妖花の娘
@SHEX
第1話
光の差さない暗い地下室に、扉の開かれる音が響きました。
揺らめくわずかな光と共に、歩み寄る背の高い人影。
わたしは、光源であるカンテラと水差しを持ったその人物、ご主人さまの来訪を今か今かと待ちわびていました。
おはようレイチェル、とご主人さまが優しく語りかけてくれます。
どうやら外は朝のようです。しかし、
なにしろわたしは小さな鉢植えに根差す身。自由に動き回ることも
外界のことなど、知りようがないのです。
わたしの名は、レイチェル。これはご主人さまが付けてくれた名前です。
わたしの容姿は、手の平に乗る程度の鉢植えに根差した植物です。緑の葉に青紫の
ただ、普通のアラウネとは少々違います。蕾から、小さな人間の上半身が生えているのです。
とは言っても、おヘソから下はしっかりと閉じられた花弁に埋もれていて、いまだその中身は未発育です。
抜けるように白い肌は日にあたらぬため。
人と同じ柔らかさを備えた
顔は自分で確認することはできませんが、やはりご主人さまはことあるごとに、美しいと褒めてくれます。――ただ、胸についての感想を避けられているのは、ご主人さまの優しさでしょうか?
わたしは人間たちから、アラウネと呼ばれるナス目ナス科、マンドラゴラ属の植物です。別名マンドレイク、恋なすびなどと呼ばれることもあります。
そう、わたしはおナスです。いわずと知れた、秋野菜の王様ですね。
一般的にはあまり知られていませんが、古くは古代エジプト時代から栽培され、かの旧約聖書にもその名が記された、由緒正しいおナスです。
とはいえ、実際にナスを実らせる訳ではありません。実は成りますが食用には不向きなのです。
栄養価のみで世を
しかし人間たちのなんと愚かなことでしょう。物言わぬ植物を、真顔で裁判にかけるだなんて。
火で炙ったジャガ芋……ちょっと美味しそうではありますね。
わたしの敬愛するご主人さまも、やはり人間なので、どこかおマヌケなところがあります。
以前の話ではありますが、わたしが人の精を
なんでもグリム童話という物語の中に、そういった記述があったのだとか。
あの時のことを、わたしは生涯忘れることはないでしょう。
ご主人さまは、殿方が下腹部に所持されているごにょごにょを取り出し、わたしの目の前でおもむろに
もちろんわたしは慌ててご主人さまを止めました。――ええ、それはもう必死でしたとも。あやうくとんでもないモノを引っかけられるところだったのですから。
今ではご主人さまも、わたしに必要なのは、普通の植物と変わらぬ水と陽光だということを理解してくれています。
ゆくゆくは人間に近い大きさにまで成長し、花開く頃には下半身も成熟し、自由に歩き回ることが可能となります。
いつか開花の時を迎え、みずからの両の足で、ご主人さまとお散歩に出掛けるのがわたしの夢です。が――光の当たらぬこの地下室では、光合成ができません。
このままでは、わたしは咲き誇る前に立ち枯れてしまうでしょう。
ごめんねレイチェル。そう言いながら、ご主人さまは水をかけてくれます。
いつか必ずお日様の元に出してあげるからね、というのがご主人さまの口癖です。
ですがわたしは知っています。
もし、わたしの鉢植えを人目のつくところに出してしまえば、ご主人さまはとても困ったことになってしまうのです。
きっと教会の恐い人たちから、異端として審問にかけられてしまうでしょう。魔女狩り、というのだそうです。
わたしは由緒正しいおナスだというのに、なんて理不尽なことなのでしょうか。
ですが、わたしもそんなことは望んでいません。ご主人さまの身に何かあれば、わたしは生きていけないのですから。
それは物理的な理由のみではありません。わたしがご主人さまをお慕いしているからです。
わたしは恋なすび。ご主人さまを
そう、ご主人さまのためならば、このまま日の目を見ることなく枯れて行くのも、仕方のないことなのです。
わたしの悲しげな想いが伝わってしまったのか、ご主人さまは大きなため息をつかれました。そのはずみで手にした水差しから水滴が跳ね、濡れて顔に垂れかかった髪を、繊細な手つきでかき上げてくれます。
蕾と同じ青紫の髪。ご主人さまが何度も褒めてくれた、わたしのお気に入りです。
気落ちした様子のご主人さまを、なんとか慰めたいと思うのですが、わたしは言葉を発することができません。
蕾に埋もれた下半身同様、声帯も発育しきっていないのですから。
レイチェル、泣かないで……美しいレイチェル。柔らかい声音で、わたしの方が慰められてしまいました。
時の過ぎる感覚も曖昧なまま、わたしはご主人さまを待ちつづけます。そんな生活に終止符を打つ出来事が起こったのは、ほんとうに突然でした。
乱暴に開かれた扉。最初に見えたのは松明の炎でした。
決してご主人さまはなさらないような騒音を立て、地下室へ踏み入って来たのは、修道服に身を包んだ初老の男性。
教会の関係者だということは一目瞭然です。おそらく神父さまでしょうか。
すぐにその後から、ご主人さまが地下室へと入って来ました。
焦りを帯びた
燃え盛る松明を振り回し、男が周囲を見渡します。その目がわたしに止まり、驚愕の声が上がりました。
なんと恐ろしい……そんなつぶやきを漏らし、男が近づいて来ます。
恐ろしい思いをしているのは、むしろわたしの方です。
松明を近づけないで下さい!
火は嫌いなんですっ!
上半身だけとはいえ、わたしは一糸まとわぬ姿なのです。
胸元まで垂れかかる髪で、大事なところは隠せていますが、それ以外の部分はすっぽんぽんなのですから。
ご主人さまと男との間で、激しい口論がなされます。
異端だ、悪魔の植物だ、という男の言葉に、わたしは怯えることも忘れ、悲しくなってしまいました。
今すぐ焼き払わねばならない、と叫ぶ男に、わたしは死を覚悟しました。
ご主人さまが、男に飛び掛かったのはその時でした。
凄まじい怒声を上げ、男を殴り組み敷きます。
普段穏やかなご主人さまの変貌ぶりに、わたしはただただ呆然としていました。
男も聖職者とは思えないような暴言を吐き、松明でご主人さまを打ちすえようとします。
もつれ合い、争う二人に、わたしはどうすることも出来ません。
長いようなわずかな時間が過ぎました。
ご主人さまが、すっくと身を起こします。
松明を拾い上げ、地に転がったまま動かなくなった男を検分しているようでした。
不意に――殺してしまった――そんな呻きが聞こえました。
ああ、なんということでしょう。
わたしは無意識の内に、限界まで手を揉み絞っていました。
いったいご主人さまは……わたしたちはどうなってしまうのでしょう。
わたしはご主人さまに
神職に
ご主人さまは取るものもとりあえず、追われるように街から逃げ出しました。
すべてはわたしを守るために成された行動です。
まだ若く、洋々たる前途を持っていたはずのご主人さま。――その未来を、わたしが奪ってしまったのです。
涙するわたしを、それでもご主人さまは力づけてくれます。
大丈夫だよレイチェル。――それがご主人の新しい口癖になりました。
お前は必ず守ってあげるからね。――優しく語る声に、涙が止まりません。
ご主人さまの話では、荒野を越えた北方には、いまだ未開の緑豊かな土地が広がっているそうです。
わたしたちの旅は、幾日もつづきました。
草木もまばらな荒れた地を、ひたすら北へと歩きます。
充分な備えがなかったため、食料は途中で尽きてしまいました。
わたしは水と陽光さえあれば、飢えるということはありません。しかし、ご主人さまは違います。
人間は、食べなければ死んでしまうのです。
日々
時に草の根をかじり、時には木の皮を剥ぎ、茹でたりした物まで口になされました。
髭は伸び放題となり、頬はこけ、落ち窪んだ
それでも優しく語りかける声だけは、変わりませんでした。
見てごらん、レイチェル。――ご主人さまの声に顔を上げると、これまでの荒涼とした景色は一変し、目にも鮮やかな緑が飛び込んで来ました。
正面に鎮座する丘の上には、これまで見たこともないような花々が咲き乱れています。
歩くにつれ緑が濃さを増す自然。その丘を登りきった時、眼前に広がった光景を見て、わたしは
途方もなく大きな水溜まり。これはきっと、湖というものです。
初めて見る蒼い湖面には、ご主人さまとわたしの姿が映っていました。
ご主人さまがおっしゃいました。――ここが僕たちの
そこは、正に理想的な土地でした。
日当たりが良く、綺麗な水も
湖に住む魚は逃げるということを知らず、ご主人さまは手づかみで捕まえることができました。
辺りには木の実も豊富なので、食料にも困りません。
わたしは湖から遠からず近かからずな場所に植え変えていただきました。
ここならきっと、大輪の花を咲かせることができます。
わたしはご主人さまのためだけに、誰よりも美しく咲き誇りましょう。
さんさんと降りそそぐ
ご主人さまは湖に顔を映し、おヒゲを短刀で剃り落としています。わたしを植え変える時、穴を掘るのに使った物なので、所々が刃こぼれしていて剃りにくそうです。
その後ご主人さまは、服を脱いで水浴びを始めてしまわれました。
わたしは目を
長旅の間にやや
わたしたちは、幸せな日々を過ごしました。
共に昇る朝日を迎え、月の満ち欠けを
赤面する顔をからかわれたりしたことも、今では良い思い出です。
わたしの体は順調に成育してゆき、ついにその時が近づいて来ました。
そう、間もなく開花の時なのです。
すでにわたしの背丈は、ご主人さまの胸元にまで届いていました。
まだ、ちゃんとした言葉を発することはできませんが、それも時間の問題でしょう。
蕾に隠れた下半身からは、くすぐったいようなむず痒いような、みょうな感じがしています。そこには、わたしが焦がれつづけた、地を踏みしめる足の感覚が、確かに存在しています。
ご主人さまの嬉しそうな笑顔に、わたしも自然と顔が
そして、蕾の花弁が開きだしました。外側から一枚、一枚、ゆっくりと。
わたしが生まれる瞬間。――最後の一枚が花開いた時、羞恥のあまり思わずしゃがみ込んでしまいました。
ご主人さまが少し照れながらも、こうおっしゃいました。
美しいレイチェル。君の全てが見たいんだ、と。
わたしは顔が熱く火照るのを感じながらも、みずからの二本の足で立ち上がります。
ご主人さまの目が、わたしの顔から髪に隠された胸元へ
「――って、男の
え? 何をおっしゃられているのですか、ご主人さま。
「こんなに可愛らしいわたしが、女の娘のはず、ないではありませんか」
妖花の娘 @SHEX
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