然として、誇り高く背筋を伸ばし、羽根は後ろに上品に畳まれ、がっしりした立派な鎌を前に重ね合わせ、静かに瞑想している。……綺麗だな、と子供心に思った。女神様みたいにも見えた。

 そこへまた、がさりという音が聞こえた。彼女の背後に、同じく大人のカマキリが近づいているのだ。男だ。女に比べ、男カマキリというのは哀れなほどに貧弱だ。一瞬彼女の息子か何かと思ったものだ。おれの目の前にいる女神様に、この男も見とれているらしかった。当時のおれは同じ大人として見ていたが、今のおれからしたら奴は純真な若者で、成虫に成り立てといった風情の坊ッちゃんだった。女に眼をこらしたまま、じりじりと近づいていく。と、一瞬の隙をついて、そいつがいきなり女に飛びかかった。女はぎょっとしたらしく身じろぎしたが、男は自分の鎌で女を押さえつけようと必死だった。眼が離せなかった。見てはいけないものを見ているのだと、ぼんやりと自分の中の何かが叫んでいるのが聞こえた。でも、一部始終が気になる。おれは心臓がドキドキするのを感じながら、それをじっと覗いていた。男は馬乗りになり、女と下半身をくっつけ、必死であの望む事をやり遂げようとしている。女は身をよじり、逃げようとする。押さえつける。……虫の交尾というものは、常に強姦だ。その強姦によって、おれ達男は生を受け、また女を犯して死んでいく。

 ところが、巧く行かなかった。交わったまま男が気を抜いたその刹那、女が素早く身を翻し、あの鎌でがしりと男を掴み、頭にかじりついたのだ!

 その後は口にするのも恐ろしい光景だった。あの美貌の女は、一瞬にして残忍な捕食者となった。彼女は自分を手篭めにしようとした男を殺し、その肉をバリバリ音をたてて食い荒らしていた。頭をすっかり喰われたにも関わらず、男の下半身は相変わらず意地汚く交接を続けている。下半身だけが別の生き物の様に動いている。間もなく下半身も力つきて動かなくなった。

 その時の彼女の恐ろしい微笑みを、おれは一生忘れることは出来ないだろう。彼女は、性と食の悦楽を同時に味わったのだ!男が女を征服したのではない、男が女に征服されたのだ。おれは一目散に逃げた。出来る限りあの女から離れなくてはならない。殺される。殺される。殺される!逃げながら幾度もあの女の顔が脳裏にちらつく。肉片にまみれ、がつがつとあさましく食らいついていたあの美しい口。喰い終わった後の、あの嗜虐的な微笑み。あざ笑うとも、蔑むとも、哀れむとも言える、えもいわれぬ眼差し。……逃げながらおれは悟った。おれもああなる運命なのだ。あのおぞましい魔物の糧となるのだ。おれ達男は喰うために生まれたんじゃないのか。喰われるために生まれてきたというのか!


 あの日からおれは、女を避けるようになった。

 喰われるために生きるなんて馬鹿げている。女の虜になったら、おれは滅びる。おれは生きる。おれは喰われる側には決して回らぬ。おれは喰う側に回る。強者の世界を生きる。


 自分で得た獲物は、いつも美味く感じた。獲物の頭をがりがりやるたびに、おれは心なしかすうっとした安寧を感じる。まだ生きているのだと実感することが出来た。おれは喰われてなぞいない。こうして喰っている。これがおれなのだ。おれ自身なのだ。何故喰われに行く様な真似をする?何故死にたい?何故そこまでして誰かと交わりたい?


「君のタイプの娘ってどんなんだい」

ある日知り合いの男カマキリに言われた。ひょうひょうとしたおめでたい奴だった。

「女か。興味ない」

「またまた………無愛想だな、そんな片意地張るなよぉ。君は何とも思わないのかい」

「思わない」

「硬い奴だな」とそいつは笑う。

「硬い?おれはおれの考えを言ったまでだ。女を可愛いとか犯したいとか、男は思わなくてはいけないのか」

「君は女の子を可愛いと思った事はないのかい」

「………」

「はは、君はまだお子ちゃまなんだね。まあいいさ。そのうち女のよさってものがわかってくるよ」

「よさだと?女と交わることの何がいいんだ?喰われるだけだぞ」

「喰われる?………ああそうか、それを恐れているのかい」

「恐れてなぞいない。ただおれは自分を生きたいだけなのだ」

「巧くやれば逃げれるさ。喰われるなんてよっぽどとんまな奴でない限りありえないよ。大体さ、喰われるの覚悟で攻め入る奴ほど馬鹿な奴はいない。負けを悟りながら戦いに行く奴が何処にいるんだい」

「お前は知らないのだ!……女というものがどれほど残虐で恐ろしいものか」

「恐ろしい?可愛い存在じゃないか」

「可愛い?お前は女というものを侮りすぎている。おれ達男が近づいた事を知った時、女がどういった御礼をするか、お前は知っているのか。おれは身をもって知っている」

「君は女を悪く見すぎだよ。彼女らだって、子供を生みたいだろうし」

「本当に生みたいのか。女じゃないのにそう断言出来るのか」

「わからないけど、大抵はそうさ。だから、生むための力を蓄えるためにおれ達を喰うこともあるのさ。だが、そうは問屋が下ろさない。おれ達男だって、たくさん子供を残さなくてはならないもんな。ま、そんなかっかするなよ。いざというときゃ、思ったよりイイもんだって思うもんさ」


 おれは………理解出来ない。そんなもののために、犠牲にならなけりゃならないのか。


「そんなもの?」別の理屈っぽいカマキリはおれを必死で諭そうとした。「君は“自分”にこだわりすぎている。そんなことにこだわっていたら、君は死んでしまうぞ」

「おれが?どういうことだ」

「まあ聞きたまえ。君が例えばある女の子に恋して、彼女と交わることがあったとしよう。彼女は君の子供を産む。その子供っていうのは、君が生きた何よりの証なんだ。君の体が朽ちて無くなってしまっても、君が生きたっていう証拠はその子供達という形で生き続ける。女の子達に子供を産んでもらうことで、僕らはそうやって『生き続け』ることが出来るし、彼女らだって『生き続け』ることが出来る。また、君が何より恐れている『女の子の餌食になる』という目に遭ったとしよう。それでも、君の体は彼女の養分になる。養分になって、彼女が将来子供を産むための力になることが出来る。そうでなくとも、君は彼女の中で違う形に変身して生き続ける。愛した人の中で、ずっとね……素敵だと思わないかい?」

「ばかばかしい。おれはそんな夢を追うおめでた連中じゃない」

「まあ人それぞれさ。……でも、誰とも恋せず、誰とも交わらず、誰とも子供を成さないままだったら、それこそ哀しい野垂れ死にだぜ。なんにも残せない。そう、何にも。それこそ永遠の死だ。場合によっちゃ、喰われることが最大の尊厳死なんだよ」

「喰われることが、だと?そうか………」

「そうさ。ちっとも怖いことじゃない。どうして生きる事から逃げるんだい?」

「逃げるだと?!」おれは怒鳴ってしまった。「ふざけるな!殺されることが尊厳死だと?嘘だ!嘘だ!そんなのはっきり言って狂ってる。生き物ならば、そんなこと言えるもんじゃない。お前の言うことが真実だとすれば、カマキリという虫は皆狂ってることになる。死ににいくんだからな。お前だって死ぬのは怖いだろう。だからこそ死にそんな美しい幻想を抱いているのさ。死というものが本当はどういうものか、本当はわかっているんだろう?美しいものとして見なきゃあ、やりきれないものな。そうやって逃げているのさ。生きる事から逃げてるのはどっちだ。おれは現実を見た。だからこんなことが言えるのさ。……目を覚ませ。お前は本当に、そんなことを願っているのか、自分の本当の心の声を聞け!……」

 彼はおれの言葉をただ黙って聞いていたが、やがて静かにこう言うだけだった。

「君は何にもわかっていない。……まあせいぜい孤独を楽しみたまえ」

 奴の目は、あの男カマキリの目そっくりだった。


 誰一人として、おれと同じ恐れを抱くものはいなかった。いや、きっとその内の2、3匹はいただろう。おれはそう信じている。だが、そんな奴に限って自分の感じる恐怖をあの手この手でごまかしている。あるものは宿命だと言い、あるものは本望だと言い、夢だと言い!


 おれが狂っていると言う者もいた。


 …………………


 狂っているのは、おれの方なのか?


 全うなカマキリは、喜んで死に向かうものなのか?

 全うなカマキリは、喜んで誰かの食い物にされるものなのか?

 全うなカマキリは、そんな危険を犯してまで子供を残すものなのか?

 

 それが、自然の摂理だから?

 

 自然におもねり甘んじる者は、孤独にはならぬ。

 自然に反逆し己を押し通そうとする者は、いずれ自然に殺される。

 殺されるとはどういうことか?……それは自然の死ではない。心の死だ。

 

 だが、おれはこうして生きている。獲物がいるのに気づき、その肉に食らいつく。息をする。眠る。光を見る。

 

 おれが生きているのは、……おれは生きてはいないのか?

 おれは生きることから逃げているのか?

 あるカマキリがおれに言った。「何も残そうとしない者に、己の生を物語る資格などない」

 

 おれには、生きる資格などないのか?


 ふと上を見上げる。

 愛らしいモンシロチョウのつがいが飛んでいる。いや、愛らしく見えるのは錯覚だ。よく見るとその実は女のコケットリーに欲情した男が、ぎらぎらした目で女の尻を追いかけているのがわかる。女はそれを知っており、いやよいやよと言いながら男を人目のない暗がりへ連れ込む魂胆だ。たわけが。翅が無くなれば、何者でもなくなるくせに、呑気な奴らだ。おれがこの鎌を一振りすれば、こいつらの幸福なんて簡単に破けてなくなってしまう。


 翅のない蝶ねえ……



 食事が済んでぶらぶら歩いていると、上から声が聞こえた。見ると、蝶の翅が見えた。女ども二匹がぺちゃくちゃしゃべっている。

「そういえばね、こないだ変なチョウチョの娘見つけちゃったのよ」

「え、どんな娘?」

「どんな娘だと思う?翅がないのよ」

「翅が?! 可哀想に。誰かに破かれちゃったの?ああ、でもそれじゃあ特別変ってわけでもないわね。翅が破れて駄目になるなんてこと、ざらにあることだもの。でもあなた、よく彼女がチョウチョだって分かったわね」

「まあね。あたしも最初はチョウチョだってわかんなかった。触角の形とか体の形とかで、何とか分かったけど。……でもね、よく見たら破けたわけじゃないみたい。それこそ、ハキリアリが葉っぱを切るみたいに、翅がばっさり切られているの、根元から。こりゃあ変だとさすがに思ったわ。そんでもって訊いたわけ。そしたら何て返ってきたと思う?『切り落とした』ですって!」


 切り落とした?


「自分から……え、嘘よね。『切り落とされた』の間違いじゃないの」

「いいえ、はっきりきっぱりと、自分から『切り落とした』って言ってたわ、あの娘」

「そんなの………いやいや、あなた、その娘気は確かなの?」

「でしょう?! あなたもおかしいと思うわよね!」

「その娘、本当にチョウチョだったのよね。何故そんな風になったのか訊いたの」

「何でもね、『生きる事に挑戦したいから』だって」


 生きる事に挑戦する?


「生きる事にって………どういうことよ」

「さあ。でもこれだけははっきり言えるわ。あの娘はバカよ」

「ははは!一体どうしちゃったのかしらね。哲学者みたいに」

「あの娘にも思う所があったんでしょうよ。そんなことするほどの何かが」


 翅のない蝶。本当に、そんなことをしでかした奴がいるのか?

 

 二匹が飛び去っていったあと、おれは独り想像してみた。………やや細長いアリみたいな姿しか思い浮かばない。

 これが蝶なのか?

 

 翅がない蝶は、蝶といえるだろうか。

 おれだって蟷螂だもの、蝶ぐらい喰った事はある。

 葉っぱみたいに綺麗な形と柄をもった翅。ひらひらと舞う姿。ひらひら。地面に這いつくばっているイメージはないに等しい。

 

 おれはひらひらした翅を蝶だと思っていたのではあるまいか。

 おれが蝶を食らう時、おれの目は翅をもとらえていたのではなかったか。翅を見て初めて、自分は蝶を喰っているのだと認識していたのではなかったか?だとすれば…………


 おれは一体何を喰っていたんだ?


 奴に会えるだろうか。

 奴の話を耳にしてから、おれはそいつに会ってみたくてたまらなくなった。何と言うべきか、……同じものを感じたからだ。蟷螂であって蟷螂でないと嗤われるおれと、蝶であって蝶でない、否、蝶であることをやめた、虫。

 そいつに会う事で何か救いを期待していたわけではないが、何かすっきりするかもしれないと、漠然と感じていた。


「私を食べてください」

 

 いきなり声がしてぎょっとして振り返った。脅かすな、誰だよお前は、とどやしつけようとして、

「だ、……お前、誰、だ………?」

 敵、ではない。餌の部類の虫だ。しかし、何かが変だ。アリではない。アリはこんなに立派なすらりとした触角を持たないし、第一ひどく体がぽってりとしている。こんな虫、見た事ない。……否、ある。ある?何処で?

 まさかと思って、奴の背中を見た。


 翅がある。

 ただし、根元からばっさり切られていた。


「………お前、か………」

 奴は哀しく微笑んだ。「あなたも、ご存知なのですね」


 全ての虚飾をはぎ取られた虫は、おれの想像を遥かに超えていた。

 惨めな姿だった。いや、惨めそうに見えるのは、おれの偏見かもしれない。こいつの翅がないのは、こいつがそんな自分を選んだからだ。見ようによっては、全く新しい、強い女にも見える。そう、奴は女だった。

「おれに、喰ってくれと言ったな」

「…………はい。……食べて下さい」

「それは、『殺してください』ということか?」

「ええ」

 あっさりと、そいつは言った。


 何も感じなかった。


「何故喰われたい。翅のない人生に絶望したのか。自分で翅を捨てておきながら」

「絶望したのではありません」

「生きることに挑戦しようとしたのだろう。他の蝶達が噂していたぞ」

「ええ、私は生きたいのです」

「生きたい?先ほどは死にたいと言っていただろう。『殺して下さい』とな」

「私は、生きたいから死ぬのです」


 訳がわからない。頭痛がする。


 こいつの言ってることは全くもって支離滅裂だ。あの女達が言う通り、やはり頭がおかしいのではなかろうか?


「おかしいことを言っているとお思いでしょう?」蝶が……否、蝶だったものが続けた。「でも、これが真実なのです。私は生きたいから死にたいのです」

「何故翅を切り落とした。お前をお前たらしめている、あの翅を」

「一匹の虫、否、一つの命として生きたかったからです。蝶ではなく!」

 

「蝶という虫ほど、哀しい虫はありません。私は幼い頃、周りから気味悪がられ、拒絶されました。幼い頃の友達の一匹が、人間に踏みつぶされて殺されたのも見ました。忘れもしません。私は草影にいて、急に右の方から見えない鋭い音の刃が切り込んできたのです。ぎょっとして振り向くと、人間の女の子が大きな人間の男の隣で真っ青な顔で震えています。

『いやあ!芋虫!きもちわるい!兄ちゃんやっつけて!』

『わはは、大丈夫、心配するな』

女の子の足下を見ると、いつも私に優しくしてくれていた友達がいました。女の子に悲鳴を上げられて、彼女もひどく狼狽していて、這って逃げようとしています。しかし、手も足も何もない、のたりのたりと這うしか出来ない芋虫です。彼女はあっという間に、私の目の前で、彼女の兄に踏みつぶされてしまいました。

『ほら、もう大丈夫。こわい芋虫はいなくなったぜ』

『あたし芋虫キライ!芋虫なんて、みんな死んじゃえばいいのよ』

……………口にするのも、陳腐な話です。でもこれが蝶の日常です。もちろん人間だけではありません、ぼんやりとしていると天敵にも狙われます。

 やがて私にも翅がはえ、大人の蝶になりました。これで人間達に踏みつぶされなくて済む。そう思ってある日、羽化して間もない頃です、私が花の蜜を吸っていると、背後に妙な気配を感じるのです。舞い上がって後ろを見ると、あの女の子でした。自分の兄に私の友達を殺させた、彼女です!私は必死で逃げました。するとどうでしょう。彼女は追いかけてくるではありませんか。彼女は執拗でした。嬉しそうに、何処までもついてきた。………以前、芋虫をあんなにも憎んでいた彼女が、芋虫の成れの果てをこんなにも愛でるのです。本当に、何事もなかったかの様に。自分が綺麗だな、可愛いなと思っているこの存在が、あの芋虫だったと知ったら彼女はどうするでしょうか。大人になった私達は、あの彼女の言うところの『気持ち悪い存在』である芋虫を生み出す存在です。その存在が、こんなに綺麗な虫であると知ったら、彼女はどうするでしょう?殺しに来るでしょうか、滅ぼしに来るでしょうか……ああ、その方がどんなにましか!

 大人になったら幸せになれるなんて真っ赤な嘘です。大人になったらなっただけ、不幸がついてまわるのです。私も何度か、天敵に襲われかけたことはありました。でも、何かが違うように感じるのです、子供の頃と。子供の頃の時は、まっすぐ、ただひたすら餌として狙われました。それこそ、生きるのに必要な糧という目で。でも大人になると、何となく敵達の目つきが違う。あの女の子と同じ類の目をしているのです。蜘蛛も、カマキリも、何もかも!尤もあの子のそれは所有欲です。純粋に、綺麗な存在を側で見たいという。天敵達はそれに加え、その美しい存在を我が者にし、征服します。あの子達の目つきよりもねっとりとしているのです。死の恐怖よりも、彼らのその目が、私には大いに苦痛でした。でも大人の人間達はもっと悪辣です。私達を殺しただけじゃ飽き足らず、その体を串刺しにして、すみかに飾るんですから!

 それを目の当たりにした時、ぞっとしました。箱の中に、沢山の蝶の死体が串刺しで入っています。私にしつこく言い寄ってきた男友達も、その種類の男の代表としてその中に飾られていました。皆苦痛の表情を浮かべて、そのくせ翅だけは若々しい。

 そう、翅です。蝶の不幸は、この翅に由来するのです。

 蝶が捕まえられるのは、ひとえに翅が美し過ぎるからなのです。人間達のコレクションがそれを証明しています。翅が美しいから、皆に色目を使われ、子供が生まれ、その子供もまた醜い汚らわしいと忌み嫌われる。そして長じれば皆から見られ……その繰り返し。こうなったら、いっそのこと蝶であることをやめよう。私は世を捨てる決心をしました。そこでハキリムシさんに頼み、翅を切り落としてもらったのです。

 最初はとてもせいせいしていました。しかし日が経つにつれ、今までであった事のない新しい敵が現れました。それは何か薄ら寒いもので、常に私の背中に忍び寄り、背中の翅を切り落とした辺りから体全体がじくじく痛み、かじかむのです。私をこの世の全てから切り離し、そのせいで闇が重くのしかかってくるように感じます。お前は一体何なのだ。何なのだ!そいつは常に私に語りかけてくるのです。どうしてお前は蝶ではないのだ。蝶のくせに何故蝶であることを放棄した。何故蝶であることから逃げた。自分から逃げた奴にこの世に生きる資格なぞあるか。虫として生きたかったからか。そうか。生きたいなら生きてみろ。おれはお前が心を摩滅させ、自滅するその日を待っているぞ、と。ああ、私は何故蝶であることをやめてしまったのか。今更ながら後悔が襲ってきたのです。あの忌々しい存在は、私を私たらしめていたのです。それを捨てた私は、もはや何者でもなくなった。このままでは私はあいつに嬉々として呑み込まれ、虫でもない、生き物でもない、何か恐ろしいものに変貌してしまう。そうなった時、私は私でしょうか。私は一体何になっているのでしょう。考えるのも恐ろしい。だからせめて、自分が何であるかがわかるうちに、その何かとして死んでいたいのです。私が『生きたいから死ぬ』と言うのはそういうことです。

 カマキリさん。あなたにとって私は何ですか?」


 おれは……何かとてつもない悪意がわき上がってくるのを感じた。それは怒りだったろうか、悲しみだったろうか。それとも、この女を呑み込もうとしている何かが、おれに取り憑いたのだろうか。ただ言えることは、………この女は「蝶」であることをやめたとほざくにも関わらず、未だ「蝶」であることにこだわっていることだ。

「お前は『蝶』だ!」おれは言ってやった。「お前は、軽薄なお飾りを振りかざして皆を惑わす人生に嫌気がさして逃げ出し、そのくせそんな暮らしが恋しくなって、でももう元には戻れないから絶望している、我がままで、愚かな虫だ。そして今、『虫』であることすら嫌気がさして、おれに甘えている。そう、お前は甘えていた!おれと同じように、生きることに甘えていたのだ。お前が狂気に怯えるのは、お前が絶えず『蝶』だった自分に拘っているからだ!だが、おれはお前一匹を責めはしない。おれも同じだったからだ。お前はおれだ!

 『蝶』よ。お前の頼み通り、おれはお前を喰ってやろう。そしておれの血となり肉となってもらおう。だが、『蝶』としても、『虫』としても、『餌』としてでもない。おれはお前の言う『何者でもない肉』としてお前を喰う。何かとして生きることを捨てきれなかったから、お前は中途半端になったのだ。おれは自分が『カマキリ』だということに拘ってきた。今おれは目が覚めた。

 おれはお前を、『おれ』として食らう!」


 おれに頭をかじられ、足を喰いちぎられても、彼女は抵抗しなかった。

 嬉しそうに、そう、嬉しそうにおれを受け入れた。

 彼女はおれに喰われることで、再び『何者かである自分』になった。そして、その最中で、それとして死んだ。

 彼女の体が無くなってから、おれはその場に立ち尽くした。蝶を喰ったのではない。その証拠に、いつもなら落ちている翅が、ない。

 彼女は、おれ自身だった。『カマキリ』であることにこだわっていた、おれ自身。今度ばかりは、自分が喰ったものが、我が身に吸収され、肉を形成していっているのがわかる。空っぽだった身体に、中身が詰められていく。

 おれが絶えず悩んでいたのは、おれがカマキリだったからだ。カマキリであったことをやめた今、カマキリだった自分を、女に喰われてしまう運命だった己を、おれは今自分の肉とした。そう、まるであの女神のように。

 おれは、おれの中で永遠に生き続ける。おれの養分となり、おれを「おれ」たらしめるものとして。


 自然におもねり甘んじる者は、孤独にはならぬ。

 自然に反逆し己を押し通そうとする者は、いずれ自然に殺される。


 殺せるなら殺してみろ。


「常に私の背中に忍び寄り、背中の翅を切り落とした辺りから体全体がじくじく痛み、かじかむのです」

 

 おれの背後に忍び寄れ。おれの体を蝕み、かじかませてみろ。


「お前が心を摩滅させ、自滅するその日を待っているぞ、と」

 摩滅させてみろ。せいぜい待っているがいい。お前が飢え死にするのが先だ。


 この世を統べる神とやら。おれはお前に斧を振り上げよう。

 たとえ踏みつぶされようとも、この斧でこの世の虚空を切り裂いてやる。



 生きろ!

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蟷螂 qílín @SuccubusUnicorn

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