Re:────





 え、ちょっと待ってよ。

 何言ってるの、柳沢さん。



「どういう意味です?」

 落ち着いた声で井口先生が尋ねると、柳沢さんは身体をくの字に曲げながら説明を始める。

 対象は私だった。

「すまない、咲良ちゃん! 君の言った事を鵜呑みにした俺が悪かった!」

「意味分かんないです。順序立てて、分かるように説明してください」

 ちょっと厳しめに選んだ言葉をぶつけると、柳沢さんは私を見上げた。今度の相手には井口先生も含まれている。

「昨日のように一言も話してくれないのでは我々も上がったりなので、取り調べを始める前に取引をしたんです。我々も君の知りたいことに答えるから、君も話してくれと。母親の生死を聞かれたので素直に答えたら、見張りの警官ものを振り切って署から脱走してしまったんです! 井口事務長、申し訳ありません!」

「捜索は、してくれているんでしょうね」

 井口先生の声は震えていた。

「無論、武蔵野市ほか周辺地域一帯で捜索を行っています! 一刻も早く発見する事をお約束いたしますので、どうかそれまで待って頂けませんでしょうかっ!」

 柳沢さんも上擦った声で答える。直立不動のその様子は、まるで有事発生時の軍隊のようだった。違う、『のような』じゃない。これは明らかに有事だ。

 井口先生の顔からは、およそ表情と呼べるものが消えていた。たぶん私も……同じだろう。



 お母さんが、死んでいた。

 それは信用していない施設の言葉ではなく、事実を何よりも大切にするはずの警察の言葉だった。

 拓磨くんはそれを信じた。混乱のあまり、警察を飛び出した。そして同時に、深い絶望の淵に滑落したに違いない。


 お母さんを探し出すことに、以前の拓磨くんは全力を注いでいた。

 それは今も同じだろう。拓磨くんにとってそれは、今の人生の全てなのだ。

 その人生の全てが、一瞬のうちに瓦解した。


 その先に待っている未来は、…………!





「私、家に帰ります!」

 私は叫んだ。

「待て咲良ちゃん、急に一体──」

「もしかしたら、私の家に向かっているかもしれません! 帰っていなかったら、その時はまた連絡します!」

 コートを羽織りながら、私は柳沢さんの問いに答える。一刻も無駄にはできない。最悪の事態が、待っているかもしれないんだ!

「わ……分かった! 気を付けて、交通法規はきちんと守るんだぞ!」

 その言葉を聞き終える前に、私は施設を飛び出していた。






 拓磨くんは、自殺するかもしれない。

 もちろん最悪の場合だ。でもこれまでの拓磨くんの行動を見ていると、その可能性は決して低いなどとは侮れない。拓磨くんは何かを決心すると、まっしぐらになって周りが見えなくなるタイプだ。道路を渡ったあの時だって、そうだった。

 でもその前に、必ず私の家には寄るはずだ。なぜか私には確信があった。


 どす黒い雲に埋め尽くされた空の下、武蔵野の街を西へ西へ。

 私は全速力で自転車を飛ばした。柳沢さんの言い付けを破って、何度も信号を無視した。そんなものに構っていられなかった。

 早く、速く、家に着かなきゃ……!

 ただそれだけが、私の行動原理だった。九年前の事故の日、拓磨くんのお父さんも同じことを考えていたんだろう。今はその気持ちが、痛いほど理解できた。ああ、そんなこと、今は考えていられないのに……!




 切れ切れの息を吐きながら、丁字路を曲がった私は前を見上げた。私の住むアパートが、薄暗い闇の中に立っている。

 自転車を道路に放り出すと、階段を駆け上がる。ガンガンと響き渡る金属音で頭が痛い。それでも必死に堪えて、私は鍵を回すとドアを開け放った。


 誰もいなかった。

 ……よく考えたら当たり前だ。何してるんだろう、私。拓磨くんは家の鍵なんて持っていないんだから……。

 頭を振って意識を戻すと、私は考えた。他に、立ち寄りそうな場所があるとしたら……?

 ある。有沙がアルバイトしていた、あの喫茶店だ!

 名刺を財布から取り出し、電話をかける。握ったスマホの冷たさに、手から凍傷になってしまいそうだった。


「もしもし、関前です!」

「あら、どうしたの」

 出たのは悦子さんだ。間髪入れず、私は質問した。

「そちらのお店に、拓磨くんは行っていませんか!?」

「拓磨くん? 来ていないけれど……」

「行方不明になったんです!」

 また一つ希望が消えたのを感じながら、私は続ける。

「拓磨くんの事、見かけたりしたら……私に、連絡をくださいっ!」

 そのまま、返事を聞くことなく電話を切った。ダメだ、他にはどこも思い付かない。



 その時、ふと私は郵便受けを見た。

 何か手紙らしきモノが入っている。私は震えを隠せない手で、それを取って広げた。その辺の電柱に貼られている広告ビラを引っ剥がして書かれている、手紙だ。

 拓磨くんの字だった。






〔咲良さん


今まで、ありがとうございました。

僕の母は、既にこの世の人ではありませんでした。

僕はもう、何をして生きていけばいいのか分かりません。いえ、生きるのをやめようと思います。

この数日間、短い間でしたが本当にお世話になりました。感謝しても、しきれません。


さようなら。

お元気で。


御殿山拓磨〕






「…………っ!」

 唇を噛んだ刹那、スマホが鳴動した。電話だ。

「……もしもし」

「俺だ、柳沢だ。家には着いたか?」

「いませんでした……」

「やっぱりか畜生……。こっちは一件、目撃証言があった。JR武蔵境駅の改札口の近くの防犯カメラに、申し込み用紙を書く台の上で、件の御殿山拓磨がペンを使って何かを書いていたのが映っていた」

 じゃあ、これはその時に書かれたものなんだ。

 私は言った。

「……拓磨くん、私の家に自殺予告を残していきました」

 自分で、自分の声に聞こえなかった。

「自殺……!?」

「脅しだとは思えません。拓磨くんは、本気で死ぬ気です……!」

 そう告げた私は、またも電話を切った。







 死ぬ。


 拓磨くんが、死ぬ。


 また私は、大切な人を失う。


 もうこんなのは嫌。そう誓った矢先に、私の手の届かないところでまた、大切な人が命を散らしていく……!




 私は手紙を無言で握り潰した。

 こんなもの、私は受け取っていない。この手紙の内容が現実になる前に、止めてみせる。

 ぐしゃりと丸まった手紙を部屋の玄関に投げつけると、私はまた鍵を閉めた。雪崩れるように階段を駆け降りると、倒れていた自転車を立てて飛び乗る。自動点灯のライトがぱっと行く手を照らし、私は息を吸い込んだ。

 行かなきゃ。探さなきゃ。見つけなきゃ。

「拓磨くん……!」

 彼の名前を口の中で叫び、私は地面を蹴った。












 道路が、

 風景が、

 空気が。

 高速で耳元を掠め、歪んで流れていった。



 私はめちゃくちゃに自転車を走らせた。

 拓磨くんと二人で訪れた場所、全てを回った。

 それだけじゃ足りなくて、思い付く場所、知っている場所全てを走り回った。

 だけど、拓磨くんはいなかった。


 何だかんだ言ったって、武蔵野市は広い。

 それに、この市内にいる保証なんてどこにもない。三鷹、小金井、西東京、杉並に練馬に世田谷。どこの街に行ったかなんて分かりっこない。

 宏大に広がる空を見上げるたび、私は絶望に打ちひしがれた。空はこんなに広いのに、陸地はこんなに広いのに、私にはその全てを探す力はないんだ……。

 一時間が経ち、二時間が経った。拓磨くんは、どこにもいなかった。




 嫌だよ。


 死なないでよ。


 先に逝かないでよ。


 せっかく私たち、巡り会えたのに。

 誰も信じられないこの世の中で、たった一人、君だけには私は素直になれたのに。

 まだ、私の苦しみも拓磨くんの苦しみも、何一つ解決していないのに!

 逝かないで……! お願いだから……っ……!



 どんなに叫んでも、喚いても、拓磨くんはいなかった。






 もう私は、へとへとだった。

 ペダルの漕ぎすぎで、足にも力が入らなくなってしまった。ぐらぐら揺れる自転車にへばりついて、視界を保つのがやっとだった。


 そんな私を嘲笑うように、冷たい雨が降り出した。

 ああ、そういえば、忘れてた。今日の午後、本当は雨予報、だったんだっけ。

 思考も今や、途切れ途切れだった。

 服に身体に、雨は容赦なく降り注いだ。視界もどんどん霞んで、ぼやけて、動かなくなっていった。濡れた身体が風に吹かれて、凍えるくらい寒かった。冷たかった。

 痛かった。



 私がしたいのは、

 すべきなのは、

 ただ拓磨くんを探す事。

 それ……だけ。


 だけど運命の神様は、それさえ叶えてはくれないの……?




 もう、だめ……。



 冷たいよ……。



 力が…………、抜けて………………








 ガシャンッ!



 自転車ごと私は転んで、アスファルトに叩き付けられた。

 切り裂かれたような痛みが、身体のあちこちに走った。ああ、頭から血が垂れてきた。

 その痛みが耳元で囁いた。もう帰ろう、理解者なんて他にもいるじゃないか。有沙はどうした。井口先生はどうなんだ。拓磨くんの代わりになる人なんて、いるだろう? ──って。




 それでも、

 無駄だと思いたくなくて。


「……っつう、ぅ……っ!」


 声にならない声を上げながら、よろけながら、私は立ち上がった。








 その時だった。


 目の前に、見覚えのあるシルエットが浮かび上がったのは。










「咲良、さん…………?」



 拓磨くんだった。

 雨の中、傘も差さずにそこに佇んでいたのは、拓磨くんだった。



 折からの雨で増水し、いつもの細やかな流れが嘘のように濁ってしまった玉川上水。ここは、そのすぐ脇を通る道路だった。もっともここはもう、市のかなり外れの方のはずだ。

「見つけ……た」

 安堵でまたも力が抜けてしまいそうになる身体を、私は叱咤した。ここで倒れてどうするのよ、文字通り本末転倒じゃない……!

「どうしたんですか、そんなにぼろぼろになって」

 拓磨くんは駆け寄ってきて、私を支えてくれる。言葉は少しばかり白々しかったけれど、その優しさはまだ、健在だった。

「探してたんだよ、拓磨くん……。うちにあんな手紙を投げ込んで行くから、心配で、心配で……」

「……僕が手紙を投函してから今までずっと、ですか?」

「そう……だよ」

 信じられない。拓磨くんの目が、顔が、全身がそう言っている。

 信じられないでしょ。私だって信じられないよ。こんなに一生懸命に、必死になった事なんて、人生でただの一度もなかったよ。

 そのくらい、ねえ? 心配したんだよ……?


「死ぬのは、やめて」

 ずきずきと痛みを放つ頭を持ち上げて、私は訴えた。

「あんな遺書だけ残して、死なないでよ。早まらないでよ……」

 そう言った途端、拓磨くんの身体の周りに結界が張られたのがはっきりと分かった。

「……やっぱり、遺書だってバレちゃいましたか」

「警察の人から聞いたの。拓磨くんが、お母さんの事を聞くなり警察署を飛び出したって。急いで家に戻ったら、あれがあって……」

「警察が、咲良さんに?」

「警察の人たちも今、拓磨くんのことを探してる。みんな、心配してるの。拓磨くんを」

 最後の部分は、私なりに強調したつもりだった。

 それがかえって拓磨くんに火をつけてしまったみたいだ。拓磨くんはそう聞くや、ふっと笑った。

「──じゃあ尚更、今ここで死ななきゃ駄目ですね」


 ああ。

 どうして、そうなってしまうの?

 どうして、自殺ありきなの? 私は死なないでって言ったのに……。


 私、言い方が駄目だった? 伝え方を間違えた?


 私を目の端で捉える拓磨くんは、全くの真顔だった。

「咲良さんの作品、他にも読んだんですよ。そしたら『刹那せつな』っていう小説に、玉川上水で自殺しようとしてる主人公がいるのを見つけました。確かに水死は出来ませんけど、頭を打てば死ねますよね」

 私は頷けなかった。

 それは少なくとも事実だった。私が二年前、暗い気持ちの全てを叩き付けるようにして書いた処女作品のタイトルは、『刹那』。その小説には、冒頭にそういうシーンが登場する。だけどまさか、それをヒントにここを選んだって言うの?

「今時、こんな所で自殺なんて誰もしない。だったらちょうどいいじゃないですか。僕、誰にも見つかりたくありませんでしたから。咲良さんにはバレてしまったけど……」

「待ってよ。どうして、どうして拓磨くんは」

「──生きていても仕方ない」


 私の言いたかったことを、拓磨くんは先回りした。

 顔を上げたかったけど、冷たい雨が顔に叩きつけてきて叶わない。傷付いてしゃがみ込んだ私と、立ったまま私を見下ろす拓磨くんの関係は、一方的だった。

「僕には言葉の意味そのままに、生きていく意味がない。母を探すというたった一つの生き甲斐が、ついさっき潰えて消えた。じゃあ僕はこれから、何を目標にすればいいんですか?

生きる目標もないままに、ただ漠然と生きている人間なんて、死んでるのと同じです。小説だったら許されるかもしれないけど、僕は生身の人間なんです。だったら、これ以上生き続ける必要も、意味も、価値も、ないじゃないですか?」





 私…………、

 何も、言えない。

 声をかけてあげられない。

 同じくらいのことを、私も九年前に考えていたから。


 だけど生きている意味なんて難しいこと、結局、私には分からなくて……。



「……意味なんて、どうでもいいじゃない」


 ああ、やっと言葉を吐き出せた。

 口を開いた瞬間、雨水が口の中に飛び込んだのが分かった。

「生きていれば、人でいっぱいのこの社会の中で生きていれば、生き甲斐なんて簡単に見つかる……。他人から与えられることだって、あるんだよ……?」

「僕、もう人とは関わりたくないんです」

 その一言で、私の言葉は一瞬のうちに切り捨てられた。

 拓磨くんは膝を曲げて、私の前にひざまずく。優しい光を微かに点したその目が、私を力強く照らしていた。

「咲良さんには感謝しています。あの日、倒れていた僕を介抱してくれたのは、咲良さんでした。この東京を二ヶ月も彷徨さまよっていて、咲良さん以外にそんな風に優しくしてくれた人なんていなかった。感謝していますし、申し訳ないって思い続けてきました」

「だったら、私の願いを──」

「だからこそ、咲良さんのもとにはいられません。僕、咲良さんにずっと迷惑をかけ続けてきましたから」

 そんなの、気にしてない。そう叫ぶ前に、拓磨くんは次の言葉を言い始めてしまった。

「僕がいたから、咲良さんには必要もない苦労をかけました。食事も洗濯も何もかも、負担が倍になりました。警察が来たと勘違いした僕が暴れた時、付き添いだと警察に発覚して二度も追いかけられた時、思いませんでしたか? ああ、この子がいなかったら……って」

 私はまた、声を出せなくなった。

 確かにそうだ。私、あの時はそう思ったりもした。まだ拓磨くんのことをよく知らなくて、戸惑ってばっかりだった。

 でも、でも…………!

「咲良さんは、本当はすごく優しくて、他人に気を配れる人なんだと思います。僕がいたら、他の人は寄ってきてくれません。咲良さんには、もっと、もっと、幸せになってほしいんです。僕には、それだけしか願うべき事がないんです」

 拓磨くんはそこまで言うと、悲しそうに笑った。雨音が、一層激しくなった。


「咲良さんに出会えて、良かったです。…………さようなら」






 待って。


 待ってよ。


 勝手に決めつけないでよ。



 私に言葉を押し付けるだけ押し付けると、拓磨くんは立ち上がり、くるりと向こうを向いた。

 ごうごうと玉川上水が轟いている。拓磨くんは一歩、一歩、川沿いの柵に近寄ると、足をかけた。

 その光景の全てが、びしょ濡れになってぼやけていた。降り注ぐ雨に街灯の光が当たって、まるでコマ送りの映画のようだった。


 嫌だよ。

 それ以上、進まないで。


 そう言えたなら、どんなに良かっただろう。


 私には分からない。

 どんな言葉を用いたら、拓磨くんの心に響く?

 どんな言葉なら、拓磨くんは止まってくれる?

 分からない……。


 情けなかった。

 言葉を操る小説家を続けていながら、こんな時にかけられる言葉の一つさえ思い浮かばないなんて。

 だから私、面白い文章が書けないんだな。私は冷笑した。冬に差し掛かった晩秋の雨に打たれるそれは、本当に冷たかった。






 私はただ、伝えたいだけ。


 拓磨くん、逝かないで。私の側にいて。ただ……それだけを伝えたい。



 だけど言葉じゃ届かない……。


 言葉は────無力だ。







 だけど私は、


 諦めたくない……!




 力を振り絞って立ち上がった私は、全力で駆け出し拓磨くんとの距離を詰めて。

 その小さな背中を、後ろから抱き締めた。

 しがみついた、とでも言った方が正確かもしれない。そんな些細な事は、後でいい。


「!?」

 拓磨くんがぎょっとするのが分かった。こんなことをされたら、私だって驚くに違いない。

 拓磨くんの鼓動が、私の身体に伝わっている……。温かい……。

 そして、拓磨くんだってそれは、同じはず……!


 私は無言のまま、必死に念じた。念じ続けた。拓磨くんに私が望む全てを、希望を……。

 言葉が使えないなら、身振り手振りボディランゲージで伝えるまでだ……!

 かつて有沙がそうしたように、これだって伝えられるはずなんだ!

 私の願い、私の思い、私の────!





「離してくださいっ!」


 抱きついた瞬間に身を強張らせた拓磨くんは、叫びながら振り向き私を突き飛ばした。

 半分くらい惰性で抱きついていた私は、呆気なく後ろに吹っ飛んで、背中を、後頭部を、強く打ち付けた。

「死なせてください。母に、会いたいんです……。現世で会えないなら、あの世でもいい。母に、お母さんに、会いたいんだ……!」

 一瞬だけ視界を横切った、怒鳴る拓磨くんの目も、真っ赤だった。

「どうして引き留めるんですか!? 咲良さんはあんなに、僕の思いを分かってくれていたじゃないですか……! 僕が目の前で死のうとするからですか!?」

 私が何も返事をしないでいると、拓磨くんは頷いた。

「……分かりました。ここだから、いけないんですね。もっと遠くだったら、咲良さんの目の届かない場所なら、いいんですね」



 それでも、私は動けさえしなかった。


 少しの間、拓磨くんは待ってくれていた。でももう、諦めたみたいだ。その背中がまた、こちらに向けられた。

 そしてまた、一歩、一歩と遠くなりはじめた。


 私の最後の抵抗は、そこで終わりを告げたのだった。










 もう、駄目。

 これ以上何も思い付かない。

 言葉も、身振りも効かなかった。文章なんて以ての外だ。全て、失敗した。

 止められないという現実に、私は白旗を揚げた。叶わない夢なんだと、思い知った。


 あは、は……。

 私、何でこんなことしてるんだろ……。

 傘も雨具も無しに、こんな雨の中で、傷だらけになってうずくまっているんだろ……。

 なんだか笑えてきた。その反動か、後悔が、虚無感が、どっと押し寄せてきた。









「…………迷惑だなんて」


 凍てついたアスファルトに手をついて身体を起こしながら、私はぽつり、呟いていた。


「迷惑だなんて、一度も思わなかった……。そりゃ、驚いたよ……。拓磨くんは、変わってた。私……最初はどうしたらいいか、分かんなかったよ……」


 起き上がるには、力が足りなかった。

 でももう、これが限界だ。

 手をついたまま半身だけ起こした私は、誰にともなく独り言を呟き続けていた。

 いや、呟いたと言うよりはもう、垂れ流していたとでも形容する方が正しかった。


「……だけど、迷惑だなんて思ったことは、一度だってなかった……。拓磨くんがに誤解を与えていたとしたら、重荷に感じさせていたなら……それは、私が悪いの……。ごめん、なさい…………」


 目の奥を、端を、あらゆる場所を、走馬灯のように拓磨くんと過ごしたこの一週間の記憶が流れ始めた。

 言われてみれば、拓磨くんはいつだって受け身だったし、自分から何かを頼んでくる事なんてそんなになかった。それは性格の為ではなくて、私への遠慮の所為……?

 そんなの必要なかったのに。むしろ、むしろ……。


「……私こそ、いっぱい迷惑……かけたよね。吉祥寺で警察に追いかけられた時、私は走り出せなくて拓磨くんに遅れを取った……。だから、拓磨くんは捕まっちゃった……。その次の日にケンカしたのだって、私が悪いんだ……。私も拓磨くんも、境涯は、苦しみは、一緒なのに……。なのに私、自分のことしか考えられなかった……。拓磨くんに、憎しみをぶつける事しか考えられ……なかっ、た……」


 さっきから、何本も筋を作っては私の顔を伝って流れてゆく雨滴。

 そこに……新たな流れが一本、加わった。




「情けないよ、ほんと……。私より、拓磨くんの方が、よっぽど、大人びてるよね……。私なんて……学校にも通えてるのに、拓磨くんほどの、悩みもないのに、……。友達もいないし、何かにつけて……不器用、だし……、それに、…………っ」




 寂しかった。

 ずっと、ずっと。


 でも、誰にも言わなかった。

 ずっと、言えなかった。




「でも、拓磨くんが、いたから……。だから私、この何日か、すっごく……楽しかった。心から笑えたの……久しぶり、だった……。心を開いてくれなかった拓磨くんが、初めて笑ってくれた時……、実はものすごく、嬉しかった……」



 私は頬を拭った。

 雨なのか涙なのかも分からない何かを拭き取った後には、血がうっすらと滲んでいた。

 生温くて、気持ちが悪かった。



「救われたのは、私の方だったんだよ……。……もっと、笑い合いたかった……。もっと、もっと……分かり合いたかったよ……。私たち、なら……それができるって、信じて、たかった…………っ」



──でももう、手遅れなんだ。


 あはは、もう何か……何て言うか……、どうでもいいや。

 私も疲れちゃったよ。無理して、生き続けているのが。

 私も拓磨くんと同じだった。生きる意味なんて見失ったままだ。ただ、生きてさえいれば何かしら起こるかもしれない。そう盲信して、生きてきた。

 でも、もう……。



 止めどなく溢れる涙をもう一度腕で拭い去ると、少しだけ先が見えた。

 私も、拓磨くんの後に続こう。倒れたまま雨晒しになっている自転車を視界に入れながら、私は立ち上がろうとした。あ、でも、無理だ。力が、入らない…………。













 ぎゅっ。





 その時だった。

 不意に誰かが私の肩を支え、持ち上げてくれた。

 私が膝立ちの姿勢に落ち着いても、自力で支えられるようになっても、その手は離れなかった。


 私は首を上に向けた。

 LED街灯の明かりに照らされて、拓磨くんの横顔が青白く輝いていた。

 拓磨くんも、泣いていた。



「…………その、コトバ」


 拓磨くんは、私に尋ねた。

「僕は、信じても、いいんですか……?」


 私は、首を縦には振らなかった。もう自分のやる事す事何一つ、信じたくなかった。

 その代わり、言った。雨音にも負けるくらいの、小さな微かな声で。

「約束は、するよ。これが……私の、正直な……嘘偽りのない思いだってことは……」







 その言葉を聞くや否や、

 拓磨くんは……私を、抱き締めた。




「すみません」


 震える声で、拓磨くんは謝った。


「僕、拒否してました。拒否していただけなんです。咲良さんの事も、他の何もかもの事も……。気づけなかったんじゃ、ないんです……」

 一言一言に力を込めるたび、拓磨くんは私にかける力も強くした。

 私が、拓磨くんをこの世に繋ぎ止めるアンカーになっていたみたいだった。

「母が全てだなんて思ってたのは、勘違いでした……。咲良さんのことを、いえ──他の人の全てを、僕は何も分かっていなかったんです……。ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 拓磨くんは、何度も、何度も、謝り続けた。






 ずっと、聞いていてくれたんだ。


 あんなに届かなかった私の言葉は、思いは、最後の最後でちゃんと届いていたんだ。


 それだけで私には、嬉しかった。

 伝わったというその事実だけで、今はもう……十分嬉しかった。


 嬉しくて、嬉しくて、涙がもっと込み上げてきた。








 大雨の降る闇の中にぽっかりと街灯が空けた空間で、私たちは黙って泣いていた。

 暫くして、真っ白な二つのライトが向こうからやって来た。ああ、車だ。

 並ぶ街灯に照らされたそのボディは、白と黒に塗り分けられている。回転灯だけが光っているのを見ると、巡回中だったんだろう。パトロールカーはすぐ手前で停車し、雨合羽を着た警官が降りてこちらに向かって来た。

「おい君たち、どうした!? 交通事故か────」

 言いかけた所で、拓磨くんである事に気づいたみたいだ。警官は慌てて「ちょっと待ってて!」などと口走りながら、パトロールカーに駆け戻って行った。その手には、無線機が握られている。

 ああ、数日前までは敵だったその背中が、こんなにも頼もしく見える。



「助かったよ、私たち。もう……大丈夫」

 私の掠れ声に、拓磨くんははっきりと頷いていた。

 安心が、身体を包み込んだ。














 それから、

 記憶がない。








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