二〇一五年十二月六日。

Re:START











「…………ぁ」






 目が、覚めた。

 開いた瞳から光が入ってきて、眩しい。私は反射的に目を瞑った。

 窓から差し込んだ昼下がりの陽光は、ぽかぽかと温かかった。布団から抜け出すと、伸びをする。ああ、よく寝た。


 と。

 ガチャンガチャン、と背後で鍵の開く音がした。

 ああ、帰ってきたな。

「ただいまー」

 そう言って玄関に入って来たのは、拓磨くんだ。

 ちょっと丁寧な格好に着替えていた拓磨くんの姿は、最初に見た時よりもずっと大人っぽい。服装一つで、人の外見や印象なんてガラッと変わってしまうから不思議だ。

「お帰り」

 私は、微笑んだ。





◆ ◆ ◆





 拓磨くんと出会ったあの日から、今日でちょうど二週間が経つ。


 私は一週間近くも、風邪を引いて寝込んでいた。

 正確に言うとインフルエンザだ。どこで貰ってきてしまったのか覚えがないけれど、身体が弱っていたのだから仕方ないと思う。そりゃあ、大雨でずぶ濡れになりながら寒い戸外にずっといたんだもん。体調を崩すに決まっている。

 その割には、拓磨くんはピンピンしているんだけど。


 拓磨くんが自殺を図ろうとした、あの時。

 私たちは色んなことに気づいた。私たちが、お互いに知らなかったこと。知ろうとしなかったこと。伝えられなかったことを。

 拓磨くんがどうして死ぬのを止めようと思ったのか、どうしてまた振り向いてくれたのか、私はまだ聞いてはいない。

 聞くのが何となく、面倒だったからだ。今さら声に出して説明されなくても、ぼんやりと、分かっているような気がして。




「咲良さん、立ち上がっても大丈夫なんですか?」

 拓磨くんはカバンを置くと、心配そうに駆け寄ってくる。私は手を振って拓磨くんの言葉を否定した。

「大丈夫、大丈夫。昨日病院に行ってからは、頭の方もだいぶ調子がいいの。ちょっとだけ、痛むくらい」

 そう言って、包帯の巻かれた頭に手をやる。

 自転車で転び、拓磨くんに突き飛ばされて転んで二度打ち付けた後頭部は、案の定怪我を負っていた。警察に発見されたあと、拓磨くんは警察署へ、私は病院へ送られて、また会えたのは次の日だった。なんでも脳震盪らしい。

 記憶が飛ばなくてよかったですね、と主治医の先生に冗談めかして言われた時は、さすがに肝が冷えたよ。拓磨くんの前例も、あったし。

 ともかく検査の結果、出血はしているけれど大した怪我ではないことが分かった。私は普段は家でインフルエンザを養生しながら、二日に一回、病院に通っている。

「良かった……。ついこの前までは事あるごとに涙を浮かべて痛がってましたし、もうどうなることかと……」

 胸を撫で下ろす拓磨くんに、私は苦笑い。

「確かに痛いけど、そんな重傷じゃないよ。あと、さっきからまた敬語になってる」

 拓磨くんはしまったという顔をした。

「忘れてた、すみません」

「ほらまたー」

「うう……」

 戸惑う拓磨くんの様子が、なんだか、可愛い。

 ふう。息を吐き出すと、私は腕を捲った。そろそろ私も起き出さなきゃな。






 あれから、色々な変化があった。


 警察署に連れ戻された拓磨くんは、心配して集まっていた警察や施設の人たちにきちんと謝った。その時、自身の希望と私のお願いで、うちに住むことになった。

 籍はまだ、『ひかりの家』にある。つまり警察公認の居候だ。拓磨くんはどうしても、施設の雰囲気に馴染めなかったのだそうだ。

「ここが一番、落ち着くんです」

 うちに帰ってきた拓磨くんは、ほっとしたようにそう言っていた。

 私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんも、賛成してくれた。挨拶に行った時の拓磨くんの態度に感激したらしく、よくできた弟みたいねって笑ってくれた。


 私たちも、二人で住むルールをいくつも改めた。

 ぶっちゃけ私よりも、拓磨くんの方が家事は出来る。人手が二倍になった分、私たちは家事を日ごとに分担することにした。

 拓磨くんはもう家族も同然だ。こそこそする必要もないから、出入りの制限も廃止した。警察が来たら隠れるなんてルールは、もちろん削除だ。

 そして、一番大切なこと。私は拓磨くんに敬語を使うのを禁止した。ついでに名前で呼びあうことにした。家族同然の人が敬語で話すとか、時代錯誤も甚だしい。堅苦しいのは、嫌だった。


 そりゃ、不安なことがないわけじゃない。

 私たちは性別も年齢も違う。そもそも、血縁ですらない。ケンカや仲違いだってきっとするだろう。いずれ、共同生活にも支障が出てくるかもしれない。

 でも、それはその時に考えればいい。今から予測して決めてしまうなんて、時期尚早だと思った。その時その時で、最良の道を選べばいい。


 私と拓磨くん──いや、拓磨は、新しい日々を踏み出したんだ。私は初っ端から風邪にかかって学校を休んでいたけど。





「はい、熱いから気をつけて」

 紅茶を淹れたマグカップを渡すと、拓磨は熱さに一瞬顔をしかめた。

「外との温度差で、痛い……」

 猫手な上に猫舌気味の拓磨のこと、しばらくは口をつけられなさそうだ。私は紅茶を啜ると、尋ねた。

「学校説明会はどうだったの?」

「思ったよりもずっと、良さそうだった」

 思い出したように拓磨は、カバンから説明資料を取り出す。表題には『武蔵野高等学院中等部』と書かれている。

「それ、特別支援学校なんだっけ?」

「うん。だから生徒の学習進度に合わせて、一人ひとりに適した授業を進めてくれるって言ってた。僕は『ひかりの家』にいた頃はほとんど勉強なんてしてなかったし、その一言で救われたなー」

 新たな生活を始めるにあたって、拓磨は学校に通いたいと言った。施設の人たちが相談に乗っていたけど、この反応なら良さそうだな。

「そっか。じゃあ、確定したい?」

「したいな。ここなら、安心して頑張れる気がするんだ」

 ふふ、と私は口元に笑みを作った。

「友達、できたらいいね」

「咲良こそだよ」

「私には有沙がいるからいいの」

「友達じゃないんじゃなかったっけ?」

「撤回したのー」

「都合が悪くなると撤回するんだ?」

 テーブルを挟んで、私たちは笑い合う。二つのマグカップの間で、お皿に載ったクッキーがカタカタと声を上げてはしゃいでいる。

 歪な形をしたそのクッキーは、有沙がお菓子の練習に作ったものだったらしい。最初に持ってきたのも、そうだったようだ。見た目はともかく、有沙の腕のどの辺りが劣化しているのか私にはさっぱり分からない。つまり、美味しい。

 さらに言えばこの紅茶も、悦子さんからの貰い物だ。

 私たちを取り巻く人間関係の網は、まだちゃんと残っている。






◆ ◆ ◆





 与えられた人の一生は、長い。

 何十年という長い時間の中で見れば、二週間なんてほんの短い刹那でしかない。その間に、私たちは大きくその人生の方向を変えた。

 同じ事故で両親を失った二人が同棲だなんて、小説じゃあるまいし。有沙に何度、そう言われたことか。私だってそう思う。不思議な縁だ、私たちは。


 少し綺麗になった部屋の空気は、匂いも色も変わっていて何だかくすぐったかった。

 拓磨が帰ってきた夜、私は打ち明けた。私の悩んできたことや考えてきたことを、色々と。拓磨やその家族に抱いてきた憎しみのことも、知らず知らずのうちに蓄積していた寂しさのことも。

 夜中になっても拓磨はきちんと聞いてくれて、そのうえ自分の話もしてくれた。一方通行の関係になるのが心配だったけれど、私もほっとしたのだった。

 悩みなんて、打ち明けて解決するほど楽じゃない。ましてや私たちの続柄は特殊だ。一時期は怒りや恨みまでも抱いた関係なのだ。私も拓磨も、お互いの事をまだまだ知ってなどいない。

 それでも、こうやって言葉を重ねてゆけば、いつかは以心伝心できる。いつかは、心に巣食うこの負の感情をどうにかできる。そんな気がして。ううん、そう信じている。

 人は言葉を作り出したから、複雑な気持ちも伝えられるようになった。文字を作り出したから、距離も時間も越えてそれを伝えられるようになった。私たちに、それが出来ない訳がない。


 私は決めた。

 これからは、嫌な気持ちを溜め込むのはやめよう。拓磨や他のみんなに話して、口に出して、きちんと整理しようって。その方が、私も、みんなも、きっと苦しくない。

 感情をコントロール出来るようになれば、素の気持ちなんてぶつけなくても、面白い小説が書けるようになれる。笑っていても悲しい小説が書けるくらい、創造力も想像力も豊かになりたいな。


 拓磨がいるから、私は前向きになれる。






「……この前までは、想像もしてなかったなぁ」

 紅茶を手に呟くと、拓磨はふうふうと紅茶を吹くのをやめて、こちらを見た。

「こんな穏やかな生活が送れるなんて。拓磨の記憶が戻るのは、もっと先だと思ってたもん」

「僕は、咲良と生活する事になったの自体が予想外だったよ。一週間前までは」

「そうなの?」

「うん。あくまでも、一時的に間借りしてるだけの意識だった。母さんはきっと生きてるって信じてたし、見つかったらそっちに転がり込もうと思ってたんだ」

 そっか。そりゃあ、そうだよね。

 拓磨は窓の外へ目をやる。午後三時の澄み渡った冬空には、雲は一つも見えなかった。


「……昨日、咲良の付き添いで病院に行った時、母さんの担当だったっていう先生から話を聞いてきた」

 拓磨は、ぽつり、ぽつり、言葉を繋いだ。

「先生、言ってたんだ。母さんは死ぬ間際まで、僕のことを気にかけていたんだって。僕に会いたい、僕の顔が見たいって訴えながら、命を引き取ったんだってさ。勝手だよね、母さん。自分の事情で僕を突き放したくせに、ずるいよね」


 私は、言葉を返そうとはしなかった。

 ただ、黙って拓磨を見詰めていた。本当はどう思っているのか、分かっていたからだ。

 それは拓磨もちゃんと分かっているのだろう。

「洗い物しま──、するね」

 言いかけて慌てて訂正しながら、空になったマグカップとお皿を取っていった。








 私はふと、壁に貼られた一枚の紙を見上げた。


 それはいつか、拓磨のお母さん──円佳さんが拓磨に宛てて書いた、あの手紙だ。

 汚れて文字は見えなくなってしまったけど、その内容を私たちはちゃんと覚えている。


 私は、心の中で声をかけた。










 ありがとう。


 あなたの手紙は、言葉は、願いは。

 私たちに届いたよ。

 私たちの未来を、確かに繋いでくれたよ。







 少しぼさぼさになった髪を掻き上げると、私はまた、前を向いた。

 次は、どんな物語を紡ごうかな。明るい陽光の向こうに、思い浮かべながら。









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